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『ある日の出来事』 ~ アガット・ダブノード ~

 いーさんほーく、とはなんのことか。

 王が戯れに大臣の禿頭をぽくぽくと叩くのを視界に入れながら、私はここ数日の疑問を飽きもせずまた懐から取り出して考える。

 扉を開けた拍子の出会い頭だったがゆえに、それを口走ったときのお嬢さんから悪意は感じられなかった。もっとも、すぐ真っ赤になって謝罪をされたので……褒め言葉でもないのだろう。


 知らず眉根を寄せているのに気づかれたか、すぐ隣でロアード殿下をお待ちになっていたグレイヴ殿下が、ひそりとお声をかけてこられた。

「アガット卿、体調でも?」

 短い中にも気遣いを含んだその声音に、私は我に返った。

 はっと視線を護るべき御方に走らせると、王は大臣のつやつやとした禿頭のてっぺんに、銀製のゴブレットを慎重な手つきで載せておられるところだ。当の王陛下も大臣も、周囲で固唾を飲んで見守る重臣方も私にとっては真の尊敬を捧げるに不足ない方々ではあるのだが、殺気すら感じるほどの真剣な眼差しには少し気が遠くなる。

 書記官の青年と何事か小声で話されているロアード殿下の超然としたお姿にも、皆様方と同じ匂いを感じるのはなぜか。


 考え事をしていたので、と己の慢心からくる油断ともとれる放心具合を正直に説明すると、案の定殿下はわずかに眉を上げて腕組みをされた。

「珍しいな。普段の貴方からは想像もつかない。なにか心配事がおありか?」

 続く言葉は別段不思議なものでもない。確かに、普段の私は王の一挙手一投足から決して目を離さないし、一日の終わりにはとられた行動のすべてを詳細に書き記せるほど気を張り詰めている。


 実際グレイヴ殿下には以前、すぐに注意力が散漫になって、と気恥ずかしげにご相談を賜ったこともある。宿舎の食堂で隣り合わせに座ったときだ。

 集中するコツはあるかとお尋ねになられて、さて私は一体なんとお答えしたのだろうか。

 ……そう。あの方のお可愛らしさに打ち勝てるコツなどございません、と申し上げてはぐらかしたのだ。そのときの殿下といらしたら、狼狽のあまり膳をひっくり返して卓の上をワインで染めてしまわれたのだった。

 恋に物慣れない初心な様がご幼少のころとかわらず、肉体的にはそれなりに経験を積んでこられたであろうにと微笑ましく思ったものだ。


「アガット卿?」

 急にひとりで笑い出した私を訝るように、殿下が声をひそめられる。軽く首を振ってなんでもないとお伝えし、それからようやく先だっての出来事を申し上げ、思い悩んでも詮無いことを考えてふざけているだけなのだと白状した。

「ああ……それはおそらく人名でしょう」

 そうであろう、とは薄々感づいていたのだが、どこか安堵したふうに目元を緩ませた殿下に、私はなるほどと言って大きくうなずいた。


「ヤヨイは『外』のだれかに似ている者を見かけると、こっそり名をあてはめているようです。彼女には、我々の顔の区別がつきにくいようで」

 得心しつつ、『外』にも自分のような顔があるのかと思えば不思議な気分になる。

 なんとなく頬をさする私の耳に、殿下の声がどこか警戒の響きを帯びて流れてきた。

「そうか、ヤヨイが……」

 軽く眉を上げて促せば、気づかれた殿下は苦笑いを浮かべられる。

「ヤヨイと貴方が言葉を交わす機会というのは、案外多いのかもしれないですね」

 そのお言葉どおり、あのお嬢さんとは日に幾度も顔を合わせている。私は王の近衛としては恐れ多くも次席にあって毎日この王の間に控えているし、お嬢さんはジェイル殿下のご用命があれば何度でもこちらへおいでになるのだ。


 殿下は取り繕うように頬を緩ませたが、目元が笑っていない。

 困ったな、殿下の妬心を煽るつもりはなかったのだが……。

 黙り込んだ私から戸惑いを察せられたか、殿下は気を取り直すようにはっきりと笑みを浮かべて腕組みをとかれた。

「いや、彼女がだれかを見て『外』の人物を思い出す、ということは近頃減っているそうですから。光栄なことなのですよ」

 おどけるように肩をすくめてみせられるのに、私は調子を合わせて優雅に腰を折ってみせた。


 ちなみに殿下はどうなのですか、とお尋ねすると、途端に相好を崩されるのがまた微笑ましい。

「俺はじゃーまんしぇぱーどだそうです。白状させるのには苦労しましたが」

 その尋問の内容は問うまい。そこまで野暮天ではないという自負が私に己を律させる。

「ただ、じゃーまんしぇぱーどがどういった人物であるとか、好みであるのかとか、そういうことは絶対に話そうとしないのです。隠し事をするなど不誠実でしょう? でもほかのものに例えただけで申し訳ないと謝る姿が哀れなので、ゆるしてやったんです」

 憮然とした表情を作ろうとして失敗している殿下があまりにも幸せそうなので、三十を目前にして未だ哀しい独り身としては、一言くらいよかろうと思い申し上げた。


「失礼ながら、それは惚気にございますね?」


 一瞬凍りついた殿下は、しかしすぐにまた紺色の瞳を蕩かすようにして、じわりと笑みを滲ませられた。このごろはすっかり大人になられたとしみじみ拝見していたのに、その笑顔は「夜中に一人で憚りへ行けた!」とガルム殿にご報告なされて褒められていらした頃とおかわりない。しかもなお、お嬢さんがどれだけはにかみ屋で手を焼かされているか、と嬉しげに語り出されてしまい、すっかり純情と不義理にしている私まで腹の中が痒くなってくる。


 思いがけなくあてられてしまった。おどけでなく肩をすくめた私は、不意にロアード殿下と目が合って即座に背筋を伸ばした。

 いつの間にか、新緑色の瞳をきらきらと輝かせた王とゴブレットを頭に載せた大臣と、あと数人の重臣方がこちらを舌なめずりしそうな顔で窺っていたことには――もったいなくも気づかない振りをさせていただいた。





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