記憶喪失の恋人に、婚約解消されそうです!
「ジュリア・ラネール男爵令嬢、今日をもって、我が息子リアンとの婚約を解消して欲しい」
それは、青天の霹靂の出来事だった。
最愛の恋人にして婚約者のリアンが馬車から落下したと聞いて、慌てて病院へ駆けつければ、病室前で彼の親から突然そんな言葉をぶつけられたのだから。
「一体、どういうことですか? そんなことより、リアンの容体は?」
「どうもこうもない。前々から、思っていたんだ。君はうちの息子には相応しくないとね!」
息子が事故に遭ったばかりというときに、彼は何を言っているのだろう。
リアンの父が、私をよく思っていないというのは知っていた。まず、彼は歴史ある伯爵家の嫡男で、私はぱっとしない男爵家の娘。しかも、リアンは金髪碧眼の整った容姿をしているが、私といえば、くすんだ茶髪に地味な鳶色の瞳をしている。せいぜいが平々凡々、あるいは中の下。誰がどう見ても、釣り合わない。
それが気にくわないと、地味な嫌がらせはずっと受けてきた。まずいお茶を出されるとか、勝手に手紙を捨てられるとか。でも、リアン本人が私を強く望んだから、しぶしぶ彼らは私を婚約者の地位につかせたのだ。
「勝手に言わないでください、リアンに会わせて!」
押しのけるようにして病室へ入る。止められることもなく、すんなりと病室に入った。
「リアン! リアン、無事なの!?」
病室のベッドの上に彼は居た。意識もあった。上半身を起こしてこちらを見ていた。頭や足には包帯が巻かれて痛々しいが、それでもなお、彼の美貌は衰えてはいなかった。伏せていた睫毛が上がり、青い瞳が、不思議そうにこちらを見る。きっと、騒ぎが聞こえていたのだろう。
「ああよかった、無事だったのね!」
心底胸をなでおろし、リアンを見る。心配した。怪我のほどはどれほどか。聞きたいことはたくさんある。しかし、彼は私を見ても、訝し気な顔を変えることなく、呟いた。
「……君は、誰だ?」
「え……?」
質問しようと開いた口を、そのまま震わせた。
「誰って、ジュリアよ。あなたの恋人! 何を言っているの……?」
私が必死に言い募ると、彼が煩わし気に眉を寄せた。その顔は、今まで私に向けたどんな表情よりも冷たかった。道端に落ちた塵をみるような、興味の無い目線。
「見ての通り、リアンは事故で記憶が曖昧なようでね」
背後から、彼の父親の声がした。彼はにやにやと嫌味な笑みを浮かべて私とリアンを見比べる。
「彼女はお前の信奉者だ。押しかけられて、やむにやまれずお前も婚約をしてしまったが、いい機会だから婚約は解消することにしよう」
「信奉者ですって……!?」
私は思わず聞き返す。彼はその容姿のせいで、学生時代にもずいぶんな数の女子から好意を寄せられていたらしい。けれど、私は違う。彼とは紆余曲折の末に思いあって、正当に婚約までした恋人なのに。
「…………」
けれど彼は、何も言わなかった。それどころか、私を一瞥し、ため息をついた。
「とりあえず、退院したら、詳しく話しましょう」
他人行儀な口調に、何も言えなくなった。だって、気づいてしまった。私は、彼の記憶の中にいない。ならば、彼目線では、私は知らない女だ。自分を婚約者だと言い張る、野暮ったくて地味な女。
「……っ」
唇を噛み締める。昨日まであんなに、私を好きと言っていたのに。涙がせりあがってきて、私はくるりとリアンに背を向けた。今のリアンの前で、泣きたくない。面倒な女だと思われたくない。
「じゃあ、そういうことで。婚約についての沙汰は私の方から出すからね」
追い打ちをかけるような彼の父の声を無視して、逃げるように部屋を出た。背中に視線を感じたけれど、振り返ることはできなかった。
◆◇◆
「へえ、それであの王子様にふられちゃったんだ、ジュリア」
数日後。まだ、リアンから連絡は無かった。正確に言えば、正式な婚約破棄の知らせが怖くて、私宛に届いた封筒を確認できずにいる。そんな私に、幼馴染が会いに来た。彼は落ち込む私を見るなり、ふわふわの髪を揺らして、楽しそうに笑う。
「アンタ、相変わらず最悪の性格しているわね、ユーレック」
「ひどいこと言うなあ。僕は、可哀そうなジュリアを慰めにここまできてやったっていうのにさ」
二人きりだが、一応茶会の体をとっている。そこそこ香りのいい紅茶をすすりながら、ユーレックは頬杖をついた。相変わらず、男のくせに下手な貴族令嬢よりかわいい顔をしている。その皮肉気な表情と行儀の悪さが無ければ、完璧なのに。
「それが人を慰める態度?」
「大体さあ、おとぎ話みたいだったじゃないか、君たちの恋愛。そういう恋はさ、いつか終わるんだよ」
分かったような口をきく。けれど、否定できないのは、ユーレックが私たちの恋をよく知っているからだった。
私たちは三人とも、数年前まで同じ貴族学校に通っていた元同級生だ。そこで、私たちの恋愛はちょっとした話題だった。成績優秀、眉目秀麗。性格までいいリアンと、勉強はそこそこできても、ぱっとしない私。学園中から、釣り合わないと思われていただろう。
数少ない気の置けない友人のユーレックは、いつも私の話を聞いてくれた。
「何よ、それ……。私とリアンがどうせうまくいかなかったっていうの?」
ユーレックは、私の顔を覗き込んだ。髪の毛と瞳はハチミツのように優しいイエローなのに、彼は少しも甘くない。彼はかわいらしい顔をゆがめて、低く笑った。
「僕は君の性格、割と気に入ってるけど……ジュリアは、気が強すぎる。そういうところを好きな男はそう多くないし、ずっと一緒にいられるやつなんて、もっと限られるからね」
「リアンはそういうところも好きっていってくれたもの。それに、こうなったのは、彼が記憶を失ったせいよ。記憶が失われなかったら……」
「本当の愛だったなら、記憶を失っても、また恋に落ちるはずなんじゃないの」
ユーレックが意地悪く聞いた。だけど、その言葉に、私は思わず、ユーレックを指さした。
「それよ!」
「は? 何?」
「だから、もう一度、リアンが私を好きになってくれればいいんじゃない! なんで私、逃げてきちゃったのかしら」
ユーレックが唖然と口を開ける。そういう意味で言ったわけじゃなかったのだろう。
「正気? 相手は、伯爵家だよ? しかも超優良物件の、リアン・ラインハルト!」
「あなたが言ったんじゃない、本物の愛ならもう一度好きになるはずって。私たちの愛は、本物の愛だもの、絶対そうなる」
ユーレックが天を仰いだ。再びこちらに視線を戻したときには、不満が顔全体に浮かんでいた。
「僕は、君にこれ以上傷ついてほしくはないんだけど」
「なんだかんだ優しいんだから。でも、傷ついたって、止めないわ。彼にもう一度、好きになってもらうのよ」
私が言い切ると、ユーレックは長い長い溜息をついた。私は昔から、気も意志も無駄に強いのだ。
「じゃあ早速、リアンに手紙を書かなきゃ! ありがとうユーク! なんだかんだ元気になったわ!」
私はすぐに立ち上がり、手紙を書くために自室へと向かった。
「あーあ……。背中を押すなんて、何してんだろ、僕……」
ユーレックが背後で何かぼやいていたけれど、私の耳に入ることは無かった。
◆◇◆
私は、自室で早速筆を執った。執事に確認を取れば、まだ向こうからの連絡は無いとのことだった。婚約解消が具体的に進んでいないことは幸いだが、一方で、私の方から話を切り出さなければならないということでもあった。
何を書けばいいのだろうと頭を悩ませる。あの日は、動揺して、ほとんど何も聞かずに飛び出してしまった。だから、リアンの怪我の詳しい容体も、どこまで記憶が消えてしまったのかも、知らないままだ。
『リアン様、この間は驚かせしまってごめんなさい。その後、お体は大丈夫でしょうか。記憶が無いとも伺いましたが、詳しい話を聞きもせずに帰ってしまいましたね。何か困ってはいませんか。痛かったり、苦しかったりしませんか』
とりあえず、思うままに書きつける。そこまで美点の多くない私だけれど、字だけはちょっとした自信がある。我ながら手本にできそうな、流れるような美しい字が、紙面に踊る。
夜、傷に苦しんで眠れないのではないか、不安が沸き上がって、心配ばかりの文章になりそうだったから、慌てて筆を止める。知らない女から永遠に心配されても、それはそれで怖いだろう。
『近頃は、すっかり秋になりましたね。秋といえば、秋桜がきれいに咲く季節です。昔二人で見た──』
思い出話をしようとして、再び手が止まる。こんなことは、手紙に書いてもやはり困惑させてしまう。だってリアンは二人で見た花畑の美しさを覚えていないのだから。唸って、唸って、それから新しい紙を手に取った。まずは季節の挨拶をして、それから、謝罪と、重くない程度の心配。そして、最後にこう書きつけた。
『今後についての話も含めて、一度二人でお会いしたく思います。ご予定はいかがでしょうか』
結局、情熱的な愛の言葉のひとつもない、シンプルな手紙になってしまった。迷った末に、庭師に許可を取ってカスミ草をいくつか貰った。それを挟んで蝋で封をした。これもリアンの頭からは消えてしまっただろうが、リアンがかわいいと言っていた花だった。
手紙は、絶対に彼の乳母に渡すように言いつけて、手紙を託した。そうしないと、手紙を勝手に捨てられてしまうから。
返事が来たのは、翌週の頭だった。
『ラネール嬢、お手紙をありがとう。今は退院して、そろそろ話をしなければと思っていました。予定が合えば、次の週末はいかがでしょうか』
手紙は、たったそれだけだった。あまりにもそっけないし、装飾もない。けれど、間違いなく彼の字だった。それだけで、この手紙は私にとって宝物のように思えた。手紙を抱きしめて少女のようにくるくる回ってから、椅子に座った。
すぐに了承の返事を送る。週末には、かつてよく通った公園へ行くことになった。
◆◇◆
週末は幸いにして、よく晴れていた。私は、朝から早起きをして、精一杯のメイクをした。リアンがほめてくれた髪の毛をおろし、白いドレスを着る。事故に遭う前に、リアンが買ってくれたものだった。いくつもレースとリボンがついた、私が着るにしては女の子らしいデザインだ。だけど、可愛い可愛いと、あんなに褒めてくれたんだもの。少しでも、喜んでくれたらいいと思った。
「ごめんなさい、待たせたかしら……!」
けれども、待ち合わせ場所の噴水前にたたずむリアンを見たときには、思わず苦笑してしまった。秋の深い空の下。日差しを受けてキラキラと彼の輪郭が光っていた。リアンは軽く壁に背を持たれて、本を読んでいた。傾いた横顔が、いっそう睫毛の長さを強調させている。精巧な彫刻だって、彼の美しさにはかなうまいと思うのは、恋人の欲目なのかしら。
そして彼は、私の声にふと顔を上げた。視線がしばらくあちこちをさまよい、しばらくしてようやくこちらに気づいたようだった。
「ああ、いや。僕も今来たところですから」
彼の美しさには見慣れているけれど、この温度の無い目線には慣れない。私を見る顔に、笑顔が少しも浮かばないことにも。私はこのドレスを着てきたことを少しだけ恥ずかしく思いながらも、笑いかける。
「来てくれてありがとうございます、リアン」
「いえ。以前の僕が君と婚約していたのは事実でしょう。ならば、話し合いは必須です」
リアンは真面目な顔で、私に向き直る。今にも、婚約解消の話がはじまりそうで、私は慌てて、花壇に向かって歩き出す。
「よければ、少し歩かない? 今日は風も気持ちがいいし」
「……はい」
リアンは、そんな私に付き合ってくれた。婚約までしていたという元恋人。両親に無理やりだったと吹き込まれていても、そんな私を無碍にはできないと知っていた。大人しく私についてくるリアンにほっとするやら、切ないやらで、胸が疼いた。
しばらく無言で、園内を歩く。この公園は植物園顔負けにたくさんの植物が生えていて、私たちは、ここでいろいろな植物を見つけるのが好きだった。例えば、千年に一度しか咲かないという伝承がある花、高山でだけ咲いているはずの花。小さな温室には、南国の植物までがあった。
私の後ろを歩いていたリアンが、ふと足を止めた。
「この花……」
足を止めた先に会ったのは、高山植物の一角だった。白い星のような形の花が、一本だけ、咲いている。
「エーデルの花が、どうかしましたか?」
平静を装って聞きながら、私の心臓はうるさいくらいにはねていた。だって、その花は、私たちが初めて話すきっかけになった花だったから。
五年前。まだ、私も彼も未成年で、学生だった頃。リアンは入学当初から目立っていたけれど、私は今とおんなじ地味なままだったから、彼のことはこちらは一方的に知っていはいるけど、関わることのない人としてしか見てなかった。
「あの、ラネールさん、だよね」
だから、突然リアンの方に話しかけられた時はひどく驚いたものだ。何を隠そう、その会話をしたのはこの公園だった。珍しい植物がたくさん植えられているという話を聞いて、この公園を訪れたとき、リアンと鉢合わせたのだ。
「え? ラインハルトさん?」
突然ごめんね、とリアンは謝って、花壇にしゃがみこんでいた私の隣に座った。
「ラネールさんが、植物に詳しいと聞いて。僕も詳しくは無いけど好きなんだ。この間、高山植物についての発表をしていたでしょう。聞いたよ」
柔らかい笑みに感心する前に、私は体をリアンに向けた。
「そうなの!? ……あ、でも好きって、どういう? ほら、植物にもいろいろあるじゃない。育てる、見る、飾る……」
「なんでも好きだけど……特に僕は植生が好きなんだ。どこに、どんな花が生えているかとか。……君も、そうだと思ったんだけど」
「本当に! そうよ! 私も一番、それが好き! ここにもね、珍しい花があるって聞いてきたのよ。すごいわ、自然の環境のまま、高山の花が咲くなんて。見て、このエーデルの花! 普通、このあたりの環境だと、暑すぎて白くならないことだってあるのに、見事に真っ白。雪みたい」
私は同志をみつけた喜びにうれしくなって、リアンに大接近しながら話し出した。リアンは面食らったような顔をした後に、それはそれはきれいな微笑みを見せてくれた。
「本当だ。真っ白。そういえば、この白が名前の由来だったっけ」
「……そうよ。正式には、エーデルヴァイス。高貴なこの花を讃えた名前」
リアンの顔を見ていられなくて、慌てて距離をとって、花壇に目を落とす。
たった、それだけ。でも、二人で花を眺める時間を、リアンも悪くないと感じたんだと思う。それから、よく二人で会うようになった。
私は、そっとリアンに視線を戻す。リアンは、じっと黙ってエーデルの花を見つめていた。
「なんていう、名前ですか?」
「エーデル。エーデルヴァイス。高山で咲く花よ」
「僕は以前、この花を知っていたんですか?」
「ええ。……だって、あなた、植物が好きでしょう?」
私が尋ねると、リアンは首を横に振った。
「いえ、植物は、別に。……家を継ぐためには必要のない情報ですし」
私は、目を丸くした。以前に彼は、「小さいころから、植物が好きだった」と私に教えてくれたから。厳しい家庭、勉強漬けの日々の中で、植物を見ると心が安らいだのだと。記憶喪失の影響なのだろうか。
「そう……なの?」
「はい。でも、なぜでしょうか、この花をみていると、不思議な気持ちになります」
「不思議な気持ち?」
「はい。騒めくような。落ち着かない気分です」
「ねえ、少し、不躾な質問をしていいかしら」
リアンが花から目を離してこちらを向いた。まっすぐと私を見て、頷く。
「あなた、今、自分の感覚では、何歳なの?」
「自分の感覚では、二十二歳です。実際の歳もそうと聞いています。……けれど、ちょうど貴方とかかわっていたころでしょうか。学生の頃やそれ以降の、人とかかわった記憶が消えてしまっているようです」
二十二歳。合っている。リアンも私も今年の誕生日を迎えれば二十三歳になる。だが、同じ人物だと思えないほど、リアンの表情は乏しく思えた。
「それは……寂しいわね」
口ごもりながら答えると、リアンは首を横に振った。
「寂しくは無いです。どうせ、代わり映えのない日々でしょうから」
あまりに淡々とした口調に、これが本当に私の知っているリアンなのかと、不安になった。例えば、私の知っているリアンは、こういう時はまず、「大丈夫だよ」というだろう。大丈夫だよ、と笑う。けれども、その瞳に寂しさを隠せないような、かわいい人だ。
「ねえ、それ、ご両親に言われたの?」
「え?」
「私の知っているリアンは、そんな、何もかも諦めてます、みたいな顔はしなかったわ。ねえ、大丈夫?」
急にリアンへの心配で頭がいっぱいになって、気づけば再びリアンの顔に急接近してのぞき込んでいた。初めて、リアンの瞳が驚きに揺れて、見開かれる。
「何かあるなら、言って。力になるわよ、必ず」
私がなおも近づこうとすると、リアンが思わずといったように一歩後ろに下がった。
「あ、ごめんなさい。驚かせたかしら」
「……こういう感じで迫って、婚約を取り付けたのですか?」
続く言葉があんまりだったから、私は言葉を失った。リアンの方も、思ったことがそのまま漏れただけなのだろう。しまったという顔で、口を押さえた。
「違うわ! プロポーズしたのは、あなたからだった! 告白もよ!!」
私は怒りに震える体を落ち着けようと、息を深く吐き出した。まさか、気遣いをこんな形で返されるとは思ってもみなかった。
「僕が……?」
「ええそうよ。そもそも、私はあなたに何かを強要するつもりもしたつもりもないわ! ただ、あなたを心配してるだけ」
いよいよ、リアンの顔がいたたまれないといったように歪んだ。
「すみません。違うんです。ただ、君みたいな人にこんな風に言われたら、きっと断れないだろうと……」
「何が、違うのよ」
私が呆れたようにいうと、今度こそリアンは口を閉じた。
「もう。……そういえば、植物には興味が無いって言っていたけど、私の知っているあなたは、好きだったのよ」
気をとりなおすように話しかける。喧嘩をしたとき、話しかけるのはたいていリアンからだったけど、彼が記憶喪失の時くらいは、こちらが話してあげないといけないかしら。
「こっちに来て。せっかくだから、いろいろな植物の解説をして差し上げます。そしたら、好きな気持ちを思い出すかもしれないわ」
私は歩き出した。やや遅れて、リアンがあとから小走りで追いかけてきた。
あれやこれやと、目についた植物について解説すると、リアンは案外真面目に私の話を聞いてくれた。
「あっ、みて。スケルトン・フラワーがある!」
いつの間にか、私は夢中になって、公園内を練り歩いていた。
「こないだまで無かったはずよ! それとも気づかなかっただけ? わあ、直接見られるなんて」
花壇の前で座り込んで、しげしげと植物を眺める。緑の大きな葉の上に、桜形の小さな白い花弁が咲いている、可憐な花だ。私の隣に、あとからついてきたリアンが座る。
「スケルトン? 普通の花のように見えますが……」
「ふふ。この花はね、濡れるとガラスみたいに透き通るんですよ」
リアンは私の目を見つめてへえ、と声を漏らす。その瞳は、最初の頃よりずっと、生き生きして見えた。だからか、私の舌は、いつも以上によく回った。
「へえ。水をかけてみましょうか?」
「ダメ。花に負担がかかってしまうわ」
私が静止すると、リアンが首を傾げる。
「花は、自然のままの姿が一番美しいのよ。株を弱らせることをするのは可哀想。……けれど、雨あがりに来たら、きっと見られるわね」
リアンが空を見上げる。よく晴れた青空。遠くに鱗雲が浮かんでいたけれど、雨はしばらく降りそうにない。
「雨の日って、素晴らしいのよ。植物が、喜んでいる感じがするの」
「雨の日……来てみたいですね」
「ぜひ行ってみて! おすすめよ」
リアンは私の顔を見つめた。なにか、おかしいことをいっただろうか。雨の日にわざわざ公園に行くのは、いささかマニアが過ぎただろうか。
「……そうではなくて、君と、来たいです」
「え……本当に!?」
私は思わず、リアンに顔を近づけた。リアンの青い瞳の中に、顔を赤らめた地味な女がいる。リアンは何度か目を瞬いたあと、頷いた。
「記憶については、……思い出せませんが、君と過ごすのは楽しかった。父の方が、嘘をついているんじゃないかと、少し疑うほどには」
「そうでしょう、そうでしょう! あなた、こういうデート好きだったもの。……ふふ、ありがとうリアン、大好きよ!」
私がそう叫ぶと、リアンは困ったように眉を下げた。
◆◇◆
「聞いてよ、デート大成功だったわ」
翌日の午後。うちへと遊びに来ているユーレックに、私はピースサインを向けて見せた。
「ああそう、よかったね」
「なによ、そのそっけない反応。友達の恋を応援しなさいよ」
ユーレックはつまらなそうに、爪をいじっていた。つやつやで縦に長い、形のいい爪だ。リアンには負けるけど、彼だって無駄に綺麗な見目をしている。
「応援してるしてる。だから、こうやって話をきいてあげてるんじゃないか」
私は、反応の悪さも気にせず、ユーレックにデートの頭から終わりまでを説明してあげた。ユーレックはやはり不貞腐れたような表情のまま、それでも最後まで聞いてくれた。
「でも、びっくりしたのが、リアンのあの無気力そうな目よ。彼って、いつもキラキラしてたじゃない? ほら、学校でも王子みたいとか言われてたし」
私がそういうと、ユーレックははじめて私を見た。
「リアン・ラインハルトが、キラキラ? そりゃ、見た目は金ぴかだけど……。あいつが楽しそうにするのは、君の前だけだったよ、昔から」
え、と声が漏れた。私がまじまじと見つめると、ユーレックは顔をさらに顰めた。
「誰といても、興味なさそうだから、氷の王子だの言われてたじゃない。……あー、君はそういや、噂話とかまったく気にしなかったっけ。君と付き合いだしたとき、大騒ぎだったんだよ、王子の雪解けって」
「リアンが……? 私といるときは、誰といても、穏やかに話してたのに?」
リアンといえば、友人も多かった。いつも人に囲まれていて、だけど、私のことは何よりも大事にしてくれる。私の恋人は良くできた人だと思っていたものだけれど。
「君と付き合いだしてからだよ、人当たり良くなったの。なんなら最初は君といるときだけだったね。……ジュリア、リアン・ラインハルトのこと何も知らないんだね」
「あいつは、ジュリアが思うほどいい奴じゃない。僕だって、何度牽制されたことか……」
ユーレックの話は、まるで他人の話を聞いているみたいだった。私がぼうっと黙り込んでいると、ユーレックが、私の眼前で手を振った。
「おーい、聞いてる? だからさ、あいつはやめた方がいいんだって」
「…………」
「おーい」
「……リアン、無理してたのかな。私の前で……」
大きなため息が聞こえた。私がようやく意識をユーレックに向けると、ユーレックは真顔で私を見ていた。
「自分のこと忘れられて、嘘つき呼ばわりされても、あいつの心配ばっかり。それでも好きなんだ。君は馬鹿だね」
その声が、内容に反してあまりにも優しいから、私は怒れもせずにうつむいた。
「リアンは、私に知らない世界を教えてくれたひとだから。植物と勉強しかなかった私に、誰かと愛し合う喜びをくれた」
「そう」
ユーレックは短く呟くと、立ち上がった。
「じゃあ、せいぜい頑張んなよ。君の数少ない美点は、興味の対象にまっすぐ向かうその猪突猛進さなんだから。さっさと次の約束でもすれば」
なんだかんだ、この幼馴染は私を応援してくれる。
「うん!」
大きな声でうなずくと、ひらひらとユーレックは手を振った。
◆◇◆
あれから、何度かデートのようなお出かけを繰り返した。初めは、約束通り雨の日に出かけた。二人で透き通った花弁を観察した。次は植物園へ向かった。こちらはこちらで、精密な管理下で咲き誇る花たちをみるのは見ごたえがある。
デートというよりは、植物好きの同志会のようかもしれない。別に好きじゃない、と言ってたけれど、リアンは毎回私の話を楽しそうに聞いた。
付き合う前に戻ったみたいだったけど、次第に距離が近づいていくのがわかる。
だから、私も少し期待していた。
このまま、こうして会い続けば、ゆっくり私のことも好きになってくれるんじゃないかって。
リアンに新たな婚約者のうわさが流れだしたのは、それからさらに数日後のことだった。
なんでも、ラインハルト伯爵家とは遠縁にあたる子爵家の娘で、まだ十代の少女だとか。
「どういうことなの! おかしいでしょ、婚約解消の正式な手続きだって済んでないのに!」
私は一人、部屋で叫んだ。お父様から早速抗議をしてもらったけど、こういう時は男爵家と伯爵家の身分差がつらい。いくら愛する娘のためだって、激しく追及すれば、家が傾きかけないのだ。
一週間待った。伯爵家から返事は無かった。
「……お父様、私、直接リアンに会ってきます」
父は止めたが、私は自らの足でラインハルト家に行くことにした。いてもたってもいられなかった。父はやれるだけのことをやってくれている。だけど、これ以上待つことは、私はできない。
「私なら、何を言っても小娘の戯言。ラネール家として抗議するより、迷惑がかかりませんもの」
私が使える中では一番いい馬車に乗って、ラインハルト家に向かう。それでも大きな門に、立派な庭木。さらにその奥に聳え立つお城と見紛う大豪邸に入ると、男爵家の馬車が場違いな気がして仕方なかった。
気にするもんか。応接間に通され、明らかに質の悪い茶を出されても、帰る気は無かった。
「ラネール嬢!」
慌てた様子でリアンが応接間に入ってきたのは、もう日も暮れようとしてからだった。私は立ち上がって、リアンのもとへ近づく。少しだけ、彼は疲れた顔をしていた。体も、心なしか痩せただろうか。
「すみません、いらしているとは知らず……、お待たせしましたね。どうかされましたか」
「知らなかったんですか? 噂を聞いて来たんです」
「ここ数日は、仕事が立て込んでいて……。噂、ですか?」
きょとんとしているリアンを見つめた。瞳は澄んで私を見返していて、何かをごまかしている様子はない。
「新しい人と婚約するって。サルリア子爵家のお嬢さんと」
「はい? 待ってください。そんな話は聞いていません。彼女はまだ子供ですし、何より……君と婚約しているのに」
リアンの声が上ずった。本当に、思いもしなかったことを聞いたときの声だ。
きっとそうだろうと思っていた。またラインハルト伯爵が勝手に話を進めているのだと、信じていた。
そのはずなのに、なぜだろう。私はその場にしゃがみこんでしまった。
「ラネール嬢!」
ほっとした。
彼が、私を捨てたわけじゃなかった。私との婚約を解消させて、新しい人と結婚しようというわけじゃなかったんだ。
喉と目頭が、燃えるように熱くなった。込み上げてくる涙を、止めることができない。
「ごめんなさい、……っ、泣くつもりは、無いの。ただ、安心して……」
私は、泣きながらリアンに微笑みかけた。せっかく化粧をしてきたのに、これじゃあぐちゃぐちゃになってしまう。そんな私を見て、リアンは目を見開いた。
リアンは私に一歩近づいて、頬に手を伸ばす。
「────ジュリア」
何かを確かめるように、名前を呼ばれる。手が頬に触れて、目じりを親指がなぞる。
「ジュリア、ジュリア。ごめんよ。……君を幸せにすると誓ったのに、泣かせてしまった」
「あなた、今……ジュリアって。まさか」
「ああ、思い出した。全部。全部」
涙にぼやけた視界が、ようやく像を結んだ。私を見つめる瞳に、確かに炎が宿っている。温かくて、優しい炎。決して私を傷つけないのに、それは常に燃えている。
「リアン……っ」
額を合わせて、手を握った。ぎゅっと確かめ合うように力が込められて離されると、再び頬に移動する。私が自然と瞼を下すと、柔らかいリアンの唇が降りてきた。
「ん……」
彼のにおいがした。彼の味がした。繰り返される。何度も。
ようやく顔を離したときには、二人ともすっかり息が上がっていた。
「思い出してくれて、良かった。私、私、あなたに捨てられるのかと……」
私が尚も泣きながらそういうと、リアンは首を横に振った。記憶が戻ったとわかったら余計に涙が止まらない。
「そんなはずないよ。記憶を失っても、君に惹かれ始めていたんだから」
「そうなの?」
「うん。……僕のエーデル。君はいつも僕に安らぎをくれるから」
私は、恥ずかしいやら、照れ臭いやらで、目をそらす。
「私が泣いたら、記憶を思い出すなんて、まるでおとぎ話みたいね」
私は、ユーレックの言葉を思い出しながら言った。確かに、私たちの恋はおとぎ話みたいだ。けれど、困難があっても終わらなかった。
「……そんな綺麗なものじゃない」
リアンは、しかし私の言葉に首を横に振った。
「あのさ、ジュリア。記憶を失っていた時、植物には興味がないと言っただろう。……あれ、本当なんだ。正確には、本当だった、かな」
リアンは真剣な顔で語りだす。
「僕は、小さいころから、ラインハルト伯爵家の跡取りとして教育を受けていて……、普通の趣味を持つことは許されなかったんだ」
「そんな……ひどいわ!」
ようやく、涙が止まった。私は思わず声を上げた。リアンがそんな環境で育っていたことを、私は聞いたことが無かった。リアンは私の前ではいつも完璧な恋人だったから。
リアンは、そんな私に、どこか嬉しそうな顔をする。
「うん……。でも、それをおかしいとも思ってなかった。そうして、学生になって、言われた通りに生きてたある日、君に出会ったんだよ」
「私?」
「君は、僕に気づいていなかったけどね。最初は、学園の裏庭で、植物をみてる君を見かけた。あんまり熱中してるから、妙に心に残ったんだ」
リアンはまるで美しいものを思い浮かべるように、微笑みを浮かべた。
「それから、君が、植物についての研究発表をしていることを知った。どうしても気になってこっそり、聞きに行った。初めて勉強をさぼってさ」
学生時代を思い出す。確かに、今まで調べた植生について小さな発表をしたことがあった。
「そう、だったの……それで、植物に興味を?」
私は首を傾げた。今までの話に特に私に隠すような後ろめたいことは何もないように思った。しかし、リアンは再び、首を横に振った。
「いや。……興味を持ったのは、君だった。君が、情熱的に植物を見つめる目。語る口。それが目にやきついて離れなくて……、嘘をついて、君に近づいた」
リアンは目を細めた。
「本当は、植生なんて本当に知らなかった。本を一冊読んだくらいでさ。……でも、君と話したくて。そうして君と接しているうち、いつの間にか僕も植物自体好きになっていた」
「…………」
「本当は、なにもロマンチックな出会いじゃなかった。卑怯にも嘘をついて話しかけたんだ。本当は、僕が、君に勝手に一目惚れしただけ」
しばらく、何も言えなかった。けれど、じわりと顔が熱くなる。だって、これは。
「リアン。……あのね。十分、ロマンチックだと思うの。一目ぼれって……あなたみたいな美しい人が、わたしのような地味な女に?」
「君は、自分の魅力がわかってない。地味だ地味だというけれど、君は十分可愛らしい顔をしてるじゃないか。それに……その瞳だ。君は好きなものを語るとき、瞳の中に星が浮かぶ。よっぽど君のほうが、キラキラしてる」
リアンはそう言って、私の髪をひと房掬った。
「僕はずっと、君に夢中だよ、ジュリア」
その顔を見て、私の口から吐息がこぼれた。リアンはずるい。嘘をついたって、おとぎ話になってしまうから。
「私もよ。私だって、あなたが大好きなんだから」
私の瞳はきっと、言葉より雄弁に愛を伝えているのだろう。それを見たリアンが、嬉しそうに笑った。
◆◇◆
リアンの記憶が戻ると、驚くほどスムーズにいろいろな問題が解決した。
まず、婚約の件。これは、婚約解消がなかなか進まない私に業を煮やした彼の父親が流した噂だったらしい。しかし、実害がそうなかったことと、父親への怒りは別問題だったらしい。
次にリアンは、伯爵家の実権のほとんどを掌握すると、ラインハルト伯爵夫妻を地方の別荘に送ってしまった。事実上の隠居生活を送ることになるらしい。
「大丈夫なの? そんなことして……」
「僕の記憶が無いのをいいことに、嘘を吹き込む親なんて、いない方がいい。ほとんど仕事も僕がしていたし、彼が居なくなっても困ることなんてないよ」
そういうリアンの声は淡々としていて、以前だったら私には決して見せないような一面だ。思っているよりいい奴じゃない、とユーレックが言っていたのはこういうことかと納得しつつも、そんな彼も好きだと思う私もなかなかだ。
今日は、二人で例の公園にやってきていた。足を止めた先に、エーデルヴァイスの花が咲いている。
私は花を眺めるリアンの顔を見る。優しい瞳が穏やかに、けれど確かな愛情をもってエーデルヴァイスを見つめていた。
「ねえ、リアン。あなた、本当にその花が好きなのね」
私はその瞳がうれしくて、彼の頬に唇を寄せた。




