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俺は三角形!

作者: 森 高陽
掲載日:2026/06/15

 まえがき

 僕は数学を教える仕事をしています。

 それから、格闘アクションとか大好きなんです。

 それで思いました。数学と武道が組み合わさったら面白くないか?

 もう本当に、それだけです。そして、とても面白い話になりました。


 数学とか言ってますけど、難しい顔する必要はありません。

 どうか楽しんでください。

一. 七つの光

 事故の瞬間のことは、何も覚えていない。

 覚えているのは、バイト帰りの交差点で信号が青だったこと、イヤホンから流れていた曲のサビ、やけに間延びして聞こえたクラクション、それから三週間後の病院の白い天井だ。間の三週間は、俺の人生から綺麗に切り取られている。

 あとで聞いた話では、居眠り運転のトラックが信号を無視して突っ込んできて、俺は五メートル飛ばされたらしい。

 五メートル。

 走り幅跳びの世界記録より短いのが、少しだけ悔しい。


 目を覚ますと、枕元で誰かが泣いていた。

 女の人だった。俺の手を両手で握って、肩を震わせている。

 誰だろう、と思った。

 声を聞いて、心臓が落ちるかと思った。

 母だった。だけど顔が、なかった。

 いや、正確に言えば、見えてはいた。目があり、鼻があり、口がある。それぞれの部品は、たぶん完璧に見えている。まつ毛の本数まで数えられそうだった。

 だがそれらが「母の顔」としてまとまってくれない。バラバラの部品が、肌色の画用紙の上にただ置いてあるだけだった。二十年近く毎日見てきた顔が、初めて見る他人の顔よりも遠かった。


「相貌失認、というものです」

 主治医はそう言った。声からして五十がらみの男だと思うが、例によって顔は分からない。

 白衣と名札と声。俺にとって医者とは、その三点セットのことだった。

「頭部への強い衝撃で、顔を顔として統合する脳の部位――紡錘状回のあたりですが――が損傷を受けることがあります。視力には問題ありません。目も鼻も口も見えている。ただ、それを『誰それの顔』として束ねる機能だけが落ちている状態です」

「治るんですか」

「回復するケースも、しないケースもあります」

「どっちが多いんですか」

「分かりません」

 医者というのは正直な生き物だ。このときは恨めしかったが、後になってみれば、安請け合いをしない人で良かったと思う。


 大学一年の夏、俺――葛西湊、十九歳――は、こうして目の前の世界から人の顔を失った。

 失ってみて初めて分かったことがいくつもある。

 たとえば、人間は顔で人を覚えているということ。当たり前すぎて誰も意識しないが、声でも背格好でもなく、まず顔なのだ。親友の理玖が見舞いに来たとき、俺は彼が「すみません、葛西湊の病室ってここですか」と言い終わるまで、知らない男が入ってきたと思っていた。


「マジで分かんないのか、俺の顔」

「分かんない。今も、目をつぶって声だけ聞いてるのと大して変わらない」

「ふうん」理玖はパイプ椅子に浅く座った。こいつは昔から、どんな椅子にも浅く座る。「じゃあ俺、今からどんな顔してると思う?」

「知らないよ」

「泣きそうな顔だよ」と理玖は言った。声はいつも通りだった。そういう男だった。


 もうひとつ分かったのは、顔が見えないと、感情の置き場に困るということだ。

 同じ語学クラスの遠野美晴が千羽鶴を持って見舞いに来てくれたとき――入学式の日からこっそりかわいいと思っていた子だ――俺は彼女を、直前に隣のベッドを見舞いに来ていた誰かの妹さんと取り違えた。「遠野です、語学一緒の」と言われて初めて分かった。

 好きな子の顔が分からない。これは、正直、かなりへこんだ。千羽鶴は今も病室の記念に取ってある。鶴の顔は、もともと誰の顔でもないから、安心して見ていられた。


 リハビリの一環で、顔写真のカードを毎日めくらされた。有名人の顔、家族の顔、自分の顔。正答率は最後まで上がらなかった。

 代わりに俺は、カードの紙の重心の位置を当てて、作業療法士さんを薄気味悪がらせた。「葛西さん、それ、何の役に立つんですか」と訊かれて、答えられなかった。何の役に立つのか、このときはまだ、俺にも分かっていなかった。

 ただし。

 失ったものの代わりに、妙なものが見えるようになっていた。

 最初に気づいたのは、床頭台のコップだった。消灯前、ぼんやり眺めていたら、コップの内側、水面より少し下の空中に、小さな光の点がぽつんと浮かんでいた。埃かと思って手で払ったが消えない。看護師さんに「あれ、何かついてますか」と訊いたら、何もついていないと言われた。コップを傾けると、点はわずかに位置を変えながら、コップと一緒についてきた。


 点は、どんな物の上にも見えた。本には本の、椅子には椅子の、リンゴにはリンゴの点がある。リハビリの作業療法で粘土をこねたときは、粘土の形を変えるたびに点がぬるぬると動いた。

 どうやらそれは、その物の「中心」らしかった。

 試しにリンゴの点を人差し指で支えてみると、リンゴは奇妙なほど素直に、指先の上で静止した。重心だ。物理は赤点すれすれだった俺でも、それくらいは分かる。

 脳が顔をやめて、代わりに重心を拾うようになった。

 そう考えれば、まあ、筋は通る。通らないのはここからだ。


 退屈しのぎにノートへ落書きをしていて、三角形を描いたときだった。

 点が、四つ灯った。

 三角形の内側に四つ。ほぼ同じあたりに固まっているが、確かに四つ、別々の点だ。そして紙の余白――三角形の「外」に、さらに三つ。合計七つの光が、描き終えた瞬間にぽぽぽっと浮かび上がった。


 丸を描いても点は一つ。四角でも一つ。星形でも一つ。何度試しても、三角形だけ、七つ。

 もっと奇妙なことには、その晩、検温に来た看護師さんを見たとき――彼女の体に、七つの点が見えた。胸の奥に四つ、ほぼ縦に並んで。そして体の外――両肩の斜め上の空中と、足元の床のあたりに、三つ。歩くたび、七つの光は呼吸みたいに揺れて、彼女についていった。

 人間にも、七つあるのだ。三角形と同じように。


 俺は消灯後のベッドで、暗い天井を見ながら考えた。顔のない世界で、人はみんな、七つの光を抱えて歩いている。

 ――俺は三角形を見ているのか。それとも、人間が三角形なのか。

 答えの.ないまま、秋が来て、俺は退院した。


二. 五つの(しん)

「お前それ、五心だよ」

 退院した俺の話を、ファミレスのドリンクバー九杯目あたりで聞き終えた理玖は、即答した。

 理玖は数学科だ。

 高校時代から「美しい」という言葉を図形と証明にしか使わない男で、卒業文集の「好きな言葉」の欄に「よって題意は示された」と書いた。

 顔は相変わらず分からないが、声と、椅子に浅く座る癖と、ドリンクバーでメロンソーダを混ぜる悪癖と、胸の奥でやけに整然と縦に並んだ四つの光で、理玖だと分かる。ちなみにこの「胸の四つの光の並び方」は人によって全然違う。理玖のは定規で引いたみたいだった。

「ごしん?」

「三角形の五心。重心、外心、内心、垂心、傍心。三角形には有名な『中心』が五種類あるんだ。中心ってのは普通一個だろって思うだろ。三角形は特別でね、由緒正しい中心だけで五つある。で、傍心だけは一つの三角形に三つあるから、点の数で言えば――」

「四つ、足す、三つ」

「七つ」

 背中がぞくりとした。病室のノートの上で灯った七つの光が、古代ギリシャの時代から名前を持っていたなんて。

「実験しよう」理玖は伝票の裏にボールペンで大きな三角形を描いた。「点が見えるんだろ。位置を指で押さえろ。こっちで作図して照合する」


 それから二時間、俺たちはファミレスの隅で、はたから見れば占いか心霊実験みたいなことをやった。俺が空中の光を指でなぞり、理玖がコンパス代わりの硬貨と定規で検証する。結果は、完璧だった。

「まずここ。内側のやつで、一番どっしりして見える点」

「三本の中線――各頂点と対辺の中点を結ぶ線の交点。重心だ。三角形をその点で支えると釣り合う。物理的な意味を持つ唯一の心で、質量の中心。お前がリンゴで見てたのはこれだな」

「で、こいつは三つの頂点から同じ遠さに感じる。なんでか知らないけど、見てると等距離って分かるんだ」

「外心。三辺の垂直二等分線の交点で、三頂点から等距離。そこを中心に円を描くと三つの頂点全部を通る。外接円の中心だ。鈍角三角形だと三角形の外側にはみ出す。中心のくせに、外に出る」

「この点は……辺から等距離っぽい。三方の壁から同じだけ離れて座ってる感じがする」

「内心。角の二等分線の交点で、三辺までの距離が等しい。内接円――三角形の内側にぴったり収まる円の中心。絶対に三角形の外に出ない心だ。家庭的なやつだよ」

「四つ目が一番落ち着かない。三角形をちょっと潰した形にすると、ビュンって飛んでいく」

「垂心。各頂点から対辺に下ろした垂線の交点。こいつも鈍角三角形だと外に飛び出す。形の変化に一番敏感で、一番神経質な心だ」

「外の三つは?」

「傍心。一つの内角と、残り二つの外角の二等分線の交点。傍接円――三角形の外側で一つの辺に接して、他の二辺の延長線にも接する円。その中心だ。つまり三角形ってのは、内側に一つの円を抱いて、外側に三つの円を従えてる。内心が一人、傍心が三人。番犬みたいなもんだな」

 理玖はそこで一拍置いて、ストローの袋を結びながら、ひどく静かな声で言った。

「湊。お前、三角形の五心が『見える』人間になったんだ。作図も計算もなしで。数学科が聞いたら泣くぞ」

「でも人間にも見えるんだけど。それはどういうことなんだよ」

「知らん」理玖は即答した。「人体を力学的に近似すると両肩と骨盤で三角形になる、みたいな雑な説明はしたくない。雑な説明は嘘より悪い。ただ事実として、お前には人の五心が見える。なら、次はこれを試せ」

 理玖が新しい伝票の裏に描いたのは、三角形ではなかった。一本の、まっすぐな直線だった。

「外心、重心、垂心。この三つは、どんな三角形でも必ず一直線上に並ぶ」

「……必ず?」

「必ず。どんなにひしゃげた三角形でもだ。しかも並び方まで決まってる。重心は、外心と垂心を結ぶ線分を必ず一対二に内分する。十八世紀にオイラーが見つけた。だからオイラー線という」

「例外なく?」

「一つだけあるにはある。正三角形のときは三点が一点に重なるから、線そのものが消える。完璧に整った三角形にだけ、オイラー線はない。線ってのは、ずれの記録だからな」

 俺は、向かいに座る理玖の胸の奥の四つの光を見た。言われてみれば、四つのうち三つが、確かに一本の線の上に乗っている。そしてその線は、理玖の背骨に、ぴったり沿っていた。

「……オイラー線って、背骨だ」

「は?」

「人間のオイラー線は、背骨に沿ってる。お前の、すごいまっすぐ」

 理玖は長いこと黙った。それから「論文にしたいくらいだな。査読は通らんだろうが」と笑って、メロンソーダを飲み干した。

「ちなみに内心は? 四つのうち一個だけ、線に乗ってないんだけど」

「いい質問だ。内心は基本的にオイラー線には乗らない。乗るのは二等辺三角形のときだけだ」理玖はペンを置いた。「心ってのは、そういうもんだろ。重さとか高さの理屈とは、別のところにある」

 数学科のくせに、たまに詩人みたいなことを言う男だった。


 ちなみにこの夜、会計を済ませたあとも、理玖の講義はもう一駅ぶん続いた。曰く――五心というのは三角形の中心の「有名どころ」にすぎない。世の中には三角形の中心を蒐集している数学者たちがいて、その目録には何万(!)という中心が登録されている。

「何万って、お前」

「たとえばナポレオン点。三角形の各辺の外側に正三角形を立てて、それぞれの重心と向かいの頂点を結ぶと、三本の線は必ず一点で交わる。ナポレオン・ボナパルトが発見したという伝説があるが、たぶん嘘だ。皇帝は忙しい」

「へえ」

「モーリーの定理ってのもある。どんな三角形でも、各内角を三等分する線を引くと、隣り合う線同士の交点が三つできて、こいつが必ず正三角形になる。どんなにひしゃげた三角形の中にも、完璧な正三角形がひとつ、隠れてるんだ。こんな単純な話なのに、二十世紀になるまで誰も気づかなかった」

「……どんな三角形にも?」

「どんな三角形にも、だ」

 帰り道、俺は自分の胸の奥を、上から覗き込むみたいに想像してみた。

 何万の中心と、隠れた正三角形。

 改札の前で理玖は言った。「お前の眼が有名どころの七つしか表示しないのは、良心的な仕様だよ。全部見えてみろ。人間が点描画に見えるぞ」


三. 顔のない大学

 復学した大学は、知らない人間の海だった。いや、正しくは、全員が知らない人間に見える海だった。

 俺は人を覚え直した。声の高さ、歩幅、癖、持ち物、そして胸の光の並び。語学の佐伯先生は、四つの光が前傾していて、すり足で歩く。サークル勧誘でしつこかった先輩は、声がでかくて重心も態度もでかい。学食のおばちゃんは、火曜だけ機嫌がいい(声で分かる)。俺のノートの後ろのページには、そういう「人名鑑」がびっしりできていった。顔写真の代わりに、点の配置図が並ぶ名簿だ。

 不便は、数えきれなかった。手を振られても誰か分からないから、とりあえず全員に振り返す。おかげで「葛西は誰にでも愛想がいい」という、人格の誤解が生まれた。鏡も駄目だった。鏡の中の男は知らない男で、知らない男は毎朝俺の歯ブラシを使っていた。映画は字幕より人物の区別が問題で、登場人物が同じ体格の映画は筋が追えない。

 救いだったのは、遠野美晴が、俺の「人名鑑」のいちばん最初のページにいたことだ。

「葛西くん、おはよ」

 声で分かる。半歩遅れて、胸の奥の四つの光が、きれいな縦の線に並んでいるのが見える。彼女のオイラー線は、理玖のような定規の線じゃなくて、よくしなる若い枝みたいだった。笑うと、いちばん上の点がほんの少し跳ねる。そんなこと、本人は知らない。世界中で俺しか知らない。

「ねえ、私の顔、ほんとに分かんないの?」

「分かんない。ごめん」

「じゃあ私が髪切っても気づかないんだ」

「髪は分かるよ。顔が分かんないだけ」

「ふうん……」美晴は少し考えて、言った。「じゃあ、私のこと何で覚えてるの?」

 声と、歩き方と、笑うとき息を小さく吸う癖と、背骨の光。とは言えなかったので、「雰囲気」と言っておいた。彼女は「なにそれ」と笑った。息を小さく吸ってから。


 正直に言う。顔が分からなくても、人を好きでいることは、できる。これは発見だった。顔は思っていたより、恋の本体じゃなかった。ただ、彼女が今どんな表情で俺を見ているのかが分からないのは、暗闇で手紙を受け取るみたいなもどかしさだった。読めないのに、確かに手の中にある。

 一度、彼女に「私当てクイズ」をやらされたことがある。学食の長机に、彼女と、彼女の友達二人が並んで座る。三人とも口を閉じて、身長の差が出ないように座ったまま。

 さあどれが私でしょう、というわけだ。

 悪趣味なゲームに聞こえるかもしれないが、提案した彼女の声は屈託がなくて、俺はむしろありがたかった。腫れ物扱いされるより、クイズにされるほうがずっといい。

「真ん中」

「えっ、早。なんで」

「企業秘密」

 オイラー線、と答えるわけにはいかなかった。三人の中で、よくしなる若い枝は一本だけだった。ついでに言えば、正解を聞いた瞬間、いちばん上の点が跳ねた。

 声を出す前に、体は笑うのだ。あれは良いものを見た。

 もっとも、いいことばかりではない。秋学期のゼミで、俺は発表者の教授を一週間別の教授と取り違え続け、メールの宛名を二回間違えた。バイトは接客を諦めて、倉庫番に替えた。夜道で前から来る人影が誰か分からないのは、いまだに少し、心細い。

 顔のない世界は、親切にできていない。俺が慣れただけだ。


 そういう日々の裏で、俺は三角形の勉強を続けていた。

 柄にもなく図書館に通い、初等幾何の棚を漁った。動機は単純で、自分に見えているものの「説明書」が、そこにしかなかったからだ。五心の性質。オイラー線。九点円という不穏な名前。シムソンという人名。

 ノートの「人名鑑」の隣に、定理が並んでいった。

 人間と定理が同じノートに同居しているのは、考えてみれば俺の世界そのものだった。


 期末の答案返却のとき、語学の佐伯先生に「葛西くんは最近、幾何の本ばかり借りているそうだね」と言われた。語学の先生がなぜ図書館の貸出履歴を知っているのかは謎だったが、「世界の見え方が変わったので」と答えたら、先生は「それは語学の本懐ですね」と満足そうに頷いた。

 何かの誤解が成立した気配があったが、訂正はしなかった。


四. 傍心の夜

 九月の終わり。その夜の俺はコンビニ帰りで、レジ袋の中ではアイスが溶け始めていた。

 高架下の自転車置き場から、声がした。

「だからぁ、連絡先だけって言ってんじゃん」

「困ります、ほんとに……」

 女の子一人、男三人。

 よくある構図で、よくない状況だった。

 普通なら足がすくむ場面だと思う。実際、事故の前の俺なら、目をそらして通り過ぎる自分に言い訳を探しただろう。なにせ向こうは三人で、全員俺よりでかい。だが今の俺には、連中の凄みの効いた顔が見えない。眼光も、にやつきも、品定めするような視線も、全部ただの肌色ののっぺりだ。代わりに見えるのは、三人ぶんの七つの光、計二十一個の点だけ。

 怖さの大部分は顔がつくっていたのだと、このとき初めて知った。

「あの、すみません」

 俺は言った。声は、われながら平坦だった。

「その子、俺の連れなんで」

「ああ?」

 一番大きい男が振り向いた。

 低い、砂利を噛むような声。――これは怖かった。顔が見えなくても声は届く。心臓が一度、嫌な跳ね方をした。前言撤回だ。怖さの三割くらいは、声でできている。

 でも、見えてしまったのだ。

 男の重心は、肩を怒らせて胸を反らせているせいで、不自然に高く、前に寄っていた。喧嘩慣れした体というより、喧嘩慣れして見せたい体だった。垂心はすでに体の輪郭の外、俺のほうへ飛び出しかけている。図書館の本の一行を思い出す。鈍角三角形の垂心は、三角形の外部にある。つまりこいつは今、思いきり「鈍角」だ。

 整っていない。

 オイラー線――背骨に沿うはずの光の列は、酔っているのか苛立っているのか、ぐにゃりと折れ線になっていた。理玖の定規の線とも、美晴のしなる枝とも違う。安物のハンガーを無理やり伸ばしたみたいな線だった。

 そして傍心。体の外に浮かぶ三つの点のうちの一つが、男の右斜め前――ちょうど俺と男の間の空中で、誘うようにゆらゆら揺れていた。

 傍心は、外側で支える円の中心。体の外にあるのに、確かにその体の一部であるような点。

 ――そこを、借りればいい。

 リンゴを指一本で支えたときの感触が、指先に蘇っていた。重心を支えればリンゴは止まる。なら、傍心へ導けば――体は、外へ転がるはずだ。

 男の手が俺の胸ぐらへ伸びてきた。

 瞬間、俺は半歩だけ斜めに出て、伸びてきた腕に手を添え、男の傍心が浮かんでいるあたりへ、つん、と押した。力はほとんど要らなかった。溶けかけのアイスを袋ごと振るほうがまだ重い。


 男は、飛んだ。

 大げさ、という表現がいちばん近い。

 自分から飛び込み前転を失敗したみたいに、男は宙で半回転して自転車の列に突っ込み、ドミノ倒しの派手な金属音だけが高架に響き渡った。

「……は?」と残りの二人が言った。

「……は?」と俺も内心で言った。押した本人が一番驚いていた。

 二人目が「てめっ」と掴みかかってきたが、こっちは怒りで重心が左足の真上に偏りきっていて、ご丁寧に傍心が一つ、本人の左後ろの地面すれすれに沈んでいた。手首を取ってそこへ導いただけで、彼は勝手に地面と仲良くなった。受け身も知らない体が畳じゃないところに落ちる音は、聞いていて気持ちのいいものではない。

 三人目は走って逃げた。三人の中では最も賢明な判断だったと思う。

「あの……ありがとう、ございました」

 女の子が言った。顔は見えない。けれど、声で分かった。胸の奥の光が、よくしなる枝みたいに並んでいるのを見るより先に、声で分かってしまった。

 遠野美晴だった。

「……葛西くん、だよね? 今の、すごかった。合気道か何かやってたの?」

「いや、あの……幾何学?」

「……え?」

「深い意味はないです。帰ろう。送る」


 そのとき、高架の柱の陰から、ゆっくりとした拍手が聞こえた。

 背の高い人影が立っていた。学生にしては落ち着いた、よく通る声で、その人は言った。

「いまの入り身と崩し、独学であれなら大したものだ。――君、合気道をやってみる気はないか。私は八雲。この先の大学の合気道部で師範代をしている。最初から最後まで見せてもらった」

「見てたなら助けてくださいよ」

「君が誰一人傷つけずに済ませる気配があったのでね」八雲さんは、たぶん笑った。声の角が丸くなったから分かった。「それに、ああいう投げは久しぶりに見た。相手の中心を、外から導く投げだ。理屈で身につくものじゃない」

 理屈です、とは言わなかった。正確には、幾何学です、とは。

 帰り道、美晴は俺の隣を歩きながら「幾何学って何よ」と三回訊いた。三回とも俺は「雰囲気」と答えた。四回目の代わりに彼女は、「でも、ありがと」と言って、息を小さく吸ってから笑った。胸のいちばん上の光が、ほんの少し跳ねた。


五. 道場

 大学裏手の旧文化会館は、木造三階建て、築六十年。階段は鳴き、壁の漆喰は剥がれ、消火器は昭和の遺物で、それでも二階の道場の畳だけは青かった。合気道部はそこで週四回稽古していた。

 ついでに言うと、この建物には取り壊しの話が出ていた。耐震がどうとか、維持費がどうとか。一階の掲示板には市の告知と、それより一回り大きい「文化会館を守る会」の署名ポスターが並んで貼られ、夜は警備員の常盤さんが懐中電灯ひとつで見回っていた。うちの会計の小田島さんは守る会の世話人で、署名簿を道場にも回してきた。俺も書いた。畳の青い、階段の鳴くこの建物が、俺は最初からけっこう好きだった。

「合気道は、相手の力とぶつからない」

 初日、八雲さんは言った。道着姿の師範代は、立っているだけで奇妙に「静か」だった。音のことではない。光のことだ。

「相手の中心線を感じ、接点を通して崩しをつくり、導く。中心線がどこにあるかは、教えられない。各自が稽古の中で見つけるものだ。十年かかる者もいる」

 俺には初日から見えていた。

 中心線。オイラー線。背骨に沿って並ぶ、外心、重心、垂心の三つの光。

 これを言ったら破門だろうかと思いながら、俺は黙って受け身の練習を始めた。


 誤解のないように言っておくと、見えることと、できることは、別だ。

 最初の三か月、俺は投げられ続けた。中心線が見えても、自分の足がもつれていては意味がない。半身の角度、間合い、手首の取り方、呼吸。合気道の動きには無数の「作法」があって、その一つ一つが、見える光を技に翻訳するための文法だった。単語帳だけ持って外国に放り出された気分だった。

 それでも、文法を覚え始めると、俺の上達は速かった。なにせ答えが見えている。

 たとえば四方投げ。相手の腕を取って転身する、合気道の代表的な技だが、俺には「どこまで崩せば投げが成立するか」が、相手のオイラー線のずれ方で見える。整った人間のオイラー線はまっすぐで、外心・重心・垂心の間隔は美しく一対二を保っている。崩れると、それが折れる。間隔が狂う。折れた方向に導けば、人は驚くほど小さい力で転がる。逆に、線がまだまっすぐな相手を無理に投げようとすると、力比べになる。

 力比べは合気道ではない、と八雲さんは言う。

 力比べは幾何学でもない、と俺は思う。


 半年が過ぎる頃には、俺は黒帯の先輩たちに混じって受けを取り、たまに投げ返すようになっていた。「葛西は崩しの見切りだけなら三段クラス」というのが部内の評だった。見切りだけなら、というところに愛がある。

 八雲さんだけは、別格だった。

 どう仕掛けても、あの人のオイラー線は崩れなかった。正確には――崩れる前に、もう戻っている。技をかけようと接点に力を伝えた瞬間、あの静かな三つの光がほんのわずかに揺れて、次の瞬間にはもう、俺のほうの線が折れている。投げられたあと畳の上から見上げると、八雲さんの三つの光は、いつもほとんど一点に重なって見えた。

 正三角形のとき、五心は一点に重なり、オイラー線は消える。

 理玖の言葉を思い出す。完璧に整った三角形にだけ、オイラー線はない。線は、ずれの記録だから。

 ああいう人を達人と呼ぶのだと思う。あの人は、記録される前に消している。

 道場には道場の人間模様があった。副将の宮下先輩は柔道からの転向組で、力で投げたがる癖を八雲さんに百回直されていた。会計の小田島さんは六十二歳の社会人部員で、技は朴訥、けれどオイラー線だけは部で二番目にまっすぐだった。聞けば三十年、毎朝同じ時間に同じ公園を散歩しているという。整うというのは、たぶん才能じゃなくて、反復のことなのだ。新入りの俺は雑巾がけと受け身の日々で、道着の畳み方から正座の指の重ね方まで直された。幾何学の見える眼も、雑巾がけの速度には何の寄与もしなかった。これは健全なことだったと、いまにして思う。

「葛西」ある日の稽古後、八雲さんは言った。「お前の崩しは正確だが、正確すぎる。相手の崩れる場所が、まるで先に見えているかのような崩し方だ」

「……はあ」

「見えているのか?」

 俺は雑巾がけの手を止めた。この人に嘘は通らない気がした。

「見えてる、と思います。説明はできないんですけど」

「そうか」八雲さんはそれ以上訊かなかった。「なら、見えなくなったときの稽古もしておけ。目を閉じて受けを取れ。いつか役に立つ」

 このときの俺は、その言葉の意味を、半分も分かっていなかった。


六. シムソン線

 見えるものは、稽古を重ねるうちに増えていった。

 最初の発見は、梅雨の合宿でのことだ。乱取り稽古で、黒帯の宮下先輩が正面打ちに踏み込んできた瞬間――先輩の体を囲む、大きな円が見えた。

 円は先輩の三つの「頂点」を通っていた。外心を中心とする円。

 外接円だ、と直感で分かった。

 普段は見えない。踏み込みで先輩の体が伸びきって、三角形がいっぱいに開いた一瞬だけ、円は薄く銀色に浮かんだ。

 そして、俺自身が半身を切ってその円の縁に触れた瞬間。

 先輩の体の三つの「辺」に向かって、俺の立ち位置から光が三筋、すっと落ちた。三筋の光が辺に着地した三つの点が――一直線に、並んだ。

 線は、先輩がこれから倒れる方向を指していた。

 俺は考えるより先に、その線に沿って先輩を導いていた。先輩は自分でも不思議そうな顔(はしていたと思う。声がそうだった)で畳に転がり、「いまの、何した?」と訊いた。何もしてません、と俺は答えた。嘘ではない。何もしなかった。線の上を、お送りしただけだ。


「シムソン線だな」

 後日、ファミレスで報告すると、理玖は即答した。こいつの即答には慣れたが、それでも今回は早かった。

「三角形の外接円上の任意の点から、三辺(またはその延長)に垂線を下ろすと、三つの垂線の足は必ず一直線上に並ぶ。この直線をシムソン線という。点が円周上にあるとき、そしてそのときに限り、三点は一直線になる」

「円周上じゃなかったら?」

「三点はばらけて三角形になる。一直線には絶対並ばない」理玖はメロンソーダで唇を湿した。「面白いのはここからだ。お前の話を整理すると、お前は相手の外接円に自分が『乗った』ときだけ、相手の倒れる線が見えてる。つまりその線は、相手の性質であると同時に、お前の立ち位置の性質でもある。同じ相手でも、お前が円周上のどこに立つかで、シムソン線は全部違う向きになる」

「……つまり?」

「投げの方向は、相手が決めるんじゃない。相手とお前の位置関係が決める。circle上の点ごとに一本ずつ、無限にある。お前は毎回、無限の中から一本選んで投げてるんだよ。贅沢な話だろ」

 circleと言うときだけ英語になるのは、興が乗った証拠だった。

 俺の合気道は、この発見で一段変わった。

 それまでの俺は、相手の崩れ(オイラー線の折れ)を待って、そこに乗っていた。受け身の幾何学だ。シムソン線が見えるようになってからは、自分から円に乗りに行けるようになった。足捌き一つで、投げたい方向の線を選べる。

 秋の昇級審査で、俺は審査員の先生を二度、図らずも本気で転がしてしまい、「気の流れが良い」という、幾何学と最も遠い褒め言葉をもらった。


 十一月の頭には、柔道部との交流稽古があった。向こうのエースは九十キロの巨漢で、襟を取られたら最後、と先輩たちは脅した。組んでみると、なるほど山だった。重心は低く据わり、オイラー線は太い杭のようで、崩しがまるで入らない。力比べになったら瞬殺だ。だから俺は崩すのをやめて、足捌きだけで円周を歩いた。

 相手の外接円の上を、時計回りに、半周。山が苛立って俺を引き付けようとした、その引き手の瞬間――円に乗った俺の足元から三筋の光が落ち、線が出た。今度の線は、彼の左後ろの隅を指していた。九十キロは、九十キロぶんだけ盛大に転がった。畳が鳴って、両方の部から同時に「おお」と声が出た。あとで聞いたら、向こうの監督が八雲さんに「あの子は何ですか」と訊いたらしい。八雲さんは「うちの幾何学係です」と答えたという。

 やっぱりあの人は、全部知っている。


 その交流稽古の打ち上げの晩、会館の裏でボヤがあった。守る会の立て看板が焦げただけで、火は見回り中の常盤さんがすぐに消し止めた。煙草の不始末だろうと皆は言ったが、常盤さんだけは「あそこは吸い殻の落ちる場所じゃないよ」と首をひねっていた。

 折しも市の取り壊し計画は揉めに揉めて延期が決まったばかりで、夜間の見回りは一回から二回に増えた。俺たちはといえば、稽古帰りに「燃えたら河川敷だなあ」などと呑気に言い合っていた。

 これがどれほど呑気だったかは、すぐに分かる。


七. フォイエルバッハの円

 もう一つの発見は、冬の初めに来た。

 稽古中、組んだ相手の胸の奥――オイラー線のちょうど真ん中あたりに、小さな円が見えるようになったのだ。

 その円は不思議な円だった。

 内側の円(内心の抱く、あの家庭的な内接円)に、一点でそっと触れている。そして体の外の三つの円(傍心の従える、あの番犬みたいな傍接円)にも、やはり一点ずつ、外から触れている。内と外、合わせて四つの円すべてと、ちょうど一点ずつで接している小さな円。

「九点円。フォイエルバッハの円だよ」

 理玖の声が、珍しく上ずった。

「各辺の中点が三つ。各頂点から下ろした垂線の足が三つ。垂心と各頂点を結ぶ線分の中点が三つ。意味の違う九つの点が、全部、一つの円の上に乗る。それが九点円だ。半径は外接円のちょうど半分。中心はオイラー線上で、外心と垂心のど真ん中」

「で、その円が、内接円と傍接円に触ってるように見えるんだけど」

「見えてるんじゃなくて、接してるんだ。フォイエルバッハの定理。一八二二年、フォイエルバッハが証明した。九点円は、内接円に内接し、三つの傍接円すべてに外接する。それぞれの接点は一点ずつ、きっかり一点ずつだ。内接円との接点は特別にフォイエルバッハ点と呼ばれてる」理玖は一度言葉を切った。「初等幾何で一番美しい定理だと、俺は思ってる。証明を初めて読んだ夜は眠れなかった」

「眠れよ」

「重さの中心の系譜(オイラー線の住人たちだ)と、距離の心(内心と傍心)は、本来別の世界の住人なんだよ。オイラー線に内心は乗らない、って話をしたろ。交わらないはずの二つの世界が、九点円の上でだけ、一点ずつ、触れてる。内と外をつなぐ唯一の円だ。これが美しくなかったら何が美しいんだ」

 俺は、その「触れている一点」を稽古で試した。

 組んだ瞬間、相手の九点円が内接円と接するあたり――フォイエルバッハ点に、触れるか触れないかの強さで手を添える。それだけで、相手は不思議なほど抵抗なく崩れた。

 力の通り道が消える、と受けを取った先輩は言った。畳が消えた感じ、とも言われた。

 フォイエルバッハ点は、いわば内側の世界と外側の世界の関所だ。そこを押さえられた体は、内で踏ん張ることも、外に逃げることもできなくなるらしい。

 八雲さんは、俺の技を「柔らかくなった」と評した。

「以前のお前の技は、正しい場所に正しく届く矢だった。いまは、水だ」

「水、ですか」

「相手の内と外の境目にだけ、流れ込んでる」

 この人はたぶん、見えていないだけで、全部知っている。俺はそう思った。

 十年単位の稽古は、幾何学の見えない人間を、幾何学そのものに変えるのかもしれない。だとしたら俺の眼は、近道だ。近道で着いた場所の景色が、歩いて着いた場所と同じとは限らない――そういう不安を、このころの俺はまだ、言葉にできずにいた。


八. 目を閉じる稽古

 八雲さんに言われていた「目を閉じる稽古」を、一度だけ真面目にやった時期がある。フォイエルバッハ点の発見で、俺の天狗の鼻がいちばん伸びていたころだ。

 結論から言えば、散々だった。

 手ぬぐいで目隠しをして、受けを取る。相手は小田島さん。六十二歳、技は朴訥、オイラー線は部で二番目にまっすぐの人だ。

 さて組んだ瞬間から、俺は何も分からなくなった。点も線も、いつもどおり灯っているのだろう。だが瞼を塞がれていては、その光のひとつも目に届かない。目隠しの俺に残されたのは、手のひらの接点と、畳を踏む足裏と、自分の呼吸だけだった。

 一本目、俺は投げられたことにも気づかなかった。気づいたら畳の匂いがしていた。

「葛西くんは、目で見ようとしすぎだねえ」と小田島さんはのんびり言った。「わしらは三十年かけて、見るのをやめるんだけども」

 二本目も三本目も、十本目も、結果は同じだった。屈辱というより、恐怖に近かった。俺の合気道は全部、見えることの上に建っていた。シムソン線も、フォイエルバッハ点も、目を塞がれれば、ない。床を抜かれた家みたいに、俺の一年半がまるごと宙に浮いた。

 稽古の後、八雲さんは、目隠しのまま正座している俺の前に座った。

「怖かったか」

「……怖かったです」

「なら今日は収穫だ」師範代の声は、いつもより少しだけ近くから聞こえた。「葛西。お前の眼が何を見ているのか、私は知らんし、訊かん。だが、どんな眼でも、いつかは曇る。歳でも、怪我でも、ただの暗闇でもだ。だから皆、見えているうちに、見えているものを覚える。記憶は眼の一部だぞ。むしろ、いちばん長持ちする部品だ」

「覚える……」

「お前は相手の崩れを、何百回も見てきたはずだ。なら目を閉じても、手のひらの感触から、あの『見えていたもの』を思い出せる。照合しろ。見える日の稽古を、見えない日のための貯金にしろ」

 言われたことの意味は、分かった。分かったから、二週間だけ続けた。

 二週間目の最後の日、小田島さんに目隠しで組まれて、一瞬だけ――ほんとうに一瞬だけ、手のひらの向こうに、あのまっすぐなオイラー線が「見えた」気がした。光じゃない。記憶が、接点の感触に重なって灯った、残像みたいなものだった。

 へえ、と思った。いけるかもしれない、と思った。

 そして、やめた。

 言い訳はいくらでもある。期末が近かった。バイトのシフトが増えた。美晴と会う約束が続いた。

 けれど本当の理由は、もっと単純で、もっと格好悪い。目隠しの稽古は、見える稽古の百倍疲れて、百分の一しか進まなかったからだ。見えるのに、わざわざ見えない練習をする。それは、近道を知っている人間には、いちばん難しい修行だった。

 貯金は、だから、ほんの小銭で止まっている。

 そのことを俺がどれだけ悔やむことになるかは――まあ、順番に話す。


九. 薬と恋

 十一月、風邪をひいた。

 たかが風邪だ。俺は薬局で市販の総合感冒薬――抗ヒスタミン入りの、眠くなるという注意書きのあるやつ――を買い、朝食のあとに二錠飲んで、一限の講義に出た。

 教室に入った瞬間、立ちすくんだ。


 顔が、見えた。

 教室いっぱいの、顔、顔、顔。寝ぐせの男の眠そうな顔。前列で笑い合う女子二人の顔。教壇でマイクを叩く佐伯先生の、思ったより若い顔。一年半ぶりに見る「人間の顔」の洪水に、俺は出入口で棒立ちになり、後ろの誰かに舌打ちされた。舌打ちした奴の顔も見えた。見えてしまえば、なんてことのない、気の弱そうな顔だった。

 二限のあと、トイレの鏡の前に立った。一年半ぶりに見る俺の顔は、思っていたより眉が太く、思っていたより母に似ていた。なるほど、これが毎朝俺の歯ブラシを使っていた男か。しばらく睨み合ってから、ためしに笑ってみた。鏡の中の男は、ぎこちなく笑った。お互い、久しぶりだから仕方ない。

 理玖の顔は、思ったより目つきが悪かった。

「なんだよ」

「いや……お前、近頃はそんな顔してたんだなと思って」

「は?」事情を察した理玖は、講義そっちのけで俺の瞳孔やら脈やらを観察し、結論した。「抗ヒスタミン薬だな。脳のどこかで何かが阻害されて、配線が一時的に元に戻ってるんだろう。雑な説明だが、雑な説明しかできん。で――点は?」

 点は、消えていた。

 一つ残らずだ。理玖の胸の定規みたいな四つの光も、机の上のペットボトルの重心も、何もない。世界はただの、顔と色と形でできた、普通の世界だった。

 一年半ぶりの普通は、酔いそうなほど情報量が多くて、そして妙に、のっぺりして見えた。中心のない世界は、どこを掴んでいいのか分からない世界でもあった。


 午後の稽古で、俺は白帯の一年に投げられた。

 オイラー線が見えない。円が見えない。フォイエルバッハ点が見えない。相手はただの「動く人体」で、俺の手は接点で迷子になった。見切りだけ三段クラスの男は、見切りを失えば、ただの茶帯だった。八雲さんは何も言わず、ただ稽古の後で「目を閉じる稽古、しているか」とだけ訊いた。していなかった。

 薬の効果は、だいたい六時間で切れた。夕方、世界に点が灯り直したとき、俺は安堵して――安堵した自分に、少しぞっとした。

 俺はいつから、顔の見えない世界のほうを「俺の世界」と呼ぶようになったんだろう。


 ここからの話は、あまり褒められたものではない。

 俺は風邪が治ったあとも、その薬を買い続けた。もちろん毎日じゃない。乱用と言われれば返す言葉がないが、月に二度か三度、ここぞという日のためだ。


 ここぞという日とは、つまり、美晴と会う日だ。

 高架下の夜のあと、俺たちは時々ふたりで会うようになっていた。映画を観て、川沿いを歩いて、たこ焼きを十二個買って六個ずつ分けた。彼女は熱いたこ焼きを口に入れてから後悔するタイプで、俺は冷めるまで待ってから食べるタイプだった。「葛西くんは賢いんじゃなくて臆病なんだよ」というのが彼女の分析だった。当たっていると思う。

 薬を飲んだ日の俺は、彼女の顔が見える。

 初めて薬込みで会った日のことは、たぶん一生忘れない。待ち合わせの改札で、俺はまず彼女のオイラー線を探して――ないのだった、今日は――それから、こっちに手を振る女の子の顔を見た。笑うと左の頬にだけえくぼができる。まつ毛が長い。前髪を直すとき、ちょっと唇を尖らせる。記憶の中の、事故の前に遠目で見ていた「かわいい子」より、ずっとよかった。

「どしたの、固まって」

「いや。なんでもない」

 なんでもなくはない。俺は今、君の顔を見る楽しみと引き換えに、君の背骨の光を質に入れてきた。そんなこと、言えるわけがなかった。

「葛西くん、今日はなんか、普通の人みたいだね」

「普通じゃない日の俺は何なの」

「うーん……三角定規?」

 彼女は、勘がいい。


 それからの彼女は、会って三秒で当てるようになった。「今日は普通の日だ」「今日は三角定規の日だね」。当てられるたび、俺は曖昧に笑った。三角定規の日の俺が何を見ているのか、彼女は訊かなかった。普通の日の俺が、何と引き換えにそうなっているのかも、訊かなかった。訊かれたら、たぶん俺は嘘をついた。嘘をつかずに済んでいるのは、彼女が訊かないでいてくれるからだ。優しさというものは、ときどき、質問しない形をしている。

 一度だけ、三角定規の日に「ねえ、いま私、笑ってるでしょ」と言われたことがある。声でも息継ぎでもなく、ただ並んで歩いているときだった。分かった。いちばん上の点が、跳ねていたから。「笑ってる」と答えたら、「正解。……ほんとに分かるんだ」と彼女は言って、それから長いこと黙って、最後にひとこと、「葛西くんさ、それ、ずるいよ」と言った。怒っている声ではなかった。どちらかと言えば、まいったな、という声だった。


 薬のある日とない日で、俺は二人の人間だった。顔の見える日の俺は、彼女のえくぼの位置を覚え、表情から機嫌を読み、映画館で隣の横顔を盗み見る、ごく普通の、幸福な大学生だった。顔の見えない日の俺は、彼女の声と呼吸と背骨の光を読む、世界でただ一人の観測者だった。

 どっちが本物なんだろうな、と一度だけ理玖に訊いたことがある。理玖はメロンソーダを混ぜながら、こともなげに言った。

「五心の話と同じだろ。中心が一個じゃなきゃいけないなんて、誰が決めた」

 数学科のくせに、詩人のような奴だ。俺はいつものように思い、いつもより深く、救われた。

 十一月の最後の日曜には、危ない橋を渡った。

 その日は昼から美晴と約束があり、つまり俺は薬を飲んでいた。駅へ向かう途中で携帯が鳴った。八雲さんだった。市民文化祭の演武で、宮下先輩がぎっくり腰になった。代役、お前しかいない。集合は一時間後。

 断る口実は思いつかなかった。「実は今日、相手の中心が見えない日でして」が通じる世界なら、俺は最初から苦労していない。美晴に平謝りの電話を入れて(彼女は「演武って何? 見に行っていい?」と言い出し、事態をさらに悪化させた)、俺は道着を取りに走った。

 演武は、型だ。決まった相手と、決まった技を、順番に見せる。乱取りじゃないから見えなくてもこなせる――理屈ではそうだが、俺の合気道は接点の幾何学で組み上がっている。設計図なしで橋を架けるようなものだった。舞台の上で、相方の宮下先輩(腰にテーピングを巻いて、受けだけ取りに来てくれた)の腕を取りながら、俺は人生でいちばん丁寧に、いちばん何も見えないまま、技の手順をなぞった。汗が顎から落ちた。十二月も近い体育館で。


 舞台を降りたあと、八雲さんが言った。

「今日のお前は、普通の人だったな」

「……すみません」

「褒めてる。普通の人の動きで、最後まで崩れなかった。手順が体に入ってる証拠だ」それから少しだけ声を低くして、「だがな、葛西。お前の『普通じゃない日』と『普通の日』の差は、いつか埋めておけ。差が大きいまま高く積み上げると、倒れるときも、高いところからだぞ」

 客席にいた美晴は「葛西くん、なんか今日、初々しかったね」と笑った。観察眼のある人間ばかりで、嫌になる。


 十二月の最初の日曜、薬を飲んで、美晴と水族館に行った。

 大水槽の前で、彼女はガラスに手をついて、イワシの群れが渦を巻くのを長いこと見ていた。青い光が顔に揺れて、それがあんまり綺麗だったので、俺は魚を見そこねた。

「ねえ、イワシってさ、誰がリーダーなんだろうね。あんなに揃って曲がるのに」

「リーダーはいないらしいよ。隣の魚に合わせてるだけで、全体があの形になる」

「ふうん。……中心がないのに、ちゃんとかたまりで動くんだね」

 俺は彼女の横顔を見た。薬の効いた目には、ただの綺麗な横顔で、点はひとつも見えない。でも俺は知っている。見えない日の彼女の渦の真ん中に、何が並んでいるか。

 帰りの電車で、彼女は俺の肩に頭を載せて眠った。窓に映る自分の顔を、俺はまだ少しだけ他人みたいに眺めた。幸福だった。幸福で、薬の切れる時刻を、頭の隅でずっと計算していた。

 その週のファミレスで、理玖には釘を刺された。

「その薬、月に何回飲んでる」

「……二、三回」

「箱の用法を超えてないなら、まあいい。でも湊、一個だけ言っとく」理玖は珍しくメロンソーダを混ぜずに言った。「お前は『見える日の自分』と『見えない日の自分』を切り替えてるつもりでいるだろ。切り替えってのはな、回数を重ねるほど、境目が雑になる。鈍角がある日突然来るんじゃない。直角を少し超えるところから始まるんだ」

「何の話だよ」

「角度の話だよ」と数学科は言った。「全部、角度の話だ」


 このときの俺は、笑って流した。一週間後の自分が、薬の切れ目のたった数分を境に、生死の側に立たされるとは知らずに。

 ただ――これだけは言い訳させてほしいが――俺は、薬で顔を見た夜に彼女を好きになったわけじゃない。順番は逆だ。

 顔の見えない世界で、声と歩幅と息継ぎだけで、俺はとっくに手遅れだった。薬は答え合わせをくれただけだ。その答え合わせが、ひどく甘かっただけで。


幕間. 遠野美晴のノート

 はじめて葛西湊を見たのは、入学式の日だ。本人は知らない。

 講堂の長い列で、私の二つ前に並んでいた彼は、式のあいだじゅう、パンフレットの校章を飽きずに眺めていた。変な人、と思った。それだけだった。語学のクラスで一緒になって、何回か班も一緒になって、感じのいい人、に格上げになった。その夏に、彼は事故に遭った。

 千羽鶴は、クラスで折ったのを私が届けただけだ。病室の彼は私を見て、あからさまに「どちらさまですか」の顔をした。遠野です、語学一緒の、と言ったら、ものすごく困った声で謝られた。顔が分からなくなったんだ、誰の顔も。そう打ち明けられたとき、不謹慎だけど、私はちょっとだけ思ってしまった。――じゃあ、私がこの人の前でかわいい顔をしても、もう無駄なんだ。

 そう思うと、自分でも意外なほど、さみしい気持ちになった、けれど。

 復学した彼は、私の声で私に気づく。それも、たぶん本人が思っているより半秒早く。

 廊下の反対側で友達と話していても、こっちを向く。それに、あるとき試しに、声を出さずに近づいてみたら、彼は私が「おはよ」を言う前に「おはよう、遠野さん」と言った。なんで分かったの、と訊いたら「歩き方」と言われた。歩き方。私は自分の歩き方なんて、生まれてから一度も考えたことがなかった。

 この人は、私の顔を覚えられない代わりに、私が自分でも意識していない私のことを、どんどん覚えていく。笑う前に息を吸う癖(言われて初めて知った)。たこ焼きで毎回火傷すること。怖いとき、声が半音上がること。――高架下のあの夜、私は本当に怖かった。でもいちばん憶えているのは、男たちの怖さじゃなくて、葛西くんの声がまったく震えていなかったことと、その平坦な声を聞いた瞬間、なぜか泣きそうになったことだ。

 彼には、たまに「普通の人」の日がある。

 そういう日の彼は、よく私の顔を見る。

 びっくりするくらい見る。

 映画より私の横顔を見ていた日もある(気づいてないと思っているのが、おかしい)。

 その日の彼は、ちょっとおしゃべりで、ちょっと無防備で、それから帰り際にだけ、すこし寂しそうにする。理由は訊かないことにしている。ただ、なんとなく分かっている。あの日の彼は、何かと引き換えに、私の顔を見ている。

 ためしてみたことがある。三角定規の日(彼のいないところでは、そう呼んでいる)に、思いっきり変な顔をして隣を歩いた。彼は気づかなかった。普通の日に同じことをしたら、三秒で「何やってんの」と笑われた。

 だから私は知っている。私の変な顔を知っているのは普通の日の彼だけで、私の歩き方を知っているのは三角定規の日の彼だけだ。私はどうやら、二人の男の子と同時に付き合っているらしい。手をつないだことがあるのは、二人ともだけど。

 どっちの彼が好きかと言われたら、困る。

 私の顔をまっすぐ見る彼も、私の息継ぎを聞いている彼も、同じくらい、たぶん同じひとりだからだ。中心がひとつじゃないものなんて、世の中にいくらでもある。イワシの群れだって、あんなにきれいに泳いでいる。

 ひとつだけ、確かなことがある。

 葛西くんがいつかみたいに「できるな?」と訊くとき、私はたぶん、どんな無茶でも「できる」と答える。そういうふうに、私はもう、なってしまっているみたい。


十. 燃える夜

 十二月の第二土曜。美晴と映画の約束があったから、俺は昼の十二時に薬を飲んだ。

 効き目はおよそ六時間。

 映画を観て、早めの夕飯を食べて、駅で別れて――そこまでで五時間半。我ながら完璧な工程表だった。

 完璧じゃなかったのは、別れ際の彼女の一言だ。

「私、文化会館寄ってくね。部室に楽譜忘れちゃって。明日の朝、貸スタジオ直行だから今日中に要るんだ。鍵当番だから入れるし」

 彼女の軽音サークルの部室は、うちの道場と同じ、あの木造三階建ての三階にある。

 じゃあ月曜に、と手を振って、俺は反対方向へ歩き出した。五十メートルも行かないうちに、なんとなく、引き返した。理由は今でも説明できない。点も線も見えない夜だったのに。

 あとになって、何度もあの引き返した数十秒のことを考える。薬で全部が消えていたはずの夜に、俺を回れ右させたものは何だったのか。

 理玖なら「無意識の情報処理」と言うだろうし、八雲さんなら「稽古」と言うだろう。美晴は「愛じゃない?」と言って、俺が黙ると勝ち誇った。たぶん、全員正解でいいのだと思う。中心は一個じゃなくていい。それがこの一年半で俺が学んだ、いちばん大切なポイントだ。


 角を曲がったところで、灯油の匂いがした。

 ボヤ、という言葉が頭をかすめた。違う。ボヤは、これからだった。

 文化会館の裏手、非常階段の下の暗がりに、男がしゃがみこんでいた。

 足元にポリタンク。

 手にライター。

 壁際に積まれた古い座布団や立て看板の山が、もう黒く濡れて光っていた。

「おい!」

 考えるより先に声が出た。男が、ゆっくり振り向いた。

 顔が――見えた。


 よりにもよって今夜の俺には、顔が見える。歪んだ口元。据わった目。生まれて初めてまともに見る「敵意の顔」というものは、二十一個の光なんかよりよほど怖かった。膝が笑うとはこのことか、と他人事みたいに思った。

 顔の見える世界の俺は、ごく普通の大学生なのだ。ごく普通の大学生は、放火犯と対峙したりしない。

「見たな」

 男はライターをポケットに落として、突っ込んできた。

 俺は手首を取ろうとして、失敗した。重心が見えない。円が見えない。オイラー線も、フォイエルバッハ点も、何もない。相手はただの「大きくて速くて敵意のある肉体」で、俺の手は虚しく袖を掠った。それでも演武で叩き込んだ手順だけが、辛うじて俺を生かしていた。

 考える前に半身が出る。死なない角度に、顔が逃げる。普通の人の動きで、最後まで崩れなかった、あの夜の貯金だ。それでも頬に一発もらい、口の中に鉄の味が広がった。二発目は脇腹だった。息が詰まる。目を閉じて受けを取れ、という八雲さんの声が、今さら頭の奥で響いた。

 見えなくなったときの稽古もしておけ。

 二週間でやめた、あの貯金は小銭のままだった。俺は近道しか歩いてこなかった。

 蹴られて、座布団の山に突っ込んだ。男がポケットを探り、ライターを擦る音がした。

 ぼ、と世界が橙色になった。

 座布団の山が燃え上がり、炎は思ったより速く、壁を舐め始めた。男は自分のつけた火に一瞬怯み、それから逃げ際に俺を始末する気になったらしく、倒れた俺に馬乗りになって、首に手をかけてきた。

 視界が狭くなる。炎の熱が頬にくる。ああ、薬なんて飲むんじゃなかった、と思った。せっかく九死に一生を得た命だってのに、これではあんまりじゃないか。


 ――そのとき。

 男の胸の奥で、ぽ、と光が灯った。

 一つ。二つ。三つ、四つ。そして体の外に、三つ。

 六時間が、経ったのだ。

 後遺症が「復活」した。我ながら妙な表現だと思う。

 障害が戻ってきて、これほど嬉しかった人間は、医学史上そういないだろう。世界に光が戻った。中心が戻った。俺の世界が、戻ってきた。

 男の重心は馬乗りで思いきり前のめり、垂心は俺の顔の上の空中まで飛び出し、オイラー線は安物のハンガーどころか、踏まれたモールみたいにぐちゃぐちゃだった。こんなに崩れた三角形は、一年半で初めて見た。傍心の一つが、男の右肩の向こうで、来い来いと揺れていた。

 お言葉に甘えて、俺は腰を浮かせ、首にかかった腕ごと、男をそこへ導いた。


 男は今夜一番、大げさに飛んだ。

 受け身も知らない体が床で伸びたところへ、騒ぎを聞きつけた警備員さんが駆けつけて折り重なった。お手柄は警備員さんに譲る。俺にはもう、どうでもよかった。

 火は、人間より速かった。

 古い木造はあっという間だった。俺が警備員さんに男を引き渡し、消防に通報が飛び、野次馬が集まり始めたときには、裏手の壁一面が炎の幕になっていた。サイレンはまだ遠かった。

 ポケットで携帯が鳴った。

『葛西くん!? いま外? なんか下が騒がしくて、廊下見たら煙が――』

 全身の血が、足元に落ちた。

 美晴。三階。楽譜。鍵当番。

「美晴、聞け。いまどこだ」

『部室。ドア開けたら廊下、煙すごくて……階段まで行けない。裏の非常階段の鍵しか持ってないのに、裏が一番燃えてる』

 俺は建物の正面に回って、飛び込もうとして、熱気の壁に弾き返された。無理だ。一階のロビーはもう、空気が燃えていた。表側の階段は防火扉が閉まっているのか、煙が渦を巻いている。消防はまだ来ない。はしご車など、もっと来ない。

 落ち着け。

 俺は三歩下がって、燃える建物の全体を見た。見るしかなかった。俺にできることは、いつだって、見ることだけだった。

 ――見えた。

 建物にも、あったのだ。中心が。

 三階建ての木造の総体に、ぼんやりと巨大な光の点が浮かんでいた。一つじゃない。骨組みの崩れはじめた今、建物は「整った箱」をやめて、歪んだ巨大な三角形になりかけていた。

 火に食われた裏手が軽くなり、点は刻一刻と動いている。重心が、裏へ――燃え落ちる側へ、ずるずると引かれていく。このまま行けば、建物は裏向きに座り込むように崩れ、燃えた壁と屋根が、裏の非常階段ごと、三階の床を巻き込んで落ちる。彼女のいる部屋ごと。

 でも。

 正面玄関の脇に、太い化粧柱があった。半分焦げて、それでもまだ、建物の表側を頑固に支えている大黒柱。その柱に、光の筋が通っているのが見えた。動き続ける建物の重心と、屋根の上の空中に飛び出した垂心とを結ぶ――建物のオイラー線、と呼ぶしかないものの端っこが、その柱を貫いていた。

 この柱が突っ張っているから、建物は「表が高く、裏が低い」歪な三角形のまま、裏へ崩れようとしている。

 なら、逆だ。

 この柱を折れば、建物の垂心は一気に表へ振れる。重心は、まだ燃えていない表側へ滑る。崩落の向きが、変わる。表の外壁が――壁だけが――床より先に、ゆっくりこちらへ倒れる。倒れた壁は、三階から地上への、巨大な滑り台になる。

 直感、と呼ぶには鮮明すぎた。一年半、傍心へ人を投げ続けた手応えの全部が、行ける、と言っていた。フォイエルバッハ点に触れて人を崩してきた指先が、建物にも関所はある、と言っていた。

 電話の向こうの彼女に、俺は言った。

「美晴。表側の窓のそばに行って、姿勢を低くしてろ。これから壁がそっちに倒れる。倒れ終わったら、壁の上を、裏じゃなく表に向かって降りろ。できるな」

『……できる。葛西くんは?』

「俺は幾何学をやる」

 野次馬のロープを跨ぎ、消防用の格納箱から斧を引き抜いて、玄関脇へ走った。熱い。煙が肺を刺す。目の前の柱には、光の筋が通っている。その筋の真ん中――焦げて細った一点が、押さえてくれと言わんばかりに光っていた。攻めるべき接点が見えているのなら、それはもう、いつもの稽古と同じだった。

 正面打ち。一撃。二撃。

 三撃目で、柱は乾いた悲鳴を上げて折れた。

 建物全体が、ぐらりと表へ傾いだ。巨大な重心が、ずん、と表側へ滑り込むのが見えた。外壁が、めきめきと音を立てて、床より先に、ゆっくり――俺の読みどおりに――手前へ倒れてくる。


 土埃と火の粉の向こう、傾いた壁の上を、煙にまみれて駆け降りてくる小さな人影が見えた。

 顔は、見えない。

 でも、胸の奥の四つの光が、よくしなる枝みたいに並んで、まっすぐこっちへ向かってくるのが見えた。世界中で俺しか知らない、彼女の背骨の光だった。

 駆け寄ろうとして、膝が落ちた。煙は、思っていたよりずっと深く、肺に入っていたらしい。地面がぐるりと回った。遠くでようやくサイレンが聞こえ、誰かが俺の名前を呼び、世界は端から順番に暗くなっていった。最後まで残ったのは、こっちへ走ってくる、あの四つの光だった。

 なんだ、と思った。すぐに分かるもんだな、顔なんて、なくたって。

 俺の視界は、煙と同じ色になった。


十一. 正三角形

 白い天井だった。

 二度目ともなると、ああ病院か、と分かる。煙を吸って三日眠っていたらしい。喉の奥は、まだうっすら焚き火の味がした。

 枕元で、誰かが寝息を立てていた。ベッドに突っ伏して、握った俺の手を離さないまま。

 その顔が、見えた。

 左の頬の、えくぼの位置まで。

 薬は、もちろん飲んでいない。点滴の成分も後で確かめたが、関係のあるものは入っていなかった。試しに床頭台のコップを見た。光はない。ただの水の入った、ただのコップ。窓の外のビルにも、点滴スタンドにも、眠っている彼女の胸の奥にも、光は一つもなかった。

 主治医は(一年半ぶりに「顔」で会う主治医は、声から想像していたより眉毛の太い人だった)こう言った。

「二度目の衝撃と一酸化炭素が、結果的に良い方向に働いた可能性はあります。が、正直に言って、分かりません」

 医者というのは、まったく正直な生き物だ。

 美晴が目を覚まして、俺が起きているのに気づいて、泣いて、笑って、それからすごく怒った。順番が彼女らしかった。

 怒りの内容は主に「俺は幾何学をやる、じゃないでしょ。意味わかんないのよ」だった。

 ごもっともだ。


 建物は半焼、怪我人は俺一人、放火犯はあの夜のうちに警備員さんの下敷きのまま御用となった。男は会館の元設備員で、取り壊し騒動のごたごたで雇い止めになった逆恨みだったと、後で新聞で読んだ。秋のボヤも男の仕業だった。吸い殻の落ちる場所じゃない、と言った常盤さんの鼻は正しかったのだ。新聞の顔写真を見ても、もう怖くなかった。気の弱そうな、ただの顔だった。

 八雲さんは見舞いに来て、「道場が焼けたから、しばらく河川敷で稽古だ」とだけ言って帰った。達人は荷物が軽い。帰り際、思い出したように振り返って、一言。

「葛西。目を閉じる稽古、今度こそやれよ。お前はもう、見えていたときの自分を知ってる。なら、見えなくても辿れる」

 会館はといえば、皮肉なことに半焼したことで取り壊し計画が白紙になり、補修して残す方向で話が進んでいるらしい。守る会の人たちは「燃えたから残る」という斜め上の決着に複雑な顔をしながら、それでも新しい署名簿を回している。小田島さんが見舞いに持ってきたから、ベッドの上で俺も書いた。二枚目だ。


 退院の前の晩、理玖が来た。ファミレスじゃないのにメロンソーダを二本買ってきた。病室にドリンクバーはない。

「で、もう見えないのか。五心」

「見えない。合気道、白帯からやり直しかもな」

「惜しいことをしたな、人類は」理玖は本気で残念そうに言ってから、ノートを一枚破り、ボールペンで三角形を描いた。「最後に一個だけ、講義しとくよ。お前、入院中うわごとで言ってたろ。『俺は三角形を見てるのか、人間が三角形なのか』って」

「言ってないだろ、二回目の入院では」

「一回目で言ってたんだよ。見舞いに来た俺の身にもなれ」理玖はペン先で、描いたばかりの三角形をつついた。「答えはどっちでもいい。ただ、これだけ覚えとけ。どんなに歪んだ三角形にも、五つの心が必ずある。重さの中心。釣り合いの中心。高さの交わる点。外から支える三つの点。それから――」

「内心」

「そう。辺からの距離だけで決まって、オイラー線にも乗らない、独立独歩の心だ」理玖はメロンソーダの蓋を開けた。「で、どんな三角形も、正三角形に近づくほど、五心は互いに近づいていく。完全に整ったとき、全部の心は一点で重なって、線は消える。――ま、現実の三角形は絶対そうならないんだけどな。誤差ってもんがある」

「ならないのに、近づくのか」

「ならないが、限りなく近づくんだよ」理玖はこともなげに言った。「極限ってのは、そういう商売だ」

 俺は、ノートの上の、もう光らない三角形を見た。

 見えなくたって、あるのだ。そこに。理玖にも、八雲さんにも、廊下の看護師さんにも、隣のベッドのじいさんにも、新聞の中の放火犯にさえ。みんな歪んで、みんな七つの心を抱えて、誰のオイラー線もそれなりに折れ曲がって、それでも正三角形のほうへ、少しずつ。


 退院の二日前には、外出許可をもらって、河川敷の稽古に顔だけ出した。道着がないので見学のつもりだったが、八雲さんは俺を呼んで、手ぬぐいを一本、投げてよこした。意図は明白だった。目隠しをして、川風の中に立つ。組んでくれたのは小田島さんだった。何も見えない。光も、ない。ただ、手のひらの接点の向こうに、覚えのある「まっすぐさ」が、記憶の底でかすかに灯った。貯金の小銭は、ゼロじゃなかった。

「続けます」と俺は言った。今度は、本当に続けるつもりだった。


 翌朝、迎えに来た美晴と病院を出た。十二月の空は薄青く、彼女は俺の右隣を歩いた。

「ねえ。退院祝い、何がいい?」

「たこ焼き。十二個入りを六個ずつ」

「七対五でもいい? 私お腹すいた」

「いいよ。君は俺の傍心だからな」

「なにそれ」

「外にいるのに、俺の一部ってこと」

 彼女は三秒黙って、それから、息を小さく吸ってから笑った。えくぼが、左の頬に見えた。手をつなぐと、ちょうど二人の間の、どちらのものでもない空中に、何かの中心がある気がした。見えないけれど、確かにある。これからの俺は、ずっとそういうものたちと生きていく。


 ポケットには、理玖の置き土産が入っている。例の、ボールペンで三角形を描いた紙切れだ。裏に小さく「X(2)」と書いてある。三角形の中心の目録で、重心に振られた番号だそうだ。お前は重心タイプだから、と理玖は言った。どっしりして、釣り合いを取って、絶対に外に出ない。「それ、内心の説明では」と指摘したら、「うるさい。紙はもう渡した」と返された。最後まで査読の通らない男だった。

 俺はもう五心の見えない、ただの葛西湊だ。でも、知っている。

 俺は三角形。

 この子も三角形。

 あいつもこいつも、みんな三角形だ。

 で、俺たちはたぶん、近づくだけで決して重ならない五つの心を抱えたまま、ゆっくり、ゆっくり、正三角形になっていく。


(了)

最後まで読んでくださってありがとう。書いてて楽しい話でした。

文章を起こすのにはAIの手も相当借りましたが、まあ現代の創作ってそういうもんでしょう。

構想や設計は、授業中の、生徒さんとの雑談がもとになっていたりします。

主人公の葛西くんとはまた別の話で会いたいような気もしています。

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