孤高の結界は裏切りを許さない
数ある作品の中から本作をお選びいただき、ありがとうございます。
拙い部分もあるかと思いますが、最後までお楽しみいただければ嬉しいです。
その日、王宮の夜会はいつにも増してきらびやかだった。
飛び交う社交辞令、美しく磨かれた大理石の床、そして耳を突き刺すような宮廷音楽。
七歳だった私は、息苦しいだけのその空間で、完全に迷子になっていた。
マリア侯爵家の長女、アリシア。それが私の名前だ。一つ上には、文武両道で完璧な自慢の兄がいる。偉大な両親と、優秀な兄。
幼い私は、自分がその完璧な家族の「お荷物」であるかのような錯覚に陥り、テラスの隅で一人、今にも泣き出しそうになっていた。
父方の祖父からいずれ男爵を私の婚姻を機に、または20歳になったら私が正式に継ぐ事になっている。領地は狭いが魔道具開発に力を入れている領地なので私は大切にしていた。幼い頃から魔道具を祖父の商会で販売しているので、爵位も上がるだろうと祖父は言っている。
「おい、お前。マリア侯爵家のアリシアだろ? なんでそんなところで泣きそうな顔をしてるんだ?」
声をかけてきたのは、同じく七歳の少年だった。
緩く波打つ金髪に、勝ち気そうな琥珀色の瞳。それが、公爵家の次男であり、私の幼馴染となるキールとの出会いだった。
「泣いてなんか、いません」
「嘘つけ。目が真っ赤だぞ。ほら、これやるよ。美味いから元気出せ」
キールが差し出してきたのは、彼がポケットに忍ばせていたらしい、小さな包み紙に包まれた砂糖菓子だった。
緊張のあまり何も喉を通らなかった私にとって、そのお菓子は驚くほど甘く、そして温かかった。
それをきっかけに、私とキールの交流が始まった。
お互いの家が近かったこともあり、私たちは毎日のように顔を合わせた。キールだけではない。近隣の伯爵家の嫡男である近衛騎士見習いのレオン、魔術師団長の息子である天才肌のシザーズ。彼らも交えた四人は、いつも一緒に過ごす、絵に描いたような「幼馴染」だった。
十歳になった時、親同士の話し合いで、私とキールの婚約が調った。
嬉しかった。私はキールが好きだった。ぶっきらぼうだけど、私が困っている時には必ず最初に手を差し伸べてくれる、私のヒーロー。
キールもまた、私の手を握り、「お前は俺が一生守ってやる」と言ってくれたのだ。
その幸せな時間は、十三歳になり、私たちが王立魔法学園に入学するまで、確かに続いていた。
「ねえ、あなたがキール様? 私、エミリ・ブラウン。男爵家から来たの。魔法のこと、よく分からなくて……教えてもらえる?」
学園に入学して間もなく、一人の少女が私たちの輪に飛び込んできた。
エミリ・ブラウン男爵令嬢。
緩く編み込んだ栗色の髪に、潤んだ大きな瞳。小柄で、いかにも保護欲をそそるような、儚げな雰囲気を纏った少女だった。
学園は身分を問わず才能ある者が集まる場所だが、そうは言っても上級貴族と下級貴族の間には見えない壁がある。しかし、エミリにはそんな壁など関係ないようだった。彼女は「純真無垢」という免罪符を盾に、驚くべき軽やかさで私たちの領域に踏み込んできた。
最初は、ただの親切心だったのだと思う。
魔力が少し珍しい属性だからと、キールたちが相談に乗ってあげているだけだと思っていた。
けれど、日は経つにつれて、何かが確実に狂っていった。
「アリシア、悪い。今日の放課後、約束してた図書室での勉強会だけど、別の日にしてくれないか? エミリが実技の授業で怪我をしちゃってさ。保健室に付き添ってやらないといけないんだ」
キールが私のために空けてくれていた時間は、いつの間にかすべてエミリのための時間へと変わっていった。
「アリシア、君は侯爵令嬢だろう。もう少しエミリに優しくしてあげたらどうだ? 彼女は下級貴族で、学園に馴染めなくて不安がっているんだ。君のように恵まれた人間に、彼女の苦しみが分かるかい?」
レオンは私を冷ややかな目で見るようになった。私はエミリに嫌がらせなど一度もしていない。ただ、彼女がキールに馴れ馴れしく抱きついているのを見て、冷たい視線を向けただけだ。それすらも、彼らにとっては「身分の高い悪役令嬢が可哀想なヒロインを虐めている」ように映るらしい。
「アリシアの魔法理論は教科書通りで退屈だね。エミリの魔法は、もっと自由で、僕に新しいインスピレーションをくれるんだ」
魔術師のシザーズまでもが、私ではなくエミリを称賛するようになった。
彼らの視線は、もう私を向いていなかった。
キールの琥珀色の瞳に映るのは、婚約者である私ではなく、いつも泣きそうな顔で彼を見上げるエミリだった。
私の心は、少しずつ、けれど確実に冷えていった。
かつて宝物だと思っていた幼馴染たちとの絆が、エミリという存在によって砂のように崩れ去っていく。
それでも私は、マリア侯爵家の長女としての誇りだけは捨てまいと、背筋を伸ばし続けた。
決定的な瞬間は、二年生の進級を控えた冬、魔法実践の課外授業の時に訪れた。
学園の裏手に広がる「魔迷宮の森」の浅い階層で、魔獣の討伐と魔力鉱石の採取を行うという、よくある実践授業だ。
班分けは、あらかじめ決められた固定のメンバー。私、キール、レオン、シザーズ、そしてなぜか特例で私たちの班に組み込まれたエミリの五人だった。
森の空気は冷たく、緊張感が漂っていた。
とはいえ、浅い階層に現れるのは、下級の魔獣ばかりだ。近衛騎士見習いのレオンが前衛に立ち、シザーズが後方から広範囲魔法で牽制し、キールが遊撃、私が全体の魔力補助と防御結界を担当すれば、傷一つ負わずに終わるはずの任務だった。
そう、「普通に」戦っていれば。
「きゃああっ!」
突然、エミリの甲高い悲鳴が森に響き渡った。
見れば、茂みから飛び出してきた一匹の「シャドウウルフ」に驚き、彼女が派手に転んでいた。シャドウウルフは下級魔獣だが、動きが素早い。だが、レオンの距離なら十分に叩き伏せられる位置だった。
「エミリ!」
キールが叫び、真っ先に彼女の元へ駆け寄る。レオンもまた、持ち場を離れてエミリを庇うように動いた。シザーズはエミリに照準を合わせている魔獣を排除しようと、慌てて大がかりな詠唱を始める。
その結果、何が起きたか。
彼らが全員、一箇所に固まったエミリの元へ群がったせいで、完全に陣形が崩れたのだ。
そして、シャドウウルフは一匹ではなかった。
エミリの悲鳴と派手な動きに引き寄せられるように、背後の茂みから、さらに三匹のシャドウウルフが音もなく現れた。
その三匹の正面にいたのは、私だった。
「キール! レオン! 背後から追加よ! 陣形を戻して!」
私は冷静に叫び、即座に防御結界を展開しようとした。
しかし、彼らの耳には私の声など届いていなかった。
「大丈夫か、エミリ! どこか痛むか!?」
「ひどく足首を捻ってる。レオン、すぐにここを離脱するぞ!」
「シザーズ、周囲の安全を確保しろ! エミリを最優先だ!」
彼らは、エミリしか見ていなかった。
私の背後に迫る魔獣の牙にも、私の警告の声にも、完全に耳を塞いでいた。
「キール! 私の方に――」
私がもう一度叫ぼうとしたその時、キールが私を振り返った。その瞳にあったのは、心配の色ではない。私に対する、明らかな「嫌悪」と「苛立ち」だった。
「うるさいぞ、アリシア! お前は侯爵令嬢で、魔力も豊富なんだろ! 自分の身くらい自分で守れよ! 今はエミリが怪我をして一刻を争うんだ、お前の我儘に付き合っている暇はない!」
胸の奥で、パキリ、と何かが割れる音がした。
我儘。
彼には、私が命の危険に晒されている状況が、エミリへの嫉妬からくる「我儘」に見えたらしい。
七歳の時、泣いていた私に砂糖菓子をくれた少年。
十歳の時、一生守ると言ってくれた婚約者。
その全てが、目の前の男の中から完全に消え失せたのだと、私は理解した。
「……分かったわ」
私はぽつりと呟いた。
その瞬間、私の展開していた防御結界の術式を、完全に「解除」した。
正確には、彼らを保護する結界を消し去り、自分一人の身を守る超高密度の個人結界へと編み直したのだ。
私を見捨ててエミリを抱きかかえ、逃げ出そうとしたキールたちの背後から、シャドウウルフが襲いかかる。
キールが私の結界を当てにしていたのだろう、背後の無警戒な隙を突かれ、シャドウウルフの鋭い爪が彼の背中を大きく切り裂いた。
「ぎゃああっ!?」
キールの悲鳴が響く。レオンもまた、予期せぬ方向からの攻撃に対応できず、腕を噛まれて剣を取り落とした。シザーズは詠唱を中断され、魔力の逆流でその場に吐血して倒れ込む。
「ア、アリシア……!? なぜ、結界を……っ!」
血を流し、地面に這いつくばりながら、キールが信じられないという目で私を見た。
私は、自分一人を完璧に守る美しい球体の結界の中から、冷ややかな目で見下ろした。
「自分の身くらい自分で守れ、とおっしゃったのはキール、貴方でしょう? ですから、私は私自身の身を守りました。侯爵家の令嬢として、不甲斐ない貴方たちの巻き添えで傷を負うわけにはまいりませんから」
「そんな……お前、俺たちを見捨てるのか……!?」
レオンが信じられないと声を絞り出す。
「見捨てたのは、どちらかしら? 陣形を崩し、仲間の警告を無視し、一人の令嬢に現を抜かして戦場を放棄した。それが貴方たちの選んだ結果です。どうぞ、その大切なエミリ様とご一緒に、そちらで持ちこたえてくださいませ」
私はそう言い残すと、一切の躊躇なく、踵を返してその場を去った。
背後から、魔獣の咆哮と、幼馴染たちの悲惨な悲鳴、そしてエミリの泣き叫ぶ声が聞こえていたが、私は一度も振り返らなかった。
当然、私は一人で平然と試験区域を脱出し、待機していた教官たちに「私の班の殿方たちが、一人の令嬢を庇って陣形を崩し、自滅いたしました」と報告した。
私のブローチには魔道具の映像記憶が盛り込まれていてそこに全てが残されている。
教官たちは色を失い、すぐに救助隊を編成して森へと突入していった。
学園の救護室は、重苦しい空気に包まれていた。
キール、レオン、シザーズの三人は、救助隊によって救出されたものの、一歩間違えれば命を落としていたほどの重傷を負っていた。特にキールは、背中に深い傷を負い、魔法治癒を施しても、しばらくはまともに動けないという。
一方、彼らが命がけで守ったはずのエミリは、軽い足の捻挫と、いくつかの擦り傷だけで済んでいた。
私は、その日の夕方にはすでに、実家であるマリア侯爵家へ事の顛末をすべて手紙で報告していた。
一つ上の兄は、私の手紙を読むなり、即座に学園へ馬車を飛ばして迎えに来てくれた。
「よく無事でいてくれた、アリシア。お前をそんな愚か者たちの巻き添えにするところだった」
兄は私の手を握り、怒りに震えながら言ってくれた。マリア侯爵家にとって、私は大切に育てられた娘だ。それを、公爵家の次男ごときがエミリという男爵令嬢のために見捨てたのだ。この事実が何を意味するか、我が家が黙っているはずがなかった。
数日後。怪我が少し落ち着いたキールから、私を救護室に呼び出す伝言が届いた。
私は断る理由もないので、兄を伴って救護室へと赴いた。
救護室のベッドに横たわるキールは、顔色が悪く、包帯だらけだった。彼の傍らには、やはり包帯を巻いたレオンとシザーズ、そして、なぜか被害者面をして目に涙を浮かべたエミリが寄り添っていた。
私と兄が部屋に入ると、キールは怒りを含んだ目で私を睨みつけた。
「アリシア……! よくもあんな真似をしてくれたな! お前が結界を解いたせいで、俺たちは死にかけたんだぞ! 婚約者として、そんな冷酷なことがよくできるな!」
レオンもそれに続く。
「そうだ、アリシア! 君のせいで僕たちの騎士としてのキャリアに傷がついた! 君がエミリに嫉妬するあまり、僕たちを嵌めたんだろう!」
シザーズは冷淡を装おうとしているが、その目は憎しみに満ちていた。
エミリにいたっては、「私のせいでみんなが……アリシア様、怒らないで、私が悪いの……」と、健気な悲劇のヒロインを演じている。
彼らの言葉を静かに聞いていた私は、ふっと深くため息をついた。
あまりの愚かさに、怒りを通り越して憐れみすら覚える。
「相変わらず、ご自分たちの状況がまるで見えていらっしゃらないのね」
私が冷たく言い放つと、キールが眉を跳ね上げた。
「なんだと!?」
「まず、キール。貴方は私を『婚約者』と呼びましたが、それは本日をもって終了いたします。こちら、我がマリア侯爵家と、貴方の実家である公爵家との間で、正式に受理された婚約破棄の証明書です」
私は懐から、公的な魔力刻印が押された書類を取り出し、キールのベッドの上に放り投げた。
「な、に……? 婚約破棄……!? 親父が、そんなことを認めるはずが……」
「認めざるを得なかったのですよ、キール・公爵令息」
私の後ろから、兄が一歩前に出た。その圧倒的な威圧感に、キールたちは息を呑む。
「お前たちが森で行った醜態は、すべて教官たちの調査によって記録されている。陣形の勝手な放棄、上級貴族であり班の主軸であるアリシアに対する不当な暴言、そして任務の完全な私物化。公爵家当主である閣下は、お前の愚行を知り、我が家に平伏して謝罪されたよ。そして、このような出来損ないをアリシアの夫にするわけにはいかないと、即座に婚約破棄に同意された」
「そんな……っ!」
キールの顔から、一気に血の気が引いていく。
彼は公爵家の「次男」なのだ。マリア侯爵家の長女である私との婚約があったからこそ、将来の地位や基盤が約束されていた。私との婚約が破棄され、さらにその原因が自身の不祥事となれば、彼にはもう何も残らない。
「そして、レオン様、シザーズ様。貴方方のご実家にも、我が家から正式に抗議文を送らせていただきました。近衛騎士団、および魔術師団へも、今回の事件の報告書が提出されています」
私の言葉に、レオンとシザーズがガタガタと震え出した。
「ま、待ってくれ! 僕はただ、怪我をしたエミリを……」
「そうだよ、人道的に、弱い者を助けるのは当然だろう!」
「弱い者を助けるために、班の要である私を見捨て、結果として任務を失敗させ、全員が重傷を負う。それが貴方たちの言う『人道的』な行為ですか? 騎士団も魔術師団も、そのような私情で戦場を放棄する人間を求めてはいませんわ」
私は冷酷に告げた。
レオンの騎士団入団の内定は取り消され、シザーズも魔術師団での将来の出世コースから完全に外されることが、すでに決定していた。
「キ、キール様……どうしちゃったの……? 私、どうすれば……」
事態の深刻さをようやく理解したのか、エミリがガタガタと震えながらキールの腕にすがりついた。
しかし、これまでは優しく彼女を抱きしめていたはずのキールの手は、エミリを乱暴に突き放した。
「うるさい! 触るな!」
「きゃっ!?」
エミリが床に転がる。キールは激しい憎悪の目でエミリを睨みつけていた。
「お前のせいだ……! お前が、あんなところで無様に転んだりするから、俺は……! お前さえいなければ、俺はアリシアと婚約したままで、公爵家での立場も守られていたんだ!」
「そんな……キール様、私を好きだって言ってくれたじゃない……!」
エミリは涙を流してレオンとシザーズを見るが、二人とも彼女から目を逸らした。
彼らにとって、エミリは「守ってあげたい可哀想な可愛い女の子」だったからこそ価値があったのだ。自分たちの輝かしい未来を叩き潰した元凶となった今、彼女はただの「疫病神」でしかなかった。
「醜いですわね」
私はその光景を見つめながら、クスリと笑った。
「エミリ様。貴方は確かに、男性の保護欲をそそるのがお上手でしたわ。でも、貴方が依存していた彼らの輝きは、すべて実家の権力と、私という婚約者が後ろ盾にいたからこそ成り立っていたものです。中身の伴わない彼らから全てが剥ぎ取られた今、貴方はその何も残っていない彼らを、一生支えて差し上げたらよろしいのではないかしら?」
「あ、アリシア……頼む、悪かった! 俺が間違っていたんだ! だから、婚約破棄だけは考え直してくれ! お前が好きなんだ、あの七歳の時からずっと……!」
キールがベッドから身を乗り出し、必死に私のスカートの裾を掴もうとする。その琥珀色の瞳にあるのは、私への愛などではなく、ただの保身と執着だった。
私は一歩下がり、彼の汚れた手が私に触れるのを避けた。
「七歳の時の約束を裏切ったのは、貴方です、キール。さようなら。もう二度と、私の前に現れないで」
私は背を向け、兄と共に救護室を後にした。
背後から、キールの絶望的な叫び声と、レオンたちの言い争う声、そしてエミリの泣き叫ぶ声が響いていたが、今度の私の心は、驚くほど晴れやかだった。
その後、キールは公爵家から勘当され、辺境の危険地帯にある開拓地へと送られたという。魔法の腕も、傷ついた背中のせいで全盛期には程遠く、毎日泥にまみれて労働に明け暮れているそうだ。
レオンとシザーズも、実家から冷遇され、平民以下の扱いを受ける落ちぶれた生活を送っていると聞いた。
エミリはといえば、後ろ盾を失ったことで学園を退学させられ、実家の男爵家からも「お前のせいで上級貴族に目を付けられた」と激怒され、年老いた地方領主の元へ無理やり嫁がされたらしい。
一方、私は。
学園を優秀な成績で卒業し、マリア侯爵家の名に恥じぬ立派な魔導具開発の分野で大きな成果を上げている。
隣には、私の才能を正当に評価し、心から愛してくれる新しい婚約者がいる。
かつて私を見捨てた彼らが、いまどんな地獄にいるのか、私はもう知る由もないし、興味すらない。
私は私の人生を、私の力で、最高に輝かせていくのだから。
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