竜骨時計師と十三番目の鐘
ミラ・ノルトは、薬缶の腹に耳を押し当てていた。
薬缶は怒っていた。
正確には、怒っているような音で鳴っていた。中の小さな歯車が、かち、かち、こち、と半拍ずつ拗ねている。水を沸かすための火の輪が底板の裏で不機嫌に震え、蒸気孔から白い息を細く吐いた。
ミラは作業台に頬を乗せ、細い鉄針をそっと差し込む。
「そこ……そこです。違います、そっちじゃなくて。あなた、今わざと外しましたね?」
薬缶の中で、こち、と音がした。
「よし。えらい。わたしより素直です」
「薬缶に負けるな!」
棚の上から、真鍮の火蜥蜴が首を伸ばした。尾の先に小さな青い火が灯っている。
「古い英雄譚なら、ここで職人は『ついに完成だ!』と叫ぶ」
「叫ぶと部品がびっくりします」
「人間より部品を気遣うな」
「部品は急に依頼を持ってきませんから」
「恨みが深いな!?」
ミラが鉄針を抜いた瞬間、背後で何かが黒くなった。
パンである。
朝食のパンが、暖炉の網の上で見事に炭へ近づいていた。
「あっ」
「今度はパンが反乱したぞ!」
「反乱じゃないです! これは……えっと、熱意の行き過ぎです」
「王都では焦げと呼ぶ」
ミラは慌ててパンを掴もうとして、熱さに指を引っ込めた。
「あつっ」
「英雄、初手で朝食に敗北」
「実況しないでください……」
指先がじんと痺れる。薬缶から立つ湯気は歯車草の苦い匂いを含んでいて、焦げパンの匂いと混ざると、人生の失敗を煮詰めたような香りになった。
朝から縁起が悪い。
だが、ミラ・ノルトの日常はだいたいこんなものだった。
山裾の小さな工房。壁一面の歯車。吊るされた古時計。作業台の下に転がるネジ。暖炉の脇で偉そうに腹を温める真鍮火蜥蜴のピコ。
そして、人が来ないこと。
それが一番大事だった。
ミラは人が苦手だ。初対面の人はもっと苦手だ。偉い人はさらに苦手で、偉い人が用件を持ってくる場合は、もはや天災に近い。
想像しただけで喉の奥が干からびる。
ミラは焦げたパンを皿に置き、薬缶から歯車草の煎じ湯を注いだ。濁った緑色の湯は、見た目からして健康に悪そうで、味はもっと悪い。
それでも、指の震えは少しだけましになる。
ミラが湯呑みに口をつけた時、工房の戸が叩かれた。
ごん、ごん、ごん。
湯呑みの中で煎じ湯が跳ねた。
「ひゃっ」
舌に苦味が広がる。心臓が一拍遅れて、肋骨の内側にぶつかった。
「来たぞ。天災か税吏だ」
ピコが尾の火を揺らす。
「どっちも戸口に置いて帰ってほしいです……」
「願いが雑!」
ミラは小声で答え、作業台の下に半分もぐった。
「ミラ」
「いません」
「今、床下から返事がした」
「床下の精です」
「床下の精、声が情けないな」
戸がもう一度叩かれた。今度は控えめに、しかし逃がさない硬さで。
「ミラ・ノルト殿。王都近衛隊、エルナ・ヴェルデです。緊急の依頼で参りました」
王都。
近衛隊。
緊急。
ミラの胃のあたりで、まだ起きてもいない最悪の一日が勝手に開幕した。
「王都……?」
「おい、床下の精。王都の人間は待たせると増えるぞ!」
「増えませんっ」
「貴族は増える。一人来たら後ろに三人、三人来たら書記が五人だ!」
「怖い話みたいに言わないでください!」
「だいたい怖い話だろう」
その偏見は、だいたい合っていた。
ミラは泣きそうになりながら作業台の下から這い出し、エプロンで手を拭いた。拭いたところで手汗はまた出てくるので、あまり意味はない。
戸を開けると、緑の外套をまとった女性が立っていた。
短く切った灰色の髪。左頬に古い傷。背筋は真っ直ぐで、腰の剣には無駄な飾りがない。飾り気のない人間は、たいていごまかしが利かない。
「ミラ・ノルト殿ですね」
「あ、あの、父は死んでいます!」
最初に出た言葉がそれだった。
最悪である。
「いえ、違います、父が違うんじゃなくて、死んでいるのは父で、わたしは……わたしは一応、生きています。すみません」
女性は少しだけ目を瞬かせた。
「はい。生存は確認しました」
「確認しないでください……」
「用があるのは、あなたにです」
ミラは戸板を握る指に力を込めた。
あなたに。
その言葉は、小さな針のように胸に刺さる。必要とされることは嬉しいはずなのに、ミラの場合、それはだいたい逃げ道が塞がる音だった。
エルナは懐から銀の封書を出した。封蝋には、王都アステリアの紋章。雲を抱く鐘楼と、眠る竜。
「竜骨大時計が、昨夜から逆に鳴っています」
ミラの指先が冷えた。
「……何回」
「十一回です」
「十二回目は?」
「正午。即位式の鐘として打たれます」
「だめですっ!」
ミラは思わず叫んだ。
自分の声に、自分で肩を跳ねさせる。
「す、すみません! でも、十二はまだ戻せます。十三はだめです。十三は……あの子が、起きます」
「あの子?」
「嵐竜です」
工房の中で、薬缶がかちりと正しい音を立てた。
直したばかりの音だった。
あまりにも場違いで、少しだけ腹が立った。
エルナは一度だけ、戸口の奥の薬缶を見た。
「竜は時計で寝かせているのですか?」
「寝かせているというより、寝返りを数えています」
「寝返り」
「はい。季節の拍と竜の拍をずらさないように。えっと……大きい寝台の脚に、国が乗っていると思ってください」
「十三回目で寝台が壊れる?」
「かなり乱暴ですが、だいたいそうです」
「壊れると?」
「王都が飛びます」
エルナは沈黙した。
ピコがミラの足元で首を傾げる。
「飛ぶとは詩か?」
「物理です」
「詩であってほしかった!」
まったくである。
ミラは封書を見た。王都の紋章。眠る竜。大時計。
十年前、父オルレン・ノルトが止めた時計。
その日から、父は反逆の時計師と呼ばれた。王都の白霜祭を台無しにし、鐘を止め、竜脈を乱し、三日間の霜で麦畑を枯らした男。
ミラは当時、九歳だった。
父に小さな歯車を握らされ、鐘楼の暗がりで震えていた。
ミラ、これを離すな。
父の声は覚えている。手の温度も覚えている。だが、その後のことは断片でしか残っていない。
鐘の音。白い光。大人たちの怒号。父の体が崩れる音。
そして、自分が何も言えなかったこと。
「わたしは、王都には……」
「行きたくない」
エルナは静かに言った。
「顔に書いてありますか」
「戸を閉めたい手に」
「手まで裏切るんですね……」
「よく働く手です」
エルナは少しだけ声を柔らかくした。
「王都の時計師は三人います。一人は鐘楼で気絶。一人は祈祷室に逃亡。一人は『これは歯車ではなく政治の問題です!』と叫んで宰相府へ保護を求めました」
「最後の人、賢いです」
「はい。賢い。ですが足りない」
エルナは封書を差し出した。
「あなたの耳が必要です」
「耳だけなら送ります……」
「それは困ります」
「わたしも困ります」
ピコがミラの靴の上に前足を乗せた。
「行け」
「簡単に言わないでください!」
「パンも焦げた。ここに残っても朝食は半分死んでいる」
「朝食を脅迫材料にしないでください!」
「では時計師として行け。あの大時計、今たぶん痛がっているぞ」
ミラは黙った。
ずるい。
それを言われると、断れない。
結局、ミラは王都へ行くことになった。
断る言葉はたくさん頭に浮かんだのに、どれも喉を通らなかった。代わりに出たのは「工具箱を取ってきます」という、職人としては正しく、人としては逃げ道のない言葉だった。
馬車の中で、ミラは工具箱を膝に抱えていた。
箱の角が腿に食い込む。痛い。だが、その痛みはありがたかった。王都に近づくたび、耳の奥でまだ聞こえない鐘が鳴る気がして、何か現実の感触にしがみついていないと、身体が勝手にほどけそうになる。
向かいに座るエルナは、揺れる馬車の中で姿勢を崩さない。
「先ほどの寝台の話ですが」
「忘れてください!」
「分かりやすかった」
「忘れてください……」
「竜骨は、竜の骨そのものですか?」
ミラは工具箱の留め金を親指で撫でた。きん、と小さな音がする。父が作った留め金だ。
「骨だけではだめです。骨は覚える。金属は流す。石は我慢する。三つで、やっと時計になります」
「石は我慢する」
「はい」
「私の部下に聞かせたい」
「石にですか?」
「部下にです」
エルナは真面目な顔で言った。
冗談なのかどうか、分かりにくい。
ピコは工具箱の上で鉄粉をかじっていた。
「ミラ、膝」
「何もしてません」
「竜舞の練習なら塔に着いてからにしろ!」
「これは馬車の揺れです!」
エルナが足元を見る。
「馬車はそこまで小刻みに震えていません」
「味方がいません……」
「時計にはいます」
それは慰めとしては変だった。
でも、悪くなかった。
王都アステリアは即位式の飾りで埋まっていた。通りには花布が張られ、窓辺には銀の鈴が吊るされ、人々は新しい女王の名を口にしている。
誰も、正午に王都が物理的に飛ぶかもしれないとは思っていない。
ある意味、幸せな街だった。
馬車が王宮前で止まると、群衆のざわめきが一気に押し寄せた。
音が多い。
靴音、馬の鼻息、旗のはためき、誰かの笑い声、鐘楼の遠い歯擦れ。
その全部が、耳の中で混ざって、銀の針の束になった。
「ノルト殿」
エルナが低く呼ぶ。
「ここで倒れると、私があなたを担いで広間に入ります」
「それは……すごく嫌です」
「では歩きましょう。段差は右に一つ」
「段差の報告、助かります……!」
危機的状況で最初に助けられたのが段差だった。
威厳はない。
王宮の広間では、貴族たちが集まっていた。
絹。宝石。香水。低い囁き。高い笑い声。視線。
視線。
視線。
ミラは工具箱の取っ手を握りすぎて、指の節が白くなった。
「ノルトだ」
「反逆者の娘?」
「あの手で鐘に触るのか」
「震えているぞ」
声は小さい。だが、ミラには歯車の欠ける音よりはっきり聞こえた。
逃げたい。
今すぐこの広間から出て、馬車に戻り、工房に帰り、薬缶の前で焦げパンを眺めたい。焦げパンは何も言わない。少なくとも、反逆者の娘とは言わない。
その時、広間の奥から一人の男が歩み出た。
銀糸の入った黒衣。丸い腹。整えられた髭。胸元には宰相府の金章。
「ノルトの名が、また鐘楼に戻るとはね」
男の声は柔らかい。
柔らかい声で人を踏むのが上手い人間の声だった。
「ヴォルガ宰相。大時計の修復には専門家が必要です」
「専門家? 十年前にも、そう名乗った男が鐘を止めた。君は覚えているかな、ノルトの娘?」
ミラの胸元で、銀の筒が冷たくなった気がした。
言い返さなければ。
父は、と言わなければ。
けれど喉が張りついて、舌が上顎から離れない。広間の空気が急に薄くなる。
ピコが工具箱の中から頭を出した。
「この丸いの、声まで油っぽいな!」
広間が静まり返った。
ミラは血の気が引いた。
「ピコ!?」
「丸いは見たままだろう」
「そこじゃありません!」
「油っぽいは感想だ」
「感想を言う場所じゃありません!!」
エルナが咳払いをした。少しだけ肩が揺れている。笑うのを堪えているらしい。
ヴォルガ宰相の眉がぴくりと跳ねた。
「無礼な魔導具だね?」
「魔導具では……」
ミラは工具箱を抱え直した。
「相棒です」
声は小さかったが、出た。
ピコが胸を張る。
「聞いたか、油っぽい丸。相棒だ!」
「もう黙ってくださいっ!」
広間の奥、白い冠を抱いた若い女性が立っていた。薄青の礼服。まだ即位前のリーネ女王である。
女王はミラを見ると、静かに頭を下げた。
「ノルト殿」
広間がざわつく。
「怖い思いをさせていますね。けれど、頼ませてください。民を守りたいのです」
女王が、怖い、と言った。
ミラは工具箱を抱えたまま、目を瞬かせた。偉い人は、こちらが怖いことに気づかないものだと思っていた。
「わ、わたしは……」
膝が折れかける。工具箱の角が足に落ちた。
「いっ……!」
痛い。
とても痛い。
だが、痛みのおかげで声が出た。
「時計を、見ます。直せるかは、見てからで……!」
「それで十分です」
女王は頷いた。
「見て、教えてください。わたしが間違った鐘を鳴らそうとしているなら、止めて」
竜骨大時計の内部は、骨の森だった。
鐘楼の腹に入ると、外のざわめきは遠くなり、代わりに無数の歯車が呼吸する音が満ちていた。
かち。
こち。
ぎい。
こつん。
普通の時計師なら、騒音としか聞こえないだろう。ミラには違う。低い骨の唸り、金属の擦れ、石芯に溜まる魔力の重さ。大時計全体が、熱を出した巨人のように苦しんでいる。
ミラは足場板に膝をつき、工具箱を開いた。
「痛いんだね……」
小さく呟く。
エルナが隣に屈んだ。
「時計に話しかけるのですか?」
「人より返事が正直なので」
「今のは私への苦情ですか?」
「ち、違います。半分くらい」
「半分」
エルナは少しだけ目を細めた。
ミラは耳を澄ませる。
逆回りの原因は主軸ではない。主軸なら音がもっと太く濁る。鐘打ちの腕でもない。鐘の前に、拍を数える歯列が狂っている。
十三番歯。
そこだけ、音が若い。
古い竜骨時計の中で、一つだけ新しい嘘が鳴っている。
ミラは指先で歯車の縁をなぞった。骨白の歯に、油が薄く残っている。
香りを嗅ぐ。
喉の奥に、甘い香が刺さった。
「違う」
「何が?」
「油です。月桂油じゃない。雷桂油です」
「名前からして嫌ですね」
「嫌なものには、だいたい正直な名前がついています……」
ミラは歯の根元を覗き込んだ。小さな封蝋の欠片が挟まっている。黒に金粉。宰相府の封蝋だ。
血が、指先から引いていった。
「……言いたくないです」
「何を?」
「分かったことを」
「言わなければ、時計は直りませんか?」
ミラは黙った。
それはとても卑怯で、とても正しい問いだった。
「十三番……あの、十三番歯が入れ替えられています。歯の根に、宰相府の封蝋が」
「宰相」
「声に出すの早いです!」
「私は剣の人間なので」
「剣の人間はもっと慎重にしてください!」
喉が少しだけ動いた。笑いではない。悲鳴でもない。その中間の、変な息だった。
十年前も、同じだった。
父は鐘楼で、ミラに小さな銀の筒を握らせた。
これを離すな。父さんが戻らなかったら、鐘の心臓に返すんだ。
だが、父は戻らなかった。
大人たちが叫んでいた。鐘が止まった。冬が狂った。ノルトがやった。
ミラは銀の筒を握って、泣きながら、何も言えなかった。
足場の下から、子どもの泣き声が聞こえた。
鐘楼の外、式典を待つ広場だろう。鐘の試し打ちに驚いたのかもしれない。細い泣き声が、塔の石壁を伝って上がってくる。
ミラは胸元の銀の筒を握った。
自分が怖いのは、広間だ。
あの子が怖いのは、鐘だ。
時計師が見るべきなのは、どちらだ。
「エルナさん」
「はい」
「わたし、これから広間で、たぶん、とても変な喋り方をします」
「いつもと違いますか?」
「今、少しひどいこと言いました!?」
「少しだけ」
エルナは真面目な顔のまま、足場の端に落ちていた封蝋片を布で包んだ。
「変でも結構です。私が、変ではない部分を拾います」
「それ、助かります……!」
ピコが肩に登る。
「背筋を伸ばせ! 職人の背中が曲がると、工具が不安がる!」
「工具はそんなに繊細じゃありません」
「お前よりは繊細だ」
「わたしは繊細です!」
「知っている。だから言っている!」
ミラは少しだけ背筋を伸ばした。
広間に戻ると、貴族たちの視線がまた突き刺さった。
時計塔の外では、即位式の楽隊が準備を始めている。正午まで、あと半刻もない。
ヴォルガ宰相が微笑んだ。
「どうでしたかな、ノルト殿。大時計は、また君の家名を嫌がったかな?」
ミラは工具箱を抱えたまま、足を止めた。
膝は震えている。
指先は冷たい。
喉は、乾いた布を詰められたみたいだ。
それでも、大時計の痛い音だけは耳の奥で続いている。
早くして、と言っている。
「鐘を……」
ミラの声は小さかった。
広間の奥まで届かなかったらしく、誰かが鼻で笑った。
エルナが半歩横に立つ。
リーネ女王が、まっすぐミラを見る。
ピコが耳元で囁いた。
「腹から出せ。さっきから痛そうだろう、そこ!」
ひどい助言だ。
だが、痛いのは本当だった。
ミラは腹の奥を押さえるように息を吸い、もう一度言った。
「鐘を、止めます!」
広間が揺れた。
「その言葉を、ノルトの娘が言うのかい?」
ヴォルガ宰相の声は穏やかだった。
「十年前と同じだね。反逆の血は、鐘を鳴らすことを恐れる」
「違いますっ」
ミラの声は震えていた。
震えている。
でも、出ている。
「怖いです。鐘も、人も、あなたも怖いです! けど、怖いから止めるんじゃありません。痛がっているから止めます!」
広間のざわめきが少し変わった。
ミラは布に包まれた封蝋片をエルナから受け取った。
「十三番歯が、違います。これ、月桂油じゃないです。雷桂油です……っ。歯の根元に、宰相府の封蝋も残っていました」
「職人の娘が、封蝋を見分けたと?」
「はい」
「ずいぶん都合の良い目だね?」
「目じゃなくて、耳と鼻です」
言ってから、ミラは自分でも少し驚いた。
そんな返しをする予定はなかった。
ピコが小さく吹き出す。
「聞いたか! 鼻に負けたぞ、丸いの!」
「ピコ!!」
ヴォルガ宰相の頬が赤くなる。
「証拠は、その欠片だけかな?」
「いいえ」
ミラは胸元の銀の筒を外した。
手の中で、古い金属が冷たい。
十年間、怖くて開けられなかった。開ければ、父がいなくなった日の音まで戻ってくる気がした。
でも、これは形見ではない。
道具だ。
道具は、使われるためにある。
ミラは銀の筒の蓋をひねった。
中から出てきたのは、小指の爪ほどの小さな竜骨歯車だった。骨白の縁に、細い金線が巡っている。
「鐘の心臓歯か……!」
ピコの声が低くなった。
ミラは頷く。
「十年前、父はこれを抜きました。壊したんじゃありません。止めたんです。十三番歯が入れ替えられていたから」
「死人は便利だね」
ヴォルガ宰相が言った。
その声はまだ柔らかい。だが、柔らかさの下で刃が滑っている。
「弁明も、反論も、娘の口から好きに語らせられる」
ミラの喉が縮む。
その通りだ、と小さな声が頭の中で言う。
父はもういない。何も言わない。だから、ミラが間違っていたら。ミラがまた、父の名前を。
「では」
リーネ女王が静かに言った。
「語らせるのは、歯車にしましょう」
広間が沈黙した。
女王は冠を侍女に預ける。
「ノルト殿。その歯車を戻せば、記録が読めるのですね?」
「は、はい。ただし、鐘楼の心臓部は、十二回目の鐘が鳴る時だけ開きます」
「十三回目までに?」
「入れます」
「時間は?」
「鐘一つ分です」
エルナが息を吐いた。
「短いですね」
「はい……」
「失敗すると?」
ミラは一瞬だけ迷った。
婉曲な言い方を探したが、見つからなかった。
「王都が、かなり元気よく飛びます」
ピコが頷く。
「元気は要らない!」
広間の緊張が、ほんの少しだけ歪んだ。
リーネ女王はミラを見た。
「即位式を中断します」
「陛下!?」
貴族たちが一斉に声を上げる。
「冠は逃げません。民は逃げ遅れます」
女王は言った。
声は大きくない。けれど、広間の端まで届いた。
「ノルト殿。鐘を止めてください」
ミラは頷いた。
逃げ道が完全になくなった音がした。
竜骨大時計の心臓部は、鐘楼の最上部にあった。
細い螺旋階段を登るたび、ミラの膝は自分のものではないみたいに笑った。足元の隙間から王都の広場が見える。人々が蟻のように集まっている。
蟻ではない。
人だ。
一人ひとりに家があり、朝食があり、誰かを待つ手がある。
鐘が鳴った。
一回目。
空気が震える。骨の塔が低く唸る。
二回目。
ミラの耳の奥が痛む。十年前の白い光が脳裏をかすめる。
三回目。
ピコが肩の上で尾を首に巻きつけた。温かい。火蜥蜴の体温は、小さな湯たんぽに似ている。
「落ちるなよ!」
「落ちません!」
「お前はよくネジを落とす!」
「人とネジを一緒にしないでください!」
「ネジは黙って働く。たまに見習え!」
「今、かなり働いています!!」
「そうだな」
ピコは珍しく、すぐに認めた。
「働け。ミラ」
四回目。
心臓部の扉が少しずつ開き始めた。竜骨の肋が開くように、白い歯車の奥から青い光が漏れる。
ミラは鉄針を歯に噛んだ。両手を空けるためだ。工具箱から月桂油、薄刃のやすり、止め歯を出す。
五回目。
足場が揺れる。
六回目。
ミラは身を乗り出し、十三番歯に薄刃を差し込んだ。雷桂油が指先につく。甘く、刺すような匂い。
指が震える。
やめて。
過去の自分が泣く。
もう一度、失敗したら。もう一度、何も言えなかったら。父のように、誰かを助けようとして、誰にも信じてもらえなかったら。
七回目。
「ノルト殿!」
エルナの声が下から聞こえた。
「私は、時計のことは分かりません!」
「今、それ、いりますか!?」
「いります!」
彼女は足場の下で鎖を押さえている。
「分からないから、あなたを見ます。手元だけ見ます。周りは見なくていい!」
八回目。
ミラは息を止め、偽の十三番歯を抜いた。
歯車が悲鳴を上げる。
骨が擦れる音。塔全体が震えた。外の群衆から悲鳴が上がる。
九回目。
心臓部の穴が、青く光る。
ミラは父の小歯車をそこに近づけた。
十年前の手の温度が戻る。
ミラ、これを離すな。
離さなかった。
十年間、ずっと。
十回目。
歯車が、まだ合わない。
ミラの背中に冷たい汗が流れた。
「向きが違う……っ」
「どっちだ!?」
「欠けが、上! 父さんが、そう握らせた!」
十一回目。
ミラは小歯車を半回転させた。
かちり。
世界で一番小さく、世界で一番大きな音がした。
竜骨大時計の心臓が、開いた。
青い光が広がり、歯車の内側の文字を照らす。
ミラは鉄針を口から外し、震える声で読んだ。
「十三番歯、外部より換装。雷桂油を検出。止鐘処置を行う。オルレン・ノルト」
広間まで届くよう、ピコが尾の火を強くした。声が青い光に乗り、鐘楼の内壁を伝って広がる。
ミラは続きの文字を見る。
泣いている場合ではない。泣くと読めない。
「追記。娘は無関係。心臓歯を、守らせる」
十二回目の鐘が鳴った。
心臓部が閉じ始める。
ミラは小歯車を押し込んだ。指先に竜骨の冷たさが噛みつく。痛い。爪の間に血が滲む。
歯車は、はまらない。
あと少し。
ほんの、髪一本分。
ピコが肩から飛び降り、心臓部の隙間に頭を突っ込んだ。
「熱を入れる!」
「焼かないで!?」
「信用しろ!」
「あなた、さっき油っぽい人に悪口を言ってました!!」
「あれは観察だ!!」
ピコの尾の火が白くなる。竜骨がわずかに膨らみ、金線が柔らかく光った。
ミラは血の滲む指で、最後の一押しをした。
かちん。
止鐘歯が、はまった。
十三回目の鐘は、鳴らなかった。
代わりに、大時計全体が長い息を吐いた。
冬でも夏でもない歪んだ拍がほどけ、竜骨の森に正しい音が戻っていく。
かち。
こち。
かち。
こち。
眠る竜の寝息のような、深く穏やかな音だった。
ミラは足場にへたり込んだ。
膝が完全に仕事を放棄した。実に正直な膝である。
下から歓声が上がった。
遅れて、広場の群衆が状況を理解したらしい。歓声は波になり、鐘楼を揺らし、ミラの耳に届いた。
大きな音だ。
怖い。
でも、さっきの鐘よりは痛くない。
エルナが梯子を登ってきた。
「どこか折れましたか!?」
「心が少し」
「骨は?」
「たぶん無事です。指は痛いです。胃も、まあ……」
「胃は持参品ですね」
「返せませんか?」
「残念ながら」
エルナは淡々と言い、ミラの手に布を巻いた。
その手つきは剣士のものなのに、思ったより丁寧だった。
下の広間では、ヴォルガ宰相が取り押さえられていた。偽の十三番歯に残った封蝋と、雷桂油の記録。そして父の心臓歯に刻まれた十年前の記録。
言葉はようやく、証拠と一緒に人々へ届いた。
リーネ女王は即位式の壇上で、冠を受け取る前に宣言した。
オルレン・ノルトは反逆者ではない。
王都を救った竜脈守りである。
ミラ・ノルトは、その仕事を継いだ時計師である。
広場に拍手が広がった。
ミラは鐘楼の上で、顔を両手で覆った。
「無理です」
「今度は何が?」
「拍手が、多いです……!」
「褒められています」
「褒められるのにも、適量が!」
「ありません」
「あります!!」
称賛にも適量がある。少なくともミラにはあった。
ピコがすすだらけの顔で工具箱に戻り、偉そうに言った。
「英雄譚ならここで手を振る!」
「振りません!」
「では、せめて倒れるなら工具箱の上は避けろ。中身が泣く!」
ミラは深呼吸した。
足場はまだ揺れている。耳はまだ熱い。指は痛い。腹も痛い。
それでも、胸元の銀の筒は空になっていた。
十年分の重さが、そこから消えていた。
数日後、山裾の工房でまたパンが焦げた。
正確には、焦げかけたところでミラが気づいた。
これは大きな進歩である。焦げてから気づくのと、焦げかけで気づくのでは、人生の質が違う。
ミラは網からパンを救出し、皿に置いた。端は黒いが、中央はまだ食べられる。勝利と言っていい。
「王都を救った時計師、パン一枚と接戦!」
ピコが暖炉の脇で呟く。
「パンは、見た目より気難しいんです」
「大時計よりか?」
「大時計は痛い時に音を出します。パンは黙って黒くなる」
「陰湿だな!」
「そこまでは言ってません」
ミラは薬缶から歯車草の煎じ湯を注いだ。
相変わらず濁った緑色で、相変わらず健康に悪そうな匂いがする。
戸が叩かれた。
ごん、ごん。
ミラの肩は跳ねた。
跳ねたが、作業台の下にはもぐらなかった。
これは、かなり大きな進歩である。
戸を開けると、エルナが立っていた。片手に布包みを持っている。
「王都から書簡です。正式な礼状と、陛下から蜂蜜を」
「蜂蜜!」
ミラの視線は書簡ではなく、布包みに吸い寄せられた。
エルナは少しだけ笑った。
「歯車草の煎じ湯が、兵器に近い味だと聞きました」
「誰がそんな正確なことを!?」
「真鍮の相棒殿が」
「ピコ!」
火蜥蜴は暖炉の脇で堂々と胸を張った。
「外交だ!」
「味覚情報の流出です!」
「国益にかなう」
「どこの国の!?」
ミラは蜂蜜の壺を受け取った。温かい琥珀色。蓋を開けると、花の匂いがふわりと広がる。歯車草の苦味とは、正反対の匂いだった。
ミラは湯呑みをもう一つ出した。
少し迷って、エルナの前に置く。
「飲みますか? えっと、毒ではないです。味は、少し……敵ですけど」
「敵なら確認します」
「近衛隊長の仕事って広いんですね……」
「最近、時計師の護衛も増えました」
ミラは煎じ湯に蜂蜜を垂らした。
苦い緑の中に、金色の糸が落ちていく。小さな匙で混ぜると、湯呑みの底でかちりと音がした。
大時計の心臓歯に似た音だった。
工房の壁では、村人たちから預かった古時計がそれぞれの拍で鳴っていた。かち、こち、こつん。少しずつ違って、少しずつ正しい。
エルナが煎じ湯を一口飲み、真面目な顔で止まった。
「どうですか?」
「蜂蜜は、勇敢です」
「勝ててませんか!?」
「負けてはいません。撤退もしていません」
「戦場みたいになってる……」
ミラは思わず笑った。
声に出して笑うのは久しぶりだった。少しだけ喉がくすぐったい。
ピコが皿の焦げかけパンを見つめる。
「英雄譚では、王都を救った職人は宴に招かれる!」
「行きません」
「知っている! だから、ここで宴だ。パンは端が危険、茶は敵味方不明、客は剣を持っている。なかなか豪華だ!」
エルナが焦げかけのパンを手に取った。
「端を避ければ、悪くありません」
「本当に?」
「はい。端を避ければ」
「大事なことを二回言いましたね?」
「安全確認です」
ミラはまた笑った。
窓の外では、山裾の風が草を揺らしている。遠い王都の鐘は、ここまでは聞こえない。
それでもミラには、世界のどこかで竜骨大時計が正しく時を刻んでいるのが分かった。
父の歯車は、もう彼女の胸元にはない。
王都の心臓で働いている。
ミラは少し寂しくて、少し誇らしくて、かなり胃が痛くないことに気づいた。
歯車草の煎じ湯を、もう一口飲む。
苦い。
けれど、前より少しだけ飲みやすかった。
たぶん、蜂蜜のせいだ。
たぶん、それだけではない。




