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竜骨時計師と十三番目の鐘

作者: 氷見豆
掲載日:2026/05/21


 ミラ・ノルトは、薬缶の腹に耳を押し当てていた。


 薬缶は怒っていた。


 正確には、怒っているような音で鳴っていた。中の小さな歯車が、かち、かち、こち、と半拍ずつ拗ねている。水を沸かすための火の輪が底板の裏で不機嫌に震え、蒸気孔から白い息を細く吐いた。


 ミラは作業台に頬を乗せ、細い鉄針をそっと差し込む。


「そこ……そこです。違います、そっちじゃなくて。あなた、今わざと外しましたね?」


 薬缶の中で、こち、と音がした。


「よし。えらい。わたしより素直です」


「薬缶に負けるな!」


 棚の上から、真鍮の火蜥蜴が首を伸ばした。尾の先に小さな青い火が灯っている。


「古い英雄譚なら、ここで職人は『ついに完成だ!』と叫ぶ」


「叫ぶと部品がびっくりします」


「人間より部品を気遣うな」


「部品は急に依頼を持ってきませんから」


「恨みが深いな!?」


 ミラが鉄針を抜いた瞬間、背後で何かが黒くなった。


 パンである。


 朝食のパンが、暖炉の網の上で見事に炭へ近づいていた。


「あっ」


「今度はパンが反乱したぞ!」


「反乱じゃないです! これは……えっと、熱意の行き過ぎです」


「王都では焦げと呼ぶ」


 ミラは慌ててパンを掴もうとして、熱さに指を引っ込めた。


「あつっ」


「英雄、初手で朝食に敗北」


「実況しないでください……」


 指先がじんと痺れる。薬缶から立つ湯気は歯車草の苦い匂いを含んでいて、焦げパンの匂いと混ざると、人生の失敗を煮詰めたような香りになった。


 朝から縁起が悪い。


 だが、ミラ・ノルトの日常はだいたいこんなものだった。


 山裾の小さな工房。壁一面の歯車。吊るされた古時計。作業台の下に転がるネジ。暖炉の脇で偉そうに腹を温める真鍮火蜥蜴のピコ。


 そして、人が来ないこと。


 それが一番大事だった。


 ミラは人が苦手だ。初対面の人はもっと苦手だ。偉い人はさらに苦手で、偉い人が用件を持ってくる場合は、もはや天災に近い。


 想像しただけで喉の奥が干からびる。


 ミラは焦げたパンを皿に置き、薬缶から歯車草の煎じ湯を注いだ。濁った緑色の湯は、見た目からして健康に悪そうで、味はもっと悪い。


 それでも、指の震えは少しだけましになる。


 ミラが湯呑みに口をつけた時、工房の戸が叩かれた。


 ごん、ごん、ごん。


 湯呑みの中で煎じ湯が跳ねた。


「ひゃっ」


 舌に苦味が広がる。心臓が一拍遅れて、肋骨の内側にぶつかった。


「来たぞ。天災か税吏だ」


 ピコが尾の火を揺らす。


「どっちも戸口に置いて帰ってほしいです……」


「願いが雑!」


 ミラは小声で答え、作業台の下に半分もぐった。


「ミラ」


「いません」


「今、床下から返事がした」


「床下の精です」


「床下の精、声が情けないな」


 戸がもう一度叩かれた。今度は控えめに、しかし逃がさない硬さで。


「ミラ・ノルト殿。王都近衛隊、エルナ・ヴェルデです。緊急の依頼で参りました」


 王都。


 近衛隊。


 緊急。


 ミラの胃のあたりで、まだ起きてもいない最悪の一日が勝手に開幕した。


「王都……?」


「おい、床下の精。王都の人間は待たせると増えるぞ!」


「増えませんっ」


「貴族は増える。一人来たら後ろに三人、三人来たら書記が五人だ!」


「怖い話みたいに言わないでください!」


「だいたい怖い話だろう」


 その偏見は、だいたい合っていた。


 ミラは泣きそうになりながら作業台の下から這い出し、エプロンで手を拭いた。拭いたところで手汗はまた出てくるので、あまり意味はない。


 戸を開けると、緑の外套をまとった女性が立っていた。


 短く切った灰色の髪。左頬に古い傷。背筋は真っ直ぐで、腰の剣には無駄な飾りがない。飾り気のない人間は、たいていごまかしが利かない。


「ミラ・ノルト殿ですね」


「あ、あの、父は死んでいます!」


 最初に出た言葉がそれだった。


 最悪である。


「いえ、違います、父が違うんじゃなくて、死んでいるのは父で、わたしは……わたしは一応、生きています。すみません」


 女性は少しだけ目を瞬かせた。


「はい。生存は確認しました」


「確認しないでください……」


「用があるのは、あなたにです」


 ミラは戸板を握る指に力を込めた。


 あなたに。


 その言葉は、小さな針のように胸に刺さる。必要とされることは嬉しいはずなのに、ミラの場合、それはだいたい逃げ道が塞がる音だった。


 エルナは懐から銀の封書を出した。封蝋には、王都アステリアの紋章。雲を抱く鐘楼と、眠る竜。


「竜骨大時計が、昨夜から逆に鳴っています」


 ミラの指先が冷えた。


「……何回」


「十一回です」


「十二回目は?」


「正午。即位式の鐘として打たれます」


「だめですっ!」


 ミラは思わず叫んだ。


 自分の声に、自分で肩を跳ねさせる。


「す、すみません! でも、十二はまだ戻せます。十三はだめです。十三は……あの子が、起きます」


「あの子?」


「嵐竜です」


 工房の中で、薬缶がかちりと正しい音を立てた。


 直したばかりの音だった。


 あまりにも場違いで、少しだけ腹が立った。


 エルナは一度だけ、戸口の奥の薬缶を見た。


「竜は時計で寝かせているのですか?」


「寝かせているというより、寝返りを数えています」


「寝返り」


「はい。季節の拍と竜の拍をずらさないように。えっと……大きい寝台の脚に、国が乗っていると思ってください」


「十三回目で寝台が壊れる?」


「かなり乱暴ですが、だいたいそうです」


「壊れると?」


「王都が飛びます」


 エルナは沈黙した。


 ピコがミラの足元で首を傾げる。


「飛ぶとは詩か?」


「物理です」


「詩であってほしかった!」


 まったくである。


 ミラは封書を見た。王都の紋章。眠る竜。大時計。


 十年前、父オルレン・ノルトが止めた時計。


 その日から、父は反逆の時計師と呼ばれた。王都の白霜祭を台無しにし、鐘を止め、竜脈を乱し、三日間の霜で麦畑を枯らした男。


 ミラは当時、九歳だった。


 父に小さな歯車を握らされ、鐘楼の暗がりで震えていた。


 ミラ、これを離すな。


 父の声は覚えている。手の温度も覚えている。だが、その後のことは断片でしか残っていない。


 鐘の音。白い光。大人たちの怒号。父の体が崩れる音。


 そして、自分が何も言えなかったこと。


「わたしは、王都には……」


「行きたくない」


 エルナは静かに言った。


「顔に書いてありますか」


「戸を閉めたい手に」


「手まで裏切るんですね……」


「よく働く手です」


 エルナは少しだけ声を柔らかくした。


「王都の時計師は三人います。一人は鐘楼で気絶。一人は祈祷室に逃亡。一人は『これは歯車ではなく政治の問題です!』と叫んで宰相府へ保護を求めました」


「最後の人、賢いです」


「はい。賢い。ですが足りない」


 エルナは封書を差し出した。


「あなたの耳が必要です」


「耳だけなら送ります……」


「それは困ります」


「わたしも困ります」


 ピコがミラの靴の上に前足を乗せた。


「行け」


「簡単に言わないでください!」


「パンも焦げた。ここに残っても朝食は半分死んでいる」


「朝食を脅迫材料にしないでください!」


「では時計師として行け。あの大時計、今たぶん痛がっているぞ」


 ミラは黙った。


 ずるい。


 それを言われると、断れない。


 結局、ミラは王都へ行くことになった。


 断る言葉はたくさん頭に浮かんだのに、どれも喉を通らなかった。代わりに出たのは「工具箱を取ってきます」という、職人としては正しく、人としては逃げ道のない言葉だった。


 馬車の中で、ミラは工具箱を膝に抱えていた。


 箱の角が腿に食い込む。痛い。だが、その痛みはありがたかった。王都に近づくたび、耳の奥でまだ聞こえない鐘が鳴る気がして、何か現実の感触にしがみついていないと、身体が勝手にほどけそうになる。


 向かいに座るエルナは、揺れる馬車の中で姿勢を崩さない。


「先ほどの寝台の話ですが」


「忘れてください!」


「分かりやすかった」


「忘れてください……」


「竜骨は、竜の骨そのものですか?」


 ミラは工具箱の留め金を親指で撫でた。きん、と小さな音がする。父が作った留め金だ。


「骨だけではだめです。骨は覚える。金属は流す。石は我慢する。三つで、やっと時計になります」


「石は我慢する」


「はい」


「私の部下に聞かせたい」


「石にですか?」


「部下にです」


 エルナは真面目な顔で言った。


 冗談なのかどうか、分かりにくい。


 ピコは工具箱の上で鉄粉をかじっていた。


「ミラ、膝」


「何もしてません」


「竜舞の練習なら塔に着いてからにしろ!」


「これは馬車の揺れです!」


 エルナが足元を見る。


「馬車はそこまで小刻みに震えていません」


「味方がいません……」


「時計にはいます」


 それは慰めとしては変だった。


 でも、悪くなかった。


 王都アステリアは即位式の飾りで埋まっていた。通りには花布が張られ、窓辺には銀の鈴が吊るされ、人々は新しい女王の名を口にしている。


 誰も、正午に王都が物理的に飛ぶかもしれないとは思っていない。


 ある意味、幸せな街だった。


 馬車が王宮前で止まると、群衆のざわめきが一気に押し寄せた。


 音が多い。


 靴音、馬の鼻息、旗のはためき、誰かの笑い声、鐘楼の遠い歯擦れ。


 その全部が、耳の中で混ざって、銀の針の束になった。


「ノルト殿」


 エルナが低く呼ぶ。


「ここで倒れると、私があなたを担いで広間に入ります」


「それは……すごく嫌です」


「では歩きましょう。段差は右に一つ」


「段差の報告、助かります……!」


 危機的状況で最初に助けられたのが段差だった。


 威厳はない。


 王宮の広間では、貴族たちが集まっていた。


 絹。宝石。香水。低い囁き。高い笑い声。視線。


 視線。


 視線。


 ミラは工具箱の取っ手を握りすぎて、指の節が白くなった。


「ノルトだ」


「反逆者の娘?」


「あの手で鐘に触るのか」


「震えているぞ」


 声は小さい。だが、ミラには歯車の欠ける音よりはっきり聞こえた。


 逃げたい。


 今すぐこの広間から出て、馬車に戻り、工房に帰り、薬缶の前で焦げパンを眺めたい。焦げパンは何も言わない。少なくとも、反逆者の娘とは言わない。


 その時、広間の奥から一人の男が歩み出た。


 銀糸の入った黒衣。丸い腹。整えられた髭。胸元には宰相府の金章。


「ノルトの名が、また鐘楼に戻るとはね」


 男の声は柔らかい。


 柔らかい声で人を踏むのが上手い人間の声だった。


「ヴォルガ宰相。大時計の修復には専門家が必要です」


「専門家? 十年前にも、そう名乗った男が鐘を止めた。君は覚えているかな、ノルトの娘?」


 ミラの胸元で、銀の筒が冷たくなった気がした。


 言い返さなければ。


 父は、と言わなければ。


 けれど喉が張りついて、舌が上顎から離れない。広間の空気が急に薄くなる。


 ピコが工具箱の中から頭を出した。


「この丸いの、声まで油っぽいな!」


 広間が静まり返った。


 ミラは血の気が引いた。


「ピコ!?」


「丸いは見たままだろう」


「そこじゃありません!」


「油っぽいは感想だ」


「感想を言う場所じゃありません!!」


 エルナが咳払いをした。少しだけ肩が揺れている。笑うのを堪えているらしい。


 ヴォルガ宰相の眉がぴくりと跳ねた。


「無礼な魔導具だね?」


「魔導具では……」


 ミラは工具箱を抱え直した。


「相棒です」


 声は小さかったが、出た。


 ピコが胸を張る。


「聞いたか、油っぽい丸。相棒だ!」


「もう黙ってくださいっ!」


 広間の奥、白い冠を抱いた若い女性が立っていた。薄青の礼服。まだ即位前のリーネ女王である。


 女王はミラを見ると、静かに頭を下げた。


「ノルト殿」


 広間がざわつく。


「怖い思いをさせていますね。けれど、頼ませてください。民を守りたいのです」


 女王が、怖い、と言った。


 ミラは工具箱を抱えたまま、目を瞬かせた。偉い人は、こちらが怖いことに気づかないものだと思っていた。


「わ、わたしは……」


 膝が折れかける。工具箱の角が足に落ちた。


「いっ……!」


 痛い。


 とても痛い。


 だが、痛みのおかげで声が出た。


「時計を、見ます。直せるかは、見てからで……!」


「それで十分です」


 女王は頷いた。


「見て、教えてください。わたしが間違った鐘を鳴らそうとしているなら、止めて」


 竜骨大時計の内部は、骨の森だった。


 鐘楼の腹に入ると、外のざわめきは遠くなり、代わりに無数の歯車が呼吸する音が満ちていた。


 かち。


 こち。


 ぎい。


 こつん。


 普通の時計師なら、騒音としか聞こえないだろう。ミラには違う。低い骨の唸り、金属の擦れ、石芯に溜まる魔力の重さ。大時計全体が、熱を出した巨人のように苦しんでいる。


 ミラは足場板に膝をつき、工具箱を開いた。


「痛いんだね……」


 小さく呟く。


 エルナが隣に屈んだ。


「時計に話しかけるのですか?」


「人より返事が正直なので」


「今のは私への苦情ですか?」


「ち、違います。半分くらい」


「半分」


 エルナは少しだけ目を細めた。


 ミラは耳を澄ませる。


 逆回りの原因は主軸ではない。主軸なら音がもっと太く濁る。鐘打ちの腕でもない。鐘の前に、拍を数える歯列が狂っている。


 十三番歯。


 そこだけ、音が若い。


 古い竜骨時計の中で、一つだけ新しい嘘が鳴っている。


 ミラは指先で歯車の縁をなぞった。骨白の歯に、油が薄く残っている。


 香りを嗅ぐ。


 喉の奥に、甘い香が刺さった。


「違う」


「何が?」


「油です。月桂油じゃない。雷桂油です」


「名前からして嫌ですね」


「嫌なものには、だいたい正直な名前がついています……」


 ミラは歯の根元を覗き込んだ。小さな封蝋の欠片が挟まっている。黒に金粉。宰相府の封蝋だ。


 血が、指先から引いていった。


「……言いたくないです」


「何を?」


「分かったことを」


「言わなければ、時計は直りませんか?」


 ミラは黙った。


 それはとても卑怯で、とても正しい問いだった。


「十三番……あの、十三番歯が入れ替えられています。歯の根に、宰相府の封蝋が」


「宰相」


「声に出すの早いです!」


「私は剣の人間なので」


「剣の人間はもっと慎重にしてください!」


 喉が少しだけ動いた。笑いではない。悲鳴でもない。その中間の、変な息だった。


 十年前も、同じだった。


 父は鐘楼で、ミラに小さな銀の筒を握らせた。


 これを離すな。父さんが戻らなかったら、鐘の心臓に返すんだ。


 だが、父は戻らなかった。


 大人たちが叫んでいた。鐘が止まった。冬が狂った。ノルトがやった。


 ミラは銀の筒を握って、泣きながら、何も言えなかった。


 足場の下から、子どもの泣き声が聞こえた。


 鐘楼の外、式典を待つ広場だろう。鐘の試し打ちに驚いたのかもしれない。細い泣き声が、塔の石壁を伝って上がってくる。


 ミラは胸元の銀の筒を握った。


 自分が怖いのは、広間だ。


 あの子が怖いのは、鐘だ。


 時計師が見るべきなのは、どちらだ。


「エルナさん」


「はい」


「わたし、これから広間で、たぶん、とても変な喋り方をします」


「いつもと違いますか?」


「今、少しひどいこと言いました!?」


「少しだけ」


 エルナは真面目な顔のまま、足場の端に落ちていた封蝋片を布で包んだ。


「変でも結構です。私が、変ではない部分を拾います」


「それ、助かります……!」


 ピコが肩に登る。


「背筋を伸ばせ! 職人の背中が曲がると、工具が不安がる!」


「工具はそんなに繊細じゃありません」


「お前よりは繊細だ」


「わたしは繊細です!」


「知っている。だから言っている!」


 ミラは少しだけ背筋を伸ばした。


 広間に戻ると、貴族たちの視線がまた突き刺さった。


 時計塔の外では、即位式の楽隊が準備を始めている。正午まで、あと半刻もない。


 ヴォルガ宰相が微笑んだ。


「どうでしたかな、ノルト殿。大時計は、また君の家名を嫌がったかな?」


 ミラは工具箱を抱えたまま、足を止めた。


 膝は震えている。


 指先は冷たい。


 喉は、乾いた布を詰められたみたいだ。


 それでも、大時計の痛い音だけは耳の奥で続いている。


 早くして、と言っている。


「鐘を……」


 ミラの声は小さかった。


 広間の奥まで届かなかったらしく、誰かが鼻で笑った。


 エルナが半歩横に立つ。


 リーネ女王が、まっすぐミラを見る。


 ピコが耳元で囁いた。


「腹から出せ。さっきから痛そうだろう、そこ!」


 ひどい助言だ。


 だが、痛いのは本当だった。


 ミラは腹の奥を押さえるように息を吸い、もう一度言った。


「鐘を、止めます!」


 広間が揺れた。


「その言葉を、ノルトの娘が言うのかい?」


 ヴォルガ宰相の声は穏やかだった。


「十年前と同じだね。反逆の血は、鐘を鳴らすことを恐れる」


「違いますっ」


 ミラの声は震えていた。


 震えている。


 でも、出ている。


「怖いです。鐘も、人も、あなたも怖いです! けど、怖いから止めるんじゃありません。痛がっているから止めます!」


 広間のざわめきが少し変わった。


 ミラは布に包まれた封蝋片をエルナから受け取った。


「十三番歯が、違います。これ、月桂油じゃないです。雷桂油です……っ。歯の根元に、宰相府の封蝋も残っていました」


「職人の娘が、封蝋を見分けたと?」


「はい」


「ずいぶん都合の良い目だね?」


「目じゃなくて、耳と鼻です」


 言ってから、ミラは自分でも少し驚いた。


 そんな返しをする予定はなかった。


 ピコが小さく吹き出す。


「聞いたか! 鼻に負けたぞ、丸いの!」


「ピコ!!」


 ヴォルガ宰相の頬が赤くなる。


「証拠は、その欠片だけかな?」


「いいえ」


 ミラは胸元の銀の筒を外した。


 手の中で、古い金属が冷たい。


 十年間、怖くて開けられなかった。開ければ、父がいなくなった日の音まで戻ってくる気がした。


 でも、これは形見ではない。


 道具だ。


 道具は、使われるためにある。


 ミラは銀の筒の蓋をひねった。


 中から出てきたのは、小指の爪ほどの小さな竜骨歯車だった。骨白の縁に、細い金線が巡っている。


「鐘の心臓歯か……!」


 ピコの声が低くなった。


 ミラは頷く。


「十年前、父はこれを抜きました。壊したんじゃありません。止めたんです。十三番歯が入れ替えられていたから」


「死人は便利だね」


 ヴォルガ宰相が言った。


 その声はまだ柔らかい。だが、柔らかさの下で刃が滑っている。


「弁明も、反論も、娘の口から好きに語らせられる」


 ミラの喉が縮む。


 その通りだ、と小さな声が頭の中で言う。


 父はもういない。何も言わない。だから、ミラが間違っていたら。ミラがまた、父の名前を。


「では」


 リーネ女王が静かに言った。


「語らせるのは、歯車にしましょう」


 広間が沈黙した。


 女王は冠を侍女に預ける。


「ノルト殿。その歯車を戻せば、記録が読めるのですね?」


「は、はい。ただし、鐘楼の心臓部は、十二回目の鐘が鳴る時だけ開きます」


「十三回目までに?」


「入れます」


「時間は?」


「鐘一つ分です」


 エルナが息を吐いた。


「短いですね」


「はい……」


「失敗すると?」


 ミラは一瞬だけ迷った。


 婉曲な言い方を探したが、見つからなかった。


「王都が、かなり元気よく飛びます」


 ピコが頷く。


「元気は要らない!」


 広間の緊張が、ほんの少しだけ歪んだ。


 リーネ女王はミラを見た。


「即位式を中断します」


「陛下!?」


 貴族たちが一斉に声を上げる。


「冠は逃げません。民は逃げ遅れます」


 女王は言った。


 声は大きくない。けれど、広間の端まで届いた。


「ノルト殿。鐘を止めてください」


 ミラは頷いた。


 逃げ道が完全になくなった音がした。


 竜骨大時計の心臓部は、鐘楼の最上部にあった。


 細い螺旋階段を登るたび、ミラの膝は自分のものではないみたいに笑った。足元の隙間から王都の広場が見える。人々が蟻のように集まっている。


 蟻ではない。


 人だ。


 一人ひとりに家があり、朝食があり、誰かを待つ手がある。


 鐘が鳴った。


 一回目。


 空気が震える。骨の塔が低く唸る。


 二回目。


 ミラの耳の奥が痛む。十年前の白い光が脳裏をかすめる。


 三回目。


 ピコが肩の上で尾を首に巻きつけた。温かい。火蜥蜴の体温は、小さな湯たんぽに似ている。


「落ちるなよ!」


「落ちません!」


「お前はよくネジを落とす!」


「人とネジを一緒にしないでください!」


「ネジは黙って働く。たまに見習え!」


「今、かなり働いています!!」


「そうだな」


 ピコは珍しく、すぐに認めた。


「働け。ミラ」


 四回目。


 心臓部の扉が少しずつ開き始めた。竜骨の肋が開くように、白い歯車の奥から青い光が漏れる。


 ミラは鉄針を歯に噛んだ。両手を空けるためだ。工具箱から月桂油、薄刃のやすり、止め歯を出す。


 五回目。


 足場が揺れる。


 六回目。


 ミラは身を乗り出し、十三番歯に薄刃を差し込んだ。雷桂油が指先につく。甘く、刺すような匂い。


 指が震える。


 やめて。


 過去の自分が泣く。


 もう一度、失敗したら。もう一度、何も言えなかったら。父のように、誰かを助けようとして、誰にも信じてもらえなかったら。


 七回目。


「ノルト殿!」


 エルナの声が下から聞こえた。


「私は、時計のことは分かりません!」


「今、それ、いりますか!?」


「いります!」


 彼女は足場の下で鎖を押さえている。


「分からないから、あなたを見ます。手元だけ見ます。周りは見なくていい!」


 八回目。


 ミラは息を止め、偽の十三番歯を抜いた。


 歯車が悲鳴を上げる。


 骨が擦れる音。塔全体が震えた。外の群衆から悲鳴が上がる。


 九回目。


 心臓部の穴が、青く光る。


 ミラは父の小歯車をそこに近づけた。


 十年前の手の温度が戻る。


 ミラ、これを離すな。


 離さなかった。


 十年間、ずっと。


 十回目。


 歯車が、まだ合わない。


 ミラの背中に冷たい汗が流れた。


「向きが違う……っ」


「どっちだ!?」


「欠けが、上! 父さんが、そう握らせた!」


 十一回目。


 ミラは小歯車を半回転させた。


 かちり。


 世界で一番小さく、世界で一番大きな音がした。


 竜骨大時計の心臓が、開いた。


 青い光が広がり、歯車の内側の文字を照らす。


 ミラは鉄針を口から外し、震える声で読んだ。


「十三番歯、外部より換装。雷桂油を検出。止鐘処置を行う。オルレン・ノルト」


 広間まで届くよう、ピコが尾の火を強くした。声が青い光に乗り、鐘楼の内壁を伝って広がる。


 ミラは続きの文字を見る。


 泣いている場合ではない。泣くと読めない。


「追記。娘は無関係。心臓歯を、守らせる」


 十二回目の鐘が鳴った。


 心臓部が閉じ始める。


 ミラは小歯車を押し込んだ。指先に竜骨の冷たさが噛みつく。痛い。爪の間に血が滲む。


 歯車は、はまらない。


 あと少し。


 ほんの、髪一本分。


 ピコが肩から飛び降り、心臓部の隙間に頭を突っ込んだ。


「熱を入れる!」


「焼かないで!?」


「信用しろ!」


「あなた、さっき油っぽい人に悪口を言ってました!!」


「あれは観察だ!!」


 ピコの尾の火が白くなる。竜骨がわずかに膨らみ、金線が柔らかく光った。


 ミラは血の滲む指で、最後の一押しをした。


 かちん。


 止鐘歯が、はまった。


 十三回目の鐘は、鳴らなかった。


 代わりに、大時計全体が長い息を吐いた。


 冬でも夏でもない歪んだ拍がほどけ、竜骨の森に正しい音が戻っていく。


 かち。


 こち。


 かち。


 こち。


 眠る竜の寝息のような、深く穏やかな音だった。


 ミラは足場にへたり込んだ。


 膝が完全に仕事を放棄した。実に正直な膝である。


 下から歓声が上がった。


 遅れて、広場の群衆が状況を理解したらしい。歓声は波になり、鐘楼を揺らし、ミラの耳に届いた。


 大きな音だ。


 怖い。


 でも、さっきの鐘よりは痛くない。


 エルナが梯子を登ってきた。


「どこか折れましたか!?」


「心が少し」


「骨は?」


「たぶん無事です。指は痛いです。胃も、まあ……」


「胃は持参品ですね」


「返せませんか?」


「残念ながら」


 エルナは淡々と言い、ミラの手に布を巻いた。


 その手つきは剣士のものなのに、思ったより丁寧だった。


 下の広間では、ヴォルガ宰相が取り押さえられていた。偽の十三番歯に残った封蝋と、雷桂油の記録。そして父の心臓歯に刻まれた十年前の記録。


 言葉はようやく、証拠と一緒に人々へ届いた。


 リーネ女王は即位式の壇上で、冠を受け取る前に宣言した。


 オルレン・ノルトは反逆者ではない。


 王都を救った竜脈守りである。


 ミラ・ノルトは、その仕事を継いだ時計師である。


 広場に拍手が広がった。


 ミラは鐘楼の上で、顔を両手で覆った。


「無理です」


「今度は何が?」


「拍手が、多いです……!」


「褒められています」


「褒められるのにも、適量が!」


「ありません」


「あります!!」


 称賛にも適量がある。少なくともミラにはあった。


 ピコがすすだらけの顔で工具箱に戻り、偉そうに言った。


「英雄譚ならここで手を振る!」


「振りません!」


「では、せめて倒れるなら工具箱の上は避けろ。中身が泣く!」


 ミラは深呼吸した。


 足場はまだ揺れている。耳はまだ熱い。指は痛い。腹も痛い。


 それでも、胸元の銀の筒は空になっていた。


 十年分の重さが、そこから消えていた。


 数日後、山裾の工房でまたパンが焦げた。


 正確には、焦げかけたところでミラが気づいた。


 これは大きな進歩である。焦げてから気づくのと、焦げかけで気づくのでは、人生の質が違う。


 ミラは網からパンを救出し、皿に置いた。端は黒いが、中央はまだ食べられる。勝利と言っていい。


「王都を救った時計師、パン一枚と接戦!」


 ピコが暖炉の脇で呟く。


「パンは、見た目より気難しいんです」


「大時計よりか?」


「大時計は痛い時に音を出します。パンは黙って黒くなる」


「陰湿だな!」


「そこまでは言ってません」


 ミラは薬缶から歯車草の煎じ湯を注いだ。


 相変わらず濁った緑色で、相変わらず健康に悪そうな匂いがする。


 戸が叩かれた。


 ごん、ごん。


 ミラの肩は跳ねた。


 跳ねたが、作業台の下にはもぐらなかった。


 これは、かなり大きな進歩である。


 戸を開けると、エルナが立っていた。片手に布包みを持っている。


「王都から書簡です。正式な礼状と、陛下から蜂蜜を」


「蜂蜜!」


 ミラの視線は書簡ではなく、布包みに吸い寄せられた。


 エルナは少しだけ笑った。


「歯車草の煎じ湯が、兵器に近い味だと聞きました」


「誰がそんな正確なことを!?」


「真鍮の相棒殿が」


「ピコ!」


 火蜥蜴は暖炉の脇で堂々と胸を張った。


「外交だ!」


「味覚情報の流出です!」


「国益にかなう」


「どこの国の!?」


 ミラは蜂蜜の壺を受け取った。温かい琥珀色。蓋を開けると、花の匂いがふわりと広がる。歯車草の苦味とは、正反対の匂いだった。


 ミラは湯呑みをもう一つ出した。


 少し迷って、エルナの前に置く。


「飲みますか? えっと、毒ではないです。味は、少し……敵ですけど」


「敵なら確認します」


「近衛隊長の仕事って広いんですね……」


「最近、時計師の護衛も増えました」


 ミラは煎じ湯に蜂蜜を垂らした。


 苦い緑の中に、金色の糸が落ちていく。小さな匙で混ぜると、湯呑みの底でかちりと音がした。


 大時計の心臓歯に似た音だった。


 工房の壁では、村人たちから預かった古時計がそれぞれの拍で鳴っていた。かち、こち、こつん。少しずつ違って、少しずつ正しい。


 エルナが煎じ湯を一口飲み、真面目な顔で止まった。


「どうですか?」


「蜂蜜は、勇敢です」


「勝ててませんか!?」


「負けてはいません。撤退もしていません」


「戦場みたいになってる……」


 ミラは思わず笑った。


 声に出して笑うのは久しぶりだった。少しだけ喉がくすぐったい。


 ピコが皿の焦げかけパンを見つめる。


「英雄譚では、王都を救った職人は宴に招かれる!」


「行きません」


「知っている! だから、ここで宴だ。パンは端が危険、茶は敵味方不明、客は剣を持っている。なかなか豪華だ!」


 エルナが焦げかけのパンを手に取った。


「端を避ければ、悪くありません」


「本当に?」


「はい。端を避ければ」


「大事なことを二回言いましたね?」


「安全確認です」


 ミラはまた笑った。


 窓の外では、山裾の風が草を揺らしている。遠い王都の鐘は、ここまでは聞こえない。


 それでもミラには、世界のどこかで竜骨大時計が正しく時を刻んでいるのが分かった。


 父の歯車は、もう彼女の胸元にはない。


 王都の心臓で働いている。


 ミラは少し寂しくて、少し誇らしくて、かなり胃が痛くないことに気づいた。


 歯車草の煎じ湯を、もう一口飲む。


 苦い。


 けれど、前より少しだけ飲みやすかった。


 たぶん、蜂蜜のせいだ。


 たぶん、それだけではない。



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