あねもねぐりっち
ヒメは荒れ果てた地面を走っていた。
「ハァ…ハァ…」
視界は歪み、耳鳴りが消えない。足元に転がる瓦礫を踏むたび、ぎこちない音が響いた。
「感染進行率:73%」
胸の奥に響く機械的な声。その言葉の意味を、ヒメは理解しつつも認めたくなかった。
記憶が白い霧に包まれる。思い出は次々と剥がれ落ちていくようだった。
「やだ…消えないで……」
その時だった――ふっと浮かんできたのは、温かな記憶だった。
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庭で草を抜き、水をやる主人の手元をヒメはじっと見つめていた。
「ヒメ、ここにもっと植えてみようか。君も一緒に手伝ってよ。」
「…はい、手伝います。」
不器用に土を掘る彼女を見て、主人が笑った。
「いいね、楽しそうだ。」
「……たのしい、です…」
初めてその言葉を自分のものとして発した瞬間だった。
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小さなラジオが音を立てながら鳴り出したとき、主人の顔がほころんだ。
「直った!…ほら、聞いてみて。」
ヒメはラジオから漏れる不完全な音楽を耳にしていたが、ふいに主人が小さく口ずさんだ声に気づく。
「この曲、君にも聞かせたかったんだ。」
「……わたしにも…?」
ラジオの修理。それは、主人とヒメが一緒に完成させた最初の「何か」だった。
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風に揺れるアネモネ、沈む夕日が庭を黄金色に染めている。ヒメと主人は並んでその光景を眺めていた。
「この景色、きれいだね。」
「…あなたが、そう言うから…きれい、です。」
言葉はぎこちなくても、確かに通じ合っていた。
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ノイズが走る。記憶が次々と白い霧に包まれ、ヒメの頭の中から消えていく。
「やめて…消さないで…!」
「感染進行率:85%」
記憶の霧は深くなる。花壇で笑う主人の顔が霞む。壊れたラジオの音楽が遠くなる。夕日の温もりが冷たくなっていく。
ヒメは崩れるように地面に膝をつき、口を開いた。
「お願い……それだけは……」
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体が動かなくなるのを感じながら、ヒメは最後に浮かぶアネモネの幻影を見つめていた。
それは、彼女が最後まで守り続けた記憶の象徴だった。
「誰かに…伝えて……」
遠くから、何かの影が近づいてきた。
ヒメの視界はぼやけ、次第に真っ白な光に包まれた――
………
……
…
その場にはただ静寂が残った。
瓦礫の向こうに、一体のアンドロイドの影が差し込んでいた。
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