第二王子の秘密の親友
広大な離宮の森には選ばれた貴族の子女が集う魔法の学び舎がある。
滴る緑の中、今まさに幼い学びの徒が魔力を授かる儀式の真っ最中であった。
壇上に立った魔導師学長の元、少年が荘厳な装飾がなされたクリスタルオーブを胸元からゆっくりともち上げる。小さな掌に余るそれを恭しく額の上に捧げ持った。
するとオーブの半ばまで満たされていた魔石がひと際明るい光を放ち、周囲からどよめきが沸き起こった。
「おお、流石は第三王子。兄上方に劣らぬ強い魔力の素養をお持ちだ」
脇に控えた魔導師のおべっかに弟王子が得意げな顔でこちらを見やったが、秀瑛は「凍てつく炎」の様と称される美貌を崩さない。神秘的な紫色の瞳を僅かに細めただけに留めた。
弟は何事も自分中心でなければ気が済まぬ性分だ。にこりともせぬ兄の様子に不満げに頬を膨らませた。しかし儀式を取り仕切る魔導師学長に「殿下」とたしなめられ、慌てて正面に向き直る。
秀瑛も自分が近寄りがたい雰囲気を放っているという自覚はある。それでよいとも思う。かつてこの儀式に臨み、過剰な火焔の魔力を得た時から、周囲を傷つけぬ為いかなる時も心を乱さぬことを己に課して来たのだから。
だが今日は違う。周囲が気が付かずとも、秀瑛自身は分かっていた。
森に向かって開け放たれた窓から心が落ち着く香りがするのに、友と交わした約束を前に気分が高揚し、ざわざわと落ち着かない。
魔力の制御の為深い森の奥で心身の鍛錬を積んだのち、城に戻って半年。
長らく開けていた生まれ育った城に戻った時よりも、今の方がずっと『帰ってきた』気持ちになれるから不思議だ。
(お前が約束をたがえるはずがない)
待ち人の姿は見えずとも気配を感じるだけでまた胸が高鳴る。それを押し殺すのはなんと難しいことだろう。
緑の中に視線をやるたび、紫色の虹彩の中、時折炎の舌がちろりと揺れた。
(近くにいるのだろう? 雫)
心の中で友の名を呼ぶだけで、乾ききった地表に透き通った水が滾々と湧き出て潤し広がっていくように感じる。
国土の北にある山脈渡りの風は、からからと水気を空気や地表から奪い、邪気をも運ぶ。
そのためこの国では古くから邪気から民を守る鎮守の森を育む恵みの力を持つ、希少な『水の魔力』持ちの誕生に期待を寄せてきた。
桁外れの炎の魔力を持つ秀瑛にとってもまた水の魔力は特別な意味をなす。
こうして感情を押し殺さずとも水の魔力を持つものが共にあるならば、炎の魔力もまた浄化の火として抑制が効くようになるのだから。
だが今日この儀式に挑んだ貴族の子供の中に水の魔法を発現できたものはなく、残すは第三王子の番を待つばかりとなった。
弟は自信満々に「私が水の魔力を手に入れて見せます」と言い放っていたが、秀瑛はそうは思えない。
(まっすぐな心根と、他者を癒し育む気配のあるものにしか、水の魔力は生まれない)
そんな確信があるのは、その理想を体現している相手ともうすでに出会っているからだ。
期待に満ちた視線が注がれる中、魔導師学長は皺だらけの手で綺羅ぎらしいオーブの蓋をゆっくりと開いた。
「いよいよですぞ」
魔法学院の講堂は大勢の人であふれているとは思えぬほど、しんっと静まり返る。
この「共鳴の儀」で魔石と人とが響きあい、結果覚醒を促される魔力の『質』は一生涯に渡り変わらない。
日ごろからきかん気が強い第三王子は魔石の光を瞳に映し、こみ上げる欲に薄く微笑んだ。
「さあ魔石に触れてみてくだされ。貴殿と呼び合うものがきっとこの中にあるはずです」
おのずと指先が深い湖水を思わせる爽やかな青い魔石に吸い寄せられるが、人差し指で触れた途端に魔石は輝きをしゅんっと失った。さざ波のように嘆息が広がる。
弟が顔を歪めるさまを秀瑛は静かに見守っていた。
「……っ!」
落胆する間もなく軽く握った他の指が魔石に触れ、途端に太陽のような輝きが瞬く。
「おお、これは。光の魔石。聖なる光が……。素晴らしい」
聖なる輝きで禍々しきものを制する光の魔法もまた、水の魔法ほどではないが数少ない才能といえ、周囲に感嘆の声が上がる。
そんな一連の儀式を開け放たれた窓の外、柱の影から見つめるものがいた。
※※※
(やっと会えた)
講堂にひしめく、銀糸金糸で家系に由来の花の刺繍が縫い取られた純白のローブを纏った少年少女達。その中でもひと際背が高く凛々しい友の姿は、記憶の中より少し大人びて見えた。
対する自分は焦げ茶の上下にすすけた緑の前掛け姿。森の中で共に過ごしていたころは秀瑛相手にも恥ずかしいと思ったことはなかったが、厳粛なこの場で明らかに粗末な身なりは不釣りあいだ。胸がぎゅっと苦しくなる。
一日千秋の思いで待ちわびた再会であるのに、手を伸ばせばいつでも触れ合えたはずの友との距離はこんなにも遠い。
今までだって友と自分の身分の差は天と地とも違っていたはずだ。
(どうしてだろ、あの頃は秀瑛とずっと一緒にいられるって信じて疑わなかった)
同じ未来を語り、共に見上げた森の向こうの青い空の下、いつか二人で国中の鎮守の森を訪ねて歩く夢もあった。共に暮らした日々の中では、二人の心はいつでも隙間なくぴったりくっついていたのだ。
『六度月が欠け満ちた時、再び会おう』
先に森を出た友の力強い声が、不安になるたびに蘇った。
それを道標に必死の覚悟を持って広大な森の端からここまでやってきた。
だが雫はこれほど多くの人を見たのは初めてで、足がすくんであと一歩前に踏み出す勇気が出ない。
(ごめん。秀瑛……)
雫が秀瑛と出会ったのは離宮の奥深くに広がる、鎮守の森の奥。小さな湖近くに雫と父が寝泊まりし、森を手入れをして回るための粗末な小屋があった。
その近くにある庵には、かつて炎を操る最強の魔導騎士団長として今なお尊崇される老師が隠居していた。そこに彼を頼ってやってきたのが幼い秀瑛だった。
聞けば過ぎたる魔力を得た後遺症で何日も高熱に浮かされた時、看病をしてくれていた最愛の母に、制御を失った力で消えぬ火傷を負わせてしまったのだという。
孤独な二人は森の中で懐の広い老師に引き合わされ、雫は一目で彼に魅せられた。
美しい造作、優雅な立ち居振る舞いにも心を奪われたが、それ以上に彼の帯びる色彩の虜になった。
「髪の毛、春に飛んで来る金色の小鳥の羽みたいにきらきらだ。目も葡萄みたいに艶々してて綺麗だ。傍でよく見せて」
森の中では緑以外の鮮やかな色を目にし続ける機会は少ない。
春先に蝶や鳥や小さな花、秋に木の実を見つけては、一期一会の色彩の美に雫は心を揺さぶられることが多かった。
秀瑛は遠慮のない雫に戸惑った様子で僅かに頬をぴくりっとしただけだった。その後もあまりに無邪気に雫が接してくるので、我慢できず思わずといった感じに微笑むことも増え、雫にはそれが嬉しかった。
雫の父は幼いころより森とともに生き、そこに住まう精霊の加護受けているのでささやかながら水の魔法を使えた。意識を集中させれば水脈の気配を感じて新たな井戸を引き当てることができそれを生業にしていたのだ。
しかし貴族のように『共鳴の儀』で得たわけでない魔法を奮ってもそれは『魔導師』とは認められず、市井では異端とされ悪しきものからは搾取されるだけの力だった。
雫にもまた、森を愛し愛される者として森の精霊から水の加護を与えられていた。それに目を付けられ、幼い頃暮らしていた村はずれの山小屋から、かどわかされそうになった時、雫を守って母は命を落とした。
それから父子は人目を避けるような生き方をしてきたのだ。
そんな父が老師との出会いもあり、何とか得た仕事がこの森の番人だったのだ。
森での暮らしは幼い雫には物寂しくもあった。しかし自分のせいで妻を亡くした父に友が欲しい、外の世界を見てみたいなどと口が裂けても言えなかった。
寂しい心を抱えていた雫の前に現れた秀瑛もまた、美しい貌に感情の色だけ亡くしたまま、ひたすら魔力の制御を積むべく心身の鍛錬に邁進しているところだった。
(俺と似てる、寂しいって口にするのを我慢してる)
その懸命な姿は鏡合わせで自分自身を見ているようで雫は堪らない気持ちになった。
代わる代わる森を訪れる個性豊かな学者の元、互いに剣術を競い、魔力の基礎を学んだ。
共に森の中を駆け回って遊び、花々咲き乱れる蝶の丘で共に駆ける。暑い夏には湖で共に泳ぎ、雷鳴響く秋の嵐、雪降る凍てつく晩には身を寄せ合った。
夢もできた。自らの力を試しながらこの国を出て旅をして回りたい。本や地図を広げて白い花が咲く森の切れ間の草原に寝転んでは青い空に流れる雲を指さし夢を語り合う。
「私の終生の友はお前だけだ」
「うん」
水の気配の濃い雫が傍にいる時は、秀瑛は笑い叫び自らを開放しても、魔力が暴走することはけしてなかった。
雫もまた生来の朗らかさを取り戻していった。それが互いの心身の成長にも良い影響を及ぼした。
そうして瞬く間に月日がすぎた。
秀瑛が炎の魔力を完全に我がものにできた時、彼がこの国の第二王子であり、力が制御できた暁には家族の元に戻るのだと知らされた。彼が森を去る前の晩のことだった。
それまで庵を訪れる学者の中に雫のことを明らかに下賤の者と見下して、秀瑛の静かな怒りを買い追い戻されるものがいたので、彼の高貴な身の上を透かし見てはいた。しかしまさか雫がボロボロになるまで読み込んだ、歴史の本に出てくる王の末裔だとは思わなかったのだ。
突然の別れに文字通り胸をかきむしられ、うろたえる雫の手を秀瑛は握り、掌の中に握りこまされた金属の札は、秘めたる心のように熱かった。
今もまだ、雫の手を取り力強く握り、不安ごとうち砕くよう に強く誓われた言葉が耳に残る。
『これからも共に学び、共に研鑽し、共に生きていこう』
そのためには、秀瑛の傍にいられるだけの、目に見える証を持たねばならない。
(クリスタルオーブの魔石に選ばれし、水の魔力を発動させる人間だと人前で証明せねばならない)
雫は長い睫毛を瞬かせ、首から下げていた魔力の呪符が刻まれた割札を痩せた手で必死で握りしめる。
『お前ならば必ず、誰より強く水の魔力を発現できる』
あれほど会いたかった友の姿に目は釘付けになりつつも、雫は首をいやいやするように首を振る。
(もし、出来なかったら?)
丈の合わぬ下履きからすらりと伸びた足で後ずさりした。
魔導師学長の前に立ち、その指に太陽の光を紡いだように輝く魔石を第三王子が純白のローブを翻し、学びの徒たちを振り返ると、得意げに掲げる。
「新たにこの学院に集いし子供たち、全員の力がクリスタルオーブより祝福を受け、ここに正式に魔法学院の……」
「お待ちください」
変声期前だが不思議と精悍な響きがある秀瑛の声が、魔導師学長の言葉を強く遮った。
誰もこのような事態は思いもつかなかったのだろう。ざわざわっと講堂に動揺が走っていく。
「兄上?」
先ほどまでこの場の主役のような顔をしていた弟の戸惑う声をしり目に、秀瑛は全方位に向けて高らかに言い放つ。
「まだ一人、儀式を受けていないものがおります」
今まで彼がこれほど声を張り上げたことを聞いたことがない。
「雫、そこにいるのだろう?」
王者の風格を感じる気品あふれる声が講堂から窓を抜け雫の胸に心にまっすぐに突き刺さる。
(秀瑛が、俺を呼んでくれた)
久しぶりに名を呼ばれ、友がまだ自分を思っていてくれたのだという感動と高揚感、そしてたっぷりの恐れにぶるぶるっと震えが駆け上った。
『もしも父さんが子供のころに魔石を持てたら、すごい水の魔導師になったかもしれないって俺は思ってるんだ』
そしてもしそうであるならば、母が命を落とすこともなかったのではないかと想像すると悔しくて堪らなかった。
父だけではない。貴族と違い魔石を得ることのできぬ者の中にも隠れた才能を持つものもいるのではないだろうか。しかし身分の違いがあるこの国で、そんなことは口に出す者もいない。
不敬な発言だが、秀瑛と老師だけは静かに頷いてくれた。
(これを逃したら、一生秀瑛の傍にはいられない)
雫は決意に拳を握り締め、柱の陰から飛び出すと、呼び声に応じて前に進む。
突然その場に現れた泥あくたにまみれた少年の姿に一同がぎょっと目をむく。
魔導師も驚きを隠せないのは、秀瑛がその名を呼ぶまで割札が目くらましをして雫の姿を皆から隠していたからだ。雫もここに来るまでの他人の反応から、なんとなくそうだろうと感じていた。
雫は割札を握りしめ、森と湖どちらも映したような緑色の大きな瞳をまっすぐに友へと向ける。
友は微笑んだ。存在自体が鮮やかで、雫にとってはいつでもその下を歩くべき太陽のような存在だ。
「ここへ」
再び自分だけに呼びかけられた声に突き動かされ、雫はあえてわき目を振らず牡鹿ように力強く、秀瑛に向かって一直線に駆けだした。
(来たよ、ここまで来たんだ)
沢を越え、昏い森を越え、蝶の草原を越えて、ここまでたどり着いた。
(またお前に会いたかったから。お前の傍で一緒に成長したかったから)
自分が皆に歓迎されていないと見なくとも気配でわかる。
王子とは不釣り合いな、粗末な身なりの少年。
嘲笑が上がり、複数の視線が矢のように突き刺さってくる。それはとても好意的とは言えぬ、まるで森から出てきた獣でも見るような嫌悪と怖れが入り乱れる。
その上、魔石を持ちたての子供らの気が乱れ、渦巻く魔力の渦にありありと場の空気が変化した。気の弱いものはそのまま膝をつき、昏倒しかけるものまで現れる始末だ。
「お前、どうしてここに入ってこられた!」
第三王子は金色の瞳を見開いて雫を睨みつけてきた。高位貴族の子らが集まるこの場所は多くの魔導騎士が取り囲んでいるから疑問は無理からぬことだ。しかし雫の胸から下がった割札がまぎれもなく兄の文様が付いていることを見とがめると、嫉妬からさらに逆上して魔石を持ったままの腕を振り上げ叫んだ。
「よくもそんな汚らしい姿で兄上の名を呼んだな。恥を知れ! そいつを今すぐ捕らえろ」
またあの眩い光をその身体に漲らせた第三王子が叫ぶと、その隣にいた魔導師の一人が雫の行く手を阻むように立ちふさがる。
「雫は俺の大切な友だ。卑下することはお前であっても許さない」
黒いローブをまとった太い腕で雫の腕を掴み上げようとしたが、割札に焼き付けられた呪文が赤々と光ったとたんにまるで業火にあぶられたような熱気に阻まれ、手が出せない。
ひりびりと講堂全体の空気が熱くなる。秀瑛の持つ炎の魔力が周囲に影響を与え始めているのだ。兄の感情の浮かぶ声を聞くのは久しぶりで第三王子はぐっと唇を噛み締めた。
「共鳴の儀をこの者にも受けさせて下さい」
「秀瑛様。なにをおっしゃいます。共鳴の儀の参加者はあらかじめ選考に選考を重ねた……」
秀瑛は紫の瞳の中に炯々と赤い光を燃え上がらせ、取り巻きの魔導師たちを強く睨みつけると、ますます湧き上がる熱が激しさを増す。
魔導師学長と秀瑛自身が守りの呪文を焼き付けた割札をもつ雫以外は壇上から逃れるように後方へと逃げていった。
様々な魔石が共鳴するように光を点滅させる。
しかし魔導師学長が涼しい顔で腕を振るい、掌を天井に向かい掲げると、講堂全体が銀色の光に包まれて子供らすべての魔力の漏れを吸い上げ一瞬で握り取った。
得たばかりの魔石が光を失い、先ほどの儀式で身を包んだばかりの魔力が抜けて虚脱した身体に驚いて泣き出す子供もおり、辺りを騒然とした空気が包む。
「皆、静粛に。魔導師は常に鷹揚自若たれ。己を制せぬものは魔力を制することは出来ぬ。その覚悟無き者は今すぐ魔石を返納しこの場を立ち去るがよい」
その一言に一同正気を保って黙り込んだ。
「第二王子よ。なぜそれほどまでそのものに共鳴の儀を受けさせたいのですか?」
老いてもなお、その魔力が衰えることなく、並の者なら畏敬を感じて対峙すらできぬと噂される人物だ。だがまだあどけなさの残る美貌の奥に闘志を燃やし、秀瑛は臆することなく静かな口調で語り掛ける。
「炎の魔力持ちの私が、雫を半身とも言うべき得がたい友と感じるからです。彼は必ずや水の魔石を得るでしょう」
「その論拠は? 口だけならば何とでもいえましょう。いくら貴方様といえ、成人前の身の上。父上のご威光無しに己の力だけをもって、ここでそれを証明することができるのですか?」
頭ごなしに秀瑛の主張を一蹴することもできたはずだった。そうせず魔導師学長の魔導師としての老獪さよりも教育者らしい聡い眼差しに打たれ、秀瑛は胸に手を当て一礼した。
「先生のおっしゃる通り、今の私は何も持たぬ、ただの子どもです。私の言葉に耳を傾けられぬのは無理からぬことです」
賢い少年はそう認め、ひたっとその美しい眼差しを魔導師学長へ向ける。雫は自分のために無理を通そうとしてくれている、友の潔く気高い姿をただ健気に見つめることしかできなかった。
「では、私のこの瞳を、その証として捧げましょう」
「殿下……」
「秀瑛! 」
不退転の覚悟を決め魔導師学長を見つめる秀瑛の瞳は、一対の稀有な宝玉のように見るものを魅了する。さすがの魔導師学長も押し黙り、魔導師たちはありありと顔色を失い、あるいは真っ赤になって怒り、とんでもないことだと首を振る。
(秀瑛は本気だ……)
『私が必ず、雫に魔石を手に入れさせてあげるよ』
秀瑛はやると決めたらやる男だ。
はじめは森に生きる雫と違い泳ぎも狩りもまるで不得手だったのに、雫と老師に絶対についていくと言ってきかずに、最後はたゆまぬ努力でどちらもものにしていた。自分の保身などお構いなしに、この場に雫を招聘したこと自体、彼の覚悟がよくわかる。
「だめだ!」
信じられない申し出に最初は冗談だろうと子供たちはみな嗤っていたが、雫だけは違っていた。大きな瞳を怒らせながら威勢よく彼らを怒鳴りつけた。
「嗤うな! 秀瑛は嘘偽りを口にするような男じゃない」
秀瑛が片膝をついて学長の足元に跪き、多くの奇跡の御業を起こしてきた掌に額や目元を載せるしぐさを目にすると、ついにそこここで悲鳴が上がる。
「魔導師学長。私はここに、誓約を結びます。『雫は必ず、水の魔石と響きあう』」
初めて会ったときから大好きだった、友のうちに情熱を秘めた深い紫色の瞳。飛びついてやめさせようとした雫を片手で制し、迷いなく秀瑛は言い切った。
「『私はこの両目の、光を捧げましょう』」
「秀瑛ぃぃ!!」
大切な、かけがえのない、友の瞳。
あまりにも尊い供物を捧げられた心は張り裂けんばかりで、血を吐くような絶叫で友の名を呼ぶ。
「その誓約、しかと聞き届けた」
銀色の光が魔導師学長の掌から放たれ、秀瑛は満足げな微笑みを浮かべたままその瞳を固く閉じた。
嘆きの悲鳴が堂内に割れんばかりに響き渡る。雫は爪が掌に食い込むほど強く両手のこぶしを握り、叫びをあげそうになる唇を血がにじむほどに噛み締めると、足を踏ん張ってその衝撃に耐える。
「うわあああ! お前のせいで! 許さないぞ!」
雫に飛びかかろうとした第二王子は魔導師たちに羽交い絞めにされ、あまりのことに耐えきれずに失神する子供も現れた。
窓からの光を背にした司祭の影は濃く、雫を睥睨する目は心の中まで見透かしてくるようだ。しかしこの目には見おぼえがあった。森の隠者に師事した雫に怖れは浮かばなかった。むしろこの胸を切り裂き、胸に親友が灯した決意の炎を見せつけてやりたかった。
「俺を信じて」
顔を上げた友の瞳はかつて雫が見惚れたその色彩を失い、白く濁っていた。しかし友の声に反応し向けた顔つきは晴れ晴れとしている。
「信じてるさ」
友の自らを省みぬ献身に涙が止まらない。魔力を制し家族の元へと戻ったばかりの秀瑛。もう何の憂いもなく自由に生きられる身の上であるのに、誰の力も借りずに自分の誠心だけをもって友に報いようとしている。
涙があとからあとから湧いてきて、苦しくて切なくて恐ろしくてたまらない。
だが泣いている場合ではない。袖でぐいっと目元を拭った。
(俺のために、ここまでして……)
「ここに参れ」
雫は跪いていた友の肩を抱き立ち上がらせると、もう視線の合わぬ花の美貌に向かっていつものように邪気なく微笑みかけた。
「また会えた。嬉しいよ」
「私もだ」
友の吐息に笑顔の気配を感じて、秀瑛も微笑んだ。第三王子は兄のそんな穏やかな微笑みを信じられぬ心地で見上げていた。
「これからも、共に歩むんだ」
「ああ。秀瑛。少しだけ辛抱してくれ」
秀瑛が雫の正面を外して差し出した手をぎゅっと握りしめる。
「今度は俺がお前を光の中に連れ戻す」
雫は名残惜し気に手をはなすと魔導師学長に向き直り、眦を吊り上げて魔導師学長を睨みつける。ゆったりとした仕草で祭壇から持ち上げたクリスタルオーブを両手でしっかりと受け取った。
(森の木々よ。宿る聖霊よ。俺を本当に森の愛し子と思ってくれているならば、力を貸してください)
木々の精霊の声は一人になると聞こえてきた。それは母の子守歌にも似て、優しくも力強い。
森を走る水脈の位置には幼いころよりなんとなく気が付いていた。そしてこの国を邪気から守る鎮守の森々は葉脈のように地下で水脈同士が繋がっているとも。水の魔力を持つものが分断された部分をつなぎ合わせていけば、この地はきっともっとよくなる。
(俺にその任をお与えください。水の魔力を得たならば、秀瑛と共に森を守り、国を守る礎となりましょう)
水が地表に上がり木々に恵みをもたらすような想像を巡らせれば、講堂を包む森全体が一つの生き物のように雫の祈りに呼応してざわめく。そして魔石までもがその響きを楽しがるように鮮やかな光を放った。
中でもひと際強い光を放ったのは青空のような、それともなくば泉のような見るものの心を爽やかな気持ちにさせる色合いの魔石だった。
魔導学長がオーブの蓋に手をかけると、場内みな息をのむ。
雫はあの日二人で見上げた蒼穹のような青い青い石に指を伸ばす。そして迷いない手つきで摘まみ上げた。
石は清らかな光をそのままに、空には俄かに雲がわき起こり、ばらばら、じゃあっと雨が降り出した。この時期には珍しいほどのたっぷりとした雨粒に土の匂いが立ち森から運ばれてくる。
窓から聞いたこともないような不思議な音が聞こえてきて、森の精霊が喜びと祝福の歌を人々は初めて聞いた。
稀有な水の魔導師の誕生に、感嘆の声が広がる。
心臓の鼓動とともに、身体の中に今は今までよりはっきりと魔力の流れを身体の隅々まで感じることができた。
緊張から来る震えで病でも得たかのように足ががくがくと震える。
ふらふらになりながらも振り返った雫の目に飛び込んできたのは、今まで見た中でもっとも清艶な笑顔を見せた友の姿だった。
(もういいよな、もう、もう)
今まで小さく押し殺し潰してきた感情を爆発させて、雫は堂内にあまねく響き渡るほど友の名を絶叫する。
「うわあああ!!! 秀瑛、しゅうえいぃ!」
「雫! やはりお前は私が見込んだ男だな」
「目、目は大丈夫なのか?」
「ああ、お前の泣きべそ顔がよく見える」
顔も体も泥だらけの自分が純白の礼服を身にまとう友の傍にいるなどおこがましいなどと思っていた迷いなど、清々しい友の笑顔を前に吹き飛んでしまった。
青い魔石を握りこんだままの手を友の背に回し、力いっぱい抱き着くと、彼はすっかり背が伸びてすっかり勝手が違っていた。
「お前、ちょっと見ないうちに大きくなったな」
「雫はしっかり食べているのか? なんだか縮んだな」
「ぬっかせ!」
「こほんっ」
魔導師学長の大仰な咳払いつられ、周りを見れば、小綺麗な子供たちは腰を抜かして座り込み、呆気に取られて二人の様子をただただ呆然と眺めていた。
「秀瑛様。貴方の誓約はここに聞き届けられた。そのものの後ろ盾には、生涯この私がなりましょう」
平民の少年には破格の申し出と言えたのだろうが、秀瑛は当然だといった顔で友の肩を抱いて魔導師学長に一言申した。
「そのもの、ではありません。私の自慢の友の名は雫、といいます」
※※※
その後、雫と秀瑛の名はこの国で「守護魔導師」と謳われ尊敬とともに語り継がれることになるのだが、今はまだ再会と身体に満ちる魔力の余韻に興奮が冷めやらぬ彼ら自身ですら知る由もない。
水と炎、一対の魔導師が誕生した瞬間、雨は上がり、天から眩い梯子のようにまっすぐに光が差し込み、大きな虹が二重に空にかかった。
終