男爵令嬢の立つ鳥は跡を濁し、後始末はしない 【コミカライズ進行中】
エピス王国の法服貴族であるマルグリット男爵家は、17歳の双子の姉妹がいることで有名な家だった。
長女のアンティーヌはプラチナブロンドに蜂蜜色の瞳。太陽をとかしたような輝きと月をとかしたような煌めきが混じりあったみたいな長いプラチナブロンドが幻想的で。蜂蜜色の瞳はとろりと甘く。神の領域の美貌の美女として〈金と銀の薔薇〉あるいは〈地上の天使〉と称えられていた。
それに対して次女は、残念ながらマルグリット男爵家の出涸らしと言われていた。
次女のリーフィアは茶髪茶目。金と銀細工の薔薇の花のようなアンティーヌと並ぶと落葉みたいで〈枯れ葉〉と囁かれて社交界で見下されている令嬢だった。
客観的に見て、リーフィアも可愛らしい容姿の少女なのだ。
特に声が素晴らしく、ふるえる弦楽器のように耳に心地よく響き、人魚の歌声のごとく魅惑的であった。
しかしアンティーヌはただ美しいだけではない。絢爛たる色彩の絵のような美貌と春の淡雪の清らかさを兼ね備えた天使のごとく神秘的な美しさであったのだ。そんな天元突破した絶世の美貌のアンティーヌと双子というだけで比べられてしまい、リーフィアの美点は人々から無視されて〈枯れ葉〉だの〈残りかす〉だのと貶されてしまうのである。
けれども世間が何を言おうとも、双子は極上に仲良しの姉妹であった。
「私は天使の顔、リーフィアは天使の声、神様が一人の天使を双子として分けてしまったみたいよね」
「もともと一人だったから私とお姉様はこんなにも仲良しなのかしら?」
「そう考えたら素敵じゃない?」
「凄く素敵! 私、お姉様のこと大好きだもの!」
「私もリーフィアが大好きよ!」
父親のマルグリット男爵は愛する妻を亡くして以来、いっそう姉妹を猛愛するようになり姉妹の望みを叶えることを行動原理として生きていた。
可愛い娘たち。
アンティーヌもリーフィアもどちらも可愛い。
娘たちが幸せな笑顔であれば、男爵はそれだけでよかった。
幼い頃。
「とと様、金魚を飼いたいでちゅ」
と願ったアンティーヌのために。
男爵は庭に池と水路を作った。
まったく澱みのない透き通った水を湛える池で、透明な水面は青い空を映して、まるで水の底にも空があるがごとく感嘆に値する池であった。
水路には、色彩や光沢の美しい珊瑚や貴石の欠片を沈め、小型の橋や岩を装飾的に配置した。さらに水中で咲く花々や各種の水草、水生植物で水の中に小さな森を作ったのだった。
水面から反射する光線は黄金の波紋を描いて広がり、水中では飛ぶ鳥ではなく泳ぐ魚と吹く風ではなく流れる水の明媚な森が佇む。
そこに放たれた色とりどりの金魚は万華鏡のように艶やかで、色彩が乱舞しているみたいだった。金魚の長い尾ビレが領巾や裳のように揺れて。背ビレがうねって水の密度が重なり。水の泡が水中を揺蕩う。
水底に反映する金魚の影と水面から届く木漏れ日のような光の影さえも舞踏のように優美であった。
「とと様、お花を植えたいでちゅ」
と願ったリーフィアのためには。
春には絢爛たる百花の花々が風にそよぎ。
夏には生命力あふれる花々が生い茂り、風にさざなみ。
秋には染められたかのような葉と花々が咲きこぼれ、風に揺らぎ。
冬には白い雪を彩色するみたいな花々が風にほころび。
蝶が翻り、鳥が鳴き、四季折々の花盛りの花々が風に香り立つ庭であった。
巨石の石門。
蔓薔薇のアーチ。
水音が刻を静かに積み上げるような、美しい水と花の庭園に双子は大喜びをして、
「「とと様、ありがとうございまちゅ」」
とアンティーヌが右からリーフィアが左から、迫力満点の熊のような筋骨隆々で強面の男爵の頬にキスをすると相好を崩した男爵は、
「うちの娘たちは世界一可愛い〜〜!!」
と、グオオッと双子に頬擦りをして吠えたのだった。
貴族の常識からは外れるが、姉妹ともに婿をとって男爵家でこのまま生涯暮らそうと思うくらいに家族仲が抜群に良かった。父親の男爵も、爵位は底辺だが資産は王国でも頂点に位置するので、双子の考えに大賛成であった。父親としては、可愛い娘たち諸共にいずれ生まれてくる孫たちを蝶よ花よと溺愛して、ある意味勝ち組人生を突っ走る計画だった。
が、問題がおこった。
数多のライバルを蹴散らして、アンティーヌへの求婚者の第一候補の座についたのが王太子だったからである。
「丁寧にお断りしているのに諦めてくれないの。どうして身分差をわかってくれないのかしら。私は側室になりたくない。かといって王妃になんてもっとなりたくないし、男爵令嬢が王妃になるなんて上位貴族の方々が許さないわ。睨まれるなんてレベルではなく、王太子殿下を男爵令嬢風情が誑かしたと暗殺されるレベルよ。そもそも王太子殿下には婚約者がいらっしゃるのよ、私に言い寄るなんて立派な不貞だわ」
「お姉様。最終手段としては、お父様は皆で夜逃げをすることも視野に入れているらしいです。うちは男爵家ですので最弱の立場です。権力でイチャモンをつけられて冤罪で公明正大に処分される可能性が高いから、ってお父様が」
双子は顔を見合わせた。山蔭に咲く花のように半面が隠れた横顔で、浮き彫りのカメオのようにお互いを見る。
「「夜逃げしましょう!」」
即断即決即行動。双子は満場一致で父親の執務室に向かった。
トントントン。
「「お父様、入ってもよろしいでしょうか?」」
父親の返事よりも先に執務室の扉が開いた。
そこにはリーフィアの婚約者で双子の幼馴染みのエリオットが立っていた。
リーフィアの姿を見て、エリオットの冷酷で冷厳な氷のような表情が溶ける。蕩ける。燃え上がって火傷をする恋ではなく凍り付いて凍傷になる恋ではなく、リーフィアとエリオットの恋は、慈しみ思い遣って大切に育てた恋であった。
「久しぶりだね、リーフィア」
「予定より早くエピス王国に入国したのね、手紙では来週だったじゃない? 三週間ぶりね、エリオット」
会えて嬉しい、とリーフィアがはにかむ。
「馬車旅が順調だったんだ、で、昨日から商談でエピス王国に来ていたんだけどヤバイ情報を掴んでしまったんだよ。それで、相談に来たんだ」
「「ヤバイ情報?」」
双子が声を揃える。エリオットは隣国の大商人の息子で、大金持ちである。エリオットの父親の通商網は大陸全土に広がり、王家よりも情報を所有すると言われていた。
くわえてエリオットは恩寵持ちであった。
この世界には魔法はないが、千人に一人くらいの割合で恩寵持ちがいる。その名の通り神様からの賜物である。
能力は様々で。
剣技や暗算など一般的な能力から治癒の力や未来視などの強力な魔法のような能力もあれば、猫の幻を作れるとか、じゃんけんでの勝敗確率の上昇というような役に立つのか立たないのか不明な能力まで個人個人によって色々とあった。
エリオットは、自分自身および触れているものの姿を30分間消せるという能力である。
そして双子も恩寵持ちであったが、こちらは危険な能力だったので知っている者は家族とエリオットだけであった。
「うん。アンティーヌの求婚者の王太子殿下。殿下には公爵家の令嬢の婚約者がいるだろう、でも明日の夜会で、殿下は公爵令嬢との婚約を破棄しようと企んでいるらしい。しかもその場で、アンティーヌを新たな婚約者とする発表を強行しようと側近たちを動かしているみたいで」
双子が悲鳴を上げる。
「お断りしているのに~! 奥ゆかしく辞退している、って何故そんな解釈になるの? 王太子殿下は自分に都合よく物事を捻じ曲げすぎだわ〜!」
「王家と公爵家の政略なのに~! 王太子殿下は何を考えて、いえ、むしろ何も考えていないのかも!? 無謀すぎだもの、王太子殿下は! とばっちりは弱い此方にくることを理解していない~!」
「王宮に潜入させている密偵も同じ情報を寄こしてきた。だから今すぐ逃げ出そうと思うんだが」
父親のマルグリット男爵が重々しく言った。リーフィアと同じ茶色の髪、アンティーヌと同じ蜂蜜色の目が物騒に薄く光る。
「エリオットが全て手配してくれている。もう屋敷も商会もエリオットに売った。使用人たちの面倒もみてくれるから心配ない。さぁ、可愛い娘たち、1時間後には隣国へ出発するから手早く荷物をまとめておいで。大事なものだけでいい。残りの荷物は後からエリオットの使用人たちが届けてくれるから」
エリオットが忌々しげに鼻を鳴らす。
「でね、王太子殿下よりも国王陛下の方が問題なんだ」
エリオットの眉間が曇る。皺が深い。
「国王陛下は王太子殿下の計画を知っていて。国王陛下も公爵家も王太子殿下に瑕疵をつけないように、アンティーヌを悪女にして、アンティーヌが王太子殿下を誘惑したとする下手な劇みたいなシナリオを書いているんだ、王家と公爵家の婚約を冒涜した不敬罪として。権限と地位を悪用しての杜撰で明らかな濡れ衣でも、国王陛下が権力を使えば普通の男爵家では反抗できない。このマルグリット男爵家ならば反撃は可能だが、今度は国家反逆罪を適用して潰しにくるだろう。どちらにせよ、罪は全部こちらに被せて男爵家の莫大な財産を没収して、男爵は処刑、アンティーヌたちは、その、あの……」
「言わなくていいわよ、エリオット。若くて綺麗な女の子の運命なんて想像がつくもの」
リーフィアが言いづらそうにしているエリオットの語尾に言葉をかぶせる。
「とにかく急ぐ必要がある、てことよね。王家に気がつかれる前にエピス王国を出ないと。マルグリット男爵家は王国一番の資産家だし、お姉様は王国一番の美貌だし、一挙両得でウハウハ気分予定のムカツク✕百の国王陛下を出し抜く必要があるものね」
「知らせてくれてありがとう、エリオット」
リーフィアが心からエリオットに感謝を告げる。
「当然だろう、大事なリーフィアの家族のことなのだから。もともと王国の奴らのことも気に食わなかったしな。僕の大切なリーフィアを枯れ葉と貶めるなんて信じられない。リーフィアはめちゃめちゃ可愛いのに、あ、もちろんアンティーヌも可愛いぞ」
ぽっと頬を染めるリーフィアと、付け足しのように誉められても嬉しくないと唇を尖らせるアンティーヌ。
「アンティーヌ、僕の国に来たら昔みたいにクリスと会ってやってくれないか? クリスの奴、最初は嫁にもらうために、今はマルグリット男爵家に婿入りするために何年も自分の家と交渉しているんだよ。僕たち幼馴染みだろ、エピス王国を出国するんだからクリスとの交際を考えてやってくれよ。ずっとクリスはアンティーヌを好きなんだよ。万一の出奔に備えて、公爵家の権勢が及ばないように自身に権力をつける奮励をして、さ。天災と呼ばれる天才なのに、クリスはアンティーヌに関しては健気なんだよね。別れの時も自分の性格を自覚しているから無理強いはしなかったし」
「お姉様、クリスはいい人だわ。隣国へ行くんですもの。クリスは隣国の公爵家の一人息子だけれども、クリスのご両親からお姉様は熱烈大歓迎されていて軋轢はないもの。私はエリオットの意見に賛成だわ」
エリオットとリーフィアが片想い歴を更新中のクリスを応援する。マルグリット男爵は商売のために家族で隣国に数年間住んだことがあり、その時にエリオットはリーフィアに、クリスはアンティーヌに情熱的に恋をしたのであった。
「クリスは公爵家の後継だから断ったけれども、そうね、クリスは毎週手紙もくれて執念、ゴホン、粘着、ゴホン、一途に愛してくれているものね。一考の余地はあるかしらね? 結婚後、きちんと私を守ってくれる人が理想なのよ」
アンティーヌは思い出す。
公爵家の令息なのに自ら花を摘み、花冠を作って贈ってくれたクリス。
誰もがアンティーヌを天使みたいだと容貌を褒めるなか、社交界で虐められるリーフィアを庇う毅然とした強い態度が好きだとクリスだけが言ってくれた。
「クリスならば信じられるかしら……。容色が衰えても私を愛し続けてくれるかしら……」
ぱん、とマルグリット男爵が会話の区切りをつける為に手を叩いた。
「会話中に悪いが、可愛い娘たち。時間がないぞ、急いでおくれ」
「「ごめんなさい、お父様。すぐに準備をするわ」」
ドレスを蝶のように翻し足早に出て行く娘たちを見送って、マルグリット男爵はニヤリと人食い熊みたいに悪辣に笑った。
「王国も愚かだな。うちの商会が納める納税額を知らないのか、みすみす金のなる木を失うなんて」
「国王陛下は、理不尽極まりない理由で男爵家から全財産を取り上げるつもりでしたからね。最近の国王陛下は長年の奢侈を尽くした生活によって金欠状態です、男爵家の財産で穴埋めをして尚且つ王太子殿下の欲望を満たすためにアンティーヌを奴隷同然の身分の低い妾にと画策しているのです。確かに低コストですよね、マルグリット男爵一家の犠牲だけで解決するのですから。でも国王陛下は、実現するとは決まっていないのに儲けと欲の計算だけはして、膨らませた期待を裏切られるなんて想像もしていないのでしょうよ」
「ハハハ、もう権利はエリオットに売ったのにな。全財産もエリオットの商会を通して隣国に移し済みだし」
「はい。他国の商会が自国に撤退するなんてよくあることですから。売ってもらった商会は即座に隣国へ移動させます。王都はしばらく適正価格の良質な商品の物流がほぼ停止状態となり民たちは不満を募らせるでしょうが、そこは国王陛下に頑張ってもらいましょう。もっとも税金を搾り取るだけの国王陛下に鬱憤を蓄積させている民たちは多いですから、どのような騒動になることやら……」
「高貴な方々は弱い者を踏みつけても抵抗などしない、と考えているのか……。黙って蹴り飛ばされる路傍の石になれ、と。確かに弱さゆえに反抗できない者は多い。だが、弱い者たちにも心はあるのだ。母国ゆえに今まで貢献してきたつもりだったが、娘のことは許容できない。限界だ。まさか国王が私欲のために法を無視して冤罪を着せることを躊躇しない暗愚であったとは」
と、マルグリット男爵は重く苦いため息を吐いた。枯れ始めた樹木の葉のように肩を落とす。目が、老いた大樹の崩れかかった洞のごとく底深く闇が濃い。
「…………わたしは自身の王国での有益性を自負していたから慢心をしてしまった。領地もなく王宮での役職もなく男爵位という爵位の縛りで商会は王国に莫大な税を納めてきたが。まさか王国から理不尽な収奪の対象とされるとは最大の不覚だ。油断して努力を怠っていたわけではないが、もっと警戒するべきだった」
一方で。
「リーフィア。私の荷物を任せてもいいかしら?」
「何か用事があるの? お姉様」
「ええ。今回のこと、私に求婚してきていた上位貴族のご子息様の皆様へ手紙を書いてお知らせしちゃおうかな~、と」
王太子に涙を飲んで譲っていたが、上位貴族の年若い子息たちはもれなくアンティーヌにメロメロの首ったけだった。「アンティーヌ嬢よりも美しい令嬢がいれば結婚する」と断言する令息もいて、お家断絶の危機の貴族家もあるのだ。それなのに、王家の横暴ともいえる形でアンティーヌが国外に移住してしまうのである。諸悪の根源とも言える王家への怒りや恨みは計りしれないことになるだろう。
「明日、使用人に届けてもらおうと思うの」
「お姉様、策略家~! 国王陛下と若手貴族との溝をボッコボコに掘っちゃうつもりなのね。お姉様は断っているのに、それなのに王太子殿下の愚行をお姉様のせいにして泥を押しつけようとする国王陛下なんて困ればいいのです! それに王太子殿下は国王陛下が盲愛する側室腹だけど、正妃腹の英邁な第二王子殿下を支持する貴族が増えてきているから、そこに若手貴族も第二王子派閥に流れると大勢力になりますよね。浪費家の国王陛下への鬱積した怒りを持つ貴族が急激に増加しているもの」
きゃっきゃっと妹に褒め称えられてアンティーヌは、
「何でも自分の思い通りになる環境で育った王太子殿下だから、驕慢な性格になったのはわかるけど。男爵家への婿入りは論外としても、爵位をもらって私と結婚する気概もない。王太子殿下は王位を捨てようとしない。国王陛下は子育ての失敗と豪華な生活のツケを私たちに払わせようとするし、さすが驕慢王太子殿下の親って感じよね」
と、絶対に外では口にできないことをバッサリと言う。もはや王家への敬意は蠟のごとく溶けてしまい、貴族らしくオブラートに包む言い回しをする気も失せてしまったアンティーヌであった。
そんな風に、気丈に振る舞い冷静さを保っていたアンティーヌであったが。
ゴォと吹いた、うねる波濤のような風に背中を押されて馬車に乗り。
徐々に馬車が屋敷から離れるにつれて耐えきれずに涙腺がゆるみ涙を零した。白い頬に透明な涙が伝う。
「私たちの育った屋敷が……。お父様が作ってくださった庭が……。ごめんなさい、私のせいで。ごめんなさい、ごめんなさい、お父様、リーフィア」
膝の上の金魚鉢に涙が落ちる。
ぽちゃん、と起きたさざ波に金魚が餌と勘違いして水面に集まった。
馬車内にはリーフィアとエリオットとマルグリット男爵がいたが、泣き出したアンティーヌの姿に表情を引き締めた。ギシリ、と心が軋む。アンティーヌに責任はない。幾度も拒んでいるのに権力で言い寄ってきたのは王太子である。リーフィアは身体の奥から黒い感情が湧いてきて、怒りの気持ちが抑えきれなくなってしまい唇を強く噛んだ。
ふぅ、とリーフィアが体内に渦巻く怒りを放出するように息を吐く。ため息を受けて膝の上の金魚鉢の水面がわずかに揺れた。1時間の余裕しかなかったので、リーフィアもアンティーヌも大切なものとして金魚を選んだのだ。
にぱっ、とリーフィアがとびっきり明るく笑う。
「お姉様、ヤリ逃げしましょう!」
「ヤリ逃げ? リーフィア、意味を知っているの?」
涙の滲んだ蜂蜜色の瞳でアンティーヌがリーフィアを見た。
「ヤッたことの責任を取らないことですよね?」
「……正解? と言えるかも?」
「う〜ん、じゃあ、逃げて知らんぷりすること?」
「…………微妙に正しいような?」
男女間の問題が前提となるのだけれども、とアンティーヌが微妙に唸る。
アンティーヌとの疑問形の会話にリーフィアはフルートを吹く角度で愛らしく首を傾げて言葉を続けた。
「え〜と、つまり、私の言いたいことは恩寵を使って王家にヤリ逃げしたいのです。だって! お姉様を泣かせて、私たちに国を捨てさせて、なのに王家はぬくぬくと快適なままなんて腹が立ちます! だから恩寵でヤッちゃっても許されると思うのです!」
リーフィアが金魚鉢に片手を添えて落下を防ぎ、片手で拳を握る。
「今日は王都の中央神殿においての大神官様の典礼の日ですもの。王家や高位貴族の方々が参加されている礼拝です。私とお姉様の恩寵を使うとするなら今でしょう? せっかく神様から授けていただいた恩寵ですもの、今こそ使うべきです。神様も「ヤッちゃっていいよ」と私とお姉様に恩寵を与えてくださったと思うのです!」
ふん、っと鼻息を鳴らしてリーフィアが力説する。可愛い。リーフィアが可愛いから、個人の判断で神様を味方だと主張するのはダメでしょう、と思ったアンティーヌだったが反論はしなかった。
エリオットとマルグリット男爵もリーフィアの意見を積極的に肯定する。
「賛成だ。エピス王国を出国するんだ、バレてもいいじゃないか。隣国グランドでの安全は保証するよ。僕の家には金と大陸全土に商売網があるから他国にも避難先があるし、クリスの家には権力がある。しかもクリスは大陸一の強国であるグランドの国王の甥だ。誰にも手出しはさせないよ」
「もうエピス王国には恩も義理もない。先に裏切ったのは王家だ、混乱させてやればいい。どうせ我が商会がエピス王国から去れば市場は乱れるんだ。それにこのまま国王が統治していれば税金が増加していく一方で、そちらの方が人々にとって危険性は高い。いくら優秀な家臣が王国を支えても、財を蕩尽するしか能のない国王では価値がない。退位させるべきだ」
「お姉様、尊き神様のお考えは本当は私もわかりません。空と陸の狭間で生きるただの人間には、神様の崇高なお考えを推論すらできないですもの。でも神様から頂戴した恩寵だもの、ありがたく使わせてもらっても天罰はくだらないと思うのです」
リーフィアはアンティーヌの手をとった。
「ね、ね、お姉様、ヤッちゃいましょう? ヤリ逃げしてエピス王国からトンズラしちゃいましょうよ?」
にこにこ微笑むリーフィアの手をアンティーヌも握り返した。残る片手はお互い金魚鉢を支えている。
「……そうね、神様に甘えてしまいましょうか?」
「ええ! 甘えてヤッちゃいましょう! 私、国王陛下も王太子殿下も大嫌いだもの、今すぐ中央神殿へ行ってガクブルさせてサッサとグランド王国に逃走一択です!」
「よし! 中央神殿へ向かえ!」
と、エリオットが御者に指示を出す。
4人が乗っているのはエリオットの商会の行商用の大型馬車である。手配された時に、マルグリット男爵家の家紋入り馬車では目立つ。それに、エリオットの商会の行商馬車は国境間の往来が多いので安全度が高い。護衛たちは熟練者揃いなので盗賊の襲撃が少なく、イザという場面では二重構造の床下に身を隠すこともできた。
中央神殿に到着した4人は裏口から入った。
「案内を頼むよ」
マルグリット男爵が懇意にしている高位神官に金貨の袋を渡す。マルグリット男爵は、あらゆる場所に金の力で親しい間柄となっている人間がいて不自由がなかった。
マルグリット男爵の後ろを歩くアンティーヌとリーフィアは、流行りのドレスではなく絵画めいた服装であった。
オーガンジーとジョーゼットを重ねたドレープたっぷりの踝丈のキトンは純白。肩から二の腕あたりを幾つもの朝露の宝石が滴る金細工のブローチの小花が咲き誇り、繊細な刺繍が施された胸下の飾り帯が細く何本も長くたなびいて優美であった。
特にアンティーヌのこの世の美しいものを集めて咲いたような絶世の美貌もあって、まるで天使を彷彿させる双子の姿に高位神官は跪拝したくなるほどに動揺したが、懐に入れた金貨の袋の重さによって自己をなんとか保つことができたのだった。
階段をのぼり案内されたのは天井近くの扉であった。扉を開けると大聖堂である。天井周辺を掃除する目的のものなので扉は小さい。
「「いってきます」」
アンティーヌとリーフィアが手を繋いで扉をくぐる。
バサリ。
アンティーヌが右翼を。
リーフィアが左翼を。
白く大きな片翼をそれぞれ背中に出現させた。
バサリ、バサリ。
翼を羽ばたかせ、双子は大聖堂の空中に浮かぶ。
『讃えよ。
讃えよ。
神を讃えよ。
天にまします我らの神よ。
いと高き神の我らは子羊…………』
荘厳な大聖堂に、リーフィアの雪融けの水のように濁りなく清らかな歌声が響く。
その声は、火の中であろうが水の中であろうが躊躇いなく飛び込んでしまうような人間の性を掻き立てる魔性の歌声であった。
何故ならばリーフィアの聖歌は、強烈な作用をおこす魅了であるからだ。
「……天使……」
誰かが茫然と呟く。
祭壇の大神官、傍らに立つ高位神官たち、整然と並んだ大勢の参列者たちが息をのむ。目が奪われ離せない。
バサリ。
翼がはためき、白い衣装がひらめく。
キラキラと星が煌めくような微光が双子を取り巻いている。
「聞け。マルグリット男爵家はエピス王国を捨てる」
リーフィアの聖歌を背景にして、アンティーヌが言葉を紡ぐ。注目が集まる、人々の目も耳も釘付けである。
「理由は国王と王太子に問うがよい。国王の派閥の者は理由に心当たりがあるだろう」
アンティーヌに睨まれて身を竦める者が幾人もいた。
「第二王子メリジスよ、起立せよ。第二王子を支持する者たちも立ちあがるがよい」
照り輝く清麗な天使然とした振る舞いのアンティーヌの言の葉に、瞬時に第二王子と派閥の貴族たち、およびに大神官をはじめとする神官たちが椅子から立ちあがった。
「国王の非違横暴を許すでない。国王の暴虐によりエピス王国が腐る前に、王国を正せ。王国のために、汝ら全ての未来のために」
アンティーヌが片手をあげる。
「汝らに祝福を授けよう」
アンティーヌの手から放たれた月光のような淡く儚い光が立ちあがった者たちを包む。
「心に光が入ってくるような……」
「なんと清々しい……」
「浄化されるみたいだ……」
「気持ちが洗われるような……」
「ああ、天使様……」
人々が感涙して手を合わせて拝む。
リーフィアの聖歌が魅了ならば、アンティーヌの祝福は浄化である。
これが双子の恩寵であった。
アンティーヌが右翼のみ、リーフィアが左翼のみ。片翼ずつなので一人では飛べないが、二人だと力を発現できて飛翔することもできるのだった。
高揚する人々と反対に、国王と王太子と派閥の貴族たちは真っ青だ。その中の一人の貴族が転び出た。
「天使様! 第二王子殿下を支持いたします、マルグリット男爵家に冤罪をかけようとした証拠も提出いたします! どうかわたしにも祝福をお恵みくださいっ!!」
「証拠?」
アンティーヌが尋ねた。
「はい! ここに!」
胸部の隠しポケットから取り出した書類を貴族は第二王子に捧げる。
「他にも証拠を持っている者はいるか?」
アンティーヌが首をめぐらすと次々に声を張り上げる貴族が続出した。
「屋敷にあります、どうか当家にも祝福を!」
「わたしは持参しておりますぞ!」
「必ず第二王子殿下に従います! わたしにも祝福をっ!!」
必死である。
権威も影響力も国王と天使では比べるまでもない。
「第二王子に服従を誓うか?」
全力で首を縦に振る貴族たち。
「慈悲である。祝福を授けよう」
清浄な光が貴族たちを覆いかけた時、王太子が叫んだ。
「アンティーヌ! 何故、真っ先に俺を祝福しないのだ!? おまえは俺の恋人だろう!!」
アンティーヌが冷たく王太子を睥睨する。
「恋人だと? 戯けたことを申すな。何度も拒絶されたくせに権力で迫って嫌がられていた痴れ者であろう。恥を知れ!」
「何だと! 俺が愛してやると言っているのだから光栄に思うべきだっ!!」
王太子が激昂する。
隣では国王が、
「そんな、嘘だ、マルグリット家の双子が、嘘だ、天使だと」
とブツブツと口を歪めて繰り返している。
フワリ、と翼を広げアンティーヌとリーフィアが声を揃えた。
「「……もはやこれまでぞ。愚者の相手はできぬ」」
フッ。
アンティーヌとリーフィアの姿が消失する。
姿を消したエリオットが後方から手を伸ばして双子に触れたのだ。
「「「「「あああああーーッ!!! 消えてしまわれた!!!!」」」」」
大聖堂に絶叫が響き渡る。
歓喜と感動で紅潮しているのは、第二王子と派閥の貴族たちと神官たち。
青も白も通り越して土気色の顔をしているのは、国王と派閥の貴族たち。祝福をもらえる寸前で邪魔をされた一部の貴族たちは逆上して王太子に掴みかかっている。
天国と地獄の錯乱絵図であった。
天使の出現に扉の前で床に額ずき平伏してブルブル震えている高位神官を残して、マルグリット男爵と姿を消したままのエリオットとアンティーヌとリーフィアが急いで階段をおりる。
走っているのは男爵ひとりなのに足音は複数という不思議な状態であったが、さいわいにも他者に止められることもなく馬車に戻ることができた。
「馬車を出してくれ!」
と、馬車内で姿を現したエリオットが命令をする。
アンティーヌとリーフィアが息を弾ませ手を取り合う。
「大成功ね!」
「ええ、お姉様! ヤリましたね!」
「凄く天使っぽくて素敵だった」
エリオットが褒めると男爵も頷く。
「威厳があったぞ。役者のように上手だった」
「うふふ、いい感じに王太子殿下はあいかわらず愚かでしたね」
アンティーヌが花が綻ぶように笑う。
「後は知らな〜い。でも、詰め寄られて国王陛下は退位になっちゃうかもね〜。それに天使に、祝福を与えられた第二王子殿下と愚者と断じられた王太子殿下では、国民や家臣からの忠義が雲泥の差になっちゃうかも〜」
くふくふとリーフィアは楽しそうな笑顔である。人の目の厳しさを〈枯れ葉〉と軽視されてきたリーフィアはよくよく熟知していた。
お姉様を泣かせた国王陛下も王太子殿下も極寒の牢獄を味わえばいいのだわ!
「リーフィア、悪い顔をしているよ。可愛いね」
エリオットが目を細める。
「え? 私、悪い顔をしているの?」
「うん、いたずらな子猫みたいに可愛いよ」
「うぅ、それって褒め言葉?」
溺愛全開の顔のエリオットとじゃれ合うリーフィアを見て、アンティーヌもクリスを思い出す。ただクリスは蕩けるほどに優しいが、不屈の執着全開なのだ。うむむ、と悩むアンティーヌであった。
この後すぐさま、エピス王国側はマルグリット男爵の屋敷に急行したが無人であった。初動の対応に誤って時間を無駄にした王国側の追跡は後手に回り、結局、マルグリット男爵一行に追い付くことはなかった。
そして悠々と国境を越えた男爵一行であったが。
そこには、騎士団を従えたクリスが待ちかまえていた。
陽光を浴びて騎士たちの鎧が、掲げた槍の穂先が、金属の旗竿が燦然と煌めく。壮観な光景であった。
それ以上に、黄金の髪を輝かせたクリスの比類ない笑顔が眩しい。笑顔なのに、むさぼり尽したいと訴える肉食獣の双眸が恐ろしい。
「ようこそ、グランド王国へ」
「「「「やっぱり来てると思っていた」」」」
4人が同じ言葉を発した。
これも心がひとつになった瞬間というのだろうか、と微苦笑を浮かべてアンティーヌとリーフィアは懐かしくて恐い幼馴染みの元へと一歩踏み出したのであった。
読んでいただきありがとうございました。
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どうぞよろしくお願いいたします。