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即興小説集

青女と木箱の花

作者: 佐藤朝槻

 嗅いだことのない香りが漂っていた。

 優しくて甘いそれは夜中の部屋に似合わない。


 ベッドに横たわっていた青年――彼女は、香りの正体を確かめねばと徐に目を開けた。


 ベッドから起き上がるには倦怠感がひどい。頭も重く、持ち上がらない。下半身をモゾモゾと動かすと、頭は枕につけたまま膝立ちの姿勢になった。尻だけ高くあがり、冷たい空気が腹を冷やす。すると彼女の頭は少しずつ覚醒し、香りを確認するまでは寝ないと心に決めた。


 しかし、まだ覚めきっているわけではない。彼女は尻を突きだした姿勢のまま、頭を左右に動かした。右は特に異変なし。左もいつも通り壁である。ぼんやりと壁を眺めていると、幾度目かの眠気に襲われる。


 待て待て、と自身を奮い立たせる。

 確認するまで寝ないと決めたばかりじゃないかと、両手のひらをベッドにつき、よいしょと腕立て伏せの要領で腕を伸ばした。


 四つん這いになると先程より見える景色が広がるも、夜中のためほとんどなにも見えない。

 固い背骨と脇腹をギチギチ伸ばしながら右斜め後ろを向くと、白のローテーブルの上に箱の影があった。


 見覚えのないものを見た彼女は驚き、尻をベッドに下ろして正座になった。折り畳まれた足は血の巡りが悪くなり、徐々に痺れはじめる。

 右足をズドンとベッドから床に落とし、勢いで立ち上がった。まだ痺れた両足を引きずってローテーブルに近寄り、木箱をじっと見る。


 正方形の形をした木箱だった。両手におさまるくらいの小さな木箱である。扉が付いているそれは、扉がガラスになっていて箱の中身が見えるようになっている。

 彼女は、しかし箱の中身よりもガラスに書かれた文字に目が留まった。ローテーブル前に跪き、目を凝らす。


「S・W・E・E・T・S・A・R・E・F・O・R・E・V・E・R……?」


 末永くお幸せに、という意味だが、彼女は外国語に疎かった。今もアルファベット読みをしただけで、意味を理解したわけではない。


 奇妙な文字に困惑しながら、木箱の中を覗く。

 木箱には花が入っていた。

 金具に手を掛けて蓋を開ける。彼女の手は冷えきっており、金具の冷たさを気に留めることもない。


 少し重みのある蓋を開けると、正方形の木箱に敷き詰められた花が視界の大部分を埋めた。明かりのついていない部屋で視認できたのはピンクや白の花だけだったが、彼女は美しいと感心した。顔を木箱に近づけて鼻先が花に当たると香りがし、すんすんと嗅ぐと充満した石鹸の香りに咳き込んだ。


 香りの正体は間違いなくこれだが、なぜこのようなものがあるのか不思議でならない。

 呆然としていたが、記憶のない彼女は諦めてベッドに戻る。ベッドに置かれた携帯と手帳を手にしてトイレにこもった。


 トイレに持ち込んだ手帳を開けば、日付にバツがついている。過去のページをめくってもバツ印がつけられていることにかわりない。

 彼女は唸る。すでに零時をまわり日付は変わっているのに、今日はまだバツがついていないのだ。


 今日一日を振り返ろうと彼女は視線を上に向けた。

 今日もベッドから起き上がることができず、気づけば夜更けになっていた。このままではいつまでも惨めだ、と考えて奥歯をぎりっと噛み締める。前回の診察で自責的な発言をやめていこうと医師に言われたばかり。人の意見に従うことすらできないほど壊れたか、と心の中で自身を蔑むと、また口から唸り声が小さく漏れた。


 気を紛らわせたくなり、彼女は携帯を開く。

 先日、友達から結婚報告があった。返信はとうに済ませてある。

 心にもないおめでとうと当たり障りのない近況報告には『私も婚活しなきゃ(絵文字)』と見苦しい言葉が添えられている。

 彼女自ら書いた内容だが、本人の記憶になく、さも今はじめて読むかのように釘付けになった。なぜ発信者、すなわち彼女がこのような文章を打ったのか、興味深くて友達とのやり取りを遡っていった。


 彼女は今、結婚の適齢期と言われる年齢である。しかし年齢はおろか今の生活になる前は何していたかさえ、彼女には思い出せない。ほとんどの記憶に靄がかかり、思い出そうとすると吐き気でかき消されてしまう。


 それでも今、彼女は吐き気もせず記憶を辿ることができていた。

 友達とは随分と顔をあわせていないし、あるときから連絡が途絶えたままだった。元気にしていた証拠なのだろう。友達の幸せが確約された今、連絡先を消してもいいと削除ボタンに手を伸ばそうとした。


 ただ、今の彼女にとって唯一思い出せた過去であり、消すのは躊躇われた。

 携帯画面にぽつぽつと水滴がついていた。目から排出されたものと理解したとき、突然呼吸が浅くなり、苦し紛れに息を吐いた。息を吐くと目からさらに涙が溢れてきて、咽び泣く。


『お前に幸せは無理だ。諦めろ』

 鼻からも水が垂れ始めた頃、ぞわぞわと恐怖じみた声が脳内に響き渡り、彼女は呻いた。

 別の幸せを見いだしたらいいだけだと言い聞かせようとすればするほど、頭の芯がずきずきして、彼女は獣になっていく。

 犬であれば声帯をとられるほどの鳴き声も、人権を持った獣は許された。多少むせても嘆きを止めるほどの効果はなく、切なる思いが彼女をさらに高みへと導く。


 熱い頬に涙が伝い脈拍があがると、記憶が呼び起こされた。


 挙式をあげないという友達を祝いたくて、先日ネットで注文した木箱の花――世間ではソープフラワーと呼ばれている――を受け取りにコンビニまで向かったのだ。ドキドキしてしまう心臓をなだめながら、なんとか生きて帰ってきた。


 帰宅後、開封すると、ギフト特典としてメッセージカードが入っていた。二行ほどしか書けないそれに、何を書けばいいのかと一時間ほど悩み、だんだんと気だるくなって、喉が詰まるような息苦しさに脳から言葉が溶けてしまった。


 疲れてベッドに横たわり、壁を眺めているうちに寝落ちして記憶が抹消されていた。今日一日引きこもっていたわけではなかったのだ。


 思い出したことで、再び苦しくなる。

 彼女は威嚇するように泣いた。涙はさめざめと流れ、体内が乾いていくのと反比例して脳は汁に揺さぶられる。じゃわぁ、じゅわ、じゅわ……。くらくらする。


 ああ、と絶望する声は掠れていた。全身鳥肌が立ち、体を震わせると絶頂に似た昂りを覚えた。

 涙を流し続けると、いつもの憂鬱そうな顔付きに戻っていく。肉体も精神も空っぽにして人間のふりだけ一人前になった彼女の嘆息。内側に住まう獣を排泄し、化けの皮を付け替える瞬間であった。


 トイレから出ると、部屋はひんやりとしていた。水が流れる音で、鳴りを潜めた獣がまた顔を出そうとするので、急いでトイレから離れる。


 部屋では木箱の扉が開いたままになっており、甘い香りが立ち込めていた。カーテンの隙間から朝焼けの淡い光が差し込み、花々に彩が与えられる。

 一つだけ花びらの欠けた花があった。先程彼女の鼻先に触れた白い花である。


 欠けた花を横目に、彼女は携帯をベッドに投げ、ローテーブルの前に座った。手帳を脇に置いて転がっているペンを拾い、「ご結婚おめでとうございます。末永くお幸せに!」とメッセージカードに書き殴る。木箱の花を閉じてラッピングバッグに押し込み、リボンで結んだ。


 木箱の花を退け、手帳を引き寄せる。パラパラとめくっていき、印のない今日――正確には昨日だが――にバツを付けた。何度も何度も交差した二本の線を上からなぞる。筆圧が強く、紙に穴が空いた。


 バツ印はその日犯した罰の証。

 まともに人間ができなかった彼女自身への制裁。


 戒めをまじまじと見つめる間、口を固く引き結んでいたのに、震える喉奥から獣のごとき嗚咽が込み上げ、漏れた。唾を飲むと、排泄したはずの痛みが追い討ちをかけた。


 まだだ、と彼女は自身を鼓舞し、ラッピングされた木箱の花を持って外へ飛び出す。強い風が体を縛るように通りすぎ、風の音以外何も聞こえない。

 彼女は風の先を見ようと薄く目を開けたが、砂埃と花粉が視界をぼやけさせる。辛うじて見えたのは、枝にしがみつく桜の蕾であった。

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