第53話 ちょっと待って! 私が理解できるまで話は進めないで!
胸元が引っ張られる感覚で目が覚めると、姉様が私の服の裾を掴んで握りしめていた。
春も盛りになって陽が早くなったとはいえ辺りはまだ薄暗い。
でも薄暮に照らされ私の胸の中で丸まってすうすうと軽い寝息を立てている姉様はとても華奢に見えて、庇護欲をそそられる。
もっとよく顔が見たいと姉様の顔に掛かった髪を掻き上げると、んう、と身じろぎをして、姉様は顔を私の胸に中へと埋めようとする。
一瞬、衝動が湧き上がったのを押しとどめて、私は姉様の顔の上に撒き散らされた髪の中で白い肌にくっきりと浮かび上がる長い睫毛と唇の作る奇跡のような美しい寝顔のシルエットに見蕩れ続けた。
こんな綺麗な姉様に手を出すことなんてできやしない。
だって、もし私がそれを行動に移したら姉様がとても嫌がることは知っているし、きっとセラムには軽蔑される。
それに何より、姉様の雰囲気がいつもと違って感じられるのが気になった。
昨夜、眠った後しばらくして姉様が小さく震えているのに気が付いた。
あの気の強い姉様が眠りながら震えるなんて考えられないことで、私は酷く驚いた。
母様からは姉様は以前以上に元気だったと聞いていたのに、結局姉様は、私を救ってくれたときのことをまだ引き摺っているのかもしれない。
私が見守るうちに、姉様がまた小刻みに震え始めたのを感じて、私の目からは涙が溢れた。
「ティルク、おはよう。」
私が考えに耽るうちに姉様は目覚めて、私が慌てて涙を隠している間に姉様は起き上がっていつものように身繕いをして訓練用の服に着替える。
こうしてみると変わった様子はないのにと姉様を眺めていたら、姉様に朝の準備を早くするよう急かされた。
うん、姉様は全く変わらない。少し安心して私も朝の準備に取りかかる。
朝食までの間に、姉様は昨日いろいろとあったせいで 話すことができなかったこれまでのことを、掻い摘まんで教えてくれた。
姉様の話で私の興味を引いたのは直感のことで、コールズさんを除いてみんなはもう習得済みらしい。
体の技能を強化する忘れられていた幽体の技能。
私も一刻も早く覚えて姉様の隣に並びたいと思った。
◇◆◇◆
「今日はまずはミッシュとアイリさん、それから伯爵の予定を確認して、何もなければいつもどおりの訓練をするよ。
コールズさんももう直感を覚える頃だと思うし、ティルクも一緒に訓練に参加して見れば良いんじゃないかな。」
ティルクの見詰め続けてくる視線をむず痒く感じながら、寝ているふりを続けて一生懸命に考えた今日の予定を、私は今思いついたかのように説明している。
いずれ気付かれるだろうとは覚悟しているけれど、ティルクには私がいますごく困っていることをできるだけ長く悟られたくない。
今の私は物事の順序だった組み立てができなくて、即座の判断ができない。
先日までも自分の判断が正しいかを怪しみながらやっていて、みんなが私を労るような感じで動くのもそのせいだろうと見当はついている。
でも今朝目が覚めて昨日からの出来事を反芻していたら、状態が酷く悪化しているのが分かった。
私が誰かは分かる。異世界からやって来たことも知っていて、男性の人格セラムと幽体が別れたことも理解している。
だけど、セラムの記憶がこの世界に来る前のことも含めてほとんどごっそりと抜け落ちていて、私がこの世界に来てからの出来事も最初の方がかなり抜け落ちていることに気が付いた。
ひょっとして、私の幽体は本来の主であるセラムを失って崩壊し始めているんじゃないか。
その疑念が湧き上がったら震えが止まらなくなった。
調べる方法は思いつかない。
だけど、この急激な記憶の喪失は、いよいよ末期的な症状なんじゃないだろうか。
そう思って、どうしたらいいのか分からなくなった切迫した気持ちが、シューバと戦ったときのあの心情を私に思い起こさせた。
(そうだ、パニクったらダメだ。
最善を尽くして、絶対に生き延びるんだ。)
今、隣の部屋にはミッシュとリーアがいる。
まずは2人に相談して……
『コンコンッ』
ノックの音が響いて、こちらの返事も待たずにミッシュとアイリさんが入って来た。
「ミッシュ! 」
「悪いな。
セイラをこれ以上混乱させるのも気の毒なので、回復させて説明するためにきたんだ。」
「え、回復? 」
私の”回復”という言葉が終わらないうちに、消えたと思っていた記憶が戻ってくるのが分かる。
「ミッシュ!
説明、きちんと私が納得できるのよね。」
「もちろん。」
怒鳴るような私の言葉を軽々と受け流してミッシュは頷くと、視線で私をテーブルへと誘う。
私は勝手に記憶を封じられていた怒りをなんとか抑えて、ティルクと一緒にテーブルへと向かった。
「ではまず、セイラの記憶の封印がいつから始まっていたのかを教えよう。
ジューダからペンダントを受け取っただろう?
あのペンダントにはセイラが指定したものを選ぶ暗示と重要度の低いものから男性の記憶を徐々に30パーセントまで封じる封印が付与されていた。
そして昨夜、俺がセイラの男性の記憶を全て封印した。」
(ペンダント!! )
私が胸のペンダントを握りしめると、ミッシュが、今は探知阻害の効果だけだと告げてきた。
「セイラには、この先自分に起きることを予め知っておいてもらいたかったんだ。」
「……そう。」
さっきまでの私の状態がいずれ起きることなんだったら、やっばり私は消えていくんだ。
そう観念しようとしたところへミッシュが言葉を継いだ。
「消えるのはセイラじゃあない。セラムの記憶だよ。」
「「セラムは? セラムはどうなるの?」」
私とティルクがセラムのことを口にするのを押しとどめて、アイリさんが口を開いた。
「最初からきちんと説明するから、興奮しないで聞いて。
昨夜、私はセイラをフェリアスを処置した状況に近づけたと言ったでしょう。
フェリアスは女性の意識だったけれど、元々は私たちがフェリオスと呼んでいた男性の意識から分かれて生まれたものだった。
最初のうち、フェリアスはフェリオスと役割を分かち合って生活をしていたけれど、自分がフェリオスの記憶から人生経験を借用して物事を判断していることには気が付いていなかった。
迂闊なことに、それはわたしも同じだったの。
フェリアスがフェリオスから分かれて、その問題は明らかになったわ。
人は自分の経験から遠いところにある記憶は忘れていくもの。
フェリオスから分かれたフェリアスは、だんだんとフェリオスとして経験した記憶が薄れていってね、最後には自分では何も判断できない状態になっていた。
ギダルに巡り会う幸運がなければ、彼女は生き延びられなかったと思うわ。」
(フェリオスからフェリアスが分かれた。
それはつまり── )
「セイラ。
今後、自分に何が起こるかを、あなたには予め理解しておいて欲しかったの。」
フェリアスさんに起こったことは私にも起きる。
さっきまでのどうしていいか分からない状況が、遠くない私の身に降りかかることだと聞いて、私は動揺した。
「尤も、セイラが戦いに生き残れさえすれば、後は安全に生きていけるように私は安全措置を講じたわ。
ダイカルはあなたの男性の好みに合う誠実な男性であなたを愛していて、その母親はあなたを実の娘と思い、先順位の王妃はあなたを姉と慕ってくれている。
国民はあなたを敬愛していて、あなたが過去の全ての記憶を失ったとしても功績と引き換えの悲劇と考えて一層の支持を集めるでしょう。
王家と国民から絶大な愛情と支援を背景に、あなたには安泰な将来が約束される。
あなたは幸せな人生を送れるはずよ。」
私を待ち受ける酷薄な運命と、敷かれていると感じていた王妃への道の意味に、私は絶句した。




