第41話 伯爵の昔話。あれ、このガシュルという人、なんとなくよく知っている気が……
ガシュルという男から渡された血の芳香に驚きながら、私はそれを飲んでみた。
人間のものとは絶対に違うと言い切れるそれは、だが雑味のない澄んだ味わいが芳醇で、良く管理されていただろう鮮度と相俟って素晴らしく、私は感嘆しながらその血を味わっていた。
「それは牛の血だよ。
清浄な地で最高の状態を保って育てられたものだ。
吸血族の体が人の血しか受け付けないのは人間が一番衛生状態の良い環境で生きているせいで、きちんと管理されていれば動物の血で充分なんだよ。」
私はガシュルの説明を聞き、たぶんそれは真実なのだろうと悟った。
何よりこの血が雄弁に証明している。
体はなんの不調もないどころか、血を飲んだ効果でだんだんと体に活力が漲ってくるのが感じられて、その効果は人間の血を飲んだときよりもはっきりとしている。
(ああ、この血を手に入れられるなら── )
私は吸血族の可能性に思いを馳せた。
(そうだ、もしこの血があれば、私たちはそもそも人間の血を手に入れるために他種族の中に紛れ込む必要自体がない。
散り散りに生きていくのではなく、吸血族だけでまとまって集落をつくることができるし、人間たちと敵対する理由もない。)
「この血には私たち吸血族の生き方を変える可能性がある。
──だが、今となっては遅すぎる。」
万に達する人間たちに包囲されて砦に籠城し、大人の吸血族はもう50人ほど。
砦の後方に逃げられはするが、そこは降水量の多い未開の森林地帯で強い魔獣や魔物の多い地域だ。
数百人の子どもを連れて入ることができない場所と判っているからこそ、私たちは森に入らずに砦に籠もり、人間たちも確実に私たちを絶滅させるために腰を据えて包囲陣を敷いている。
実質的にもう逃げ場はないのだ。
「いや、遅くはなったかもしれないが、手遅れではないぞ。」
私の嘆きを言下に否定するガシュルの言葉に私たちは耳を傾けた。
「400年ほど前に男神ガシュミルドが隠れたのは知っているな。
この血はガシュミルドの園に放されていた牛のものだ。」
「神域を暴き神獣を殺したのか? 」
ガシュルの言葉の意味するところに愕然として私が聞くと、ガシュルは笑って首を振った。
「神が管理を放棄したのに今さら神域でもないだろう。
現に神の園は、神が管理していた頃は時間の進みのごくゆっくりとした世界だったというが、神が放棄してからはだんだんと時間の進み方がこちらの世界に近づいてきている。
もう今は4倍ほどの違いしかないんだよ。」
「畏れ多い戯言だ。
仮にそんな世界がどこかにあったとしても、それは私たちには無縁の場所のはず。
そうだろう? 」
「いいや、そうでもない。
この道の先にその世界への入口のひとつがあるんだよ。
そこには肉だけでなく食糧もある。
吸血族全員がそこに避難すれば、少なくとも今の窮地は凌げる。
畏れ多く感じたとしても、利用できるものは利用すべきじゃないか。」
そう言って魔法で管理されているとしか思えない一本道を進み始めたガシュルの後に私たち3人も続き、ガシュルの後ろ姿を見ながら、私はこの男の目的はなんだろうと考えていた。
吸血族に自分が止めを刺すなりの手柄を立てようという功名心から動いているのではなさそうだ。
それならば、私たちにこんな手助けのようなことをするのはなぜだろう。
単なる親切心でここまでの手助けをしてくれるなどという綺麗ごとは私には考えられなかった。
(私たちに手を差し伸べる裏には必ず何か彼が得をすることがある。)
それにさっきから相手をしていて、この男には何か信じ切れない引っかかるところがあった。
(それにしても神域を犯して神獣を殺し神の糧を盗むというのは、恐ろしい話だ。
もしこのガシュルという男が神の園から何かをうまく盗むために、その神罰を私たちに擦り付けたいんだとしたら── )
私は、ありそうな話だと思った。
(吸血族全体に神罰を下させるわけにはいかない。
だがもし、私が神罰を引き受けるだけで済むのなら……
それならば、彼と取引をすることに躊躇いはない。)
私は心を決めた。
(どのみち破滅するのなら、神域を犯してでも足掻くべきではないか。
一族の運命の最後の決断は吸血王に委ねられる。
私と、それから巻き込んで悪いがスケイルとカークスの2人の命で済むものならば、全て私たちが引き受けよう。)
ガシュルの後を付いていきながら、私はそんな決意をしていた。
◇◆◇◆
「さあ、ここだ。」
程なくして道は壁に行き当たり、ガシュルがコンコンと壁を叩く。
それはどう見てもただの岩壁だったが、ガシュルは笑顔で私たちに告げ、私はまた彼の存在に違和感を感じた。
「あんたたち、3人とも収納空間を持っているだろう?
ここは収納空間を使うことで向こうの世界と繋がる。
まずはジャスダさん1人で試してみてくれ。」
トルキアという姓を一応持ってはいたが、まだなんの成果も上げていない私はガシュルには姓を名乗らずジャスダの名前だけで通していた。
私が空間収納を開くと、空間の中から光が漏れて、どこかに繋がっていることが察せられた。
「この先の空間では時間の経過が違うことを忘れるな。」
ガシュルはそう言うと収納空間へと入っていき、私もそれに続いた。
収納空間に入った途端に強烈な光が体を貫くように迸り、一瞬しまったと思ったがなんの変化もなく元の明るさへと戻り、何度か目を瞬いた私は見知らぬ平地に出ていることに気が付いた。
まず、そこら中が明るい光に満ちて、爽やかな植物の匂いが空気から香る。
太陽の光がに次いで雲の浮かぶ青い空が目に入るが、まだ朝の早い時間のもので目に優しく、さっきまでと違う時間にいるのが判る。
振り返るとガシュルが後ろにある白い小さな建物の引き戸を締めているところだった。
「先ほどの光は、外の世界の汚れを持ち込まないために浄化の力が働いているらしい。」
ガシュルがそう説明する。
「それからこの扉は右に引くと建物の中に、左に引くと外の世界に繋がっている。
ここがあんたの言う神の園だよ。」
ガシュルに言われて改めて周りに目を遣ると、少し先から広大な畑が広がり、右手には囲われた柵の中で牛や羊などが草を食んでいるのが見えた。
「ここで暮らしている者がいるのか? 」
畑や家畜を誰が世話しているのだろうと思いそう呟くと、ガシュルが頷いた。
「ああ、鬼人族たちが200人ほどいる。
200年くらい前に各国の侵略戦争があったときに、たまたま巻き込まれてしまった鬼人族たちが別の出入口の側にいたのを、俺が引き込んだんだ。」
(え? )
先住者がいて、それをここに導いたのもガシュルだという情報に私は驚いた。
(ガシュルが何かを企んでいるというのは私の考えすぎだったのだろうか。)
そのガシュルは何かを考え込むような表情で虚空に視線を泳がせていたが、やがて私に振り返った。
「さっきも言ったが、この場所と元の場所では時間の進みが違う。
鬼人族には外の世界に至急来るように伝えておいた。
確認しておきたい場所があれば手早く確認を済ませてくれ。」
ガシュルの言葉に私は慌てて周囲をもう一度見渡し、近所の畑の作物の種類と育ち具合や家畜の体格や数などをチェックしてガシュルに合図し、外の世界へと出た。
私たちが戻るとスケイルとカークスが岩壁から少し離れたところで座って私たちを待っていた。
私たちが神の園にいたのは30分くらいだったが、やはり外では2時間が経過していた。
さらに待つこと1時間、神の園から一組の男女が現れた。




