第69話 ゲイズさんとの将来
「あ、ジァニがいる。ジァニ、後でおいでーっ。
今日も訓練をするよーっ。」
マイナが呼んでいるのを確認して、俺は軽く頷いてから池へと入る。
ジァニのことはミッシュに相談して、母様には特殊な訓練をしているとだけ仄めかして、誰にも言わないことに決めた。
ミッシュによると、魔物と人間の幽体の交感が可能だと知ると、魔物を不要に恐れたり利用しようとしたりする者が出てきて、集団や地域のコミュニティが上手く回らなくなることを何度も経験してきたのだという。
雌のカワウソをビアルヌで使うに当たっては、まずヅィーニにジァニの名前を使うことの許可をもらって、ミッシュにビアルヌの皆との橋渡しをしてもらって、ときどき訓練に参加させてもらうことで了解を取った。
そんな本格的な活動をジァニの体で行うとなれば、俺も食事や毛繕いなどをして、ジァニの体を本格的に手入れしなければならないのだけれど、池で食事をしてティルクに毛繕いをしてもらっていると、皆に見つかってしまう。
「ほれ、ここが気持ち良いか、そうか、うりうりうりっ。」
聞きようによっては下品な言葉を選んで触り倒すのがノーメで、黙って気持ち良さそうなところを探してひたすら刺激しまくるのがユルアだ。
この2人を中心に4人に撫で回されると気持ちよさに愛玩動物に成り果てて、後でティルクに叱られるので、できるだけ近寄らせないように逃げ回ることになる。
ジァニの体は、水中はもちろんだけど、するすると陸上で走る敏捷性と何より水魔法の親和性が尋常じゃない。
ミシュルやセラムの体は、神が使うための神使というだけあって、元の能力をそのまま実現する能力の再現性がほぼ完璧で、アスリーの体で使っている能力を違和感なく使うことができる。
しかし、ジァニの体は風魔法や土魔法との親和性が低くて、俺が本来持っている能力の半分も出せないかわりに、水魔法は元の能力が倍加されているような使い勝手で癖がある。
俺の特性である風魔法が制限されるとレベルの壁を超えた力が封じられることになるだけれど、少し試してみて分かった。
ジァニの体の種族特性が、意識することなく水魔法でレベルの壁を超えてくれた。
水の噴出度合いを調整して物を押し流し、切断し、水没させることができ、さらには水の圧力で一時的になら飛ぶこともできる。
ジァニの体限定だけど、俺は新しく獲得した能力を使いこなすことに熱中した。
そして、訓練が終わった今こそが勝負、自分のペット化を回避するために、誰にも捕まることなくティルクが用意してくれる隠れ場所に一心に走るのだ。
◇◆◇◆
その日の夕方、セイラとして食事を終えて全体の打ち合わせに顔を出して部屋に引き下がろうとしたときだった。
「セイラさん、頼みがある。」
ゲイズさんが俺を捕まえに来た。
用件は大凡分かっている、また例の酒場で歌ってくれと言うのだろう。
「もうすぐ皆はシューバ討伐に行く。
なのに僕はここに残ってセルジュ大使を助けることになる。
それがセイラさんとの別れになる不安が付き纏って離れないんだ。」
ゲイズさんに惹かれるものは今もある。
だけど、たぶんゲイズさんが言うとおり、そうなるんだろう。
そう思ったが、俺はそれを言い出せなかった。
「僕とセイラさんとの繋がりは戦いよりも音楽だと思っているし、僕の夢もそこにある。
ぜひ、もう一度、一緒に歌ってくれないか。」
歌えば分かるということか、もう一度俺をその気にさせてみるということなのか──
しばし考えて、俺はその頼みを受け容れた。
夜になって、俺はゲイズさんにエスコートされて酒場にやって来た。
すでにゲイズさんと俺には先日の変装をしてあって、店主は俺たちが入って来たのを見ると、驚きの表情も露わに俺たちのところへと走ってきた。
「やあ。この間のお前さんの様子からして、てっきり彼女を取り逃がしちまうだろうと思っていたんだが……捕まえた訳でもなさそうだな。」
嬉しそうにゲイズさんに声を掛けて来た店主は俺とゲイズさんの様子を見て、途中から声のトーンを落としてきた。
「あんまり察しが良いのも、それを客に直にいうのも嫌われるぞ。」
悄気た様子でゲイズさんは首を傾げて店主に笑ってみせると、店主は、お前さんは客じゃないからな、と笑った。
「それで、嬢ちゃん、先日、こいつの魔の手から逃げたのに、よく戻ってこようと思ったな。」
店主にいきなり核心の話題を振られて、俺は、あ、いゃ、あの、と少しもたついてから、こちらの人から、ぜひにもう一度だけ、と頼まれたので、と答えると、店主は破顔した。
「嬢ちゃん、そういう仏心が一番人生を狂わせる元になるんだぞ。
こいつの頼みはまあ想像が付くが、受けるにしろ、断るにしろ、うじうじしちゃ禍根を残す。
すぱっと鮮やかに決断しなよ。」
店主の台詞を聞いて、ゲイズさんの目付きが変わった。
ゲイズさんは前回と同じ場所に椅子を置きジャガルを構える側に俺も並ぶ。
時間はまだ少し早いが、これからお客が入ってくる時間帯になっていて、ここで酒場を盛り上げることができれば売り上げに貢献したということで店主から奏者と歌手にいくらかの心付けが入るというのが主なシステムで、客に曲のリクエストを強請ったり、場合によっては先日教えられた階上のいかがわしいスペースがあったりするのだけれど、どんなサービスを提供するのか、それは奏者や歌手の実力と心掛け次第だ。
まずは二人で並んで周りのお客に挨拶をして回り、ゲイズさんが座っている間に心を落ち着ける。
曲の進行は、ゲイズさんに一任してある。
前回同様、ジャンと入った一音に合わせて歌い始め、ゲイズさんがまた複雑な旋律で音階を駆け上がり、俺を煽っていく。
俺もゲイズさんの出す最も高い音を迎え撃つように少しずつ音量を上げて最後の長音をジャガルの音にピンと打つけた。
まだまばらな客たちから、ひゅー、という歓声が上がり、ヴィブラートを利かせてゲイズさんに視線を送りながら恋心を歌い上げる。
サビ前の愛しい人、という言葉を聞いて、ゲイズさんの顔に真剣さが増した。
サビに向かう伴奏は高揚感に満ちて、声を乗せるとティラティラティラティラという速いリズムが声を下支えして歌に溶け込む。
凄い、今までにない熱。
ゲイズさんは全ての想いを乗せて俺を口説こうとしている。
俺はゲイズさんに逆らわずに曲の高揚感のままに歌い上げ、蕩けるような甘い声でゲイズさんを誘い、ダンダンッ、とステップを踏んで踊り始める。
まずはゲイズさんの想いを全部受け容れる。そして、自分の中にゲイズさんと共にありたいかを問うて、自分の将来を決める。
その判断を私がして良いと許してくれたのは私の男の意識であるセラムで、だから私はセラムを選んだティルクを手本にして、今夜は全力でゲイズさんにぶつかる。
全力で踊って、歌って、観客の声援を受けて、ゲイズさんと視線を交わし、笑顔を交わし合って、だんだんと私には見えてきた。
ゲイズさんの理想は、歌を歌う私の伴奏をして良い歌を作り出して、終生を共にそうして生きることだろう。
セラムの記憶もある私は、ゲイズさんが私を自分の歌姫として忠誠を誓い、私の中に自分が恋した歌姫を見て一生を共にしようとするだろうことが、何となく分かる。
でも、私は女だ。
彼と一緒に過ごせばやがて子を産み育てて、酒場周りでうろつく子どもたちの母ちゃんになる。
ゲイズさんのように理想にだけ意識を向けることができなくなって、意識のズレを生むだろう。
これまでを共に過ごして、ゲイズさんの夢と私が負っていく現実との間を埋めることができる夢は、私とゲイズさんの間にはない。
そして、ティルクのようにそれを埋める情熱を私は持てなかった。
最後にセイラの恋歌を歌い始めたときには、私の心は決まっていた。
ゲイズさんも感じていただろう。
セイラの恋歌で、2人の思い出を歌う響きは静かで、ジャガルも悲劇を予感させるものだった。
サビの一番最後で演奏を盛り上げて、私に明るい希望の響きで歌を終わらせたのは、ゲイズさんのミュージシャンとしての矜持だろう。
答えは出た。
そしてゲイズさんはそれを受け取った。
「セイラさん、ありがとう。」
ゲイズさんは俺にそう言ってから店主に挨拶をすると、店主は溜め息を吐きながら、心付けを渡してくれて、ゲイズさんを小突いた。
「ばかやろ。だから、あのときに必ず今夜ものにしろと言ったんだ。」
そう言ってから俺に、頑張れよ、と笑顔で声を掛けてくれた。
彼自身も、幾つもの恋があったのだろう。
店主の笑顔は優しかった。
敏捷性に、念のためにルビを振らせてもらいました。
何が念のためかと言うと、本来は「消耗」は「しょうこう」、「世論」も「せろん」が正しいのに、皆がそう読むので間違いが正解になったという話を聞いて、ひょっとしたら、「びんりつせい」とかになりつつあるんじゃ、と妄想したせいです(笑)




