第59話 危なっ! うっかり堕ちるとこだった
「おう、どこへ逃げたのかと思ったぞ。まだやるんだな。」
酒場に入るなりカウンターの中の男から声を駆けられ、カウンターでは化粧の濃い女が不満そうな顔をしていた。
「ああ、悪い。どうもしっくりこなくてな。
悪いが歌い手を交代させてもらう。」
おい、そんな紹介の仕方をしたら──
案の定、カウンターの色っぽい女の人がものすごい形相でこちらを睨むのを、おい、ディアナ、とカウンターの中の男が制止する。
分かっちゃった、この人、ゲイズさんに気があるんだ。
そんな人を降板させてまでゲイズさんが伴奏したいってんなら、俺がどれだけかって話だよね。
うーん。この姿は今夜限りとはいえ、ゲイズさんは面倒ごとを持ち込んできたなあ。
俺が戸惑っていると、カウンターの中の人が店主だと名乗ってからサポートしてくれた。
「ディアナ、相性というものがあるからな、お前さんが劣っているという訳じゃないと思うぞ。」
でも店主、そのフォロー、明後日の方向を向いてるから。
ことさらに俺はゲイズさんのお気に入りって主張して、ディアナさんの傷口に塩を塗り込んでくださる。
ますます表情が険しくなるディアナさんに仕方なく、まあ、今夜だけだし、と俺は腹を括った。
さっきティルクと聞いた声がディアナさんのものならば、彼女は俺の敵にはなれないだろうし。今夜だけは俺がゲイズさんのベストパートナー、それで行く。
そう覚悟を決めて、ディアナさんににまりと笑うとゲイズさんの肘に手を回して喧嘩を売る。
「ふふ。歌を聞けば分かるわよ。」
カウンターの彼女を挑発して、ゲイズさんに合図して店の前方真ん中に移動した。
多くはないけれど、これまでゲイズさんからこの世界の歌は幾つか教わった。それを今夜はできる限り歌う。
まずは最初の歌の曲名をゲイズさんに告げて、ゲイズさんが弾いた一音に合わせて歌い始めて、ジャガルが俺の歌声を煽るように複雑な旋律を形作って音階を駆け上がっていくのにを迎え撃つように少しずつ音量を上げて最後の長音で声をピンと響かせる。
店の客たちからひゅー、という歓声が上がり、ディアナの顔が悔しそうに歪むのを見ながら、いつもより少し太くて迫力のある声質で抑揚とヴィブラートを利かせて女性の恋心を歌い上げる。
そして、愛しい人、という言葉をことさらに区切ってディアナに微笑むと、ディアナは視線を逸らした。
完全に成り行きの出来事で恋愛の実態は何もないのだけれど、初めての女の戦いに勝ってしまったのが意外に気持ちよくて気分が高揚する。
そしてその高揚感を声に乗せてメロディを響かせると、今まで出したことのない甘い声が出て、ええい、この際だ、行っちゃえ、とステップを踏んでスカートを片手で掴んで引っ張りながらダンダン、と床を鳴らして注目を集め、タタタタと細かいステップ音を響かせて切れの良い踊りを披露すると観客から、わあという歓声と手拍子が飛んで来た。
ゲイズさんがそれを煽って細かいリズムを刻みながら低音からトレモロで何度も駆け上がって、ときおりピン、ピン、と高い音をアクセントに入れる。
男たちの掛け声と拍手とノリの良い伴奏が俺の気分をさらに押し上げて、歌詞のない部分でも即興でメロディを口ずさんで音のアクセントに足を踏みならしていっそう気分を高揚させていく。
間奏部分で、ルラ、ルラ、ルラ、ウー、と唸った声に被せて、すかさずゲイズさんが低音からデュダダデュラダダと何度も駆け上がってくるがのに腰がゾクゾクとして髪を振り乱して歌の出だしから音にアドリブが入りまくった。
次の曲、次の曲と繰り返して俺はどんどんとテンションを上げていき、最後にゲイズさんがセイラの恋歌の曲名を持ち出したときには、私はいつもの自分を忘れて、今夜限りの歌い手としてキャラを作った獣人のちょっと色っぽいお姉さんになりきって、ダーリン、オッケー、と彼に笑顔を向けていた。
そして、いつもなら上品に歌い始める部分を少し蓮っ葉に、だけど抑えた情熱を滲ませるように歌う。
2人の思い出から男が戦闘する場面では逆に声を整えて切なさを込めて感情を溜め、サビで地声が割れるのも構わずに太い声ありったけに歌い、願いを爆発させる。
いつもの俺とは真逆の表現だけど、歌い終わった後に閑と静まり返った店内が歓声と拍手に包まれたときには、私は思わずゲイズさんに抱き付いていた。
抱き付いて、一瞬、ゲイズさんと視線が交差して、きゃっ、と声が出て慌てて体を離したときに、わははは、と周囲から笑いが沸き起こって、ゲイズさんに口々に声が掛かる。
「おい、兄ちゃん、その娘はお前の天使だ、絶対に逃がすなよ。
何ならこの上に部屋があるから、今からこのまま連れ込んでしまえ。」
口々に掛かる冷やかしと揶揄いの言葉を聞き、カウンターの中から笑顔で頷く店長の顔を眺めながら、私はそれらことが全然嫌じゃないのを自覚していた。
落ち着け、落ち着け、と何度か繰り返して、あ、”俺”だった、と約束事を思い出して、俺はだんだんと冷静に周りを見ることが出来るようになってきた。
うん、女性的な気持ちのままに感情を歌で爆発させるのは拙い。
特にゲイズさんの音楽はあの達者な口よりも何倍も雄弁で、垂らしの説得力が尋常じゃない。
俺は興奮で火照る頬を意識しながら何度も深呼吸を繰り返して、大丈夫か、と声を掛けてくるゲイズさんからもう一段距離を置いて、うん、と返事をした。
店内にもうディアナさんの姿は見えなくて、立ち上がった俺の背中に手を回したゲイズさんがカウンター内の店主に、今日はこれで終わりだ、と告げて帰ろうとすると、回りの客たちからゲイズさんに声が掛かる。
「おい、いいな、今夜、必ずだぞ。今夜を逃したら次はないからな。」
口々に囃してくる酔客にゲイズさんは右手に握ったジャガルごと拳を突き上げて頷いて見せる。
たぶん、客は普段と違ってゲイズさんに揺らいでしまっている俺の気持ちを男の直感で感じて、長く踏ん切りが付かないでいるだろうゲイズさんに発破を掛けている。
そして、ゲイズさんも客たちの助言をそのとおりだと思いながら、筋を通して俺には手を出さない。
俺はそう予想して、実際にそのとおりだった。
実のところ、もしそうなったら、俺はそんなに抵抗しなかっただろう。
城の自分の部屋に戻るまでの間、だんだんと興奮が冷めて自分を客観的に見ることができるようになって、俺は一時の感情にこんなに引き摺られてしまった自分のことを何度も分析し直していた。
これまで俺は自分の女の意識を甘く見ていた。
一度揺らいでしまうと俺は随分と流され易い性格をしている。
たぶん、女性的な包容力が俺の場合にはそんなふうに性格に反映されてしまっているのだと思う。
だから、これからはもっとそのことを自覚して、用心しなくちゃ。
ゲイズさんにおやすみなさいと挨拶をしながら、俺は分析と反省を終えて、残念でしたと心の中でゲイズさんに最後通牒をするところまで回復していた。
ゲイズさん、悪いけれど2度目のチャンスはないからね。




