ひとりぼっちの夜に
今回は個室と喜んでいたマナは、結局相部屋じゃないかと、深くため息をついた。
高校生になったマナが、未だに小児科に通うのは少々バツが悪い。入院時などさらなりで、病室をうろつくだけで、堂々持参のパジャマ姿であるにも関わらず、「どなたのお見舞いかしら?」と、同室の付き添い人に不審がられることもしばしばである。
病院側も、いい加減別病棟への移動を検討してくれてはいるが、物心つく前から変わらない担当医が小児科所属と言うこともあり、なかなか引き継ぎは上手くいっていないようだ。
当のマナ本人はと言うと、自らを小児科の主と自嘲するも、知らない病棟に不安がないわけでも無く、結局は甘んじて現状を受け入れている。私が大人扱いされるのはいつの事やらと再度ため息をついた瞬間、当たり前のようにこれからも歳を取ると楽観視した自分に気がつき、何を能天気にと自分を戒め、またドロリと纏わり付く不快な闇に心を穢された。
一度闇に襲われたらどうしようもない。ため息ばかりの自分にすら苛立ち、腹を立てる。もっとも、消毒液の匂いのするシーツ、小さく硬いベッド、人の匂いのしない無機質な枕、さらに言えば点滴を通じて投与される、なんだか分からない薬。気にしてしまえば、マナにとってため息の種となるものは、数えればキリがないほどに、この病室を満たしていた。
一旦は布団に顔を埋めたマナだったが、やはり病室に響く、押し殺した泣き声は無視できなかった。
深夜の小児病棟で、孤独に耐え切れずに嗚咽する誰かが、さめざめと泣く。勝手を知らない人間ならば、こんな夜はそれこそ恐怖かもしれないなと、小児科の主として、やはり自虐的に苦笑した。
しかしながら、物心つく以前から入退院を繰り返すマナは、言ってみれば患者のスペシャリストであり、夜中に寂しさを抑えきれず泣き出す子がいることなど、日常過ぎて狼狽に値しない。
値はしないが、気にせず布団を被っていられるほど冷徹にはなれず、不安な気持ちは経験として理解できるものだから、どうしても同情してしまう。だからこそ、相部屋は嫌だったのだ。自身もなんだか分からない薬が体の中を蝕み、時には吐き気を催し、時には強烈な目眩に襲われ、マナ自身のことで精一杯であるのに、それでも結局は体が動いてしまうのだ。
泣きたいのはこっちだよと、漏れそうな本音をぐっと堪えて、無理して作る笑顔の下で、姉を気取って慰めなければならなくなる。
要するに、マナは優しいのだ。
また、早めに対処しないとまずいことも、マナは経験則として承知している。なぜなら、不安は伝染するのだ。この部屋には‘すすり泣きの君’と2人きりなのだけど、病室の薄い壁を考慮すれば、早めに行動したほうがいい。
病の程度は人それぞれなれど、夜の病院、一人、苦痛、不安と、誰もが今にも弾けそうな感情の爆弾を抱えているのだ。誰かの嗚咽を、ある者は叱咤するだろうし、ある者は伝染し共感する。泣きじゃくる子がでるかもしれない。悪いことに、今日の夜勤担当は苦手な早坂さん。彼女は看護師としては優秀だが、たぶん小児科向きの人ではない。患者とは常に一定の距離を取るスタイルを貫いており、それは子供相手でも変わらない。拒絶へのアンテナは大人よりも子供の方が敏感に反応してしまうもんだから、たとえ寂しさと不安に押し潰される状況であっても、早坂看護師を頼るものは少ないだろう。それに、彼女が今回のようなことで何かしら行動するとは思えない。
もっとも、高校生になるまで歳を重ねた近頃のマナは、早坂看護師のスタイルこそ正しいのではないかとも思わずにはいられない。
ここにいる子は、大小の違いはあれど、皆かわいそうなのだ。看護師も人間、直視できない不幸を側に置くことは、少しずつ、本人も気が付かないほど長い時間をかけて、ゆっくりと心を削っていく。グラスに絶えず水を注ぐように、表面張力に任せてギリギリ保ってきた同情心は、やがていつか堰を切って溢れ出す。一度溢れ出せば、どれほど大層な理想を抱いても水疱に帰し、心は砕かれ、もう此処では働けなくなる。そうやって、此処から逃げ出した看護師を、マナは何人も見てきている。
だから、看護師はみんな心を誤魔化しているんだろう。いつも親切で優しいベテランの看護師さんだって、仕事と割り切れるからこその笑顔なのだ。
苦い失敗を思い出す。心を許したベテラン看護師に、子供のわがままで、おうちに遊びに行きたいと強請ったことがあるが、その時の看護師の表情が忘れられない。冗談じゃないという絶対の拒絶が、はっきりと伺えた。それはほんの一瞬のことで、すぐにいつもの優しい笑顔に戻ったのだったけど、マナにとっては、その一瞬が永遠として心に焼き付いた。
考えてみればそりゃそうだ。看護師にも家族はいる。同じ年ぐらいの子供がいるかもしれない。そんな家族に紹介して、絆を深めて、「そういえばマナって子は元気?」「ああ、先日死んだよ」なんて会話、出来るはずがない。死がこれほど近くに感じる者など、自分の日常に置いてはおけないのだ。そんな至極当然なことが分からなかったあのときの馬鹿な自分を、マナは今でも恨んでいた。
ベテラン看護師は、本当はナース服に着替えると同時に、心を更衣室のロッカーに置きざりにしているのだ。
心に鍵をかける早坂さんと、心を持ち込まないベテラン看護師。本当に人間的なのは、いったいどっち?
そんな捻くれた感情にも、今日日マナは襲われがちだ。
要するに、マナは思春期なのだ。
幸い今は目眩も収まっており、吐き気もない。億劫ながらもマナは‘すすり泣きの君’の様子を見に行くことにした。点滴を引きずりながらの移動は正直しんどかったが、有難いことに彼女はすぐ側にいた。ベッドと入り口のちょうど中心、壁に同化するように蹲り、こちらに気がつくことなく、嗚咽の合間、小さく「ママ」と呟いた。
「やあ、ベッド取っちゃって悪いね。君は確か……」
なんでもないかの様に、努めて明るくマナが声を掛けた。暗い病室の中なのに、不思議とマナは彼女をはっきりと捉えることができた。小学校高学年といったところか。やや癖毛で跳ね返った赤毛に、マナは見覚えがあった。最後に会ったのは数ヶ月前で、あのときは唇を噛み締めて、小さな体で背筋を伸ばし、母親に心配をかけまいと気丈に振る舞っていた。そう、あのときから比べれば、その頬は随分とやつれている。名前は確か……。
「アイちゃんだっけ?お姉ちゃんのこと分かる?」
呼ばれた彼女は、随分驚き丸くした双眸をマナに向けた。それを見たマナはほっと胸を撫で下ろす。と言うのも、会話もできないほど取り乱していれば、マナといえどお手上げなのだ。
子供と話すときは、まずは目線の高さを合わせよがマナの経験則であるが、引きずる点滴を気にしつついざしゃがみ込むと、強烈な目眩に襲われ、その場にへたり込んでしまった。
「お姉ちゃん、大丈夫?」
「うん、たぶんなんとか。
泣き虫さんを助けに来たんだけど、二次災害になっちゃった。
まずはお姉ちゃん助けてくれるかな。ベッドまで戻るからついてきて」
元来は強い子なのだろう。アイは慌てて涙を拭い、この恩着せがましいお姉ちゃんを心配する。アイの体ではマナを支えることなどできないものだけど、それでも、気持ちだけでも支えようと寄り添う。なんとか二人して、ノロノロと元いたベッドへと戻った。小さなアイがチョコンとベッドに腰掛けると、もう限界と言わんばかりに、マナがドスンとベッドを軋ませ、そのままの勢いで寝そべった。
「大丈夫?」
「うん、ちょっと目眩がしただけ。少し休めば大丈夫」
「薬のせい?」
「うん、今日から投薬が始まってさ。
まあ、お姉ちゃんは大丈夫。
それより、どうして泣いてたの?」
訊ねられたアイは表情を曇らせ、何も答えず下を向いてしまった。
しまったと、マナは後悔する。訊き方が意地悪だった。
深夜の病棟で、母親を呼びながら泣く理由など、訊かなくてもマナ自身が一番分かっているのに。
「ごめんね。今のはお姉ちゃんが意地悪だった。
なんで泣いてたか、お姉さんは分かるよ。
怖かったんだよね」
ベッドに横たわったまま、点滴をしていない右手でそっとアイの頭を撫でてやる。一瞬ぴくりとアイは体を硬らせたが、マナの撫でる手を振り払おうとはしなかった。
「寂しかったんだよね」
アイの頭をもう一度撫でる。今度はマナを受け入れたようで、なすがままにされる。代わりに大粒の涙が、アイの両眼からこぼれ落ちた。
「いっぱい頑張ったんだよね」
もう一度、アイを撫でる。いよいよアイは泣き出してしまった。こういうときは泣いてしまったほうがいい。
カーテンの隙間から見える夜空を眺めながら、ゆっくりとアイが落ち着くのを待つ。何一つ怖いと思うことなど、マナにはなかった。
「どうして私なのかな。何も悪いことしてないよ。なんで私だけ」
少し落ち着きを取り戻したアイが、訊ねたのか独り言なのか区別できないほど小さく呟く。
困ったなと、マナは頭を悩ませる。どう答えるべきだろうか。適当に言葉を見繕い、丸め込むのは難しいほど、アイは大人びている。病を患う子供と云うのは、辛い経験を重ねるだけ自分と向き合う時間が長くなり、思考が早熟になるものだ。
どうして私だけ。そんなこと、マナだって何万回も考えた。普通に学校に通い、普通に友達と喧嘩して、普通に駆け回って、普通に恋だってする。
そんな普通が、どうして私だけできないんだろう。なんでこんなに辛い目にあうの?
なんで、なんで、なんで……。
そんな答え、きっとどこにも用意されてない。誰も教えてくれなんてしない。
だからこそ、答えてあげなきゃいけないと、マナは思う。たとえそれが、自分自身を騙すための、甘い綿菓子のような優しい嘘だと分かっていても。
「きっとね。私はこの世界の主人公なんだよ。
だって、普通の女の子じゃ面白くないじゃない。
ウサギを追いかけないアリス、困難に立ち向かわないドロシー、そんなんじゃ物語は始まらないでしょ?
主人公は魅力がなきゃ駄目なの。
だから辛いことも、悲しいことも、人より大めに用意されてるんだよ」
「……変なの。
でもそうか、きっとそう。
人が死ぬ話って、みんな大好きだもんね」
そうきたか。やはり見た目以上にアイは大人なのだろう。砂糖菓子の嘘の苦味にも、こうして反応してしまうほどに。
人が死ぬ話、確かにみんな好きだ。大好きだ。
本の中やスクリーンの中、自分は隔離された安全地帯から、
他人の不幸を楽しんでいる。
可哀想なら可哀想なだけよい。
ああ、自分でなくてよかったと。ささやかで平凡な日常に感謝しようと。
みんな主人公の不幸を利用している。
そんなこと、痛いほど分かってる。
「でもね、きっとそれだけじゃないよ」
ベッドに寝そべったままの状態で、マナは無理に体を伸ばしカーテンを掴んだ。
強引に開かれた夜空には、満点の星が降ってきた。
「この星々を睨む人なんかいないように、本当はみんな、幸せなお話が大好きなんだよ。現にそれを信じて、私を助けてくれる人がたくさんいるもの。支えてくれる人がたくさんいるもの。
誰だって、ハッピーエンドを望んでくれてるんだよ」
まるで自分にいい訊かせるように、もらい泣きで目を滲ませながらマナが答える。
幼稚な答えかもしれない。きっとアイが満足することはない。
それでも、私は諦めないのだと。まだ戦うのだと。
「だからね。最後まで頑張ったアイの気持ちは、私の一部として、ちゃんと持っていくよ。
頑張ったアイのこと、ちゃんと見てたよ。
もう、ここに縛られる必要なんてないんだよ。
もう、ひとりぼっちの夜に耐えなくていいんだよ」
もう一度アイの頭を撫でてやりたくなり手を伸ばすが、境界が曖昧になりうまくできない。
それでも、アイが夜空に溶けていくまで、撫でるそぶりを繰り返す。星降る夜の、2人ぼっちの夜も、どうやら幕引きのようだ。
お姉ちゃんのお話は、ハッピーエンドがいいな。
最後にそう聞こえた気がする。
『もちろんだよ』と、心の中で、マナは力強く答えた。
ひとりぼっちになった病室を、開いたタブレットの光が照らした。
どんなに想像力の乏しい人間でも、人は誰でも一つだけは物語を語ることができる。
マナが綴る物語がきっとハッピーエンドであると、少なくとも私は信じている。
お読みいただき、ありがとうございました。