忘れ去られた毒姫編
まるで初めてピアノに触るような手つきだ。恐る恐る人差し指が鍵盤を押せば、ピアノは興味の無さそうな相槌を打つ友人のように音を返した。しかしそれから数分もすればお喋りは弾んでいた。やはり体は覚えていたんだと、真愛の母親は涙ぐんだ。やがて1曲弾き終わると、真愛は振り返った。妻原家の邸宅、真愛の部屋で真愛の母親は娘を抱きしめた。
「真愛を支えて貰い感謝する」
娘が記憶喪失になっても、真愛の父親は落ち着いた声色でソファーに座る一志に声をかけた。妻が記憶喪失になっても、一志が「あぁ」と返せば、真愛の父親は特に感情を表に出さずに真愛の肩に手を置き、部屋を去っていった。去り際、一志に声をかけながら。
「知ってると思うが、私と妻は1年の半分は海外だ。私達が真愛のそばに居てやれない時は、君に真愛を任せる。分からない事があれば執事の内山に聞いてくれ」
「分かった」
真愛と一志、真愛の両親の4人で優雅に夕食を囲んでいた。出張してきたシェフが料理を作り、それを邸宅付きの執事と家政婦が運ぶ。まるでレストランのような食卓。それでも当たり前のように食事している真愛の顔をふと伺いながら、一志はグラスを傾ける。それから部屋に戻れば真愛はまた、覚えたばかりの子供のように鍵盤を叩いていく。
明くる朝、ミニバンは停まった。いつもの登校時間。奥菜の足取りは軽い。しかも大学構内を歩けば、すれ違う人達は奥菜に気付かれないように注目する。何故なら人気者ではないから。
「妻原に暗殺者送って記憶喪失にさせたの、奥菜なんだろ?」
奥菜が遠くに行ってから誰かがひそひそと語り合う。そんな大学で、坂本さくらと池野亜依羅も奥菜の背中を見れば沸々と感情を加熱させる。あれから真愛は大学に来ていないが、この前近々登校するとメールが来た。しかし奥菜が居たら、きっとまた何かされてしまう。でも、私達に何が出来るだろうかと。
ファン・ビーのドアベルが鳴った。それは見送りの鐘だ。お礼を告げてまた1人、獅子の依頼人がカフェを出ていった。獅子はとある依頼者名簿に完了と書くと、パタンと名簿を閉じた。そしてコーヒーを一口。そんな時にまたドアベルは揺らされる。入ってきたのが誰か分かる前に「探偵さん」と呼ばれたので獅子は振り返る。それからバー「カミツレ」の店長、穂香は獅子の向かいに座ればコーヒーを頼んだ。
「どうも」
「昨日、杉原さんとその仲間の美鈴って子が、エイジアのユウジンと話をつけてくれたよ」
「そう」
「ま、けどこれからお店に来るかどうか。もしかしたら来ない代わりに、お店の外で何かされやしないか怖いって言ったら、美鈴ちゃんが見張ってくれるって」
「それは良かった」
今日は冬は来ない。平日だから当然だ。奥菜は未だに調査対象なので、時間がある今、獅子は音楽大学の近くまでやって来た。堅城真愛との事、斎藤達3人が殺害された事、堅城の一部記憶喪失、まだ何1つ解決していない。能力者が起こす事件はほぼ証拠が残らない。例えば“時間を遡って映像を投影”しても、例えば“サイコメトリー”をしてみても、結局は警察が動けるほどの物的証拠はそうそうあるものじゃない。獅子はふと通行人の臭いを吸い込んだ。音楽大学に入っていく大学生の男からは柔軟剤とヘアワックスの臭い、そしてカレーの臭いがした。次に女子大生の臭いをそれとなく嗅いでみると、その人は怯え、怒っていた。
「ちょっといいかな、聞きたい事があるんだけど。ここの大学生が殺された事件を追ってて、何か知ってる事あったら教えて欲しいんだ。俺はこういうもんで、ちゃんと警察には届けを出してる。良かったら名刺どうぞ」
「・・・探偵、ですか」
「能力者の事件って証拠が出ないからね。犯人はほぼ特定出来てるんだけど、何かもっと手がかりが無いかなと思って、聞き込みしてるんだ」
「私は、何も知りませんけど」
「些細な事でも。目撃情報とか」
「その、犯人って、もしかして奥菜鈴音ですか?」
「まぁ、警察もそう思ってるんだけどね、中々逮捕に至らなくて」
「斎藤と皆川の事ですか?」
「あぁ。もしかして何か知ってるの?」
「いえ、私じゃなくて友達が、あの事件の時、代々木公園の近くで奥菜の車を見たって。でも、それだけじゃ弱いですよね?」
「まあね。けどありがとう、手がかりには違いないよ。奥菜さんの車の外見を知ってるなら、その目撃した子は奥菜さんと知り合いか何か?」
「そんな訳ないです。私達は、その、真愛の友達で」
「あ、そうなんだ」
「・・・あの、大丈夫でしょうか」
「え?」
「真愛、近々大学に来るんです。でも奥菜が居る限り、また襲われるんじゃないかって思って。どうしたらいいですか?」
「一応、真愛さんの夫の堅城が、指定自警団の人に護衛を頼んでる。だから安心していいと思うよ?」
音楽大学の前で適当なものに寄りかかりながら、獅子は電話をかけた。相手は夏目。
「夏目さん?」
「おうどうした」
「代々木公園の殺人事件の事ですけど、当時、堅城真愛の友達が現場付近で奥菜の車を見たそうです」
「そうか。それだけか?」
「えぇまあ」
「分かった。上層部がな、状況次第じゃ、奥菜の件で委託逮捕に踏み切るそうだ」
「そうですか。いけそうなんですか?」
「発破かけられたって事だ。端から逃がすつもりはないがな」
講義の途中、奥菜のスマホに着信が入る。相手は仕事先だから、奥菜はそっと講義室を出る。
「はい」
「お世話になります、小島です。リサイタルの打ち合わせをしたいんですが、宜しいでしょうか?──」
それから奥菜はまたそっと講義に戻る。内心は充実していた。雑誌の取材、リサイタルのオファー、そんな仕事の依頼が入ってくる。これから、こんな風にピアニストとしてやっていくんだという高揚に、自然と頭の中ではピアノが鳴ってしまう。今日の講義が終われば雑誌の取材を受け、ピアノを弾いて指が鈍らないようにしながらリサイタルの打ち合わせ。今は正に、希望に溢れた日々だ。でもいつものように登校したその日、奥菜は見てしまった。あの女を忘れていたのに、否応なしに目に入ってしまった。妻原真愛。急に頭に血が上ってきて、気が付けばトイレを探していた。急に吐き気に見舞われて、トイレに駆け込めば洗面器を見下ろした。いや、分かってた。いつかは来るのかも知れないと。何であの時、殺さなかったのか。こんなところで邪魔される訳にはいかない。今度こそ・・・今度こそ、仕留めなければ。
大学の敷地内にカラスが降り立つ。そのカラスは茂みに隠れ、食堂に佇む奥菜をガラス越しに眺めていた。タンブラーの蓋を開け、口に運ぶ動作はどこか恐怖と緊張が伺える。そこに心配して歩み寄るような誰かは居ない。あの2人以外、本当に友達という友達は居ないらしい。今奥菜を追い詰められる可能性が1番強いものは、殺人容疑。交友関係、状況から考えるとそれが近道だ。ふと目線を移したカラス。目を留めたのはとある男。それは斎藤陽の友人と思われる人物、永田泉。永田と奥菜は言葉を交わすような関係ですらない。それから永田が校舎から出てきたところでカラスは人間になった。
「ちょっといいかな。俺はこういうもんでね、斎藤君と皆川さんが殺害された事件を警察と連携して追いかけてる」
ゆっくりと名刺を受け取った永田。するとその名刺は指が刺されるように食堂へと向けられた。
「さっさと捕まえろよ。奥菜」
「まぁまだ警察が動けるような証拠が無くてね。君なら斎藤君と奥菜さんとの関係の事で何か知ってるんじゃないかと思って。斎藤君のSNSでも君が一緒に映ってたから」
「陽、殺される前に言ってた。あいつとはもうダチじゃないって。お前、本当に警察の仲間か?」
「ん?」
「陽から聞いたんだ。もし殺されたら、警察に言ってくれって」
「何て」
「奥菜に妻原を襲えって言われたって」
「そうなんだ。教えてくれてありがとう」
「けど、無理だろ?陽はもう居ないし、妻原だって記憶喪失とか言われてるし、被害者も加害者も何も言えないんじゃ立件は出来ないよな。別に、陽が言ってた事を録音してる訳でもないしな」
「状況証拠次第で、警察は指定自警団に奥菜さんを逮捕させるって言ってたよ。斎藤君達が殺された時、奥菜さんの車の目撃情報もあるし、あとちょっとなんだよ。小さな事でも知ってたら教えて欲しい。皆川さんの友達の事とか」
「陽の彼女の友達の事までは知らないけど、ああ、そういえば奥菜が大学の構内で暗殺者と話してた所を見たって噂を聞いた。さすがに信憑性は疑わしいけど。でも奥菜が暗殺者と繋がってる話は聞くし、全くの嘘かと言えなくもないと思う」
それから警察の方も進展はなく、数日の時が経ち、朝方。奥菜が登校中に車の中でスマホを見ていた時、ふととあるネットニュースに目を止めた。それは妻原真愛のニュースだ。記憶喪失の美人ピアニスト。リサイタルで完全復帰。そんなニュースだ。奥菜はすぐにスマホをしまった。そして大きく息を吐く。自分だって今はリサイタルのオファーが来る立派なピアニストだ。
ていうか、何で記憶喪失なのにリサイタル出来るんだよ。何かコネでもあるのか?
午前の講義が終わった後、廊下で妻原と擦れ違った。あっちはこっちの事は分からないから、見知らぬ他人のように去っていった。いや違う。夫から、友達から、私の事は聞いてるはずだ。なのに見知らぬ他人として擦れ違った。訳もなくムカつく。別に話しかけられたい訳じゃないのに。そんな時に奥菜のスマホが鳴った。相手はマネージャーだった。
「はい」
「奥菜さん、今大丈夫でしょうか」
「うん、何?」
「今度のリサイタルなんですが、時間が変更になりました」
「そう」
「主催者側の急なプログラム変更で、もう1人演奏者を組み込む事に」
「そう。誰」
「妻原真愛さんです」
「・・・は?」
電話を切った後の事はあまり覚えてない。気が付いたら中庭にあるお気に入りのベンチに座っていた。
・・・・・奪われる?あいつに、ピアノを。このままでは私の居場所が奪われる。そんなのあり得ない。でも学校でやるのはさすがにリスクが高い。かといってリサイタル会場でやれば私への疑いが強まる。だったら、私がやられたように夜道で・・・。
今日の講義が終わって、真愛は坂本と池野とカフェに居た。記憶を失っても、親や夫、友人がそれを補填してくれれば支障はない。だから今日も真愛は友人に記憶の穴を埋めて貰う。そのカフェを眺める怪しげな男が居るという事など知る由もなく。しばらくして真愛は3人でデパートを歩く。何故ならそこは3人でよく行く場所だから。人通りの多いデパート内。もし今、誰かと擦れ違ってもそれがどんな人かなど気にしない。
その連絡が奥菜の下に来たのは夕方だった。奥菜はメールで逐一報告を受けていたから予め近くに居た。それから1人になった真愛を監視している暗殺業の男に合流した奥菜。真愛は家に帰る時は必ず車。だから迎えが来る前がチャンス。
「妻原」
声をかけたのは男。男のそばに奥菜の姿はない。しかし奥菜は物陰から妻原を見ていた。そしてそっと指を立てる。
「・・・何ですか?」
振り返る男。声をかけるだけでいいと言われていた。時間稼ぎとか要らない、すぐやるからと。でもその“すぐ”は来ない。
「ごめんなさい。あたし記憶喪失で、あなたの事が分かりません。どういったご関係でしたか」
その時、奥菜は男と睨み合っていた。何故なら殺気を形にしようとした直前、腕を掴んできたから。その男は杉原だった。一方、暗殺業の男はその“一瞬”に違和感を悟る。
「いや、知り合いってほどじゃない──」
その連絡が来たのはその日の夜だった。獅子のスマホに連絡したのは夏目。
「杉原が、やられた」
「え?」
「通報があってな、警官が向かったところ、路地で倒れている杉原を見つけた。今は病院だが、意識不明のままだ」
「杉原さんが、一体誰に」
「それはまだ分からない。ただその時、妻原真愛の目撃情報が挙がってる」
「堅城真愛さんですけどね」
「面倒だ。ピアニストでは妻原だろ」
「ああ、ですね。他に情報は。奥菜さんの目撃情報は」
「無い」
「それで、杉原さんの容態って」
「昏睡状態だ。だが体は無傷。まるで妻原の能力だな」
「まさか、疑ってるんですか?」
「妻原を?いや、奥菜をだ」
「斎藤さんは自分の能力で殺されて、妻原さんも自分がやられたように記憶を失った。つまり」
「奥菜の能力は、人の能力を使う能力なのかも知れない」
「確かに。それなら辻褄が合いますね。でも杉原さんは」
「人の能力を使う能力。現場には妻原が居た。元々、妻原を狙ってたんじゃないのか?」
「そうか。杉原さんもそもそも妻原さんをボディーガードしていた。だから杉原さんと奥菜さんがかち合った。いやあ、夏目さん、今日冴えてますね」
「だろ?」
「これからどうするんですか?」
「今は科捜研待ちだ、防犯カメラで奥菜を追ってるし、杉原が持っていたボタンの鑑定もしてる」
明くる日のファン・ビー。朝から獅子の下にやって来たのは一志だった。獅子にはどんな話かは分かっていた。朝食を取っている獅子の前に一志は静かに座る。
「ご注文は」
「コーヒー」
「かしこまりました」
「・・・・・お見舞いには行ったの?」
「あぁ。だが俺じゃ治せなかった。つまり、真愛と同じ能力」
「或いは、近くに居る人の能力を使えるとか」
「そうか」
「それで、奥さんの護衛はどうするの?堅城がやるの?」
「杉原の仲間が引き継いでる」
「だよね」
「状況はどうなんだ。すぐにでも指定自警団は動けそうなのか」
「杉原さんへの襲撃も状況証拠の1つに出来れば、警察も動くと思うよ」
「そうか」
同時刻、真愛は自分の部屋でスマホを見ていた。友達からのメールを見て、そのまま何となくニュースを見る。杉原橙治という指定自警団所属の能力者が倒されたというニュースはトップニュースだった。自分を護衛してくれていた能力者。何故護衛が必要だったは知っている。何故結婚したのかを聞けば、全てが関連しているから。でも記憶が失くなった事を自覚した時、能力は使わないと決めた。あたしにとっては、きっとこの方が幸せだと思うから。
「夏目さん」
渋谷警察署最寄りのコンビニの前に夏目は立っていた。彼の下にやって来たのは指定自警団所属の能力者、生田将。
「来たか、行くぞ」
「もう動いていいの?」
「正式には決まってない。ただ仲間の仇討ちって事ならサポートくらいは出来るだろうよ。あくまで問い詰めるだけだぞ?戦うなよ?」
「分かった」
原宿駅近くのカフェ。そこに獅子が入ると、何名様ですかという店員の問いにホットコーヒーと応えながら、とあるスーツの男性の下に向かった。それは依頼の報告。依頼人が出先での待ち合わせを希望するのは珍しくない。依頼内容は能力者ストーカーの追跡調査。見つけたらそのまま警察に捕まえて貰って欲しいというもの。ここに来たという事は、依頼が完了したという事。依頼人の男性は強く安堵し、獅子に感謝した。ふと獅子のスマホが鳴った。それは獅子がカフェを出て歩いていた時の事だった。
「ねえ、今どんな感じ?奥菜」
「まだ進展は無いよ?さすが助手だね。学校に居ても気になるんだ」
「進展無いって、今ツイッターでさ、杉原を倒した能力者の特定で話題になってるよ?」
「マジ?」
「警察にも通報済みで、賞金もかけられて、奥菜が今狙われてるって」
「そうなんだ。ちょっと夏目さんに確認してみる」
夏目に電話をかける獅子。しかし電話は繋がらなかった。それは何となくの胸騒ぎだった。しかしどこに居るかは分からない。だから獅子はSNSを見た。誰かが奥菜を見たとかコメントを残してないか。そんな事をしていると冬からメッセージが来た。
「奥菜の居る音楽大学、大変な事になってる!」
「分かった」
獅子が音楽大学に着く頃には少しだけ人集りが出来ていた。まだ大事にはなっていない。きっとその人達は同じようにSNSを見た野次馬だろう。大変な事、それはまだ見えないが、獅子は野次馬に紛れて大学の敷地に入っていく。遠くから悲鳴が聞こえた。それから銃声も。それは構内からで、思わず獅子は走り出した。誰の誰に対しての敵意かはまだ分からない。1階の廊下、逃げてくる人と擦れ違った。辺りを見渡しても状況はまだ分からない。獅子のスマホが鳴ったのはそんな時だった。
「獅子君、もう大学?」
「あぁ。今夏目さんを捜してるんだけど、こっちか、何か匂う」
「大学の人が実況的な感じで書き込みしててさ。警察と指定自警団の人が来て奥菜を捜してるみたいって」
「場所書いてないの?」
「ちょっと待って。・・・・・今のところ無い。3階に逃げていったの見たっていうのが最新の情報かな」
「オッケー。ありがとう」
とりあえず3階に上がってきた獅子は嗅覚、聴覚、視覚を研ぎ澄ませた。感じたのは匂いだけだった。静かな廊下を小走りしていく。戦闘の形跡は見当たらない。妙な静寂だ。学生達が避難しているからだろうか。でもお陰で匂いが分かってきた。それから辿り着いたのは多目的の教室。そこは正に乱闘の跡だった。そして、そこには倒れている夏目と生田の姿があった。
「夏目さん!」
駆け寄った獅子は真っ先に夏目に傷が無いのを理解した。呼吸があるのも理解した。でも意識は無かった。それは生田も同じで、一目で奥菜の仕業だと分かった。しかしそこには奥菜の匂いもあり、しかもそれほど時間も経ってないはずだと思い、獅子は2人を後にした。すぐに追いかければ追いつくかも知れないとまた足早になる獅子は、しかし同時に自分1人で奥菜を捕まえられるのかと恐怖と緊張を抱いていた。獅子の能力は戦う為のものじゃない。しかも相手は見ただけ人を眠らせる、まるでメデューサみたいな能力者だから。ふと物音がした。それはとても重たい、金属音のような足音。やがてそれは獅子の下にやって来た。
「あんたは」
「私立探偵。奥菜を追ってる。杉原さんの敵討ち?」
「まあな」
暖かい光のような色をした鎧で全身を包んだその人は指定自警団の岡元大也だった。
「3階に行ったって目撃情報を聞いたんだ」
「あぁ。居るよ。俺は匂いに敏感でさ、そっち行った。けど大丈夫?奥菜は見ただけで人を眠らせる」
「見られなきゃいいんだろ?オレは日光に溶け込めば透明人間だ」
「おお、じゃあ、行こう」
気が付けば金属音のような足音は聞こえなくなっていて、振り返れば岡元の姿は見えなくなっていたが、獅子には匂いでその存在が分かっていた。それは安心感もあり、足取りも何となく軽くなる。そして獅子が奥菜を見つけたのは、裏口から中庭に出た時だった。
「奥菜さん」
すでに作戦は決めていた。声をかけたらすぐに捕まえる。空の下で岡元は透明になっているので、それはスムーズに遂行された。獅子に振り返った奥菜が獅子に何かをする前に、岡元が背後から奥菜の腕を取ったのだ。
「悪いけど、刑事を眠らせただけでも公務執行妨害とか暴行とかにはなるから、拘束させて貰うよ」
「依頼主じゃなくなった途端に敵かよ」
「そういう訳じゃないけど、君が1番分かってるはずだ。斎藤君達3人の殺害という重たい罪を。それから堅城真愛さんへの暴行教唆。これに関しては斎藤君の友達が、君に堅城真愛さんを襲えと斎藤君に言われていた事を証言してくれた」
「証拠なんかない」
「あぁ、残念だけどね。けど殺人に関してはもう警察が動いてる。状況証拠は十分だからね。それにもうすぐ物証も出る。だから逃げても無駄だよ」
それから彼女は沈黙した。黙秘しているのか諦めたのか分からないが、ただ獅子が気にかかったのは奥菜の眼差しにこびりついた殺気は衰える隙を見せないという事。やがてパトカーがやって来て、刑事がやって来て、奥菜はパトカーに向かって連れていかれた。そのはずだった。
獅子が目を覚ますと、目の前には冬と一志が居た。一志の表情はどこか後ろめたさを感じた。そしてここはまだ音楽大学の敷地内だった。
「あ~やられた。油断した」
「急に連絡取れなくなったから堅城君呼んだの」
「そっか。ありがとう。奥菜さんは?」
「居ない。逃げたんだろう」
「夏目さんは?」
一志が黙って目を差した先に夏目は居た。規制線を敷いている制服警官と話していて、獅子を見れば夏目からやって来た。
「起きたか」
「厄介ですね。眠らされたら人は無防備。岡元さんは?」
「岡元は眠らされてはない。だが奥菜は岡元のように透明になって逃げた」
「そうですか。透明でもだめなのか。人の能力を使う能力、その発動条件は例え透明でも抗えない」
「こういう場合は、先手を打って意識を奪うなりするしかないだろう」
一志の言葉には誰もが納得せざるを得なかった。でも何かが詰まったような一志のその表情に、獅子はまたふと目を留めた。
「あ、ねえ獅子君、能力を封印する能力者でも居たら良いんじゃないの?」
「そうだね。相手の力を封じるか、例えば能力を無効化するバリアを張るか」
「ああ、そういう人は居ないの?」
「今の所は知り合いには居ないね。堅城は?」
「封印の力なら、身近に居るが?」
「あそっか、奥さんか。じゃあ、奥菜さんに気付かれる前に、やって貰うか。指定自警団と協力してさ」
「・・・本人次第だな。本人は能力を使わず、普通に生きていきたいと言っている」
「堅城君、説得したら?」
しかし冬の質問に一志は応えなかった。嫌悪感は無い。獅子の目にはただ迷っているように見えた。
その日の昼頃、一志は音楽大学の前に立っていた。ふらっと来た訳ではない。やがて大学から真愛がやって来ると、一志は真顔で恥ずかしそうに手を振る真愛に、真顔で頷いた。昼食は大学の外で一緒にと、真愛が誘ったのは3つ星ホテルのレストラン。
「探偵さんは大丈夫だった?」
「あぁ、杉原と違って眠らされただけだったからな」
「SNSを見ると、奥菜はもう警察にも指定自警団にも狙われている。なのに捕まらないのは不安だな」
「見られただけ眠らされるのは厄介だからな。まぁ対抗策はあるが」
「・・・・・あたし、だよね?」
一志は真愛と目線をパチッと合わせた。その眼差しには嫌悪も笑みも無い。聡明なのは相変わらずだと、一志はシャンパンを一口。
「探偵は、お前の力なら奥菜を捕らえられるだろうって」
「あなたは?」
「まぁ、お前がその気なら。だが無理強いはしない。・・・手はある」
「どんな手?」
「秘密だ」
真愛がふっと笑えば一志も表情を緩める。
奥菜は適当に歩いていた。ハッと気が付けばスマホで連絡して迎えを寄越して、そして唯一自分の完全なテリトリーである車に乗れば、ようやく奥菜はため息と共に緊張と力と魂を吐き出した。だらんと背もたれに身を任せて、ふと脳裏に思い出したのは獅子の顔。もう、私には味方は居ない。完全に警察に目を付けられた。このままじゃピアノを続けられない。どうしたらいいんだ。
今日はもう大学には居られないから帰宅した奥菜。玄関では母親が心配そうに、でも犯罪者を見るような目で待っていた。
「さっき、警察が来た」
「何て言われたの」
「指定自警団の杉原って人が持ってたボタンの指紋と、鈴音の指紋を照らし合わせたいから、何か鈴音の私物が欲しいって」
「まさか渡したの?そんなの令状が無いと無理でしょ」
「ううん、令状見せてきたから、渡したよ」
奥菜は言葉を失った。本当にもう終わりなのか。その顔面の蒼白さが答えだろう。そう奥菜の母親は、その眼差しに怒りを込めた。そして、奥菜の頬は音を鳴らした。
「何したの!?殺人とか昏睡状態とか暴行教唆とか。一体何考えてるの!」
「私は、何もしてない。ピアノを、辞めたくないだけ。だって私は、被害者だから」
「あんた言ってたじゃない!斎藤君がムカつくって。友達が死んだのに全然悲しそうでもないし、それにSNSでもみんなあんたが犯人だって。腕が失くなってからおかしくなったんじゃないの!何があったの!」
気が付けば奥菜は自分の部屋に駆け込んでいた。何故なら涙が止まらないから。私はただやられたからやり返しただけ。いや違う。私が原因。そんな事分かってる。でも、だったらどうすればいいの?もう警察は私が犯人だと分かる。その時、奥菜の脳裏に浮かんだのは真愛だった。
翌朝、奥菜は音楽大学に登校した。周囲の目は驚きに満ちていた。ただ有名人が居るという感情ではない、まるで異物でも見るような嫌悪感。しかも見られただけで眠らされると知っているからか、擦れ違う人達は逃げるように離れていく。でも奥菜はそんなものをいちいち気にしない。何故なら会いたい人が居るから。襲われたくないからか講師達でさえ奥菜には関わらない中、誰かが通報したのか、大学の外にはサイレンを鳴らさずにパトカーが停まった。出てきたのは夏目と三川。頷き合った2人の眼差しには自信があった。奥菜は出席するべき講義には行かず、小ホールの前に居た。しかし1時間待っても、真愛は来ない。高級ブランドのドレスワンピースが膝からガクガクと震えていた。
「貧乏ゆすりなんて柄じゃないだろ」
夏目の声は奥菜には届かなかった。全く振り向かない奥菜はすると立ち上がり、歩いて逃げ出した。首を捻り、ため息混じりに追いかける夏目達。
その頃、真愛はとある講義室で普通に講義を受けていた。奥菜の思惑など知る由もなく、それから講義が終われば友達と話しながら小ホールへ向かった。やがて坂本と池野はこの後講義があるからと小ホールを出ていけば、リサイタルの為の練習は真愛といつもピアノのアドバイスをくれる男性講師とのマンツーマンとなった。ピアノの旋律がただ美しく響いていく。しかしその時、ピアノの旋律に雑音が入った。それは人が倒れた音だった。
「先生!」
「おい」
昏倒した男性講師に歩み寄る前に声がしたので真愛は舞台袖に振り返った。そこに居たのはやはり奥菜だった。ドレスワンピースを着て殺し屋のような眼差しで歩み寄ってきた奥菜に、真愛は足がすくんだ。無意識に手を置いたところには鍵盤があり、突然の音色。思わず座席に腰を落とした真愛を前に、奥菜は拳を握った。何をされるのか、真愛はただ怯えていた。
「記憶」
「・・・え」
しかし態度によらず、奥菜の声は震えていた。ふと真愛が見下ろしたのは握られた拳。
「記憶を消せ」
「誰の?」
「私の」
「え?・・・」
「消してやっただろ?お前の記憶。お前が犯罪者だって事。今度はお前が、私の記憶を消せ」
「犯罪者?あたしが?」
「不公平だろ。お前だけ、記憶もリセットしてピアノやってさ。私だって、ピアノ弾きたいんだよ。だからこの世界から、私が犯罪者だって記憶を取り除くしかない」
殺し屋のような目つき。でもその表情は怯えていた。しかもやがてその眼差しに涙を浮かべた。
「私にはピアノしかないんだ」
「あの、斎藤さんと皆川さんって、本当に、あなたが?」
「あ?お前だろ!」
途端に奥菜は真愛の胸ぐらを掴んだ。でもその動きで溢れそうだった涙は溢れ、奥菜の頬を伝った。
「お前が、暗殺者を斎藤達に送り返したんだろ?それを斎藤達が、私の仕業だと思って私を殺そうとした、だから」
「送り返したって、暗殺者をあたしに送ったのは・・・あなた?」
「先ずは夏目って刑事からだ。あいつの中の私の記憶を消せ。じゃねえとお前の旦那を殺す」
そう言って軽く突き飛ばすように胸ぐらは放された。その反動で真愛は無意識に鍵盤を掴む。突然の音色。
「あの、あの刑事さんの記憶を操作しても」
「その次は私の親だ。それからあの探偵とお前の旦那。それで十分だろ」
「いえ、その警察の、何ていうか、データベースにだって捜査状況は記録されてるはずです。記憶を消しても記録がある。世界はそんなに単純じゃない」
「どうにかしろ!だったらお前の記憶の封印、解いてやろうか?お前だって犯罪者なんだよ。ピアノ出来なくなるぞ!」
「そんな、そんな待って下さい」
「お前も私も、お互いの事も全部忘れてピアノを弾いてられるようになりたいだろ?」
「そんな、簡単に、行くでしょうか」
「考えろよ!今、あの刑事はそこで寝てる」
「えっ」
「先生だってその内起きる。さっさとしろ。ほら来いよ」
「あ、ああ・・・」
奥菜に無理矢理に腕を引っ張られて、真愛は小ホールの近くの備品保管室に寝かされている夏目と三川を前にした。
「いいよ。お前は立ってろ。私は人の能力が使えるんだ。お前の力を使って私がやる」
眠っている2人に手をかざしただけ。まるで魔法のように、そして2人の記憶は操作された。それから何も言わず、奥菜は真愛の腕を引っ張って廊下に出る。
「先生は?あたし、ピアノの練習が」
「チッ。なら終わったら中庭に来い。もし逃げたら、記憶を戻してやるからな?」
一瞬、一志に連絡しようと思ったが思い止まり、1人で舞台裏から小ホールに戻った真愛だが、そこに男性講師の姿はなかった。少しだけ放心してから、我に返って舞台裏から出ていくが、すでに奥菜の姿はなく、真愛は独りであたふたしていく。そこで真愛が手に取ったのはスマホだった。それからメッセージアプリを開く。
「奥菜が接触してきた。お互いの記憶を消してと要求された。大学に来てた刑事さん達もあたしの能力を使って、奥菜に記憶を消された。これから、奥菜の周りの人物から奥菜の記憶を消させられていくみたい。勿論あなたからも。どうしたらいい?」
返信が来るまではと、真愛は小ホールのピアノの前に座った。どうして先生は居なくなったのか、そう考えていると、スマホは鳴った。
「それは、お前にとっても有益なんじゃないのか?」
「でも、殺人犯が野放しになるのは、世の中にとっては危険でしょ」
「奥菜が、自分の事を忘れれば危険とは言い切れないだろ」
「奥菜が、あたしも犯罪者だって言ってた。本当なの?」
「本当だ」
真愛は一瞬だけ気が遠くなった。1分も経たない内にそんなはっきり返信するなんてと。だから居ても立ってもいられずに電話をかけた。
「一志」
「何だよ」
「あたしが・・・犯罪者だって知ってて、その・・・結婚してくれたの?」
「そうだな。まぁそれは、お前に押し切られて。それに、犯罪者である記憶が消えれば、必ず態度や振る舞いは変わる。俺にとって、妻が犯罪者だと信用問題になる。世間的には良くないのは分かってるが、俺にとっては有益だ」
「分かった。あなたがそう言うならそうする」
「奥菜は近くに居るのか?」
「今は居ない」
「だったら、先手を打て。結局は奥菜からお前の記憶が消えれば、お前はもう狙われないし、奥菜は逮捕される」
「あの、その・・・」
「何だよ」
「自分の能力の使い方、分からないの。自分の記憶、1回消されちゃったし」
「だったら、記憶を戻して貰ったらどうだ」
「でも、犯罪者だった記憶が戻ったら、どうなるのかな」
「そんなの知るか」
「変わらずに、一志と一緒に居られる?」
「・・・知るか」
「ちょっと!」
「お前が惚れてきたんだ。お前次第だろ。まぁ、つまり、俺に惚れた記憶が戻るって事でもある」
それから真愛は奥菜を捜して廊下を走っていく。記憶を消されたのは不意の事だった。確かに、どうして一志と結婚したのか、その理由が消されたと思うと、急にやる気が出てきたのだった。
「真愛!」
そんな時に廊下の曲がり角からやって来たのは、真愛の友人の坂本だった。
「大丈夫?怪我無い?」
「うん。どうかしたの?」
「え!?先生に用があって小ホールに行ったら倒れてて、起こしたら真愛が居なくなってるって言うから捜してたのに」
「あ、さくらが先生を。先生は?」
「念の為に医務室に。何があったの?」
「奥菜に、ちょっと連れていかれて。でも何も無かった。だからすぐに小ホールに戻ったけど、先生が居なくなってて、あたしも捜してた」
「そうなんだ。ピアノの練習してたんでしょ?」
「うん」
「先生のとこ行こ?」
「うん」
先生も無事に戻ってきて、真愛は練習を再開させた。ピアノを弾いていると自然と心は落ち着き、奥菜を捜したい逸る気持ちも収まった。けどいざ練習が終われば、何を練習してたのかというくらい頭の中は奥菜の事と不安と緊張、そして一志の事と期待とワクワクで満たされていた。真愛が中庭に着くと奥菜が座っていた。
「あの、あたしの記憶、戻して」
「は?急に何だよ。いいのかよ」
「今の状態だと、能力の使い方、分からないの」
「ああ、チッ・・・まぁ仕方ねえか。どうせまた消すんだ」
急に何かを期待したのか、さっさとベンチに座った真愛を、奥菜は疑わしく見つめる。それでも仕方ないので奥菜は真愛の頭の辺りに手をかざした。一点を見つめる真愛。やがてその眼差しは大きく開かれ、呼吸は荒くなった。そのまま過呼吸になるんじゃないかと思ったが、それから真愛は目を閉じ深呼吸した。
「あなた、この前のコンクールで優勝してからリサイタルも出来るようになったんだね。良かったね。優勝は偽物でも、リサイタル出来るのはちゃんと実力がある証拠だよ」
「当たり前だろ」
「お互いの記憶消したら、少なくとも、どちらかは転校した方がいいと思う」
「分かってる。出ていくのはお前だ」
「どうして?」
「どんなコネか知らねえけど、お前はリサイタルの経験が豊富だ。私はな、これからなんだよ!お前は邪魔なんだ。ピアノは、お前だけのもんじゃねえ」
「あなただったら、もっと上へ行けるよ。いっそ海外に行けば?」
突然に奥菜は震え始めた。同時にぼろぼろと涙を流して。真愛がえずく奥菜の背中を擦ると、奥菜は素早くバックから取り出したハンカチに顔を埋めた。
「頼むよ。陽達、こ、ごろしちゃった、うっ・・・記憶、消じで・・・ううっ」
切っていた友情という概念を元に戻し、同時に“堅城真愛への嫉妬”を切り落とした。そんな事をいちいち説明してやる必要はない。腕を切り落として、時間を奪い、嫉妬を育てさせてしまったのはあたしのせいでもあるから。友達を殺すきっかけを作ってしまったのもあたし。これはそのお詫び。でも罪を消し去ってあげる義理は無い。だから代わりに十字架をあげる。
「あなたの親や探偵さんから、友達を殺した記憶を消したら、最後に消す。じゃないとキレイに消えるまであたし達の会話が成り立たなくなる」
「・・・・・うん」
今日の講義が終われば、真愛は奥菜と共に、奥菜の車に乗った。真愛は奥菜の横顔に安心しながら、内心で嘲笑っていた。もう殺し屋のような眼差しは後悔に染まっていた。奥菜の家に着くまで2人に会話は無かった。何故なら友達ではないから。
「ただいま」
「こんにちは」
「あら、珍しいお客さん。いらっしゃい」
「バッグ、取りに来ただけだから」
真愛は玄関に残り、奥菜は自分の部屋に向かうフリ。その直前の一瞬で、奥菜は真愛に囁いた。
「もう消した」
大学用とお出かけ用のバッグを取り替えただけで奥菜は玄関に戻ってきた。外に出る最中、奥菜はふと母親に振り返った。その眼差しは、娘の罪を知らないただの母親のものだった。
「いってらっしゃい」
「うん」
ファン・ビーのドアベルが鳴った。カフェに入ってきたのは獅子の依頼人である男性。獅子と依頼人の男性が話しているのを、奥菜と真愛は店の外から眺めていた。
「・・・さて、次はお前の夫だ」
「そうだね」
何かをされた、その自覚すらない探偵を横目に、真愛は車に戻る。そして奥菜がドアを開けたその時、真愛は奥菜の見てないところで小さく手を払った。後部座席に2人が並んで座れば、奥菜は安堵を込めた小さなため息を漏らした。
「さて“最後”は、私自身だ。なぁ、私から殺人犯の記憶を消したら、お前の記憶はどうするんだ」
「あなたが罪を忘れた後、あたしが自分自身の記憶をちゃんと消すか、心配?」
「最後に裏切る気か?」
「刑事さんとあなたの母親と探偵さんの記憶を消したのはあなたでしょ?あなたが罪を忘れた後、あたしがこっそり3人の記憶を戻す事は無理だから、安心して。あたしが戻せるのはあたしがやった事だけ。何ならあなたが鏡を見ながら自分自身の記憶を消せば、永遠にそのまま」
「そういう事か。けど捜査記録はどうする」
「あたしの力は切りたいものを切る。もしかしたらそれはデータでも出来るかも」
「ほんとかよ・・・。どうやるんだ?何に対して念じればいいんだよ」
そんな時に後部座席の前に置いてある運転席との内線電話が鳴った。
「ちょっと待って。今行き先決めてる最中だから」
「何に対して・・・例えば、パソコンとか」
「警察署のか?無理だろ」
「じゃあホームページとか?」
「お前、自分の能力だろ」
「でもやった事ないから」
舌打ちしながらでも動きは素直。スマホを見始めた奥菜に、真愛は今更ながら少しだけ人間味を感じた。確かに真愛の能力は念じる事で発動される。でも目の前には存在しないものを切れるかは分からない。奥菜が穴が開くほどスマホを見ている横で、真愛は一志の顔を思い返す。あなたの事は守った、そう心の中で声をかけていた。
「・・・出来たかどうか分かんねえな」
「もし警察に目をつけられても、あなたも刑事も探偵も知らないなら大丈夫だと思うけど」
「まぁ、仕方ねえか」
「あなたの罪の記憶を消した後は、あなたの中のあたしの記憶を消すのもあなたがやるの?」
「あぁ、それで、本当に終わりだ」
「あなたがあたしの記憶を消す前に、あたしは降りた方がいいよね。じゃないとどうして隣に座ってるの?って事になる。あたしが車の外に居ても、あたしの能力は使えるんでしょ?」
「あぁ」
奥菜が罪の記憶を自分で消してそれから、真愛が車を降りたのは表参道駅の近くだった。真愛が降りてから、奥菜が手鏡を見つめて自分の記憶を消す。そのはずだった。すでに奥菜は気絶していた。窓を開けてから真愛は車を降り、車の外から奥菜の中の真愛の記憶を消した。先手を打ったのだ。何故なら、最後まで主導権を握られるのは癪だから。歩き出し、離れてから、そして真愛は奥菜の気絶を治した。これで本当に終わった。そう真愛は鼻で笑い、空を見上げた。
すぐに一志に電話をかけ、お気に入りの3つ星ホテルで待ち合わせをすれば、真愛はやって来た一志に抱きついてキスをした。
「勝ったよ?」
「そうか」
親が家に居ない日は、真愛は気分でホテルに泊まる。勿論その時は夕食もホテル。豪華な夕食の後は豪華なベッドが待っている。部屋に入れば真愛は一志をベッドに押し倒した。
「もう誰も邪魔者は居ない。奥菜のあたしへの嫉妬も切ったし」
「なら晴れて刑務所行きか」
「それは、行かない」
「え?」
「刑事さんと、探偵さんから、奥菜が犯罪者だっていう記憶を切り落とした。奥菜の親からも、あと警察署のデータベースからも」
「どうやって」
「それは本当に出来たかは分からないけど、でも、奥菜とその周りから、奥菜が犯罪者だって記憶と記録を消した。元々、友情を切ったからこうなったし、ちょっとしたお詫び。うふふっ・・・・・じゃあ、シャワー行こ?」
それから1ヶ月経っても奥菜は転校しなかった。何故なら真愛への嫉妬も敵意も、そして自分への後悔も無くなっていたから。真愛の存在は消えていないが、大学を離れる理由は消えた。今では奥菜にとって、真愛はただの“直近1年は会話した記憶の無い”幼い頃からコンクールで会う顔見知り程度。だから小ホールで練習が一緒になっても真愛との会話は無い。
「2人共、良い調子だ」
食堂で昼食を取っていると、坂本は嬉しそうに雑誌を真愛に見せる。そこには真愛のインタビュー記事が掲載されていて、坂本と池野と真愛は歓談しながらそれを回し読みしていく。真愛も奥菜も、何の支障もなくピアノを弾いて日々は過ぎていた。しかしそれから開催された全国ピアノコンクールで、事件は起こった。
そのニュースを真愛が知ったのは、全国ピアノコンクール準決勝当日。難なく予選通過して、真愛はいつもの調子で控室に入った。出場者全員が入るそこで、聞こえてきたのは予選出場者の1人だった人が、控室から出てこなくて失格になった話。
「あの、それって、どういう事?」
「ほら、木村って子居たでしょ?最近ミニコンサートとかで演奏するようになった」
「うん」
「私の友達の友達なんだけど、友達が聞いたんだよ。失格になったのは寝てたからって」
「寝てた?」
「絶対能力者の仕業だと思うけど」
「そういえば堅城さんも、前にその被害を受けたんだっけ」
「あ、うん」
「記憶喪失だから覚えてないか。誰だか知らないけど、ほんと卑怯だよね」
真愛がふと開いたドアに目を向けると、奥菜入ってきた。同じ出場者なので当然だが、真愛はその何も知らないような顔に怒りを芽生えさせた。この女の性根は何も変わっていないのか。私に対しての嫉妬心を切れば、これまでの事も終わると思っていた。でも結局、新しく別の誰かが標的になっただけ。
本選初日を終えた真愛は会場から出ていく奥菜を追いかけた。そして声をかけたのは、奥菜が車に乗る直前だった。
「奥菜さん」
「何?」
「知ってる?さっきのコンクールの予選の時、出場者の木村さんが眠らされて、演奏出来なかったって」
その表情には見覚えがあった。それは子供の頃から見ている奥菜の表情の中で、初めて敵意を宿したものと同じだった。単なる嫉妬を越えて、排除欲が常識という一線を踏み越えてしまった顔。
「知らないけど?」
真愛は何も言い返せなかった。だから奥菜はそのまま車に乗って去っていった。終わったと思っていたのに。
「一志」
自宅に帰る途中に車でピックアップする為に呼び出した一志に、真愛はわざわざ車から降りて抱きついた。車の中で今日の事を話すと、いつものように一志は笑顔を安売りしない仏頂面で相槌を打つ。
「どうしたらいい?」
「証拠は?」
「え?」
「決定的な証拠が無いだろ」
「そうだけど。絶対そうだよ。動機もあるし状況が物語ってる」
「眠らせたくらいなら暴行罪程度だ。警察に通報してもいいんじゃないか?」
「また、繰り返し?」
「あの女の性根の問題だ。ピアノへの執念が異常なんだろう」
「執念か」
「何でピアノを弾けるようにしてやったんだ?」
「それは、その、ピアノには罪は無いし。あの人、実力はちゃんとあるから、普通にしてれば良いピアニストにはなれると思う。だからそれまで奪う権利は無いと思って。でも結局ターゲットがあたしじゃなくなっただけだし、許せない」
明くる日のファン・ビー。獅子は朝食のモーニングセットと冬を前にしていた。依頼者名簿兼依頼に関してのメモを開いているのはコーヒーを片手にした冬。
「最近、私良い感じの助手じゃない?」
「まあね。ほんと助かってるよ。SNSを武器にして調査も営業もしちゃうんだからね、ん?」
獅子のスマホが鳴った。コーヒーを一口飲んでから、獅子は画面に表情された堅城の文字を見る。
「はい」
「奥菜の事追ってくれ。些細な事件だが、まぁ立派な犯罪だからな」
「何したの?」
「眠らせた。ピアノコンクール予選の時らしい。しかし決定的な証拠は無い」
「そうなんだ・・・」
冬は電話を切った獅子をチラッと見てから、スクランブルエッグを挟んだ小判型のミニ揚げパンを一口。
「られ?」
「食べながら喋らない。堅城だよ。奥菜さんを追って欲しいって」
「らんれ?」
「え?」
「何で?」
「ほら、眠らせる能力でさ、ピアノコンクールの予選で、ライバルを」
「はあ?何あの女。獅子君達から犯罪の記憶消したくせにまた?もう病気じゃん。意味分かんない」
「まったくだね。とりあえず、午後に穂香さん来るから、それまでに行ってみよう」
堅城に何のコンクールだったのかを聞いて、そのコンクールの出場者を調べたら聞き込み。幸いその1人が同じ音楽大学に通っていると堅城真愛が教えてくれたので、獅子と冬は待ち伏せした。
「どうも、今開催されてる全国ピアノコンクールの出場者の村尾さんだよね?」
「え、そうですけど」
「予選の時にさ、1人出られなかったんでしょ?その事詳しく聞きたいんだ。これ名刺」
「・・・ああ、そうですか。詳しくって言っても、私の友達の友達が予選の時に眠らされてたって知ったのは、予選が終わってからで、友達から聞いて初めて知って」
「その被害者、教えて貰える?」
それから獅子と冬が向かったのは杉並区にある、被害者である木村梨理耶の自宅マンション。インターホンを押せば本人が出て来て、すんなりと上がらせてくれた。何故ならSNSのダイレクトメールでアポを取っていたから。
「ていうか、依頼者って誰?」
「本当はそういう事は守秘義務になっちゃうんだけど。実は、居ない」
「え?」
「知り合いにちょっと頼まれただけで。まあとある事件の後日談的な感じ」
「じゃあ私が依頼する。犯人を捜して」
「ああうん、犯人はもう分かってる」
「え?」
「あ、いや、ほぼ確定。でも証拠が無いから、それを今探ってて」
「犯人って?」
「それは今は言えないけど」
「でもどうせ同じピアノコンクールの出場者でしょ。ライバルを潰す為に。私、許せない。だってすごく卑怯じゃん」
「うん私もそう思う」
「それでさ、眠らされる前、何をしてたか教えて欲しいんだけど」
「ああ、えっと、特に変な事はなかった、と思う。眠る直前の事、記憶が曖昧で。普通にしてただけだし」
「狙われる心当たりは?」
「そんなのないよ!」
「そっか」
マンションを後にしたところで、獅子は電話をかけた。相手は一志。報告を済ませたところで冬は獅子の顔を伺う。
「今回の報酬って、どうなるの?」
「そうだねぇ。依頼者が居ないで動くのは初めてじゃない。夏目さんへの情報提供の為にちょっと手伝ったりする事はよくあるし」
「堅城君に請求すれば?」
「ああ、うん、じゃそれで」
「結局手がかりなかったね」
「これくらいなんてことないよ」
「じゃあ私の出番だね。ピアノコンクールの出場者達にDMで聞き込みする」
「モダンだね」
「そのリアクションがモダンじゃないし」
全国ピアノコンクール決勝当日。会場は始まる前からどよめいていた。何故なら最初に演奏する人が控室から出てこないから。スタッフが控室のドアをノックし、返事がないので開けると、そこには出場者が居たが眠っていた。予選の事もあるし、さすがに本選では無視する訳にはいかないからと当然コンクールは中断となり、警察が呼ばれた。被害者は目を覚ましたが、スタッフ、そして出場者がホールに集められた。夏目と三川は“平等な目線”で出場者とスタッフ達を見つめる。
「予選の時に眠らされた出場者から被害届が出されてるので、運営に中断を要請させて貰った。ただ眠らせただけだろうが、これは立派な暴行罪だ。直ちに出頭しろ」
しかしコンクールは再開された。出頭するものが居らず、眠らされた被害者がそう望んだから。苦々しい顔で刑事達が去っていく中、真愛は人知れず、終始奥菜を睨んでいた。それからの控室では、真愛は混み上がる怒りを抱いていた。これは単なるいたずらでは済まない。コンクールは人生をかけるものだから。このままうやむやにされていくなんて、そう考えると酷く胸焼けする。
「優勝おめでとう」
「うん、ありがとう」
3つ星ホテルのレストランで夕食の乾杯をした途端、真愛の表情は曇った。
「一志、もう1度、あたしがやらないといけないのかな」
「また腕を落とすのか?何の為だ」
「だって、コンクールは人生をかけるものなの。それを台無しにするなんて許されない」
「奥菜が犯罪者だという記憶と記録は消したが、お前のはどうなんだ?」
「え」
「お前の記憶が消された事で警察もお前を追わなくなったが、分かりやすく力を使えば記憶が戻った事がバレてまた追われるんじゃないのか」
「そうだけど、でも、放っておけない。皆の為だよ。でもちゃんと目立たないようにするから」
音楽大学での講義の合間、真愛は奥菜を追いかけた。やがて奥菜は中庭のベンチに座ったので、真愛は近付いていく。しかし真愛よりも前に女性が1人奥菜に歩み寄り、2人は親しげに話し始めた。この場は諦めた真愛だが、それから次に奥菜を見かけたのは昼食時の食堂だった。しかし真愛も友達が居るので目立った事が出来ず、この時もただ遠くから見ていた。でもだからこそ真愛は考えていた。どうしたいいのかと。どんな感情を切れば、あの女は正常になるのか、それが分からないから。
「えっ」
「どうしたの?」
スマホを見ていた池野に坂本が尋ねる。
「今友達からメール来たんだけどさ、小塚さん、今日休んだの階段から落ちて大怪我したからって」
「そうなんだ。今週からテストなのに災難だね」
「入院してる病院分かる?」
学校が終わった後、真愛は一志をピックアップした。向かったのは真愛達と同じピアノ科の小塚が入院した病院。病室に入ると、特に友達というほどではない関係の真愛に小塚は何で来たのか分からないという表情を見せる。
「亜依羅から聞いたんだけど、大怪我したって」
「え、うん」
「あたしの夫は治療能力者なの。同級生だし、特に報酬とかはいいから」
「いや報酬は貰う」
「ちょっと」
「別に恩を売りに来た訳じゃないんだ」
「どういう事?」
「どうして怪我したか、教えて欲しいの。誰かに突き落とされたとか」
「ううん。あの時は・・・急に倒れただけで、周りには誰も居なかったと思う。もしかして犯人捜ししてるの?」
「うん。この前のピアノコンクールでも出場者が眠らされたし。あなたの事も考えると、犯人の狙いはピアニストだって思うから」
「じゃあ・・・・・奥菜じゃない?」
「え」
「だって前から性悪だって有名だし。仲良かった2人が死んだのに奥菜は全く動じてないし。結局証拠が無いから急に警察は追わなくなったんだろうけどさ、態度とか目つきとかヤバイじゃん?」
「うん、でも証拠が無いんだよね」
車に戻ると、真愛は頭を抱えた。どうすればいいんだろうと、無意識に一志の腕を抱き枕にしながら。
「やっぱり、やるしかないのかな」
「何を」
「あたしが、自分だけじゃなくて他のピアニストも、ピアノも守らなきゃいけないよね」
翌日の昼食後に早退した奥菜はそれから3日、大学に来なかった。単に風邪を引いたとか噂される中、その日の昼食時、真愛はたまたま近くのテーブルに居た、奥菜と少し話すようになった女性が友達に話しているのを小耳に挟んだ。
「奥菜さん、ピアノ辞めるって。この前早退した時から、急にそう思ったらしいよ。大学も辞めるって」
「真愛?」
坂本の話がふと遠くなるほど、真愛にとってはその女性の話は意外なものだった。切ったものはピアノへの執念。ピアノへのやる気を切った訳じゃないから、考えた結果、これなら“通常のピアノ欲”に戻るだろうと思っていた。少しの同情と後悔を抱えながら車に乗り、一志をピックアップして自宅に戻った。そしてその夜、真愛はテレビでとあるニュースを目にした。それはシャワーを浴びに行く最中、思わず立ち尽くしてしまうものだった。プロのピアニストとして活躍していた結城珠理奈が心配停止状態で搬送され、その後死亡が確認されたというニュース。それは翌朝のワイドショーでも、真愛が通う音楽大学でも話題になった。結城はその大学の卒業生で、最近でもたまに大学で見かけていた。顔を合わせれば、坂本は朝から真愛に駆け寄ってきた。
「真愛、ニュース見た?」
「うん」
「ヤバくない?皆噂してるよ。奥菜だって」
「え?そうなの?」
「朝のニュース見てないの?」
「うん。昨日の夜見ただけで。昨日は、心配停止ってだけしか報道されてなかったけど」
「朝の情報番組でやってたよ?結城さんはホテルのロビーでいきなり倒れて、それでたまたま階段から落ちたって。小塚さんと同じじゃない?」
「うん」
「その怪我をさせられたピアノ専攻の学生の事と、ピアノコンクールの予選で意識を奪われた人の事がSNSで話題になってるってテレビでも取り上げられたし、結構大きな話題になってるよ。ピアニストが狙われてるって」
「そう・・・」
「どうかした?」
「ううん。やっぱり、奥菜かな」
「んー、どうかなぁ。でも最近、この大学事件起きすぎじゃない?」
講義の最中、真愛は気が気ではなかった。もし本当に奥菜が結城を殺したのだとしたら、それはきっとあたしのせいかも知れない。ピアノを辞めさせたから、事件が起こったのかも知れない。どうして?・・・・・どうして、あの女は、あたしの思い通りにならないの?これ以上、ピアノの世界を汚す事は、許さない!
その夕方、ファン・ビーのドアベルが鳴った。振り返った獅子はベルを鳴らしたその人と目を合わせれば、それが合図となって2人は歩み寄っていく。
「どうも」
黙って冬が獅子の隣に席を移すと、獅子達の前に真愛と一志が座った。
「奥菜の居場所は掴めたのか?」
「昼先に言われてすぐ奥菜の家に向かったら自分の部屋に居たよ。今も居ると思う。それで、どうするの?記憶が消されて、能力者として生きるのはやめたって堅城から聞いてるけど」
「記憶は戻ってる」
「そうなの?」
「はい。罪の無い人が命を落とすような事態になって、もう許せません」
「どうすんの?また腕落とすの?」
真っ当に犯罪者を見るような顔で冬が聞いても、真愛は即答しなかった。
「・・・分からないので、相談を。腕を落としても、記憶を消しても、感情を変えても止まらない、いやむしろ悪化していく人を、どうすればいいでしょうか」
今度は冬に問いが投げかけられたが、冬は即答出来なかった。命を奪う事など、論外。非道な事をせず、どうすればいいのかを考えながら、冬はコーヒーを一口。それでも答えが出せずにいた時、真愛のスマホが鳴った。相手は坂本だった。
「どうしたの?」
「大変だよ!テロ!大学に!」
「え!」
4人が音楽大学に着いた頃にはパトカーが数台停まり、人集りもあって騒ぎになっていた。獅子が手を上げると夏目と三川が近付いてくる。
「爆破テロだ。怪我人は居ない」
「犯人は」
「逃がした」
「爆破ってどこ?」
「小ホール。ピアノが木っ端微塵だ」
「ピアノ・・・」
他の教室にも短絡的な破壊の跡があるが、真愛の耳には夏目と獅子の会話は遠くなっていた。いつも練習していたピアノが破壊された。どうやったかは分からないが、あのピアノを狙う人は1人しか居ない。人混みを抜けたところで気が付けば一志に腕を掴まれていた。
「もう奥菜を放っておけない」
「どうするつもりだ」
真愛の脳裏に過っていく、男に襲われた時の情景と奥菜を襲った時の情景。その時の恐怖と憎しみが荒波のように沸き上がってくるのを感じていた。
「・・・・・・殺す」
「やめろ」
「バレなきゃいいんでしょ?」
「落ち着け」
真愛は一志の腕を振り払った。一志の眼差しが凍りつくが、真愛の眼差しにも火が点いていた。
「ピアノは、あたしの人生なの!それを分かってて奥菜は狙った。もう我慢出来ない。あたしだけじゃない、皆怯えてるの。誰かが何とかしないと」
「待てよ。警察と指定自警団に任せろ」
「もう遅い!人が亡くなってるの。あたしだって怯えて暮らすのは嫌」
「お前はまだ人殺しじゃない。一線を越えたら、もうピアノは出来ないぞ」
真愛は止まった。その背中には迷いが伺えていた。
「堅城、何してんの?あれ?奥さんは?」
路肩には真愛が乗る車は無かった。それに獅子がふと気が付いた時、一志は歩き出した。
「先に帰らせた。犯人は奥菜だろう。動機がある人間は1人しか居ない」
「うん、まぁ、だろうね。多分、また能力者のテロリストに依頼でもしたのかなってどこ行くの?」
「依頼の消化」
獅子は去っていく一志の背中に何も感じなかった。それはいつもみたく凍りついたように冷静だったから。程なくして、音楽大学の破壊跡は能力者によって復元された。後は犯人捜しのみ。しかし犯人の痕跡は無く、捜査は行き詰まってしまった。
東京駅のとあるベンチ。一志は力無く座り込んだ。気が付けば手が震えていた。脳裏に浮かび上がったのは、初めて人の命を奪った時の記憶。能力者になって間もない頃、力の使い方を試していた。そこで見かけたのは数人の怪我人と、1人の能力者。深夜の商店街だった。自分の力は、異常を消し去る力。だから怪我も治せるし、“自分自身が異常と感じたなら人間そのものさえも消し去る事が出来る”。だからそのテロリストの悪意を消し去った。しかしそのテロリストは、快楽で怪我人に止めを刺した。だから次に意識を消し去った。それは俗に魂とも言えるもので、つまり永遠に気絶したという事。そんな事が何度もあって、ある日決めた。もう怪我人にしか能力は使わないと。真愛を見ていると、以前の自分を見ているようだった。依頼を1つ済ませた後、また東京駅に戻って来た一志はスマホを手に取った。電話をかけてきたのは獅子だった。
「さっき夏目さんから連絡があって、奥菜が、病院に搬送されたって」
「何だと。誰にやられたんだ」
「まだ分からない。でも気絶したまま動かないってさ。夏目さんは奥さんだろうって。多分もう任意同行しようと家に向かってると思う」
一志はすぐに真愛に電話をかけた。心配したからではない。
「一志」
「やったのか」
「ごめんなさい。でも殺してはない」
「警察は」
「知らないって言ったからすぐに帰った。今どこ?」
「東京駅。今から帰る」
タクシーで真愛の家に着いた頃には真愛の両親も帰ってきていて、真愛は自分の部屋に居た。その表情は冷静ではなかった。一志を抱き締めた態度は初めて会った時のように、高揚と“襲い慣れ”が混ざったものだった。
「仕方ないよね。ああでもしないと。でもあのままにしておけば、皆が安心する」
ベッドに座り込んだ一志にぴったりとくっつき、真愛は唇にキスをしてから顔色を伺う。
「どうしたの?」
美しき犯罪者。それが真愛という人間の第一印象。ただそれは真愛だけではない。奥菜と真愛はとても似ている。
「お前、最初に会った時と同じ、犯罪慣れした顔してるな」
「こんな時代だもん。それに、今回は正義よ」
「他にやり方は無かったのか?」
「どうしてあたしを責めるの?悪いのは奥菜でしょ?」
他にやり方は無かったのか。その言葉と共に、一志はテロリストの意識を永遠に消し去った時の事を思い出していた。
「正義か。調子に乗るな」
「え?」
「俺がお前の殺気を消さなきゃ、お前は奥菜を殺してただろ」
「・・・え・・・・・一志、治療能力、だけじゃなかったの?」
「俺の能力は1つだ。消し去れるものは、怪我だけじゃない。本当は、お前とほぼ同じ事が出来る。俺は、何人も犯罪者を殺した。お前と同じように、最初は殺さないように悪意を消したり、性格を変えたりしたが、結局、人を傷付ける人間の性根は変わらない。だから俺は、怪我しか治さないと決めた」
「そう、だったんだ。・・・・・その、あたしの事、助けてくれたの?人殺しにしない為に。そうでしょ?」
「奥菜を戻せ」
「えっ。でも・・・」
「救われない奴を見ると虫酸が走る。奥菜やお前のような奴を見ると」
「あたしの事、愛してくれてないの!?ねえ!!」
「人の人生の時間を止めたままにするような奴は、好かない」
「どうして・・・どうしてよ!奥菜が悪いのに!・・・・・酷い!何でそんな事言うの?・・・いいわ。あなたの記憶、キレイにしてあげる」
3ヶ月後。ファン・ビーのドアベルが鳴った。それは獅子が朝食中の事だった。
「おはよ」
そう言って冬が獅子の向かいにドスンと座れば、獅子は返事と共にコーヒーを一口。
「堅城君、もう3ヶ月だし、傷も癒えてるよね」
「どうかなぁ。急に離婚したって言って、静かに泣き出したあんな姿、俺は初めて見たし、案外癒えてないかもよ?へへ」
「何が可笑しい。意外と、泣くほど好きだったんだね。日本一周傷心旅行かぁ、いいなぁ」
羽田空港の第一ターミナルのレストランで朝食を取った一志は、それから目的も無く歩いていた。日本一周でも荷物はバッグ1つしかない。旅行と言っても先々で依頼を見つけてはお金を稼ぐ、出稼ぎ旅行。そろそろ自宅のマンションに戻るか。そんな時、腕を掴まれた。何かを落とした訳ではない。ワンピースドレスのその女は外したサングラスをおでこに乗せると、まじまじと一志を見た。
「あなた、ですよね?あたしを愛してくれた人」
妻原真愛はそう言うと、一志はふっと笑った。見つかってしまった。奥菜とついでに杉原も治し、真愛の中の奥菜と自分の記憶を消した。勿論真愛の両親からも。スマホのデータも消してやった。戸籍は操作出来ないが会わなければ分からない。勝ったのは俺だった。だから逃げていた。
「捜しましたよ」
「何で俺だと」
「ふふっ、依頼した探偵さんが優秀で良かったです」
「・・・あいつ」
一志はがっしりと手を繋いできた真愛と歩き出す。探偵がやけに予定を聞いてきたのはこの為だったのか。余計な事を。
「一生逃がしませんから」
封印の毒姫 完
読んで頂きありがとうございました。
書き始めた当初よりかは長くなってしまいました。お陰様でエネディビスピンオフだけで1冊出来そうなくらいになりました。是非他のエネディビスピンオフ作品もよろしくお願いします。
ありがとうございました。