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解き放たれた毒姫編

明くる日のホットカツサンド。相変わらず良い出来をしている。揚げたてのロースカツ、熱々のデミグラスソース。店主の希望でテイクアウト不可なので、ここでしか食べられない。獅子はこれを食べれば、頭の中の大抵の問題は整理されるのだ。しかし今朝だけは、大いなる謎が獅子を悩ませていた。どんなに肉厚のロースカツを噛み締めても、どんなにデミグラスソースの香りに酔いしれても、この問題だけはきっと、永遠の謎なのかも知れない。

ファン・ビーのドアベルが鳴った。珍しく獅子は入口に振り返った。何故なら少し期待したからだ。きっと冬なら、この問題をスパッと解決してくれるのではと。今日は日曜日だからさすがの冬でも私服だった。しかし今はそんな事はどうでもよく、獅子は向かいの席に座った冬に、とりあえずそれを見せた。

「・・・え、何これ」

「俺だって探偵歴は長くはないよ?でもこれは、今までで1番の謎でさ」

「ていうか、何で半笑いなの」

「冬ちゃん、分かる?何でこうなったか」

「んー・・・・・興味ないけど」

「あ、はは・・・そっか。年頃の女の子だし、興味持つかと思った」

「何でこうなったか、聞けば?本人に」

「・・・・・へへ」

「何が可笑しい」

「いやだって、もしかしたら、こう、頭の中を何かされちゃったのかなって、怖くならない?」

「じゃあ、そうなんじゃない?」

「ドライだなぁ」

獅子はホットカツサンドを一口。ふと会話が途切れたからと、冬は何の気なしにそれを手に取り、まじまじと見た。それは獅子のスマホで、獅子が見せてきたのはメールに添付されている写真。それは一志と真愛のウエディングフォトだった。ぴったりと寄り添い、タキシードの一志は口角を少し上げただけの顔。そしてウエディングドレスの真愛は控えめな笑顔。冬は一瞬だけ首を傾げた。幸せそうと言えば幸せそうだ。

「確かに、気にはなってきた」

「例えば、堅城が妻原さんを説得した時、結婚が奥菜さんの腕を治す条件だったとか?」

「そんなんで結婚する訳ないから。単に堅城君が惚れたんじゃない?言っても、モデル体型でトップアイドル顔なんだし。こんなん誰だってその気になるでしょう」

「それじゃあ普通じゃん」

「普通でいいでしょうよ。だったら、妻原の方が惚れたとか」

「それも何か面白くないなぁ」

「面白くないとかじゃないから。ていうかさっさと電話すればいいじゃん」

「俺なりにさ、推理しようかなって」

「暇かよ」

ホットカツサンドをかじりながら、獅子は再びスマホを見る。一志からのメールは写真と共に一言が添えられている。「そういう事だから、よろしく」と。


──1週間前。

「堅城、あんまり思い詰めるなよ?」

「・・・あぁ」

一志の脳裏には真愛の顔が焼き付いていた。連絡するというのが迷惑な訳ではない。純粋に怒りを募らせていた。どんな能力者だって、死者を蘇らせる事は出来ない。というより、それが出来たという話を聞いた事がない。しかしもしかしたら、能力によっては、死んだ事実をねじ曲げる事が出来るのかも知れないが。

「堅城」

先ず一志は指定自警団の杉原を呼んだ。やって来た杉原の表情は苦々しいものだった。自分が警護対象にしていた者が、殺人を犯したのだから当然だ。

「どっちに逃げた」

「見失った」

「どこに向かってるんだよ」

「・・・音楽大学。斎藤と共に襲われた皆川という女が、何か聞いてるかも知れない」

「ああ、あの時のか。大学に居るのか?」

「知るか。居るだろ、大学なんだから」

大きくへこんだ赤い車。おぞましい血だまり。その2つが規制線で囲まれていく。

「ああ、すいません」

獅子は赤い車の運転手に話を聞いている特テロ刑事の北村に話しかけた。その右手には用意よく名刺を携えて。

「割り込んで申し訳ない。被害者である妻原真愛さんの事を調査していた探偵の香月と言います。結論から言いますと、加害者の身元を知ってますし、大方この事件の概要も分かってます」

「あ、本当ですか!」

ファン・ビーのドアベルが鳴った。探偵としての責務を果たせば、気持ちを切り替えて次の依頼人。そうして獅子は入口の方を見た、30代くらいの女性に歩み寄っていく。

「佐野さんですか?」

「はい。先日は夫がお世話になりました」

「いえいえ、どうも」

「それに息子の事も。探偵さんが調べてくれたから、堅城さんは息子を傷付けた犯人を説得出来たんですよね?本当にありがとうございました」

「仕事ですから。それで、今日はどのような件で」

「あの、夫の事で」

「あ、はい。また何か被害を受けたんですか?」

「いえ、夫は元気です。でも、私、離婚するんです」

「そうですか」

「何で?」

探偵なら突っ込んだ質問は控えるのが礼儀。だけど冬は問いかけた。でも相手が女の子だからか、理加の表情は曇らない。

「慰謝料を取りたいんです。確証は無いですが、不倫を疑った事もありまして。過去の事なんですが、その調査を」

「まさか、本当に不倫してたら刺し殺すとか」

獅子はさすがに冬を顔で威圧せざるを得なかった。すぐに冬が肩を竦めて小さくなったからか、理加は冷静に笑い飛ばした。でも逆に他人事のような態度が、獅子には気にかかった。

「では、過去の不倫調査という事で承ります。じゃあ依頼者名簿、書いて下さい」

音楽大学の前にはマスコミが集まっていた。パトカーはもう居ない。リポーターがカメラ相手に伝えているのは、能力者同士の戦闘跡。それは建物の一部が巻き添えになった様と、容疑者である斎藤陽の人物像、そして斎藤陽を制圧したのは杉原橙治だという事。

「人を殺した後に普通に大学で講義受けようとしてたなんて、図太いよな」

「図太い?バカなだけだ。通報される事を想定せずにのこのこ大学に戻ってきたんだ」

「まぁそうだなぁ。でも良かったよな。大学で張ってて」

「あぁ」

一志のスマホが鳴った。それはそろそろ帰るかという雰囲気になりかけた時だった。画面を見ると一志は固まった。何故ならそのメールは真愛からだったから。

「一件落着って事で、じゃあ。・・・・・堅城?」

「え、あぁ」

「どうかした?」

「問題無い」

それは“お礼メール”だった。一志はふと音楽大学を見た。確かに女は死んだ。なのに何事も無かったようにデートのお礼メールが来た。斎藤が大学に戻ってきたのを確認すると杉原と共に向かい、斎藤が襲ってきたのでそれを杉原が対応した。斎藤が飛ばした岩石によって建物に被害は出たが、無事に杉原が斎藤を制圧した。そして杉原がすぐに警察を呼んだ。だが真愛が死んでいなかったとするなら、この事件は一体、何なんだと。

「すぐに電話くれると思ってました」

「どうなってる。お前、死んだだろ」

「はい。死にました。ふふふ」

「どういう能力だ」

「じゃあ、今晩、ホテルでディナーご一緒して下さい」

その夜、一志は真愛を目の前にした。そこはホテルのラウンジのソファー。真愛はやって来た一志に笑顔は見せない。ただ何かを言いたそうな顔をしていた。見つめ合う一志と真愛。やがて真愛は鼻を啜り、目を潤ませた。

「ごめんなさ──」

立ち尽くす一志。最後の方は涙声が絡まってよく聞こえなかった。何故泣いているのか、それを聞くほど一志は馬鹿じゃない。だから一志は立ち尽くし、静かに泣いている真愛を見下ろす。やがて、涙を吹きながら真愛はふっと笑った。

「一志さんの顔を見たら、安心して」

ようやく一志は理解したのだった。やはり普通の女性なのだと。普通なら絶対に味わえない“殺されたという恐怖”に、真愛は怯えていたのだと。

「悪い、俺は、お前に何もしてやれない」

「そんな事、ありません」

「・・・俺に何が出来る」

ハンカチを持つ手さえ震えている真愛は一志に手を伸ばした。とりあえず一志は手を取るが、真愛は立ち上がろうとする気配はないのでまたとりあえず隣に座ると、真愛はゆっくりと体を一志の胸元に預けた。親しい仲なら、それは真愛の背中を擦れる体勢。しかし一志はがら空きの自分の手を見た。

「一志さん」

「何だ」

「朝までこうして下さい」

「飯どうすんだ」

「ふふっ。勿論、ディナーの後、ホテルの部屋で」

「それが、俺に出来る事だってのか?悪いが他を当たれ」

「どうして?」

「俺は・・・カウンセリングは専門外だ。だから能力者になった。依頼人という距離感なら楽だから」

「あたし、夢があったんです。でももう、絶対に叶いません」

一志は真愛の背中を触らないように浮いている自分の左手を見つめる。一瞬触ろうとしたけど、何か変な予感がした。それは、彼女の機嫌を損ねたら何をされるか分からないという恐怖では決してない。体を一志に預けながら、真愛は両手で一志の右手をもぞもぞと揉み込む。

「あたしが、佐野に何をされたか知ってますよね?あたしの夢は、生涯で、たった1人の男性とだけ愛し合う事なんです。初めてをその人に捧げる事。でももう、何をしても、たった1つの夢が、叶わなく──」

再び鼻を啜り、真愛は肩を震わす。その小刻みの息づかいまでダイレクトに肌に伝わってきて、一志はとうとう左手を真愛の肩に乗せた。

「お前、自分の記憶消したらどうだ?」

「汚れた事実は消えませんから。だからあたしは首を吊る為に、森に行ったんです」

「ピアノコンクールのファイナル前日か?」

「はい。それで洞窟の中に入ったら、能力者になれる鉱石がありました」

「そうか」

「一志さん」

顔を上げ、すごく顔が近い状態で見つめ合いながら、真愛は囁くような声をかけてきた。魅惑的なウィスパーボイスだ。だから一志は何となく返事が出来なかった。別に何て応えたらいいか分からなかった訳ではない。そんな距離感は恋人でもない関係だからこそ、キスを予感させてしまったから。

「今夜、セックスして下さい」

見つめ合う事を通り越して、一志は天井を見上げた。予感が的中した。何となく、こうなるんじゃないかとどこかで思っていた。何がホテルでディナーだ。

「お前も、十分ヤリモクだろ」

「違いますよ。あたしが望んでるのは、純愛です。一志さん言いましたよね?出来る事はあるかって。一志さんがあたしに出来る事はたった1つ、心から愛する事です」

「何でそうなるんだ・・・」

「じゃあ、何が出来るんですか?一志さんの能力では治らない心の傷を、どうやって癒してくれるんですか?」

「他に相手は居ないのか?」

手にもぞもぞと違和感を覚えた一志はふと目線を落とした。それは自分の右手に絡む真愛の両手。気が付けば、真愛は右手の小指を一志の右手の小指に絡ませていた。何かを約束している覚えはない。だから一志はとっさに真愛の指を引き離した。

「純愛っていいながら付き合う前から事を済ますのは矛盾じゃないのか?」

「何もおかしくありませんよ?だって、もう一志さんと結婚するって決めてますから」

「え?・・・・・何で俺なんだ」

「病院で声をかけてくれた時、覚えてますよね?普通だったら、ああいう時、ただの犯罪者でも見るような目で見るでしょ?でも一志さんは、あたしに同情してくれたから。きっと一志さんなら、あたしを大事にしてくれるって」

「俺は別に、自分の信念を貫いただけだ。お前だからじゃない」

「ふふっ。だから好きになったんですよ?」

「・・・飯、行かないのか?」

「じゃあ行きましょうか」

立ち上がると真愛はもう手を繋いできた。照れ臭そうな微笑みを添えて。しかもそれは恋人繋ぎで、しかしだからといって別に振り払うほどでもないからと一志は無言を返した。

「どうすればいいと思いますか?」

真愛がそれを尋ねたのは、レストランのテーブルに着き、料理をオーダーしてウェイターが去った時の事だった。

「斎藤は、あたしを見たらまた襲ってきます」

「それは、お前がやるしかない。俺は治療専門だ。また記憶でも消せばいい」

「殺人の対価が記憶なんて、おかしくないですか?」

「だったら、どうする」

「そりゃあ、相応の対価ですよ。絶対許しませんから」

一志は言葉に詰まっていた。復讐には終わりがない。以前は確かに同情していた。そしてその時の真愛は確かに傷付いた顔をしていた。しかし今の表情は強気だ。一志は真愛の一面を思い出した。この女は、確かに大人から子供までの5人を襲った人間なのだと。

「いや、さっき、斎藤は逮捕された」

「え?」

「お前が襲われた後、俺と杉原で音楽大学に行ったんだ。するとそこに斎藤が来て、杉原が制圧した」

「でも、正当な罰は受けません。殺人が、未遂になるんですから」

「それはお前が死んでないからだろ」

「分かってますよ。でもいいです。あたしがやるので。一志さんだって許してくれてるじゃないですか。本人になら文句は言わないって」

「・・・あぁ。だが、犯罪者になるような真似をするなら、結婚は無理だ」

「え、やだ、ダメ!」

「だったら頭を使え。結婚相手が犯罪者じゃ、俺の仕事にとって信用問題になる」

「分かりましたよ」

運ばれてきた料理を食べながら、ようやく一志は気が付いた。妻原真愛という人間がいかに要注意人物かであるかに。そしてそんな人間に対して、自分は思ったより強気に対応出来ていないという事に。

「そういえば、一志さんの能力のロジック、知りたいです」

「企業秘密だ」

「そんな、一志さんだってあたしの能力のロジックが知りたいから会いに来てくれたんですよね?」

「・・・部屋で教えてやる」

「一志さん、明日はお時間ありますか?」

「今は依頼が入ってる状態だ。まぁ会社員じゃないから時間は調整出来るが」

「明日はこのホテルでピアノのリサイタルがあるんです。練習とかリハーサルもあるので部屋を取ってるんです。本番は午後2時ですので、来て下さい」

「チケットは」

「後程差し上げます。関係者席」

「・・・分かった。もうピアノで金を稼いでるのか?」

「お小遣い程度ですけど。父の知り合いに、音楽コンサートやリサイタルを運営する会社を経営されてる方が居て、ジュニアコンクールで優勝してから、時々演奏する機会を下さるんです」

「そうか。恵まれてるんだな」

「はい。でもお金を頂く限りは数々のコンクールで実績を作らないといけないので、日々大学とコンクールで忙しいです。1ヶ月後には国際コンクールが始まります」

「恋愛してる場合なのか?」

「ふふっ。仕方ないですよ、運命の人に会ってしまったので」

食事を終えれば、真愛は一志の手を引いた。真愛はレディーファーストを特に求めない。むしろ自分が引っ張りたい性格なのだと、接していれば感じ取れる。ホテルの部屋は当然1人部屋だった。とはいえダブルベッドなので問題無いと真愛は微笑み、ベッドに座った。

「あたしの体は、幻影のようなものなんです。本当の体は別の場所に保管されてます」

「だから不死身なのか」

「はい。能力者になったお陰で、汚れた体を一旦置き去りに出来てます。でもきっとこの体だと歳は取れません。愛する人と一緒に歳を取る事が出来ないので、その内、あの体に戻らないといけません。でもせめて、この体での初めてを愛する人に捧げられたら、心の傷は半分癒えると思います」

「俺が出来る事は愛する事というのは、そういう事か。それで、治療出来ない攻撃のロジックは」

見つめ合う一志と真愛。すると真愛は少しだけ顎を上げた。

「じゃあ誓いのキスを」

「・・・・・ふっ」

「初めて笑うとこ見ました」

「アーティストとして、ぶっ飛んだ人間だと思ったら、ある意味人間らしくて笑える」

「え、あたしぶっ飛んでますか?」

「あぁ」

そう言うと一志は真愛の顎を人差し指と親指で優しく支えた。そして目を瞑らずに空いている手を握ってきた真愛に、ゆっくりとキスをした。惚れた訳ではない。逃げられないと思ったから受け入れただけだ。唇を放した直後の真愛の表情は笑顔ではなかった。それはまるで100点を取れるテストで100点を取った時の安堵の顔だった。それからおもむろに立ち上がった真愛はワンピースのフロントボタンを外し始めた。

「あたしの能力は、縁切りです」

「縁切り」

「切りたいものを切れるんです。体も感情も、記憶など。そしてそれはあたしの意思でなければ元に戻りません」

「なるほど。そういう事か」

「一志さんの番ですよ?」

「俺は、人の体の異常が見える。それに光を当てれば、異常は一瞬で消し飛ぶ。名前はピンポイントイレイザー」

「かっこいいです。・・・ほら、シャワー浴びますよ?」

「・・・あぁ」

横浜のとあるガールズバー。内装は普通のバーのようにモノトーンでシックな色使いだが、店員の服装はガーリーそのもの。接客自体は落ち着いているのに、その見た目とのギャップは不思議な感覚を覚える。カウンター席で、獅子はシャンパンを一口飲み込んだ。

「それで?」

「・・・飛び降りちゃいました」

「そっか」

「でも良かったんじゃないですか?そんなクズと別れるって」

「そうだね。ありがとう。何か、おつまみある?」

「こちらがメニューです」

「どうも。・・・ブルーチーズのカプレーゼって美味しいの?」

「当店3番人気です」

「そう、じゃあそれで」

「ところで探偵さんって、独身?」

「何だい藪から棒だね。そうだけど?」

「私立探偵って基本何か、こじらせてない?」

「いやそれドラマの見すぎじゃないかな」

「私、生まれて初めて私立探偵なんて人見たから」

「まぁ、確かに本当に個人事業の私立探偵なんてドラマくらいだよね。でも俺は別に、単に出会いがないだけだから」

するとおつまみを作りながら、ワンピースにフリルのエプロン姿の店員は獅子を見つめて微笑む。

「お待たせ」

「おお、普通に美味そう」

「結構美味しいんですよ?私、イタリアに料理留学してたので」

「へえ、すごいね。・・・・・ん!うまっ。ブルーチーズのキツさが逆に活かされてる」

朝食はホテルのバイキング。真愛と一志は黙々と食事していた。それから食後のコーヒーを飲み始めた時、一志はスマホでメールを打ち始めた。

「今日は大学には行くのか?」

「はい。先生にもピアノの評価を頂きたいので」

「斎藤は居なくても奥菜は居るかも知れない」

「何でですか。大学は辞めたはずですよ。・・・復学申請をしに来るって事ですか」

「探偵が、奥菜は逮捕されない方向だと。十中八九、斎藤を動かしたのは奥菜だとして刑事に報告したが、昨日の内に奥菜は釈放された。斎藤にお前を襲うように指示をした証拠もないし、斎藤自身も自分の意思でやったと言ってる。しかも斎藤は殺人未遂は否認している。斎藤の弁護士がそう言ってる。と言ってもそいつは奥菜の弁護士だろうがな」

「別にいいです。それならそれで」

「そういえば、奥菜には何をした。腕を治す代わりに」

「友情という概念を切りました。その方が、奥菜の周りも幸せでしょうから」

「良い話もある」

「何ですか?」

「杉原に、お前を守るように頼んでおいた」

「ありがとうございます。じゃあ午前中には婚姻届貰って来ます」

「え?・・・・・分かった・・・」

一志がコーヒーをちょうど飲み終わった時、2人のテーブルの下にスーツの男女がやって来た。

「突然すみません。妻原真愛さんですよね?警視庁の者なんですが、今ちょっと宜しいですかぁ?」

声をかけてきたのは女性の方で、北村の相棒である森阪は控えめに警察手帳を見せると柔らかい笑みを浮かべた。すると真愛は一志の顔を伺う。

「何でしょうか」

「本来なら昨日の内にお話を伺いたかったんですけど、妻原さんが急に居なくなってしまったので、捜してたんです」

「傷が完治したので帰っただけです」

「でもぉ、被害者としてお話を聞かなきゃいけなかったので、一言救急隊の誰かに声をかけて欲しかったです」

「手短にお願いします。用事があるので」

「じゃあここでは何ですので」

と言っても刑事に連れられたのはホテルのラウンジだった。レストランよりかは聞き耳を立てられにくいそこで、真愛は一志の手を握ったままソファーに座る。

「あのぉ、そちらは」

「夫です」

「まだ婚姻届は出してない」

「今日中に出すので、もう夫です」

表情だけで諦めと呆れを伺わせた一志に、森阪は小さく頷いて北村のキョトンとした横顔を確認する。

「香月という探偵を知ってるか?」

「はい。香月さんとお知り合いですか?」

「あぁ。たまに手伝ってる。彼女が襲われた事件は俺も知ってる」

「ああそうですか、じゃあ、同席しても良さそうですね」

ファン・ビーのドアベルが鳴った。店にやって来たのは理加だ。理加はドアベルに振り返って手を挙げる獅子を確認して歩き出す。

「こんにちは。どうぞ」

「速いですね」

「時間をかけたら依頼人の負担になるので、探偵は基本スピード優先です。でもそれも理加さんが最初から佐野さんの交友関係を教えてくれたからですけどね。これが報告書と見積りです。佐野さんの友人の1人で、現在横浜のガールズバーで働いている方から1番依頼に沿う話が聞けました。3年ほど前、佐野さんは出会い系で知り合った未成年の大学生と交際していたようです。それで妊娠させて、中絶させたようです。その後、その子は飛び降り自殺を」

絶句したのは理加だけではなかった。まるで汚物でも見るような顔で報告書を見下ろす理加を見ながら、獅子の隣に居る冬もまた言葉を失い、3人の間にふと凍てつく空気が漂う。

「まぁ、佐野さんの過去の不倫はこれ1件です。随分とショッキングな内容ですけど、大丈夫ですか?」

「え、えぇ。もう、顔も見たくありません」

「私も」

「いや冬ちゃんは関係ないじゃない」

「奥さん、ほんと、さっさと別れなよ?」

「・・・うん」

ピアノの旋律だけが小ホールを満たしていく。演奏しているのは真愛だ。旋律は勿論、指さばきの細部までを、鷹が獲物を見るような眼差しで眺めているのはピアノの男性講師。暫くして演奏を終えた真愛に、男性講師は仏像のような顔で歩み寄る。

「失踪する前の調子が戻ってきてる。これなら国際コンクールへの出場は許可出来る。でもグランプリを取るには、もっと自信が必要だ」

「はい」

小ホールを出た真愛を待っていたのは真愛の友達だった。音楽大学入学時から気が合い、よく話すようになった坂本(さかもと)さくらと池野(いけの)亜依羅(あいら)の2人だ。

「あ、褒められたでしょ?」

「分かる?調子が戻ってきたって」

「出られそう?コンクール」

「うん」

「良かったね」

「今日はもうホテル戻るの?」

「うん、ちょっと区役所寄ってから」

「そっか」

友達と別れれば、真愛は音楽大学近くの路肩に停まっている“傷の無い”赤いセダンの車の後部座席を開けた。

「区役所寄って下さい」

「はい。先程、お父様からご連絡がありました。奥様と来週末に帰国なさるそうです」

「そうですか。じゃあ会った時に言います。今日婚姻届を出す事」

「それは今日言ってはどうでしょう」

「そしたらきっと帰国が早まります」

「いけないのですか?」

「あまり驚かせ過ぎるのもどうかと。別に結婚式まで呼ばない訳ではありませんから」

「そうですか」

やがて区役所から出てきた真愛は車に戻る途中で足を止めた。振り返れば、そこには自分を真っ直ぐ見つめる、怪しげなパーカー男が立っていたから。すると直後、男はパーカーのポケットからピストルを取り出した。


ホットカツサンドをかじりながら、獅子は再びスマホを見る。一志からのメールは写真と共に一言が添えられている。「そういう事だから、よろしく」と。そんな時に冬のスマホが鳴った。

「・・・・・分かった。待ってる。・・・これから、ハチが来るから」

「ん?依頼で?」

「うん」

持ち前の明るさが嘘かのように、途端に緊張するように大人しくなる冬を、獅子はホットカツサンドの最後の一口を口に放り込みながら眺めていた。

ファン・ビーのドアベルが鳴った。我先にと顔を向けたが、裏腹に挙げた手は控えめな冬と八田の目が合う。それから八田が口を開いたのは、女性店員にアイスコーヒーを頼んだ時だった。

「それで、依頼の内容は?」

「また、あいつらの事」

「えっ。もう会ってないって」

「私からは会ってないし。でも、バイト先の店長がさ。あいつらに、襲われたっていうか」

「襲われた!?どんな風に。私達で壊滅させたはずなのに」

「壊滅なんかしてないから。大麻を持ってた奴らが捕まっただけ。あのバーだって潰れた訳じゃないし。私今、ガールズバーで働いてて、店長の穂香(ほのか)さんが、最近、男につきまとわれてるみたいで」

「つきまとってる奴って?」

「それを探って欲しいんだってば」

「話は分かりました。じゃあ、依頼者名簿、書いて下さい」

「襲われたってどんな風に」

依頼者名簿を書いている八田に、冬は急かすように問いかける。

「襲われたっていうか、襲われかけたっていうか。誰かは店長が話してくれないから仕方なくここに」

「そうなると、人捜しするだけじゃなくて、また警察に情報提供した方が良さそうだね。まぁ安心してよ。警察だって指定自警団だって、八田さんの味方だから」

「・・・うん」

ファン・ビーのドアベルはすれ違う男女を見下ろした。八田が出ると同時に、中年男が入ってきたのだ。するとそのラフな風貌の男は迷う事なく獅子の居るテーブルの前で立ち止まった。

夏目(なつめ)さん」

「香月、野暮用に付き合え。最近の“能力者連続四肢損壊事件”の話が回ってきた。何か知ってたら教えろ」

「ニュースで見ただけで、俺の所には回って来てませんが、心当たりなら。ちょっと複雑なんですけど」

すると夏目は冬が居るのにも拘わらず獅子の向かいに座り始める。

「ちょっと何よ、そっち行ってよ」

「何でだ、男同士で隣はおかしいだろうが」

「ちょっと待ってよ私がそっち行くから!もう」

冬は慌てて獅子の隣に避難し、コーヒーカップも急いで自分の手前に持ってくる中、夏目は冬のようにズカズカとソファーに上がり込む。

「誰このおじさん」

「夏目さん。刑事だよ。父親が探偵やってた時持ちつ持たれつの関係だった。今はまぁ、俺の軽い師匠かな」

「師匠に失礼だろうが」

「ふーん」

「先ず、連続四肢損壊事件の前に、1人の女子大生と5歳の男の子が同じような目に遭って、俺の下にその話が舞い込んできました。犯人は被害者の女子大生と近しい、まぁ宿敵みたいなものでしょう。男の子の父親は、被害者の女子大生と結託して、犯人の女子大生に性的暴行を加えた事が、事件の始まりです。現在、被害者の2人は完治しています。すると今度は被害者の女子大生の方が、友人の能力者と結託して、犯人の女子大生を襲いました。襲った男は現在保釈中。結託した証拠はありません。なので被害者の女子大生の方は現在も警察は手を出せない状態です。ここまでが事件の内容ですが、俺の見立てでは、被害者の女子大生は、例えば復讐代行を請け負う能力者に、犯人の女子大生を襲うように指示をしたのではと」

「ほう。それで現在は、10人の能力者がやれ腕が失くなっただの脚が失くなっただのって事になってるのか。被害者の女子大生の身元は?」

「でも」

「分かってる。復讐代行を依頼した証拠なんざそう掴めねえし、返り討ちに遭った復讐代行能力者共も依頼人が誰かなんて口を割る訳ゃない。だがオレの山だ」

「そうなんですか?ただの捜査一課なのに?」

「元々は復讐代行能力者がやりやがった殺しを追ってた。しかしそいつが、右腕と両足を失った」

「そうですか」

「で、身元は」

「俺の元依頼人なんで、名簿見てください、ここです」

「・・・・・おう。で犯人は」

「同じ音楽大学に通う妻原真愛という人物です」

「写真はあるのか?」

「はい。メールで送ります」

「おじさん、犯人だけ調べればいいんじゃないの?」

「動機の裏取りだよ。捜査ってのはただ犯人を捜す事じゃない。何故その事件が起こったか、捜査ってのはそれを突き止める事だ。・・・今回はツイてるな」

「夏目さん、犯人が妻原真愛だとして、防犯カメラとか目撃情報とか、何かしらでも共通してる証拠はあるんですか?」

「いや。今の所は。復讐代行能力者の誰も、犯人の特徴を何1つ覚えてねえって口裏揃えてやがる」

「あぁ、それ、妻原さんの能力です。記憶を操作出来るんですよ」

舌打ちを鳴らし、うなじを擦る。そんな態度を見せた夏目は無言でメモを取り始め、やがてメモ帳を閉じると水を一口飲んで立ち上がった。

「また頼むぞ」

「はい」

ピアノの旋律だけが小ホールを満たしていく。演奏しているのは奥菜だ。彼女の性格からは想像出来ないほど指使いは繊細で、まるでピアニストの周りの空気だけが浄化されているような重厚感がある。旋律が止むと、ピアノの男性講師は深く息を吐き下ろした。そして、そこにたった1人の拍手が鳴った。

「グランプリを取った時の調子がほぼ戻ってる。あれほどのブランクがあるのに、さすがだな。次の国際コンクールでもまた、妻原さんとの対決だな」

「妻原、出るんですか」

「あっちもあっちでいい調子だ。それに、以前にはなかった色気が少し出てきた。本人には言ってないけどな」

小ホールを出ると、奥菜は窓を睨みつけた。別に何だっていい。ふらっと外に出て、見つけた花をゆっくりと踏み潰す。あの女の顔を浮かべながら。

「何で死なないんだよ、あのクソ女。こっちは金払ってんだぞ」

都内のとある高層マンション。その高層階の一室の寝室に一志は立っていた。目の前のベッドには“先程まで不治の病で死にそうだった女性”が居て、静かに泣いていた。一志のスマホが鳴った。それは分厚い茶封筒をポケットにしまいながら玄関を出た時だった。

「何だ」

「一応、結婚おめでとうと言っておくよ」

「あぁ。ただの成り行きだがな」

「それでさ、奥さんに用があるんだけど」

「連続四肢損壊事件」

「うん」

「俺は、ニュースでしか知らない。その事は話してない。恐らく向こうは話したくないんだろう。俺の仕事の信用問題になるから。けど、どう見たってやったのはあいつだ。あいつをどうするつもりだ」

「俺のとこに刑事が来てさ。奥菜の事から事件の概要を話した。警察が行くんじゃないのかなぁ。まぁどっちかと言えば加害者は奥菜さんの方だから、そう警戒する事もないと思うよ?」

「そうか。俺は、協力しないからな」

「知らないフリ?」

「それがお互いの為だ」

音楽大学を出た奥菜は、待機させているミニバンに向かう途中に足を止めた。奥菜の足を止めたのは2人のスーツの男だ。

「ちょっと時間くれや」

夏目がそう言うとコンビ芸のように相棒の三川(みかわ)が警察手帳を見せる。すると奥菜は上品な立ち振舞いで、可愛らしく小さく首を傾げた。

「奥菜鈴音さんだよな?聞きたい事がある」

「何ですか?」

「ニュース見てるか?連続四肢損壊事件」

「知ってますけど、何か」

「被害に遭った能力者共は皆、復讐代行を生業にしてる、裏社会の奴らだ。お嬢さんのような人間とは一生会う事もないだろうな。そいつらはニュースで言ってる通り、同じ能力にやられたんだな。つまり、そいつらはとある人間をターゲットにして、全員が返り討ちに遭ったって訳だ」

「何が言いたいんですか?」

「お嬢さん、同じ目に遭ったんだってな」

上品を装うわざとらしい顔にヒビが入った。一瞬、ギョロりと目が泳ぐというあからさまな変化が伺えた。

「相手はどんな奴か教えてくれないか?」

「分かりません。そう警察の方には伝えましたよね?」

「いや、分かってるはずだ。お嬢さんの体は元通りになってるだろ。本人に会ったからじゃないのか?」

「知らない人」

「斎藤陽と知り合いだよな?」

「え?何ですか急に」

「斎藤陽が暴行で逮捕されたよな?でも保釈金が支払われて保釈中だ。弁護士を通じて保釈金を払ったのはお嬢さんだ。何で斎藤は暴行を働いたんだ?」

「何でって、そんなの私には関係ない」

「関係ないなら何で保釈金払ったんだ?」

最早その顔は苛立ちを出さないように我慢しているようだった。あからさまに居心地が悪そうで、すると奥菜は逃げるように歩き出した。追いかけ始める瞬間、夏目は誰にも分からないくらいに口角を緩ませる。

「お嬢さん、斎藤が暴行した相手は分かるよな?斎藤は誰を暴行したかは自覚してるぞ?聞いてるよな?」

「それと、さっきの事は関係ないですよね」

「お嬢さんの復讐だろ?警察だってバカじゃない。斎藤の供述はガキみたいだった。何かを隠してる事くらい分かる」

それからは全くの無視で、奥菜は歩き続けてそしてミニバンの前にやって来た。

「お嬢さんは、頭悪いのか?」

ミニバンの後部座席のドアは開いた。しかし奥菜は振り返る。

「は?」

「何でこうやって警察がお嬢さんの所に来たか、まさか理解出来てないのか?」

奥菜の返事は舌打ちだった。そしてミニバンは去っていった。そこで溜め息を吐き下ろしたのは夏目ではなく、三川だった。

「ほんと、夏目さん、“詰めの鬼”ですね。いつか刺されますよ?」

「仕方ねえだろ証拠が無いんだ。感情を揺さぶってボロを出させるしかない。これだから能力者は面倒なんだ。斎藤の所行くぞ」

「妻原は」

「記憶を消すんだろ?1番面倒だ、最後でいい」

奥菜は舌打ちを鳴らした。ミニバンの中だから、むしろ我慢を吐き出した。次第に鍵盤も無いのに指が小刻みに波を打ち、気を紛らせる為に髪を掻き上げる。

まさか、こんなにもあの女が手強いなんて思わなかった。陽も役に立たないし、何が復讐代行だよ。役立たずばっかり。しかもあの女、色気だと?ふざけんなよ。殺せないなら、私がやられたみたいな事でも、最悪しょうがない。・・・クソ。

奥菜はスマホを触る。検索ワードは「能力者になれる鉱石」と「売人」。

その夜、一志と真愛は銀座のレストランで夕食を共にしていた。確かにお喋りしながら食事するような場所ではない。数々のテーブルから聞こえるのはカチカチと食器が当たる小さな音。でも時々一志を見つめる度に真愛は笑みを浮かべる。それから食事を終えれば2人は真愛の車に乗り、ホテルに向かっていく。

「警察は来たのか?」

「何の話ですか?」

「連続四肢損壊事件の事で刑事が探偵を訪ね、探偵は奥菜とお前の事を話した」

「そうですか。まだ来てないです」

「そうか」

「ピアノ、今日も先生に良い評価を頂きました」

「良かったな」

「はい。明後日からコンクールなので、全部の演奏見に来て下さいね」

「あぁ」

ガールズバー「カミツレ」。そこは八田がアルバイトしている場所。そのカウンター席で獅子はグラスを傾ける。獅子が八田に依頼の事を話したところで、穂香は困ったように笑みを溢す。

「舞桜がそこまでしてくれるなら話すけどさ。やっぱり、ああいう半グレとは関わりたくないじゃん?でもこの前お店に客として来てさ、私の事ナンパしてきて。断ったら他の女の子をどうにかするって脅してくるし、でもそういうの警察じゃどうにもしてくれないじゃん」

「まあ、うん。一応、俺の方から知り合いの刑事に言っとこうか?エイジアの奴らがまた動いてるって」

「ありがたいけどさ、その程度の事で収まったら半グレも何もないから」

「ですね。一応、警察が動けるような事してるかこっちで探ってみるよ」

「そう。でもそれより、能力者に何とかして貰えるようなコネは無いの?今の時代、その方が100倍安心なんだけど」

「やっぱりそうだよね。そりゃ伝くらいあるよ?でも警察に届けを出してる私立探偵としてはさ、なるべく正攻法を諦めたくないんだよ」

「探偵さん、能力者には能力者が正攻法でしょ?ナンパしてきた、エイジアのユウジンって人、能力者と知り合いみたいよ?ほのめかしてきた」

「そうなの?そうか。なら仕方ないか」

ミニバンの後部座席がスーっと開いた。奥菜が出てきたのはいつものように音楽大学のすぐ手前の路肩。いつもの登校時間。いつもの高級ドレスワンピースとブランドもののトートバッグを身に着け、奥菜は殺し屋のような眼差しで登校した。それからロッカーの前に着いた時に「おはよう」と話しかけてきた皆川に一瞬だけ顔を向ける。

「うん」

「何かあった?」

「別に」

「明日の国際コンクール、私もエントリーしてるから、やっぱり緊張するよね」

「うん」

生返事をしてさっさと歩き出す奥菜を、皆川は呼び止めた。奥菜が振り返ると、その顔は途端に冷ややかな表情に戻った。

「陽が言ってたけど、警察が来たって。その事で相談があるから電話欲しいって」

返事もしないで去ろうとしたが奥菜はそれを躊躇した。何故なら最後に皆川はふっと口角を緩ませたから。微かな表情に見える、バカにしたような感情。先に去っていったのは皆川だった。今日は斎藤は何時に登校して来るか質問する余裕はなかった。最初の講義まであと数分。奥菜はスマホを手に取った。

「もしもし?」

「陽、警察来たって?」

「ああ、来た。お前の事は一応バックレておいたけど、警察もバカじゃないからさ。お前のとこにも行ったんだってな」

「うん」

「あのおっさんに言われた。正直に話せば罪が軽くなるって。あれだろ?司法取引ってやつだろ」

「あ?お前、言ったらどうなるか分かってんのか?」

「お前・・・何だその言い方。こっちはお前の為にやったんだぞ!」

「だから保釈させてやったんだろ。役に立ってねえクセに調子に乗るな。妻原ぴんぴんしてる」

「知らねえよ!そういう能力なんだろ!そんなのオレが知るかよ!お前こそ調子に乗ってんじゃねえぞ。ほんとお前ピアノ以外はクズだな」

「警察に言ったら、私も能力者になってお前を殺すからな?」

通話が切れたツーツーという音が返事だった。スマホを握り締めながら、奥菜は舌打ちを鳴らす。すると思い立ったようにスマホを触り始めた奥菜は、再び以前にアクセスしたサイトを見た。そこには能力者になれる鉱石の売人の電話番号が表示されていた。生唾を飲むような前置きは必要ない。もうその眼差しは殺し屋の如しだから。それから講義の合間に、奥菜は近くの公園にやって来た。待ち合わせのベンチには、一見するとそんなに怪しくはないスカジャンの男が座っていた。

誰も奥菜の事など見向きはしない。それは当然だ。講義の合間にどこかに行った事など興味もないし、ただ大学構内を普通に歩く大学生をジロジロ見る者はいるはずもない。例えその奥菜の眼差しが殺し屋のようだとしても。それから昼食の時間、食堂に居た奥菜はふと食事の手を止めた。否が応にも耳に入ってきたのだ。近くに座ってきた男女が話している事が。それは妻原の話題だった。

「ホテルでのリサイタルくらいの時からだよな、弾き方変わったの」

「うん。それに可愛くなった。あれ絶対恋愛してるよ。女から見たらすぐ分かる」

「いいなあ、あんなアイドル顔と。明日からのコンクール、断然妻原推しだよな」

「ちょっと、見られてる」

睨みつけて男を黙らせてから奥菜は食堂を後にした。そんな時だった、廊下で斎藤とばったり出くわしたのは。無言で立ち止まる2人。途端に斎藤は眉間を寄せた。

「・・・お前、やったのか?」

「は?」

「何か、人を殺した事があるような顔してるぞ」

「・・・・・私が、妻原をやる」

「あっそ。協力しないからな?」

「別にいい。私能力者になったから」

「・・・だから?」

「自分の頭で考えろ」

午後の講義が1つ終わった後、奥菜は中庭にあるお気に入りのベンチに座っていた。最近、“何となく”友達がいなくなったとはいえ、このベンチに座る時間は比較的リラックス出来る。イヤホンでピアノのクラシック曲を聴いている時、そこに皆川がやって来た。睨みつけても去らないので、奥菜は仕方なく片方だけ耳を空ける。

「どういうつもり?能力者になったって、陽を脅してるの?」

「自分で妻原をやる為。まぁ、それもあるけど」

「だったら私もなる。陽に何かしたら許さないから」

「ふふっ」

「何?」

「やっぱり瑠奈だよね?はーたんはーたん言って気っ持ち悪い声出してたの。そういう関係だったんだ」

「はあ!?何で知ってんの!?」

「知らないよ、電話したらたまたまお前らがヤってる時で、聞こえただけだし。そんな時に電話に出るあいつがアホだろ。ほんと気持ち悪い」

そう吐き捨ててイヤホンを耳に戻した。それがもう行けという態度。しかし直後、皆川は目も瞑った奥菜にビンタした。

「いってーなあ!」

すでに皆川は背を向け歩き去っていた。イヤホンから流れるピアノ曲が聞こえなくなるほど、奥菜は頭に血が上っていた。叫びたいけど我慢し、何かを蹴りたいのも我慢し、ただ舌打ちを鳴らして髪を掻き上げ、ふっとあの女の顔を思い浮かべる。

「必ず、壊してやる」

あのジュニアコンクールが最初だった。周りからは優勝候補と言われていたのに。私はあの女に未来を奪われた。それからは私が勝っても、ニュースになるのはあいつが2位だったという事。何故ならあいつはアイドル顔だから。たったそれだけなのに。ピアノは私の人生だ。あいつはピアノが無くたって生きていける。せめてピアノは私が貰うんだ。

「お前か、奥菜って」

ピアノの音が控えめな時にちょうど耳に入ってきた声に奥菜はふと顔を上げる。目の前にいつの間にか立っていたのはラフな服装だけど、ふと恐怖を感じるような笑みを浮かべる男だった。

「依頼したよな?復讐代行。スネイクって奴。でもそいつが返り討ちに遭ったって聞いて、あんたの事聞いた」

「どうせ、同じ目に遭うだけ。私も能力者になった。いいよ自分でやるから」

「ダチがやられて黙ってる訳にはいかない。教えろ。オレが殺った時は報酬は貰うからな?」

「好きにすれば?ていうか、そのダチからターゲット聞けば?」

「いや、記憶をやられてる」

「ああ」

「せっかくだから、協力しないか?」

「は?意味分かんない」

「多分、あんた1人じゃ敵わないと思うぞ?プロの復讐屋を倒す相手なんだから。報酬は、100万でどうだ」

「高っ」

「必ず殺す」

「・・・分かった」

ピアノの国際コンクール予選当日。渋谷のとあるホール。その控え室に奥菜は居た。もうメイクも済ませた。あとは出番を待つだけ。するとそこにやって来たのは出番を告げるスタッフではなく、夏目と三川だった。奥菜はその2人を鏡越しに見る。

「ピアノコンクールの常連だから、予選くらいじゃ緊張もしないか?」

「・・・何ですか」

「護衛だ」

「え?誰の」

しかし夏目は鏡越しにふっと笑っただけだった。

「部外者は出てって下さい」

「そうカッカするなよ」

存在感で威圧してくるというあからさまな事をしてくる2人の刑事が出ていくのを奥菜は鏡越しに見ると、それからドアを睨みつけた。

「お前、まさか警察にマークされてるのか?」

聞こえてきた声に奥菜が振り返っても、そこには誰も居なかった。しかし直後に奥菜は目を凝らした。歪んだと思えばゆっくりと何かが見えてきて、次第に輪郭が浮かび上がると、暗殺業の男が姿を現した。

「着替え見てた?殺すぞ」

「まだ何も言ってねえって。見てねえよ。もうそろそろ始まるって事は、ターゲットも控え室か?ちょうどいい。100万用意しとけよ?」

何か言う前に男は消えた。奥菜は躊躇していた。自分がやるから動くなと言っても聞くような相手じゃない。これじゃ、せっかく能力者になっても意味が無い。でもあいつが居なくなるなら、まぁそれでもいい。そんな葛藤を待つ義理も無く男は消えたのだ。それからドアを開けたのは、スタッフだった。

「奥菜さん、お願いします」

廊下に出ればすぐに分かった。変な空気が流れていた。スタッフに案内される最中、廊下をすれ違うスタッフ達から聞こえてきたのは、とりあえず順番変えるか、という話。

奥菜は拍手に包まれた。ホールの客席は半分ほどだから、全員の拍手でもそれなりの拍手。演奏を終えた奥菜とすれ違う次の演奏者。舞台脇の待機場には妻原の姿は無い。ふと感じたのは、虚無感だった。何とも感情の起伏も無い“終わった感”。それはまるで予選に落選した時のような静寂。まだ予選だし、演奏が終われば本来はもう帰宅していい。しかし奥菜は帰り支度を終えても何となく控え室に居た。やっぱりこのまま全員の演奏を聴いてから帰ろう。そうして奥菜は控え室を出た。向かったのは舞台脇ではなく観客席。男性の演奏が終わり、拍手が止み、また静寂がやって来た。もしかしたら今のが最後の演奏者だったのかも知れない。そんな期待が膨らんだ矢先、舞台脇から妻原が何事も無かったように歩いてきた。そしてピアノの前に立てばお辞儀をした。子供の頃から聴いていたから、妻原のピアノの弾き方はもう知っている。しかし確かに、今日は少し違っていた。聴いているだけで、周りの観客までも聴き入ってるんじゃないかという恐怖が募ってくる、確かに実力が形になった音だ。ふと気になったのは、その音に、その音の主にあの男はもしや殺されたのではという事。妙な胸騒ぎに駆られて廊下に出た奥菜は妻原の控え室のドアを開けた。静かな一室。広くもないし、隠れる場所などは無いから、すぐに分かった。特に異変などは無いという事が。だが奥菜にとってはそれは余計に不気味だ。不穏な空気でしかない。急にあの男が居なくなった。でもそれならそれでいい。自分が妻原を殺ればいいから。あの音に殺される前に。

演奏を終えた真愛はステージを去り際、一志を見つけて心で微笑んだ。控え室に戻れば着替えもせずにバッグを持って、さっさとその場を後にする。すでにロビーで待っていた一志と合流すれば、そして建物を後にした。

「ちょっといいか?お2人さん」

2人を呼び止めたのは夏目だった。しかし例によって警察手帳を見せたのは三川。

「妻原真愛さんだよな?先ず最初に言わせて貰うが、オレ達は連続四肢損壊を追ってる」

「そうですか。ちなみにあたしは堅城真愛です。それでご用件は」

「ああ・・・さっきな、この会場に不審者が居るって聞いて見回ってたんだが、何か変わった事はあったか?」

「不審者なんて見てませんよ」

「そうかな?刑事として手が出せないだけで、とある探偵から話は聞いてる。奥菜鈴音とお嬢さん、いや奥さんの関係をな」

「そうですか。なら奥菜を殺人教唆で逮捕出来るんじゃないんですか?あたしを襲った斎藤をもっと問い詰めればきっとボロが出ますよ」

「奥さんに心配して貰わんでも、そうするつもりだ。ただ奥さんだって、奥菜を襲ったのは事実だろ。例え性暴力被害の復讐だとしてもだ。奥菜の被害状況から考えて、連続四肢損壊の犯人と見ていい。オレはな、連続四肢損壊の被害者の1人の殺人を追ってる。今奥さんをどうこうするつもりはない。ただ真相が知りたい」

「あたしだって全部知ってる訳じゃないですよ。その、連続四肢損壊って、すべて正当防衛ではありませんか?相手は人殺しを生業としているのですから」

「まぁ、そうとも言えるな」

「あたしが四肢を損壊させて暗殺者を返り討ちにしたとして、誰が送り込んだかは分かりませんよ?」

「大方、奥菜だと思ってるんじゃないのか?この事件は奥菜と奥さんの攻防の延長線上にあるものだ」

「そこまで分かってるのに手が出せないなんて、無力ですね」

「あっはっは!言ってくれるねぇ」

「もし四肢損壊を止めたいなら、直ちに奥菜をどうにかする事をおすすめします」

返事は待たずに2人は夏目達に背を向けていった。詰めの鬼も今回は控えめだったと三川はその横顔を伺う。

「予選当日に合わせてプレッシャーかけに来たはいいですけど、やはり本人達はどうも手強いですね」

「これくらい分かってたさ。斎藤を落とすぞ」

「はい」

「しかし、通報にあった不審者、どこ行ったんですかね。まさかガセだったんでしょうか」

「さあな。もう妻原、じゃなくて、奥さんがどうにかしたんじゃないか?」

奥菜のスマホが鳴った。それは自宅の自室にいる時の事だった。メッセージに書かれていたのは呼び出しの文言だったので、それから奥菜は代々木公園にやって来た。奥菜を呼び出したのは斎藤と皆川だった。

「何か用?」

「あんたでしょ?脅迫してきたの」

「何の話?」

「さっき来たんだから!暗殺者、あんたの差し金でしょ!口封じする為に」

「は?・・・」

記憶を脳裏に巡らせる暇は無かった。皆川が歩み寄ってくると、有無を言わさずに奥菜の頬を叩いたから。だから奥菜はとっさに皆川を突き飛ばした。

「言ったよね?陽に何かしたら許さないって!殺してやる!」

「何なんだよマジで」

パトカーの無線に通信が入った。それは夏目の車だった。遺体を発見したという警官からの無線で、近くに居た夏目達が現場に向かった。そこは代々木公園。やがて制服警官が敬礼した。まだ規制線も敷かれてしない事件現場で、夏目は舌打ちを鳴らしてうなじを擦った。

「斎藤・・・」

その遺体は斎藤陽と皆川瑠奈だった。その様子は2人共に“尖った岩石”が体中に刺さっているというもの。

「夏目さん!」

「ん、おう特テロ」

「こっちにも遺体・・・え、斎藤と皆川」

「え?」

「向こうの林にも遺体が」

「何だと。まさか、奥菜か」

「いえ、奥菜ではありません。男性です。身元はまだ特定出来てません」

「そうか」

普通ならこんな所までは足を踏み入れないだろう、というくらいの林、の茂みの下に遺体はあった。その様子は斎藤と皆川と同じようなもの。

「身分が分かる物は所持していませんが、現在『超能力犯罪者リスト』と照合しています」

「あぁ。この能力に心当たりはあるか?」

「これは恐らく斎藤の能力だと思われます。以前に斎藤が妻原を襲った時に目撃されたものと物体の形状が似ています」

「こいつを殺ったのは斎藤か。しかし斎藤も殺された。しかも斎藤は自分と同じような能力で。ったく、特テロ、斎藤の人間関係洗っとくから、超能力の事で何か分かったら頼むぞ」

「はい」

「それと妻原は・・・まいいか」

「はい?」

ミニバンは走る。運転手とは顔が合わない実質個室の後部座席で、奥菜は震えていた。これから人を殺すと覚悟はしていた。でもその相手は、狙っていた者とは違った。それからミニバンが赤信号で停まった頃、奥菜は声を殺して笑い出した。ただの殺しじゃない。超能力での殺しは証拠も残らないし、完全犯罪だ。あの2人は能力の練習として捉えれば別にいい。

ファン・ビーのドアベルが鳴った。ドアを開けたのは夏目だった。振り返った獅子は遠くから見ただけで分かった。それはまるで道にでも迷ったような物腰。

「香月、ちょっと頼む」

「何か進展ありました?」

「悪い方にな。代々木公園で、3人の遺体が出た。内2人は斎藤と皆川。こういう事件に関して、証拠だの何だの言ってもしょうがない事は分かってる。だがオレは堅城真愛か奥菜かが怪しいと踏んでる」

「3人目は」

「身元が分からない。だが殺される前、奥菜と堅城真愛が出たコンクールの会場に居た。一瞬だが防犯カメラに映ってた。堅城と奥菜の間にまた何かあったんだろう。元依頼人だよな?何か探れないか?」

「やってみます。指定自警団に『委託処刑』を頼むんですか?」

「まだそこまではな」

「何それ」

「状況では黒だが、ホシが殺しを認めず、尚反省の色無しとなれば、警察庁は最高裁に、ホシの射殺或いは指定自警団による処刑の許可を仰げる。つまり、殺人犯において、どうしても法的に裁けない時は、最高裁が許可すれば、ホシを殺せる。指定自警団って言っても一般人だ。刑事がホシの処刑を指定自警団に頼んでやる事を委託処刑という。その場合、ホシを殺した指定自警団員は罪には問われない」

「ああ、何かネットニュースで見たことある気がする。能力者相手だし、指定自警団の方がいいでしょう、そりゃあ」

「じゃ、頼んだぞ」

ドアベルを残して夏目が去っていった後、コーヒーを一口飲んだ冬がふっと顔を上げる。

「え、あの女、能力者って事?」

「そうみたいね」

真愛はソファーに腰を落とし、一志の手を片手にミルクティーを飲む。それは自宅の自室でピアノの練習の後についた一息。そんな時に鳴ったのは真愛のスマホだった。真愛はメッセージアプリを開いた。同じピアノコンクールにエントリーしていた真愛の友人からで、斎藤と皆川の事が書かれていた。

「え・・・」

何かあったのかと一志は尋ねなかった。問うまでもない横顔だったから。だからただその横顔を見ている一志に、やがて真愛は戸惑いの眼差しを重ねた。

「斎藤と皆川が、死んだって。もしかしたら、あたしのせいかも」

「あの2人にも何かしたのか?」

「あたしの記憶と、奥菜と同じように、奥菜に対する友情を切っただけ。だから、絶対に仲は悪化するの。まさか、殺し合うまでいくだなんて」

「奥菜がやったって?能力者じゃないだろ」

「やったのは暗殺者よ。それにあたしの友人が、事件現場の代々木公園で奥菜の車を見たって」

「そうか」

「やっぱり、暗殺者、送り返したからかな」

「え?」

「今日の予選、控え室に不審者が来たって言ったでしょ?本当は、その人の記憶を少し変えたの。ある部分を切って、吹き込んだ。あたしが依頼主の奥菜だと思わせて、斎藤の所に行かせた。でも別に殺そうっていうんじゃなくて、ちょっと混乱すればいいと思って」

「それだけか?」

「うん」

「記憶を消すだけにしておくべきだったな」

「どうしてあたしの事責めてるの?元々奥菜って女が凶暴だっただけでしょ?」

「・・・そうだな」

奥菜はふらふらと歩いていた。自宅に戻ったはずだが、気が付けば代々木公園付近に来ていた。急に恐怖心に襲われた。公園まで足を向かせる勇気は無い。だがあの2人を殺した事実が今になって追いかけてきた。公園まで行こうかやめようか、そんな風にふらふらしている奥菜は青山のカフェに立ち寄った。しかしせっかく頼んだコーヒーを持つ手が震えた。

こうなったのも全部あの女のせいだ。別に殺したくてやった訳じゃないのに。・・・そうか、暗殺者に何かして、あの2人に向かわせたのはあの女なんだ。ふざけんなよ?何の目的でそんな事・・・。まさか逆に私を?あの女。

カフェを出て奥菜はふと足を止めた。何故なら自分を待っていたかのように声をかけてきたから。それに別に知らない顔ではなかったから。

「何ですか?」

「聞いたかな?友達の斎藤さんと皆川さんが殺害された話」

「いえ。知りません」

「さすがに驚き過ぎてフリーズだよね?その、俺もこういう仕事だしさ。悪いんだけど、何か友達の事で気になってた事とか、事件の事で知ってる事ないかな?」

「ケンカ中だったので、連絡取ってません。何も知りません」

「そうか。分かった。急に悪かったね。・・・あ、それとピアノコンクールの会場に不審者が居たって聞いたんだけど、何か知らない?」

「私は見てません」

ロボットのように美しく、奥菜は去っていった。お嬢様育ちだから姿勢がキレイ。でもそんな事が気にならなくなるほどの違和感に満ちていた。だから冬は鼻で笑う。

「あんなに驚かない事ってある?絶対犯人じゃん」

「でも証拠は無い。ま、冬ちゃんの言う通りだとは思うけどね」

「嘘発見器みたいな能力者っていないの?」

「おお、それ良いね。でもそういう知り合いは居なくても問題は無いんだよ」

「何で?」

「動物の力ってのはすごいんだから。冬ちゃんの想像以上にね」

「ふーん」

奥菜が見えなくなってから歩き出した獅子と冬。これからどうするのかと冬が聞けば、獅子は尾行と応えた。冬はふと思い出した。さっきもそうだった。奥菜の自宅に来たかと思えば急に方向転換し、あのカフェに来たと。

「分かった、警察犬だ。臭いを追って来たんでしょ」

「お、正解。一度でも変身すれば、人間の時でもその動物の特性が使えるんだよ」

「いいなぁ、その能力」

曲がり角を利用しながら絶対に視認されない距離で尾行していくと、やがて奥菜はショコラカフェに入った。

「またカフェかよ」

そんなツッコミを入れる冬だが、とても羨まそうにお店を眺めていた。お店の外からでも店内のショーケースが見えて、その並べられた数々の商品は高級なものでとても美味しそうだから。

「ねえ、買って?」

「絶対高いってあれ」

「だからでしょ」

「ウチは経理とか居ないから、そういうのは全部ポケットマネーなんだよね」

「だから私立探偵なんでしょ?私へのバイト代だと思えばさ?」

「まったくもー」

少なからず、美味しいショコラで気分は落ち着いた。そう奥菜はコーヒーを一口飲むと、脳裏でピアノを弾く。準本選もいつも通りやれば通過出来る。イメージトレーニングだって何も問題は無い。一度頭の中でピアノを弾けば、実際にピアノを弾きたくなってくる。つまり家に帰りたくなってくる。帰路の途中、奥菜は気が付けば代々木第一体育館のそばまで来ていた。ピアノを弾いてる時は気分が良い。震えてしまうような恐怖も後悔も旋律のようだ。まるであの女への殺気も美しいメロディーのように思えてくる。こうやってけやき並木を歩くだけでアスファルトという名の鍵盤がハンマーを上げ、頭の中に音を鳴らす。そうだ、あの女を殺しに行こう。ピアノを弾くようにやれば怖くない。ピアノは私のものなんだから。

「おい」

代々木公園までは行かずに帰り始めた奥菜の目の前に現れたのは、奥菜の知らない男だった。第一印象は右腕と右足が機械だという事。

「誰?」

すると男はスマホを見せてきた。その画面はとあるサイトを表示していて、奥菜は「ああ」と思い出す。

「あんたも返り討ちに遭った訳?」

「あぁ、依頼者の事は詮索しないのがこの世界のルールだが、悪いが突き止めさせて貰った。依頼をし損ねたままじゃどうも後味が悪くてな」

「記憶を消されてるからまた教えろって?」

「話が早いな。金は要らん。教えてくれ」

自分でやりたいから断ろうとした。けど気分が良いから、奥菜は微笑みさえ浮かべながら男を拒絶しなかった。

ピアノの国際コンクール準本選当日。準本選からは港区にある日本屈指のコンサートホールでの開催とあってか、国際コンクールという名に相応しい観客数だ。奥菜はミニバンを降りた。駐車場は無いので、1番近い場所に停まった車を降りれば後は自分でホールまで歩いていく。

「あれから何にも分からないじゃん」

「こんなもんだよ、探偵なんて。尾行して尾行して、また尾行」

「でもさ、どうすんの?私達じゃ観客席しか行けないけど」

「大丈夫。こういう時の協力者だから」

個室タイプの控え室に居る真愛と一志は沈黙に包まれていた。喧嘩した訳ではない。一志のスマホが鳴った。イメトレ中の真愛に気を遣い、一志は控え室を出る。

「何だ」

「予選の時にも不審者が居たみたいだから、それとなくパトロールしてくれる?勿論奥菜をマークしながらさ」

「何で俺なんだ」

「だって俺達、バックステージには入れないから。堅城なら関係者として入れるかなと。それに堅城の奥さんが狙われてるんだよ?」

「分かってる」

リハーサルルームでピアノを弾いていた奥菜。ピアノの旋律が止んでも、奥菜の頭の中ではその音色が鳴り続けていた。それが鳴り止まぬ内にリハーサルルームを出ると、まるで追い風に背中を押されるように廊下を歩いていく。向かったのは真愛の控え室。すると角を曲がった時、静かな廊下に居たのは暗殺者の男だった。居ても居なくてもいいのに、人通りが無い事を確認して進む事を許すような軍人みたいな真似をして、奥菜より先に真愛の控え室に入った。入ってきた男に顔を向ける真愛と一志。すでに男は機械の義手の指を銃口に変化させていて、それを真愛に向けていた。そして奥菜の目の前で、銃声は鳴らなかった。奥菜の目の前で、ドサッと男が倒れ込む。舌打ちを鳴らしたのは一志ではない。

「同じ暗殺者を送り込むなんて、あなたらしくないですね」

「送り込んだ訳じゃない。勝手についてきた」

真愛に応えながら廊下に振り返り、奥菜はゆっくりと控え室のドアを閉めた。

「誰?マネージャー?」

「夫です」

「は?・・・」

奥菜は思わず吹き出した。突拍子もない答えだったから。まさか結婚してたなんて。まぁどうでもいいけど。こいつは知らない。私の能力を。“近くの人の能力が使える”という私の能力を。そもそも能力者だという事すら知らない。この暗殺者は私が能力者じゃないと思わせる為のカモフラージュ。

・・・どう壊してやろうか。

「1つ聞いてもいいですか」

「あんた昔から、私の事バカにしてたよな」

「そんなつもりは」

「は?私に才能が無いから、バカにされんのは私のせいだって?チッ」

「何を言っても無駄だ。こういう人間はもう、全てを自分への挑発としてしか受け取らない」

「だからって、あたしを男に襲わせたり、暗殺者送ったり、結局はピアノでは勝てないって自分で認めてますよね?」

「いや、私が勝つ。勝つっていうのはな?──」

それから奥菜は鼻で笑った。倒れている3人を見下ろしながら。

「最後まで立ってる事を言うんだよ」

ドアが閉まる小さな音に気が付くように、一志は目を覚ました。倒れている事は理解したが、何故ここにいるのか、この倒れている2人は誰なのか、その一切が分からなくなっていた。

観客席に座っていた獅子と冬。2人は真愛がステージに上がらない事が分かってようやく席を立った。とりあえずエントランスロビーにやって来た2人。そこで獅子は声をかけた。そこに居たのは急ぎ足の夏目と三川だった。

「おう。通報があったんだ、裏に不審者が居るってな」

「そうなんですか」

やがて応援の警官が物々しく運び出したのは、意識の無い真愛と知らない男だった。

「うわ、まさか暗殺者に?ていうか堅城君は?」

「電話してみる」

「・・・・・・・何だ」

「おお!堅城!今どこ!」

「これから、病院だ。依頼を済ます」

「え、いやいや、呑気に人助けしてる場合じゃ。奥さんが運ばれたよ?」

「誰のだ」

「堅城の!真愛さんだよ。今ピアノコンクールの会場に警察が来て、真愛さんと知らない人が運ばれてった」

「記憶が無い」

「え」

「気付いたら、その会場で目が覚めたら、色々と記憶が抜けてた。結婚した事は理解してるが相手の事が分からない。妙な気分だ。だから気晴らしに依頼を済ます」

真愛が目を覚ましたのは、ピアノコンクールで奥菜がグランプリを取った次の日だった。都内の病院に一志は居た。連絡してきたのは獅子だった。彼女が目を覚ました、そして自分の記憶を全て失っていると。一志はスマホを見ていた。保存されているウエディングフォトだ。知らない女ではない。忘れてしまったのだ。記憶の無い女と何を話せばいいか分からない訳ではない。あれほど腕があるピアノの記憶が無くなったという災難を、彼女自身が受け止められるのか考えていた。

それから個室の病室で一志と真愛は顔を合わせていた。ふっと笑った真愛は、自分のスマホにあるウエディングフォトを見下ろす。

「詰めが甘いですね。記憶が無くても記録がある。それにさっき、ウチの執事が“私”の幼少期のアルバムを見せてくれました。私が誰か、簡単に分かりました」

「ピアノはどうする」

「もちろんこれから練習します。きっと体が覚えてますから」

「そうか」

奥菜の自宅。グランプリのトロフィーが飾られたリビングで、奥菜は家族とグランプリを祝っていた。高級なワインに豪華な料理。気分も香りも最高だ。人を殺した事などとうに忘れて。誰に伝えたい訳でもない。勝つとはこういう事。これでピアノは私のもの。もう邪魔は居ない。

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