封印された毒姫編
もうそろそろ体力が限界。早いところ決めたい。安らかに眠れる死に場所を──。
こんな時くらいじゃないと山に登らないなんて、あたしの人生も薄っぺらいな。生まれ変わったら、また人間になれるかな。また女になれるかな。生まれ変わったら、西暦何年かな。
「はぁ・・・はぁ、ふう」
あたし、こんなに体力無かったんだ。
ふと歩いてきた山道を振り返る。誰も居ない。何故なら道かどうかも怪しいから。それから足元を見下ろす。ワンピースの裾が汚れていた。せっかくの可愛いワンピースが台無しだ。何回か深呼吸したら歩けそうな気がしたので、また歩き出す。そんな時だ、洞窟を見つけたのは。何故か心が惹かれた。木で首を吊ろうと思ってたけど、何となく足が向いた。だって、一息つけそうだから。座れそうだから。
洞窟は当然真っ暗だ。でもあたしは突き進んだ。歩いていく内に期待が募っていく。ここなら誰にも見つからない。骨になって、粉になるまで、誰にも触れられない。もう、誰にも触られたくない。あたしはシンデレラにはなれなかった。誰かに愛される前に、知らない男にレイプされた。汚された。もう死ぬしかない。
案外道は長かった。こんな洞窟、入らなきゃよかった。さっき虫に触った。知らない虫。知りたくもない。かぶれるかな。もう嫌。さっさと首を吊ればよかった。あれ、行き止まり・・・?
あたしの人生の果てにあったのは、壁じゃなかった。普通はあり得ない。洞窟に入れば、周りには岩肌しかないはずなのに。コウモリとかは論外だけど。触ってみたら、ひんやりとしていて、滑らかだった。絶対にゴツゴツはしてない。スマホでライトを点け、土を払えば、それは宝石だった。キレイ。水晶っぽいけど、違うって事くらいは分かる。というか、こんな世の中、こんなに大きな宝石は、あれしかない。能力者になれる鉱石。でも、そんなのどうでもいい。生きる理由が無いのに、こんなもの、どうでも・・・・・。
「どうしろっていうの?・・・・・あたしに、何をさせたいの?」
能力者、か・・・。はぁ、どうして、こうなっちゃったのかな。あの男もあの女も許せない。あたしは、何をしたいんだろう。まだ、生きてていいのかな?・・・。
あたしはとりあえずその場に座った。だって疲れたから。スマホの充電はあと27%・・・。微妙だ。どうしたらいいんだろう。犯された時にしてたお気に入りだった下着は捨てたし、ブレーカー落としてきたし、死ぬ支度はしてきた。ここまで来て、また帰るのか。もう疲れた。今頃になって足痛い。・・・・・愛されたい。
「ふう、どんな能力者に、なってやろうかな──」
東京某所のカフェ「ファン・ビー」。雑居ビルの1階に入っていて、開放的というより、落ち着いた雰囲気の懐かしいような内装。私立探偵である香月獅子の休憩所兼応接間。午前11時過ぎ、入口のドアが開けられ、安っぽいベルが鳴る。
「コーヒー」
ドアが閉まる前から注文をつけると、獅子は客の疎らな店内を見渡した。目をつけたのは大学生らしい年頃の女性。遠くからでも入口から目が合えばそれで分かる。待ち合わせというのは大体そういうもの。
「依頼してくれた奥菜鈴音さん?」
「はい」
昔ながらのカフェらしいソファー席に座ると同時に、獅子は奥菜の肘から先の無い右腕を見る。まだ若いのに、事件の被害者として見たらとても痛々しい身形だ。
「どうも、香月です。電話だと、警察の捜査が進展しないんで俺の方に依頼してくれたって事だけど、じゃあ・・・先ずは依頼者名簿を作るんで・・・書いて下さい。名前と年齢、連絡先ね。住所は任意で。連絡先は電話番号でもメルアドでもどっちでもいいよ」
紙とペンを奥菜の前に置くと、獅子はさりげなく、だけどゆっくりと、奥菜から見て右側に紙が滑らないように重りとして砂糖入れを置く。獅子はその瞬間に見ていた。獅子の気遣いに全く無反応な奥菜の俯いた顔を。
「・・・・・はいはい。どうも。そしたら、依頼内容は?」
「犯人の・・・・・」
「・・・・・犯人の?大丈夫?体調でも悪い?」
「多分、犯人の心当たりは無い事は無いんですけど、確証が無くて、その何て言うか、こうなった時の事、覚えてなくて」
「まぁ、傷付けられた時のショックが大きいと、心因性の一時的な記憶障害とかあるからね。無理して思い出さなくていいよ。そういう時の為の探偵なんだから。じゃあ依頼内容は犯人の特定って事でいいかな?」
奥菜は静かに頷いた。
「因みに警察には、被害を受ける前後は何をしていたか、何て応えた?」
「私は、こうなる前は音大でピアノを専攻してました。ピアニストになるのが小さい頃からの夢でした。それでいつものように放課後の練習を終えて、夜8時に大学を出て、夜道で声を、かけられて・・・気が付いたら腕が、失くなってて。それからは、パニックになって親に電話して迎えに来て貰って、親が警察呼んで、でも、私の記憶のせいで、捜査が進展しなくて、結局音大にも居られなくて、3ヶ月前に退学しました」
「心当たりって?」
「その、何かと、私の、演奏にケチをつける子が居て。きっと、私のピアノに嫉妬してたんだと思う」
「その子の名前は?」
「それが・・・」
「分からないか。確かにそれじゃ警察も手こずるよな。なるほど、きっと記憶を操作する能力者の仕業だろう。その腕だって、こんな時代じゃ珍しくない。経緯は大体分かった。でも1つ聞いていいかな?その腕、治療専門能力者に依頼しないの?」
「しました。でも、治らなかったんです」
獅子はコーヒーを啜った。能力者なのに怪我を治せない理由を考えていた。そんなふとした沈黙を破るように、奥菜は顔を上げる。
「別の能力者にも調べて貰ったんですけど、私は、怪我をしてないって言われました。病院に行っても、数値では異常は無くて、先生は、まるで生まれつき腕が無いだけの健康体みたいだって」
「そっか」
ドアに付いている安っぽいベルが鳴った。相変わらずカフェの客は疎ら。すでに奥菜はカフェには居ない。1人でコーヒーを飲んでいる香月の下に、1人の女性が歩み寄る。
「もう帰ったんだ。どんな人だった?」
制服姿の女子高生、環村冬。何を言われる前に、冬は友達の家にズカズカと上がり込むように獅子の向かいに座る。
「元音大生の女の子さ。肘から先の右腕を切り落とされてる」
「えぐっ。クズじゃん」
「え?」
依頼者名簿兼依頼に関してのメモに目を通していた冬。獅子はコーヒーカップを持ち上げたところで手を止めた。
「その加害者」
「ああ。ていうか、こらこら、女の子がそんな言葉使わない」
「ふーん。記憶操作かぁ」
「聞いてないし」
「おかしくない?」
「何よ」
「治療能力者でも治せないって」
「うん。奇妙だよね。怪我じゃないロジックで、体を傷付ける方法。いやもしかしたら、体を傷付けてる訳じゃないのかも」
冬が席に座って間もなくしてテーブルにコーヒーが置かれた。何故なら冬は店内に入ると同時に注文する獅子を真似しているから。
「どうもー」
「冬ちゃん、そのシュシュいいね」
女性店員が親しく声をかけ、冬もまた親しく笑みを返すのは今はもう日常だ。それでも獅子は“わざわざ制服を着て今カフェに居る”冬に対して、大人としての冷ややかな眼差しを向ける。ただ問題なのは、獅子のその眼差しを冬は露ほども認識していないという事。そして冬は砂糖とミルクを入れたコーヒーを掻き回しながらスマホを弄くり始める。
「早速聴き込み行こうと思うんだけど」
「まだコーヒー飲んでない」
「・・・・・そのシュシュ、買ったばかり?」
「うん。それがどうかした?」
コーヒーをズルッと一口、スマホを見ながら生返事。獅子はそんな冬にいつも思うのだ。いつか注意してやろうと。しかし同時にこうも思うのだ。今日もマルチタスクが冴えてますねと。
「いえ、別に」
「ハチの事なんだけど」
「うん」
「あの後、ハチが不登校になった」
「メールとかも反応無し?」
「1回来た。もう学校は行かないって。それだけ」
「心配だよね、そりゃ」
「調べたいから手伝ってよ」
「俺は手伝うだけでいいの?」
「うん。私の初仕事」
「はは、いやそれ、もう助手どころじゃないと思うけど」
「さすがに、後日談みたいなものだし、助手だって、スキルが高い方がいいでしょ?」
「ああ助手として勉強って事ね。まぁ、いいんじゃない?」
「それにスキルが上がれば給料も上がるでしょ?いい仕事をすれば、報酬だってそれなりのものになるのは当然なんだから」
「まぁ、そうだね。あの、思ってたんだけど、本当に俺のとこで働くつもり?」
「だって面白いんだもん。私なりに、天職かも」
「はは、そこまで言うかね。ていうか制服は着替えてよ。身元がバレるような格好はしないのが基本だし」
「えー、めんどくさい」
「学校に連絡されたらその方がめんどくさいでしょ?」
「そうだけど。じゃあ何か貸してくれるぅ?」
「まるで俺が無理難題を課してるような顔だね。男物しかないよ?」
「全然おっけー」
獅子の事務所はそのビルの4階。年代物の香りが漂う小さなエレベーターを出れば目の前にあるのは「香月探偵事務所」の薄っぺらい看板が貼られた扉。
「古っ」
「まぁ父親の事務所だから。今は引退して海外に住んでる。でも廃業するくらいだったら勿体無いし、俺が継いだんだよ」
「ふーん」
中に入れば、見かけに依らず整頓されていた。探偵って基本ぐしゃぐしゃしてるものだと思ってた。いかにも応接室みたいな低いテーブルとソファーがあり、奥まった所にはちゃんとデスクがある。そして実際は今にも雪崩れるような書類の山は無い。そんな感想を、冬は鼻にかかったような声で「ふーん」
と鳴いただけ。
「応接間、あるじゃん」
「そうなんだけどね。カフェの方が明るいし、相手も警戒しないしね」
「キッチンもきれい。あ、ていうかこれ使ってないでしょ」
「コンビニで十分栄養摂れるから」
「男だねぇ。服は?」
「そこ、クローゼット」
「どれどれ?」
「何故吟味する立場なんだ」
「あ、これいいじゃん」
ブレザーを脱ぎ捨てた冬。それから羽織ったのは黒のロングカーディガン。しかし獅子が見ているのはぐしゃっと床に置いてあるブレザー。まるで母親のように、獅子はブレザーを拾い上げてパタパタとはたく。
「先ずはその音大行くんでしょ?」
「え、ああそうだね。被害者本人の記憶が操作されても、周りの人間から話を聞けば何か見えてくるはず」
依頼人の奥菜が通っていた音楽大学の池袋キャンパス。それを目の前にしたところで、食堂でもない限り学生以外は入れない。キャンパスを前にポツンと2人、冬はどうするのかと獅子の横顔を観察する。
「あの、聞きたい事があるんだけど、いいかな?ここの学生の事なんだけど」
「はい」
「3ヶ月前までピアノ専攻だった奥菜鈴音さんって知ってるかな?」
「あー、名前は、知ってるけど、何でですか?」
「俺、こういうもんでね。ちゃんと警察に届けを出してる。依頼人が奥菜さんなんだ」
「探偵・・・。でも、噂で聞いた事あるだけで、私は話した事もないんで」
「そう。噂って?」
「依頼人なんだから本人に聞いたらどうですか?」
「つまり悪い噂か。そういうものは、依頼人が自分からペラペラと喋らないでしょ?」
「確かに、あの人なら、そうかも知れません」
「名刺、良かったらどうぞ。何かあったらいつでも依頼していいから」
「どうも。奥菜鈴音には気を付けろって、みんな言ってるんです。腹黒くて、マウンティングばかりで、しかも万引きもした事あるみたいだし」
「信憑性はどれくらい?」
「万引きは分かりませんけど、性悪なのは事実です。話さなくても分かるくらい。正直、私もみんなも嫌いです。あの人と友達やってる子達もまともじゃないし」
「じゃあ、恨みを買うような心当たりって結構あっちゃうんだ」
「そうですね」
「奥菜さんと距離が近かった人の名前、教えてくれないかな?」
「斎藤陽って男子と、確か皆川瑠奈って子」
「どっちもピアノ専攻?」
「はい。私が話したって言わないで下さい」
「うん。ありがとう。ほんと助かる」
去っていく女子学生を遠目に手帳をパチンと閉じた獅子を、冬は勘繰るような細い眼差しを向ける。
「こんないきなり有力情報が聞けるなんて、さてはあの人、サクラでしょ」
「はは、何でそうなるの。本当に偶然だよ。ピアノ柄のトートバッグだから、ピアノ専攻の人かなって思って」
「ほんとにそれだけ?」
「本当だって。何となぁーーく、ピアノのかほりがした」
「意味分かんない。ていうか、名前だけでどうするの?」
「大学生だよ?SNSで名前検索すれば、大体出るでしょ」
「確かに」
「・・・はは」
「何が可笑しい」
「いや、さっき、冬ちゃんが言った事、思い出した」
「え?どの事?」
「さっきほら、奥菜さんの依頼者名簿見た時、クズじゃんって」
「ああ、それはだって加害者に、あでも、依頼人も、何かそんな感じっぽい。いやでも偶然でしょ」
「冬ちゃん、見る目あるんじゃない?」
「偶然でしょ。つまり、依頼人が襲われたのは、復讐系なの?」
「どうかな、今は可能性という事にしておこう」
音楽大学の一般開放もされている食堂にて。昼食中の獅子と冬の下に2人の男女がやって来た。それはSNSのダイレクトメールで連絡を取った斎藤と皆川。彼らの表情はもうすでに機嫌が悪そうだった。
「あんたが探偵か?」
「あぁ」
「DMの後、鈴音から聞いた。本当だったんだな。探偵に依頼したって。で、犯人の検討はついたのか?」
「さすがにまだ。やっぱり君達も気になるよね」
「当たり前だろ。さっさと突き止めろよ。そしたらオレが殺してやるから」
食事の手が止まる冬。しかしそれから冬が気に留めたのは怒りがたぎっている表情の斎藤ではなく、本当にやりそうな勢いの斎藤の態度や言葉にも動じない獅子。
「相手は能力者だよ?」
「オレだって能力者だ」
「おお、そうなんだ。けど奥菜さんの記憶の状態は厄介でね」
「知ってる。襲われた後、会ったから。で、聞きたい事は?心当たりってんなら無くも無い。けど、全員に話を聞いても、知らないって」
「まぁその、恨まれるような事したんじゃないかって事なんだけど」
「別に恨まれてねえよ。逆恨みだ」
「逆恨み?」
「鈴音は、確かに性格は悪いけど、ピアノの腕はトップ成績だ。実力で。だからただ嫉妬して潰そうとしたんだ。絶対誰かが犯人だ。復讐サイトで鈴音を襲うように依頼したんだ。炎魔大王みたいな奴に」
「とりあえず、その心当たりの人全員、顔と名前、送ってくれるかな?ここからは探偵である俺がって事でさ。そして君達は心当たりのある人達に執拗に接触したり、奥菜さんが探偵を雇ったなんて事が知られないようにする事、いいね?」
「・・・分かった。その代わり、犯人が分かったら教えろよ」
「それは依頼人である奥菜さんから聞けばいい」
やがて斎藤から獅子の下にDMが届いた。それを獅子が確認すると、斎藤達は去っていった。昼食は終わっていた。だから冬は獅子の隣に席を移し、頬杖を着いて獅子のスマホを覗く。
「こうやって、人伝いに情報を引き寄せていくんだね。しかも話を聞いた人には名刺を渡してちゃっかり営業もして」
「そりゃ営業は大事でしょう」
「この5人にまた話しかけていくの?」
「ここからは慎重にならないと。だってこの5人は言わば容疑者なんだから。警察だったら真正面から行ってもいいけどね。こういう場合、調査対象に調べてる事を知られないようにするのが基本だよ。直接聞いたって答える訳はないし、もしかしたら調べられてると知ったら、また奥菜さんが襲われる可能性もある。それだけは絶対にダメだ」
「そっか。だよね。何かやっと探偵らしくなってきた。じゃあどうするの?」
「地味な部分だって立派な探偵の仕事なんだけどねぇ」
食堂を出た2人。まるでただ散歩しているように歩くと、自然な足取りで近くのベンチに座った。
「先ずは、素行調査かな。奥菜さんにどんな事をされたのか、奥菜さんの今の状態に対してどう思ってるか。それが分かれば動機が見えてくる」
「なるほど。ていうか、今まで1人でやってたって、無理じゃない?協力者くらい居るんでしょ?」
「まぁそりゃあね。でも事務所に正式に籍を置いてるのは俺1人。格好や信用の為に届けは出しても、あくまで私立探偵だから」
「1人目は?」
「1人目の前に、近道がある。自白という名のね」
「え?」
やがて獅子達はベンチから腰をあげた。向かった先は音楽大学の敷地を出て目の前の車道。そしてまるでタクシーを止めるように手を上げた。停まったのはタクシーではない。ピカピカした黒の高級ミニバン。後部座席の窓がゆっくりと半分だけ下りる。顔を出したのは依頼人である奥菜。同時に否が応にも目に入るその内装は、運転席とフルパーテーションで仕切られた、まるで飛行機のファーストクラスのような最高級空間。
「この5人なんだけど、1人ずつどんな関わりをしたか教えてくれるかな?」
獅子のスマホを見る奥菜の表情は曇っていた。先程とはうってかわって、獅子を見る眼差しにはむしろ多少の警戒さえ伺える。ただ獅子はその眼差しがどんな色は分かっていた。だから敢えてそこに触れる過程を飛ばすのだ。
「あんまり、覚えてない」
「まさかそれも、能力者にやられたっていうのかな。1つ言わせて欲しいんだけど、信頼しろとは言わない。でも大事な事を隠されたらこっちも無駄に手間をかける事になる。まぁ、探偵にとっては単なる遠回りでしかないけどね」
「大事な事?」
それを聞いたのは冬だった。
「奥菜さん、君は被害者だけどその理由は恨みを買ったから。加害者とまでは言わないけど、襲われるまでの経緯が経緯だけに、聞かない訳にはいかないんだ。探偵として、君の依頼を解決したい。だから正直に話してくれるかな?」
「・・・・・分かった」
獅子のスマホが鳴った。それは高級ミニバンが走り出した後だった。獅子は通話の相手にはこれからファン・ビーに行くとだけ伝えた。でもそれだけで、冬には分かった。
「冬ちゃん、新しい依頼だ」
あんな高級車で送り迎えなんてもう腹黒い印象しかない。冬はそんな勝手な事をぶつぶつと言いながら、ファン・ビーのドアベルを鳴らした。その場でコーヒーを注文すると、獅子はスーツの男性を見た。
「依頼してくれた佐野光顕さん?」
「あぁ。何だよ、その子」
「ただの見習いなんで、気にしないで下さい」
依頼人はとても冷たい表情をしたサラリーマンだった。外見は30歳過ぎたくらい。最初からピリピリした雰囲気に、冬は1人で緊張していた。
「堅城一志って治療専門能力者からあんたを紹介された。医者に見せても、能力者に見せても、子供が意識を取り戻さない。犯人を、捜してくれ。早いとこケリつけないと、妻がおかしくなる」
「息子さん?娘さん?」
「5歳の息子だ。2週間前に、幼稚園の帰りに突然襲われて、それから医者には体は健康だけど、原因不明の昏睡状態としか言えないって」
「登園は、バスとかですか?それとも奥さんが送り迎えを」
「妻が歩いて送り迎えを」
「じゃあ奥さんも一緒に襲われたんですか?」
「あぁ」
「奥さんに怪我は」
「無い」
「なるほど。状況は分かりました。些細な事でもいいんですけど、心当たりはありますか?」
「多分、あの女だ」
「あるんですか?心当たり」
冬はとっさに口を挟む。素人なりの、普通の期待と驚き。でも突然、佐野はテーブルを叩いた。獅子のコーヒーカップと冬がビクッとなる。
「くそっ。思い出せねえんだよ!顔が。絶対知ってるはずなのに」
「落ち着いて下さい。もしかしたら、その能力者は人の記憶を操作する力を持ってると思われます」
今にも頭を掻きむしりそうに頭を抱え、佐野は苦虫を噛み潰すように顔を歪める。
「やっぱり能力者か。どうしたらいい」
「他に事件に関する事で思い出せる事はありますか?」
姿なき憎む相手を今にも刺し殺しそうな強い眼差しで佐野は固まった。そこで獅子はコーヒーを一口。
「実は、あなたのような被害者がもう1人いるんですよ。俺はその子を襲ったのも、息子さんを襲ったのも同じ能力者だと思います。もっとも、復讐請負業だとしたら、あなたと別の被害者には接点は無いのかも知れませんけど」
違う色が宿った。それは驚きと、警戒。素人の冬でも分かる。その眼差しを言葉にするなら・・・「何か知ってるのか?」
「あんたは、優秀な探偵だって堅城が言ってた」
「あら、あの人、俺が居ないとこじゃそういう事言うのか」
「依頼人に無駄な感情は挟まないって。そして中途半端な正義感で、依頼人を警察に売ったりしないって」
「まぁ、依頼を解決して報酬貰えれば、それでいいんでね。あくまで、報酬が出なくなるような事はしない。それが俺のやり方ですんでね」
「その人物の記憶が消された。つまりそいつが犯人だから。単純にそうだよな?」
「そう・・・ですね。犯人が実行犯だとして、被害者と面識があるなら、それは証拠隠滅行為ですからねぇ」
目が泳ぐ。意を決したようで、小魚のようで。何となく検討がつく。だから冬は穿つほど、佐野の眼差しを見ていた。
「オレは、あの女を・・・襲ったんだ」
「襲った、というと」
「・・・レイプした」
「まぁ、それじゃ復讐されても不思議じゃないですね。しかもそれはあなたにとって大事なものを奪うという形で」
「クズじゃん」
ボソッと言ったからか、佐野は一瞬しか冬を見なかった。
「オレは、頼まれてやっただけだ」
「意味分かんない。だから何」
「・・・奥菜鈴音?」
パチンと佐野の眼差しが獅子とぶつかった。
「まさか、もう1人の被害者って」
「奥菜さんです」
ドアベルが落ち着いた。でもそのテーブルだけは、胸糞悪くする残り香が漂っていた。獅子の向かいの席に移ると、冬はドサッと腰を落とす。
「ねえ」
「ん?」
依頼者名簿にメモを残しながら、獅子はふと目線を上げる。しかし眼差しは合わなかった。頬杖につっかえた不愉快そうな冬の眼差しは、窓を見ていた。
「警察に売らないの?」
「ちゃんと解決して貰うもん貰った後なら、冬ちゃんが勝手にすればいいよ」
「復讐請負業じゃないって事?」
「え、ああうん。そうだと思う。奥菜さんと佐野さんに恨みを持つ人が、個人的に能力者になって、自分で復讐したんでしょうね。さて、冬ちゃん、5人の中に、犯人は居るかな?」
「え、分かんないよ、そんな・・・」
「えー、そんなんじゃ助手にはなれないよ?」
「え!?ちょっと待ってよ。んー、じゃあ、普通なら佐野に襲われた子が5人の中に居たら、その子が犯人でしょ?」
「そうだね」
「でも記憶が無いから、うーん、やっぱり5人を調べるしかないかな」
「そうだね。被害者方面、加害者方面、先ずはあらゆる方面から情報を集める。じゃあ奥菜さんの情報の裏付け、行こうか」
「1人目は?」
東京某所の総合病院。マスクをした一志は入口付近の待合席には座らず、その先のエスカレーターを上がった。その病院の2階にはVIPフロア専用エレベーターがある。VIPフロアに入っただけで、最早雰囲気はホテルそのもの。まず床の色から違う。ナース服の色は特に変わらない。全ての病室は完全個室。面会者カードがカードキー。これで内装がスイートルームじゃなかったら逆にクレームだろう。
「お前が光岡?」
「・・・あぁ」
ベッドにだらけている老いた男と、傍に座る妻らしき女の表情が揃って固まった。空気が一瞬にして張り詰めたのだ。高級感しかないVIPルームだからではない。
「居心地良さそうだな。ずっと居れば?」
「何だと?」
「一応不治の病優先でやってんだが、病名は?」
「・・・胃ガンだ」
「ステージによっては俺は要らないんじゃないか?それとも急ぎの用でもあるのか?」
「何故、そんな事を聞く」
「俺には俺のやり方がある。依頼人の話を聞く事だ。どんな病気か、何故治したいのか。そして値段交渉。治療はそれからだ」
「何故治したいかだと?そんなものに理由などないだろう」
「病気じゃなかったらやりたい事とかあるだろ?そういう事でいい」
「やりたい事・・・」
「再来月、娘が結婚するんです。娘の結婚式に出られなかったら、娘が悲しみます」
「上等だ。そういうのでいい。医者にはなんて言われた?結婚式には出れないって?」
「ステージ3だからな。難しいそうだ。じゃなきゃお前のような者を呼んだりしない」
「良いだろう。治してやる。値段は、そうだな、3000万だ」
「何だと!?ふざけるな。人の足元見て嘗めてるのか?」
「お前こそ、その頭で考えろよ。お前は人より金を払って、無駄に広い部屋に寝そべって、人より金払ってより良い医療を受けてる。良いものにはそれ相応の金がかかる。必ず!病気が!治る魔法だぞ!常識的に値段をつけてみろ。お前への医療費が軽自動車くらいだったら、魔法は高級外車くらいが妥当なんじゃないか?」
「高級外車・・・・・くっ、ぼったくりもいいとこだ」
「俺はぼったくりはしない。人によって相応の値段をつけてる。平等が俺のポリシーなんだ。お前は大企業の社長か何かだろ?他のがめつい治療能力者なら1億とか言っても不思議じゃないだろう。どうする?」
返事は溜め息だった。最終的に光岡を落としたのは妻の眼差しだ。そして光岡から小切手を受け取ると、一志はマスクの中で微笑んだ。
「交渉成立だ。1秒で終わる」
一志のスマホが鳴った。それはマスクを外してようやく外気を吸った時の事だった。スマホを耳元に着ければ、自然と腰はベンチに落ち着いた。
「何だ探偵」
「俺の事を紹介した、息子を襲われた佐野さんの事なんだけど。何か情報があればと思ってさ」
「旦那を紹介したが、俺の依頼人は妻の方だ。旦那とはろくに話してない」
「何だそっか」
「犯人像くらいは分かってるんだろ?」
「まぁ、どうやら個人的な恨みだと思う。いわゆる復讐請負業じゃない。同じような被害者がもう1人居てね。会ってみる?治せないとは思うけど」
「いや。同じ能力者なら無理だ。むしろ俺に情報を共有しろ。俺の依頼でもある」
奥菜が通っていた音楽大学。その最寄り駅の改札を出た時、悲鳴が響いた。腹の底がゾクッと冷え込む。一志が辿り着いたのは大手チェーン店のカフェ。刃物で襲われたんだろう。店内で2人の男女が血塗れで倒れていた。
「堅城!」
2人の傷が無くなった後に一志は振り返る。野次馬を掻き分けて姿を見せたのは指定自警団の男、杉原橙治。
「犯人は」
「俺は見てない」
「2人は見た?」
杉原の問いに被害者の2人は首を横に振った。
「コーヒー飲んでたら、いきなり痛みが走って、気が付いたら、血が出てた」
「おいおい、遠距離系の通り魔かよぉ。これじゃ犯人は追えそうにないなぁ。まぁ堅城も居た事だし、一件落着でいいか」
「ちょうどいい、あんたに相談だ」
「ん?珍しいね」
「あんたらの中に、怪我や病気じゃない状態でも体を元に戻せるような力がある能力者は居るか?」
「それは、また厄介な能力だなぁ。言うなれば、封印の力ってとこかなぁ。例えば、人の能力に干渉されないようにバリアを張りながら、物理的に透明にさせて、本人にもまるで神経が断絶されたような感覚にさせるとか」
「確かにそんな感じだ」
「オッケー、捜しておくよ」
「あぁ」
「なぁその話、まさか鈴音の事か?」
最早コスプレの失敗。そんな血塗れである事以外普通の斎藤に、もう他の客は見向きもしない。むしろ店員は注文しない一志と杉原を遠目に見始める。
「被害者は2人だ。俺の依頼人とは別の被害者は、奥菜鈴音だと聞いたが、そいつか?」
「そうだ。あんた、探偵の仲間か」
「まあな」
「犯人は分かったのか?」
「お前が探偵に話した5人の事を今調べてる最中だ。あんたにもう1つ相談がある」
「ん?」
「俺は探偵じゃないが、状況から見ると、この2人は狙われたのかも知れない。この2人の知り合いがある能力者に襲われた。動機は恨み。この2人の知り合いは本人が襲われたが、俺の依頼人は恨まれてるだろう男の妻で、襲われたのは子供。犯人は恨んでる奴の周囲の人間も標的にしている」
「ああなるほどね。だから2人もこうして狙われたと。相談ってのは護衛かな?」
「それとなくでいい」
「ん?ちょっと待ってくれよ?堅城達が追ってる能力者は、治療系の能力では治せない攻撃をしてるんだよな?何で今、堅城は2人を治せたんだ?」
「俺が知るか。・・・急用が出来た」
「待ってよ。堅城の依頼人の所行くの?今、そっちの被害者も襲われるかも知れないって勘繰った口じゃないか?」
「そうだ」
「オレも連れてってよ。護衛対象の顔見たいからね」
カフェを出てすぐ、一志はスマホで通話をしながら、人にぶつかった。一志がぶつかったのではない。1人の女性が急に歩き出し、一志にぶつかったのだ。
「おい」
「え?」
「探偵に言ったんじゃない」
「ごめんなさい」
「ほらこっち来いよ」
「無理です。そんな強引な人」
「堅城?どうかした」
「ちょっと待て」
「あ?何だお前」
「お前に言ったんじゃない。引っ込んでろ」
「何だお前?」
「堅城、相変わらず一言多いな。あんたらこそ何してんの?その子嫌がってるよ」
「お前らには関係ないだろ」
「堅城、何かあった?」
「何も無い」
「だよな?」
「お前に言ったんじゃない。黙れ」
「何なんだお前!嘗めてんのか?」
「まぁまぁ落ち着いて。あんたら、ナンパの極意は切り替えの速さだよ?嫌がってるんだからさ、もうやめときなって」
「チッ行こうぜ」
「おーい堅城」
「だから待て」
「は?」
「お前に言ったんじゃない。電話してる。さっさと失せろ」
「・・・テメエ」
「堅城!ごめんな2人とも。ナンパは数打つ事が大事だから。今日はもうこれでって事で。な?」
「堅城?」
「探偵、お前、わざとだろ」
「あはっはっはっは!バレた?」
「あの、ありがとうございました」
「いいよ全然。じゃオレらはこれで」
その女性の後ろ姿に振り返ったのは杉原だけではない。それは少なからず、ナンパする男達の気持ちが分かるほどの容姿だから。
「東京だねぇ。あんな可愛い子が歩いてるんだから。アイドルかなぁ」
「さあな。探偵、奥菜鈴音の知り合いが2人、たった今誰かに襲われた。報告しておく」
「まぁ、そうか。佐野さんの方は、身内が狙われた訳だし。犯人は見た?場所は?」
「見てない。場所は池袋駅から徒歩5分以内のカフェ」
しばらくして一志との通話を切った獅子は真っ先に時間を確認し、手帳にメモを残す。
「事件に関係する話?」
「奥菜さんの知り合いが襲われたって」
「どんな風に?」
「刃物で刺されたように。堅城で治せたって事は、能力が違うのか」
「ただの通り魔?」
「んー。どうだろう。いや、同じ犯人の可能性が高いと思う。恨みを持っていて、身内にも危害を加える。それなら、まだ襲われてない身内をこれから襲う可能性もある」
「相当な恨みなんだね。佐野には分かるけど。あ、でも奥菜は犯人を襲うように佐野に依頼したから、同罪みたいなものかな」
「同罪・・・。奥菜の知り合いは直接的には関係ないから、ただ怪我を負わせただけって事?」
「うん。きっとそうだと思う」
「けど、佐野さんの子供は、何も悪い事なんかしてない。ただの被害者だよ」
「・・・そうだね」
「こういう場合、人は暴走する。完全犯罪の復讐は快感となり、復讐代行とか始めてどんどん人を傷付ける。そうなる前に突き止めないと」
ファン・ビーのドアベルが鳴った。相変わらず、満席になっているのを見たことがない、ある意味過ごしやすい雰囲気。朝食として獅子はホットカツサンドを大きくかじった。奥菜と佐野の依頼から2日が経っていた。5人の容疑者の調査も簡単に一通り終えた。ボーッとしながらホットカツサンドを食べながら記憶を整理する。それが獅子のスタイル。
「美味しそう。すいません、私も同じものを」
ちゃんと制服なのに、朝からカフェにやって来た冬。でもそれは学校に行く気があるという事。だからこそ昨日はちゃんと学校に行ったのだろう。獅子はむしろ安堵した。
「先ずは、報告して?」
「まるで俺が助手のようだね」
「仕方ないでしょ?学校あるんだから。ハチの友達の子にも聞き込みしたかったし」
「何か分かった?」
「別の友達にも学校にはもう行かないってメールしてたけど、でもその子、例のバイト先だった場所の近くでハチを見たって。まさか、またあいつらに何かされてるんじゃ」
「じゃあ、行こうか?」
「え?・・・でも」
「心配なんでしょ?情報収集の次は尾行だよ」
「やっぱりそうだよね。でもいいの?」
「複数の案件を抱える事なんて普通の事だから」
それからホットカツサンドが冬の前に運ばれた。揚げたてのロースカツ、熱々のデミグラスソースを使う為、テイクアウト不可のメニュー。そしてホットカツサンドをかじった冬はサクッという音、笑み、うまっという言葉などをポロポロと溢していく。
街を歩く2人。行き先は冬の元バイト先。
「1人目の容疑者、角田織夏に対しては、奥菜さんはピアノの演奏を侮辱した。2人目の阿部理和に対しては、事実無根の悪い噂を流した。3人目の近松勇二に対しては、ピアノの弾き方で口論になった。4人目の小森花美に対して──」
「どんな名前だよ」
「はは。4人目に対しては何回か、死ねばいいのにと言った。5人目の寺内芽理亜に対しては、SNSで陰口を叩かれた。ただ、犯人は佐野さんに襲われて、そしてそれを奥菜さんが依頼したけど、誰を襲ったかの記憶は消されているという事は考慮しなきゃいけない」
「んー、1番キツそうなのは、4人目じゃない?ていうかどうやって聞いたの?本人からじゃないでしょ?」
「本人からだよ?」
「え!?あれだけ本人には聞かないって」
「あぁ。容疑者相手には慎重にならないといけない」
「・・・え?容疑者、じゃないの?」
「佐野さんは、犯人の顔に関する記憶が操作されていた。でも奥菜さんは、5人に関してはそもそも顔も名前も分かっていた」
「あ!」
「そう。きっと5人の中に犯人はいない」
「じゃあ、振り出し?」
「そうでもないよ?」
「どういう事?」
「5人に話を聞いたら、奥菜さんとバチバチだった人が1人浮かび上がったよ」
「バチバチ・・・」
「名前は妻原真愛。奥菜さんと同じピアノ科で、奥菜さんがああなった後は現在成績トップ。その辺のアイドルよりも可愛くて、ピアノの腕も最高で、奥菜さんとは対照的に人気がある」
「存在する人?」
「はは、するよ、そりゃ。ほらこれ、顔写真。1番端っこ」
「うっわ。超ハーフ美女。姫系か。モデルみたい。絶対芸能界送りでしょ」
「あはは、何だよ芸能界送りって。でもそれが、妻原さんはピアノ一本でやって、芸能界には行かないって意思が固いみたい」
「ふーん。生きてるだけで勝ち組な顔なのにねえ。あ、いや、んー、可愛くて可愛くて、可愛すぎるから、襲われたって事かな。美人過ぎるから大変って、何だかなぁ」
「やけに口数が多いね」
「そう?ま、きっと性格に難ありってとこでしょ」
一志はスマホに届いたメールを開いた。それは受け取った5万円を財布に入れながら、老人ホームを後にした時だった。思わず立ち止まる。歩きスマホをしていた事をハッと自覚したからではない。それから新大阪駅に着くと、一志は新幹線の乗車券を買った。行き先は東京駅。
「居るかな、ハチ」
そこは獅子と冬が初めて会った場所。大道路からは外れたところにあるバー「エイジア」。昼前なので営業はしていない。そして人通りもない。
「張り込みってさ、こんなもん?」
「そう。車だろうと人だろうと、怪しまれたらマズイから、なるべく自然に」
「でも、立ってたら怪しいよね。いつもどうしてるの?」
「俺は大丈夫。車でも人でもないから。ちょっとぐるっと見てくるから待ってて」
「え?」
辺りに誰も居ない事を確認してから、獅子は変身した。風船がしぼむように。それはただのアメリカンショートヘアの猫だった。
「能力者だったんだ・・・」
ニャアと返事をすれば走り出した獅子は、猫の道に消えていった。人が入れない、建物と建物の隙間。取り残された冬は、怪しげに辺りを見渡す。
「どうしよう。これじゃ、逆に私邪魔じゃん」
少しして猫は戻ってきた。魔法使いの映画のように、人間に滑らかに変身しながら。
「中に誰か居た。仕込みでもやってんのかな」
「どんな話してたか、ネズミで行けば分かるんじゃない?」
「まぁ、そうだね。ていうか驚かないんだ」
「そういうやり方だから、1人でやった方がやりやすいの?」
「そう。でも協力者は多いに越した事はないけどね。さて、あそこで休む?」
ドアが開く。それはエイジアの近くにあるコンビニの自動ドア。ドアベルの代わりに、蚊のような「いらっしゃいませ」が聞こえた。獅子と冬は冷たい飲み物を買い、イートインコーナーに居座る。
「・・・冬」
「・・・え」
振り返ればハチこと八田舞桜が居た。それから言葉を失ったのは冬もハチも同じ。その沈黙は正にどうしようというもの。
「何、してんの」
学校に行かないのに制服の冬は、学校に行かないから当然私服のハチの姿を見下ろした。無意識に、これから買う為にその手に握られているジュースとお菓子を見ていた。
「ハチ、大丈夫かなって、思って」
「何が」
「警察沙汰になったから学校やめるの?」
「そういう訳じゃ・・・ていうか、まさか私の事捜しに来たの?」
「え?・・・だって、学校で、ハチをあの店の近くで見たって聞いて、またあいつらに何かされてるんじゃないかと思って」
「あんな奴らと関わる訳ないじゃん。たまたま、近くを寄っただけで」
「そっか」
「別に、心配しなくていいから」
ハチは買い物を済ませば、そのままコンビニを出ていった。振り返ることのないハチを、冬もまた見ることはない。
「いいの?このままで」
「んー」
「何か臭ったけどね」
「え?何それ、事件の臭い?」
「そこまでは。ただ何かありそうだなって」
ピアノの旋律が小ホールを満たしていた。指は踊り、その柔らかい音は、まるでピアニストの足元には花が咲いてるんじゃないかと思うほど。しかし席は満たされていない。途中から入った人でも分かる。それはピアノの練習風景だから。でも学生の練習とは思えないほどのレベルだ。最早プロかのような腕で旋律を弾き出すそのピアニストを、一志は眺めていた。同時に、あの女は街でぶつかった女だという事を思い出していた。
やがてピアノの旋律は止んだ。一曲弾き終えて満足したのではない。小ホールに入ってきた人に気が付いたからだ。2人の足音がコツコツと降りていき、ピアノを弾いていた真愛は静かに腰を上げる。
「お待たせ。行こっか」
「昨日我慢したんだし、今日はタピオカ行こう?」
「うん」
2人の女友達と共に歩き出した真愛は、小ホールを出た時にふと振り返った。だってその人と擦れ違いそうになったから。年齢的には怪しくないが、雰囲気的には怪しい。友達と擦れ違うように小ホールを出ていったと思ったら、小ホールのドアのすぐ側で壁に寄りかかって立っていたなんて、まるで待ち伏せされたかのような違和感だった。でも言葉は無い。話しかけようか迷っていたから。
真愛が去っていく最中、一志はスマホを握っていた。尾行がバレないようにと、自然な雰囲気を出そうとしている訳ではない。約2時間半前に来たメールを確認していただけ。獅子からのメールには妻原真愛の画像が添付されていて、それはつまり、調査情報の共有。現段階で、1番の容疑者だという事。
「堅城さん?」
「あぁ」
「どうも。手短にお願いしますよ。学生を不安にさせたくないので」
「それはお互い様だ。妻原真愛と奥菜鈴音の関係が知りたい」
30代男性講師はほぼ顔で語っていた。何だ、やっぱりその話か。そんなありふれた態度ではない。奥菜の事件は大学内じゃ有名な話。だから探偵事務所の者が話を聞きたいと訪ねてくれば、そして関係が聞きたいと個人の名前なんて出されれば、もう決まったようなものだと、そんな顔だった。だけどそれは、2人の関係性を知っている証。
「まぁ、2人は常にトップ争いしてましたからね。そりゃあもう奥菜さんのライバル心は凄まじかった。純粋な競争心はアーティストにとっては大事ですけどね、奥菜さんは、それが自分への向上心じゃなく、相手を蹴落とす闘争心になってしまって」
「そうか。もう十分だ」
「だから、あんな事に」
「・・・え?」
「2人は3ヶ月前、日本最大級のピアノコンクールのファイナリストに選ばれて、なのにファイナル前日、急に妻原さんが、自殺をほのめかして行方知らずに」
「奥菜に何かされたって?」
「いや、それは分かりません。結局妻原さんはファイナルに出場しましたから。ただプレッシャーに潰されてしまったものと。演奏も彼女らしくないミスもありましたし。けどその後、奥菜さんがグランプリを取って3日後、奥菜さんがあんな事に」
「そんなに妻原がやったと思うなら、問い詰めなかったのか?」
「いやいや、証拠なんてありませんから。それに奥菜さんに比べて、妻原さんは相手を蹴落とすような人じゃありませんので。でもあなた方は、妻原さんが犯人だと」
「あくまで探偵の見立てだ」
たかがコンビニのイートインコーナーで、まるでカフェのように居座る獅子はスマホを見た。何故なら一志からメールが届いたから。そして独り勝手に納得するように唸り出す。気にしたところで気味悪いだけ。だから冬もスマホを見ながら、買ったお菓子をつまむ。
「ほぼ決まりだ」
「・・・ん?」
「妻原真愛。今さっき堅城が音大に行って聞き込みしたんだ。その報告が来てさ」
「ふーん。何だ、人使ってちゃんと調査してたんだ。それで?どうすんの?どうやって確定させるの?」
「俺達の仕事は調査と特定だから、あとはそうだな、例えば、現場付近の防犯カメラの映像とか、目撃情報とか、そういう裏付けがあれば、もう十分報告出来る」
「そういえばさ、犯人に対しての記憶が無いのに、その人が犯人ですって言われて、納得出来るのかな?」
「どうかな。被害者本人に記憶は無くても、その犯人が存在してる事の証明は出来る。だから納得は出来るでしょ」
曇天の朝。だからといって特に何も思わない。駅構内のベンチに座り缶コーヒーを一口飲んだ後、一志は窓越しに空を見上げた。誰かを待っているのではない。缶コーヒーを飲み干したところでスマホが鳴った。
「堅城さん、夫が・・・夫が襲われました」
「どこで」
「会社に行く途中に襲われたみたいで。私、今病院に向かってるんです。相当な重傷みたいで。すぐにお願いします」
「分かった」
その病院は、佐野の息子が入院している病院だった。それは皮肉な話ではない。病院の入口にはもう佐野の妻、理加が待っていた。
「堅城さん!応急手当は済みましたけど、酷い状態で」
それから6人部屋だが2人しか居ない病室で、一志は佐野と向かい合った。意識はある。しかし両腕両足には包帯が巻かれていた。それは見ただけで、誰もが動けない状態だと分かるもの。
「堅城か」
「良い話がある。ほぼ犯人は分かった」
「そうか」
「お前は、犯人の顔は分からないが、襲われる理由は自覚してるんだよな?探偵に話しただろ」
「・・・あぁ」
「世間は、お前を被害者として見てると思うか?」
ただ天井を見上げる佐野。すると声を発したのは理加だった。名前を呼ばれただけではない。それは聞いただけで、誰もが催促だと分かるもの。
「どういう事ですか?」
「そりゃあ妻には言わないだろう。あんた達の子供が襲われたのは、佐野がその犯人を強姦したからだ。つまり子供と佐野は、犯人の復讐によって襲われた」
理加が見たのは、ただ天井を見上げる佐野だけではない。それは特に反論もしない、観念した犯罪者のような顔だった。
「俺の依頼人はあんただ。金さえ払えば治せる傷は治してやる」
病室を後にした一志。廊下を歩く最中、一志はふと足取りを早めた。向かった先は売店だった。急に何かを買いたくなった訳ではない。そこに居たのは、真愛だった。
「もうよせ」
時間が止まったように真愛と一志は見つめ合う。半分だけ振り返ったまま、そして商品の飲み物に手を伸ばした体勢のまま、真愛はナンパにしては意味の分からない言葉にきょとんとしていた。
「え?」
「佐野本人になら、文句は言わない。だが佐野の子供は何の罪もないだろ。子供はもういい加減元に戻せ」
真愛は商品を手に取った。それは500ミリリットルのレモンティー。
「・・・罪で出来た子供だっていますよ」
「どういう意味だ」
商品のバーコードがスキャンされ、店員が料金を請求する。一志は何も買わないのに真愛の隣に立っていた。お金を払えば真愛は売店を後にし、売店のすぐ目の前に設置されているベンチに座った。そしてレモンティーを一口。
「飲みます?」
時間が止まったように一志は真愛と見つめ合う。要らないから飲まない訳ではない。何でここで間接キスを誘われているのか、意味が分からなかったから。
「どういう意味だ」
真愛はふっと微笑み、レモンティーのキャップを閉めると目の前の一点を見つめた。その顔は化粧はナチュラルで、トップアイドル級に美しい。
「あの人の事、調べて下さい」
「佐野の事か?」
「はい。それと──」
真愛がハンドバッグから取り出したのはスマホ。そしてそのスマホを半ば差し出すように見せ、真愛は一志を見つめる。
「連絡先、教えて下さい」
「・・・なら子供を助けろ」
「分かりました、いいですよ」
一志は思わず片眉を寄せた。見知らぬ人といきなり連絡先を交換するからではない。即答だったから。印象は、調子の狂う相手。しかし真愛はスマホを揺らし、催促してきた。それはこっちが先だと、態度で示すマフィアのよう。
小児科のフロア。一志はとある病室のドアを開けた。そこは個室で、佐野の息子の理光が入院している部屋。しかしそこに居たのは理光だけではない。
「どうしたんですか?」
「・・・子供を戻してやる」
「え、本当ですか!その人が、息子を治せる能力者の方ですか!」
「・・・あぁ。悪いが、依頼の時の約束の報酬を頼む」
「あ、はい!」
理加がハンドバッグに手を突っ込む傍らで、怪我が完治した佐野は理光の側から席を立たない。妻の依頼人が連れてきた、息子を治せる能力者。それ以下でもそれ以上でもない。そんな眼差しでただ真愛を見ていた。
「どうぞ、約束の20万です」
「あぁ」
茶封筒を受け取った一志は真愛と見つめ合う。頷きはしない。それから真愛は意識の無い理光の前に立ち、すっと指を払った。それは例えばおまじないのよう。目の前の見えない何かに触れたかのよう。でももうその夫婦にはどうだっていい。空気がピンと張って沈黙の数秒後、理光は目を覚ましたから。
「理光!」
別に母親が子供を抱き締める情景までは興味は無い。だから一志はさっさとその家族に背中を向けた。
「俺はこれで」
「ありがとうございました!」
ドアを閉める間際、涙声でそう言って頭を下げる母親に小さく頷いただけ。そうして一志は病室を後にして、エレベーター前。
「あたしと契約しませんか?」
「え?」
「あたしが怪我を負わせて、あなたが治す。いい話じゃないですか?」
「やめろ。そういうのを偽善者という。俺は、救われない奴を見ると虫酸が走る。だから救ってる」
「だったら、何でお金なんて」
「法外な値段は取ってない。金に関しては、必ず怪我が治る魔法に、その人間にとっての常識的な値段をつけてるだけだ。お前、何で病院に居る。傷付けた人間を追いかけて眺める趣味でもあるのか?」
「救急車を呼んだのはあたしなので」
「何だそれ」
「あのまま放置したら死んじゃうから。死んだら傷付けた意味がない。身バレしないように、気絶させてから救急車を」
エレベーターは何か閃いたような音を上げ、ドアを開けた。そして一志と真愛はエレベーターの中で2人きり。
「何であたしが犯人だって言わなかったんですか?」
「報酬と子供が優先だからな。何故佐野を傷付けた」
「え?」
「お前は奥菜鈴音の友達の2人を傷付けた。能力で治せる怪我なら、やるなら妻の方が妥当だ」
「奥さんは、悪い人じゃないので」
「じゃあ何で子供を傷付けた」
真愛が応える前にエレベーターが開き、2人は自然と足並みを揃える。真愛が見せたのはバツの悪そうな顔ではない。
「でももういいです。違うやり方でやったので」
真愛は上目遣いで、質問して欲しそうな表情だった。そしてレモンティーを一口。質問を誘導されていると分かってて聞くのはあまり心地好くはない。だけど一志は真愛と見つめ合う。
「飲みます?」
「何をした」
病院の入口前のロータリー。むしろ誰も居ないからこそ、真愛はようやく足を止めて一志と向かい合う。
「あの夫婦を見てればその内分かります。ではあたしはこれで」
音楽大学とは近くもない、広い道路脇。ファン・ビーで悠々と朝食を取ってから獅子と冬は待ち合わせ場所に立っていた。それは待ち合わせというよりは、ちょっと立ち寄るだけの場所。
「依頼人のくせに、報告をドライブスルーで済ませるなんてほんと偉そう」
「まぁ、あまり外には出たくないんじゃない?見た目が見た目だし」
「そんなの何か1枚羽織ればいいじゃん」
やがてミニバンが道路脇に停まった。窓が半分下りると冬が覗き込むのは奥菜の顔ではなく、見るからに高級革の座席と、パーテーションのど真ん中に組み込まれた大型ディスプレイ。
「調子はどう?」
「・・・別に。早く教えて下さい」
「うん。これが報告書。悪いんだけど、俺だけでも座らせて貰えないかな?」
終始ブスッとした顔で、奥菜は内線電話でドアを開けるように指示をする。ミニバンなのに後部座席は2つだけ。相当豪華な座席に座って、獅子が報告する様子を冬は独り外から眺める。報告は数分もかからなかった。だって見せるのは報告書と見積りだけだから。
「うん確かに20万円ね。それでさ、もしかしたら、奥菜さんの腕、取り戻せるかも知れないんだ」
「え・・・」
「もう1人の被害者、佐野理光君の容態が回復したんだ。他でもなく妻原さん自身の手で、まぁ、呪いを解いたんだよ。だから、妻原さんを説得すれば、奥菜さんにかけた呪いだって解くかも知れない」
「説得って」
「本当に説得したかどうかは分からないけどさ、でも妻原さんは治そうと思えばやる人みたいだから。こっちで出来る限り動いてみるから、待っててよ。それまではくれぐれも、斎藤君には話さないで欲しいんだ」
「陽がどうかしたんですか?」
「斎藤君、奥菜さんから犯人の名前を聞くって言ってた。それで犯人を殺すってさ。でも奥菜さんの腕が戻れば、斎藤君だって落ち着くでしょう」
ミニバンが走り去っていく。それを見送りながら、獅子は少しだけ安堵した表情を浮かべていた。
「さて、どうするかな」
「何話したの」
「妻原さんを説得させて、奥菜さんの腕を治させるって言っといた」
「それって別料金?」
「・・・へへ」
「何が可笑しい」
「ほらやっぱり、その方がモチベーションになるじゃん」
「そりゃあね」
ふと信号待ちしているミニバンの中。奥菜は無意識に首を傾げていた。報告書に載せられた犯人の写真の女性をどうしても思い出せない。妻原真愛という決定的な名前を見ても、まるで自分の中にぽっかり穴が空いているかのように思い出せない。そしてただ空虚な怒りが湧いてくる。スマホで調べてみれば、私がグランプリを取ったピアノコンクールにもこの女は出ていた。
そっか、この女か。私が目障りだったのは。佐野に襲って貰ったけど、こんな仕返ししやがって。絶対に許さない。思い出せなくても、顔は分かった。
「ふふ・・・あはは」
バカな探偵。私がこの女に復讐しないって本気で思ってるの?
「・・・もしもし、陽?」
「おう、どうした?・・・あいやちょっと、待てって」
「はーたん、誰ぇ?止めないでよ」
「陽、邪魔だったみたい。かけ直す」
「あ、悪いな」
「はーたん、もっとしてぇ?──」
すぐさま通話を切る奥菜。人生で初めてだった。人がヤってる最中に邪魔をしてしまったのは。これは、私が悪いのだろうか?モヤモヤしてきた。そして少しずつ気持ち悪くなってきた。
はーたんって・・・。つーか、ヤってる時に人の電話出んじゃねえよ。アホか。メールじゃ、残っちゃうからな。終わったらかけ直してってメールだけしとけばいいか。
「・・・ふう・・・・・ふふっ」
ずーっとこの時を待ってた。見てなさい妻原真愛。腕を治させて、必ず殺してやるからな。
自宅までもうちょっとという所で、奥菜は思い立ったようにスマホを触る。検索する為だ。検索ワードは「能力者」と「復讐請負」
「・・・ふーん、炎魔大王ね。料金不要で必殺・・・何か凄そう」
斎藤から折り返しの電話が来たのは、奥菜が夕食を終えた後の事だった。足早に自室に戻り、キングサイズのベッドに座る。
「今、平気か?」
「うん」
「それで、どうしたんだよ」
「さっき、探偵から犯人の名前聞いた」
「マジか!誰だよ」
「妻原真愛」
「・・・誰だよ」
「はあ?」
「あ、いや、大学に居ない奴か?」
「何言ってんの?ピアノコンクールにだって出てたじゃん」
「悪い、分からない」
「まさか、あんたも妻原に何かされたの?」
「いや、特に・・・あ!」
「え?」
「瑠奈とカフェに居た時、2人共刺されたんだよ、通り魔に。でも能力者で、犯人は見つからなかった」
陽と瑠奈を、刺した?・・・。あのクソ女。
「まさか、オレも記憶やられたのか?いや、あの時よりも前から、その女の事知らなかった気がする。あれ、いつからだ?」
「でももう大丈夫。顔も名前も分かってる。写真送るから」
「あぁ」
「でも殺すのは待って」
「え、何でだよ」
「探偵が、妻原を説得して、私の腕を治させるって言ってた」
「説得?そんなんで治す訳ねえだろ。オレが脅してやる」
「待って、頭使えよ。あっちは記憶を消せるんだよ?ここは探偵を利用すればいい」
「いや、でも・・・あ、もしかしたら、殺せば戻るんじゃねえか?」
「確証が無いでしょ、戻んなかったらどうすんだよ」
「あ、ああ、じゃあ、やっぱり探偵に任せた方が確実なのか?」
「うん。腕が治ったらまた連絡する」
「いや、オレに考えがある」
銀座、とあるカフェ。おしゃれを通り越して高級な内装、カフェにしては銀座らしい料金設定。そんな店の前に一志は立っていた。自分から入ろうと思った訳ではない。一志はふと、道路脇に停まった赤いセダンの車を見た。自ら後部座席のドアが開けられると、出てきたのは真愛だった。身に染みた所作でおしとやかにドアを閉めた真愛は小さく手を振った。その眼差しの先は一志。
「お待たせ」
「今来たところだ」
「では行きましょう」
別に腕を組む事はしない。むしろ先を歩くのは真愛。時間は11時半を過ぎた頃。つまりそれは昼食。エスコートは求めず、さっさと椅子に座ると、真愛はそして注文をした。
「一志さんは、いつから治療能力者になったんですか?」
「半年くらい前から」
「何で治療能力者になったんですか?」
「能力者になる事を考えた時、それで金を稼ぎたいと思ったから」
「どうやって依頼を受け付けてるんですか?ネットですか?」
「あぁ。治療専門能力者の連絡先のまとめサイトもあるからな」
「冷やかしとか、大丈夫なんですか?嵌められたり」
「指定自警団に知り合いがいるから、万が一の時は問題無い」
やがて注文したものがやって来て、ふと会話が途切れた。エッグベネディクトを見下ろすと、真愛は一志を見つめて微笑む。
「それで、昨日の事なんだが」
「あ、ダメ。本題はあたしがいいって言ってからです」
「何だそれ。付き合ってられない」
「良いんですか?あたしに嫌われても」
そう真愛は無邪気な笑顔を浮かべた。そして2人はナイフとフォークを手に取った。
「一志さんは、独身ですか?」
「・・・そんなに気になるのか?」
「勿論ですよ。あたしの周りには、本当にスカウトかヤリモクしか居ないので」
「それは大変だな」
「えへ」
「何が可笑しい」
「いいえ。楽しいなって思って。こういうの、憧れなんです」
それから一志は食後のコーヒーを一口飲んだ。美味しかったですねと言ってきた真愛への返事を困った訳ではない。
「あたしの事、聞いて下さい」
「・・・ピアノはいつからだ」
「4歳です。そういえばこの前、あたしのピアノ聞いてましたよね?どうでした?」
「ああ、上手くは言えないが、プロみたいだった」
「一志さんは何か楽器はやりますか?」
「いや、やらない」
「スポーツは」
「授業ではいい線いってた。部活ではやったことない」
「部活は何かしてたんですか?」
「天文部」
「へえ。あたしも人並みですけど星は好きです」
やがてコーヒーを飲み終えた。その空気を察し合うように一志は真愛と見つめ合う。
「気は済んだか?」
「はい。あの、楽しかったですか?」
「まぁ、悪くなかった」
「良かった。じゃあ、約束ですからね。でも、キレイには治しませんから」
「どういう意味だ」
「腕は治します。あたしだって、治らない傷を付けられたんです。言いましたよね?本人になら文句は言わないって」
「・・・分かった」
昼下がりの銀座一丁目。中央通り。道路脇にミニバンが停まった。そこには自ら目印となっていた獅子と冬が立っていて、後部座席の窓が半分だけ下がる。
「あの女は」
「ん?あれ?あ、あそこ」
決してそれ以上窓を下げない奥菜。人知れず腰を上げ、外界を覗く。あれから3ヶ月。ようやくこの時が来た。もし出来る事なら、腕が治ったらさっさとその女をぶっ殺したい。奥菜の瞳だけは獣だった。そして奥菜と真愛は顔を合わせた。言葉は無い。早く治しなさいよという言葉を吐いたら、芋づる式に殺意がその女の顔を殴ってしまいそうだから。それから真愛は宙を手で払った。知らない人が見たら、それはまるで蚊でも払ったよう。奥菜は自分の右腕を見る。瞬きの間にはもう、右腕は元に戻っていた。しかしそこには絶対にお礼の言葉は無い。言わないし、言うタイミングも無かった。何故ならもうその女は男と共に歩き去っていたから。
「確かに10万ね。じゃあ奥菜さん、くれぐれも斎藤さんによろしく」
走るミニバンの中、奥菜は笑い出した。当然、独りだからこそ。右手をグーパーさせて、右手で髪を掻き上げて、利き手である左手でスマホを取って電話をかける。
「陽?」
「問題無い。尾行してる」
「じゃあ、よろしく」
街を歩く真愛は隣を歩く一志の腕を掴もうとして、止めた。代わりに横顔を見た。そして言葉をかけようとして、止めた。人通りは少なくはない。銀座だから。獲物を狙う獣がついてきている事を知らないまま、やがて2人は足を止めた。真愛が乗る車の前に着いたから。
「一志さん──」
後部座席のドアを開ける前に、真愛は一志に振り返る。その瞬間、斎藤は走り出した。
「次はあたしから連絡します」
一志は真愛の後ろ姿を見ていて、真愛は車に手を伸ばした。そして、その後方から走って来た斎藤は一志を通り過ぎ、拳を突き出した。轟音と共に、腰の中心を殴られた真愛はそのまま車に激突した。とにかくすごい衝撃だ。それは華奢な女性がぶつかった勢いで車がへこむほどだ。当然、人間の腕力ではない。斎藤の拳は、岩石そのものになっていた。
「おい」
車の運転手の男性が慌てて出てくる中、斎藤は独りで笑った。真愛は倒れて動かない。
「背骨は粉砕した。どうだこの野郎」
「真愛さん!」
運転手が駆け寄った瞬間、斎藤は運転手の腹に岩石の拳を叩き込む。車に突撃されたように激しく運転手は飛んでいった。
「ゆっくり殺してやる」
斎藤の背後を、白い光の輪が飛び抜けていった。斎藤はそれに気が付かない。しかし2つ目には気が付いた。何故なら2つ目は真愛に当たったから。まるでそれは風のように駆け抜けるバブルリング。人に当たって呆気なく崩れて消えたものの、すると直後に真愛は起き上がった。
「あ?」
「走れ!」
一志と立ち上がる真愛、両者をギョロッ見つめた斎藤はすると真愛に向かった。真愛の髪を引っ張り、頭を鷲掴みして、そのままアスファルトに叩きつけた。明らかに、骨が粉砕される音がそこには響いた。すぐさま一志は真愛に手をかざす。しかしその瞬間、斎藤の手から飛んでいった岩石が一志の胸元に直撃した。岩石と共に一志も転がる。悶絶する一志を横目に、斎藤は冷静に屈み、真愛の髪を掴み、頭を持ち上げる。ドバッと落ちる大量の血液。
「クソ、死んでる。強くやり過ぎた」
自分を治療し、一志が立ち上がる頃には斎藤は走り去っていた。
「真愛さん!真愛さん!」
運転手の呼びかけに真愛は応答しない。整った息を吐き下ろし、拳を握りながら、一志は立ち尽くす事しか出来なかった。
一報を受け、獅子と冬がその場所に着いた時には、真愛の遺体は救急車に乗せられていた。運転手が刑事と話をしている中、そして獅子と一志と冬は、無言で救急車を見送った。
「まあ犯人は分かってるんだ。後は指定自警団と警察に任せよう」
「私は、奥菜は斎藤に黙ってる訳ないって思ってたけど」
「そりゃあ俺だって。でもほら、そしたら殺人教唆で引っ張れるから」
「これってさ、獅子君が奥菜に犯人を教えたからこうなったって事?」
「でも犯人を突き止めるのが依頼だからね。こればっかりは、探偵としてはどうにも出来ない。それに、こういう事は珍しくない。例えば不倫調査だって、本当に不倫が判明したから刃物で刺したなんて事件がある。それは探偵には止められない」
「でも、本当に何とか出来なかったのかな」
「例えば、依頼人が斎藤で、妻原さんを殺したいから捜してくれというのが依頼なら俺だって断る。でも奥菜さんはそうは言わなかった。なら探偵として依頼を断る訳にはいかない。探偵をやってたら、こういう事も覚悟しなきゃいけない」
「・・・そっか」
「堅城、あんまり思い詰めるなよ?」
「・・・あぁ」
振り返らずに一志は去っていった。見るのもおぞましい血だまりを通行人がスマホで撮っているのも気に留めずに。
「さて冬ちゃん。次の依頼だよ」
「・・・うん」