転生侍女の平凡なる日常 2
額の汗を拭い、手元の懐中時計を見ると時刻は16:50分を示している。
西棟の客室掃除もここで最後だ。わたしはやりきったとばかりにぐーんと腰を伸ばし、首をゴキゴキと鳴らす。ここにはライラとわたししかいないため、貴族令嬢らしくない、はしたない姿を晒しても大丈夫だ。
「終業10分前! 客室の掃除も無事に終わって良かったわ。ライラがバケツの水をぶちまけた時はどうしようかと思ったけど」
「う……こんな初歩的なミスをするなんて……」
ライラが沈んだ顔をしているので、わたしは軽く彼女の肩を叩く。
「失敗しても落ち込まない。みんなでフォローするから大丈夫! ……って、いつも言っているのはライラでしょう?」
ベテランになっても思わぬところで初歩的なミスをしてしまうのは、仕事をやっていれば割とあることだ。ライラもそれが分かっているのか、頬を軽く両手で叩くと掃除用具を持って振り向く。
「はいはい! そーですよー、落ち込むのは終わり! 一応、洗濯班の様子も見てくるねー」
急ぎ足で出て行くライラを見送り、わたしは衛生部門の詰め所へと向かう。
「消耗品の申請書類を急いで書けば、定時であがれるわね。今日の夕食は自炊にしようかしら」
一応、職員食堂的なものはあるが、男性が多いせいか油っぽかったり、量の多い料理が多く、毎日食べたら太ってしまう。なので、貴族令嬢らしくはないが、わたしは小まめに自炊していた。
前世でも一人暮らしをしていたし、ガードナー侯爵家の教育で自分のことは一通りできるようになっているので、それほど負担にはなっていない。好きなものを食べられるから、案外気楽だったりする。
脳内で夕食のメニューを考えていると、詰め所の前で綺麗にメイクと髪のセットした侍女が三人ほどおしゃべりをしていた。その中で一番派手な印象を与える金髪の侍女がわたしを見て意地の悪い笑みを浮かべる。
「あら。遅かったわね、ガードナー侯爵令嬢」
「ごきげんよう、ホーキンス侯爵令嬢」
彼女の名はアラベル・ホーキンス。衛生部門のわたしとは違い、いいとこ取りの接待しかしない応接部門の王宮侍女だ。応接部門は資産家の令嬢、もしくは貴族令嬢のみで構成され、文官たちの会議にお茶を運んだり、外部からの賓客をもてなしたりする……要は、いい男を捕まえに来た肉食系令嬢で構成されている。
そのため、寿退社で侍女の入れ替わりが激しく、仕事の意識が低くて業務中に遊び始める始末。当然、衛生部門の侍女とは険悪の仲だ。
「侍女なのに、随分と薄汚い格好ね。ずっと汗と埃にまみれて掃除をしていたの? お可哀想に」
こうも真っ直ぐに嫌悪の感情を向けられると、思わず笑いそうになる。
……この小娘が! あなたの侍女服が汚れていないのは、おしゃべりばっかりでろくに仕事をしていないからでしょうよ!
入職したのは、アラベルの方が数ヶ月だけ先。しかも彼女はわたしと同い年で、ほぼほぼ同期といってもいい関係性だが、とてつもなく仲が悪い。わたしが養女なのに同じ侯爵令嬢の地位にいるのも気に入らないのだろう。
「汗と埃にまみれることの何がいけないのですか? 王宮侍女とは、陛下が快適にすごせるように城の中を清潔に保ち、側に使えることです。限られた時間を精一杯使って仕事をすることこそ、オルブライト国民の至上の喜びというもの。仕事は遊びではないのですよ」
真面目で純粋なご令嬢風に微笑むと、アラベルは顔を顰めた。
「生意気ね。貴族モドキのくせに」
「この国に貴族モドキなんていません。家庭教師に習わなかったのですか?」
養女だって馬鹿にしたいのだろうけど、その程度で元エリート候補のわたしが負ける訳がない。微笑みを崩さず、凜然と佇む。
「わたくしの家を敵に回したいの? 社交界にいられなくしてやるわよ」
思った通りの反応をしないわたしに苛立ったのか、アラベルは癇癪を起こす。
こんなことを言っているが、彼女の父親にわたしを社交界にいられなくするだけの力はないので、こんな脅し痛くもかゆくもない。
「まあ怖い。脅迫ですか? 確か、王宮内で身分を笠に着た発言は慎むようにと陛下からお達しがあったかと思うのですが……」
この王宮には猜疑王――レヴィン陛下が作られた多くの決まり事が定められている。そのすべてを守っているものはいないが、わたしはすべて記憶している。こういう、気に入らない同僚を言い負かす時に使うととても便利だ。
見下してくる相手に縮こまっていたら、それこそアナベルのようないじめっ子の思う壺だ。
「うるさいわね! ……侍女長があなたのことを呼んでいるわ。さっさと行きなさいよ!」
「はい、行って参ります」
アナベルは挑発すると面白いように乗ってきてくれるため、対応には困らない。同僚という立場もあるだろうが。
しかし、これから行く直属の上司である侍女長はそうは行かない。
侍女長室へ到着すると、ゲンナリする心を押し込めてノックをした。
「失礼いたします」
侍女長室には豪奢な絨毯が引かれ、新品の家具がおかれている。外部の来客がないのに、ここだけ上級文官の部屋のようだ。年代物の家具と客室のお下がりの絨毯を敷いている衛生部門の詰め所とは偉い違いである。
……コスト削減って言葉を知らないのかしら。
そんなことを思うが、どうせそんなの意識していないだろう。侍女長はコネ入社で、バックに大きな貴族がいて、予算を自由に使いたい放題。
お母様は王宮内は実力主義の気風があると言っていたが、それは文官や武官の話だ。平民が多く、成果が目に見えて現れない侍女などの部署はまだまだ昔から幅をきかせている貴族がいるのだ。家族経営の会社にいる気分である。
「フェリス・ガードナー。東棟の地下にある書庫室を明日の朝までに使えるようにしなさい」
わたしの顔を見て、開口一番に変なことを言いやがった。あと5分で終業の鐘が鳴るんですけど!
「……地下室、ですか? 今日はもう就業時間を過ぎますので、明日の朝一番に掃除するかたちでよろしいでしょうか。皆で取りかかれば一時間で終わると思います」
「何を言っているの。あなた一人でやれと言っているの。もちろん、明日も必ず出勤しなさいね」
侍女長の顔には明確な悪意がある。
……完全にパワハラなんですけど。余程わたしが邪魔なようね。この人、絶対に色々隠しているわ。
貴族や資産家の令嬢は早々に結婚させ、訳ありの貴族令嬢や平民は過剰労働を強いることで精神もしくは身体を壊して退職に追い込む。侍女長を除いて、最長の勤続者がまだ年若いライラということからも、故意に侍女たちを入替していることが分かる。
わたしが労働環境を改善させようとすることに最後まで反発していたのは侍女長だ。怪しさ満点である。
「分かったら返事をしてくださらない?」
一人で地下の書庫なんて掃除したら、どれだけ時間がかかるか分からない。でも、今はやるしかない。彼女が上司ということもあるが、何より……元社畜の復讐心がたぎるわ。前世で晴らせなかった上司への恨み、ここで浄化する!
「……承知しました」
気落ちした声で言うと、わたしは頭を深く下げた。侍女長から見えないわたしの表情はギラギラと復讐心に燃えている。
誰が嵌めたのか分からないぐらい、静かに完璧に法に則って蹴落としてやるわよ!
固く決意をするのと同時に終業の鐘が鳴った。