ベット、レイズ、オールイン
大草原は美しい地帯だ。しかし悲しい事にそこは、バベルの大穴。
美しいとはつまり、危険という事だ。
草原が禿げている場所には近づくな。円形になっている砂場には近づくな。
その下には、大草原の主が潜んでいる。
第二階層の危険な怪物より抜粋ー
揺れたのは、俺ではない。耳の化け物でもない。
地面が横揺れした。腹の底に重く、どこか心地よい振動が溜まる。
ずぐん。
また、揺れた。
横揺れ、縦揺れ。立てないほどでないが確かに揺れている。
始まった。間に合ったみたいだ。
俺は突き刺ささったままの腕を見て、それから耳の化け物を見上げた。
ヤツも揺れには気付いているらしい。耳の穴が、下を向いていた。
もう、遅い。俺は、自分に突き刺ささった腕を掴む。
「つ、きあって……くれよ。俺とお前の……仲だろうが……」
力の入らぬ腕で、ウデを掴む。意味はないかも知れない。
それでも、俺を動かすものがある。
それは希望ではない。
今、この状況でそれを持てる程強くはなかったし、馬鹿でもない。
それは絶望ではない。
そんな暇はない。
それはただの感情だ。むかつく。むかつくんだ。このまま、俺だけが死ぬのがたまらなくむかつく。
思い知らせてやる。この耳の化け物に、恐怖を教えてやる。狩られる側の恐怖を。
耳の化け物が俺を見下ろす。俺はその暗い、夜の海の底のような二つの耳の穴を見つめた。
脇腹に突き刺さるウデを強く握り締めた。厚い皮の感触。丈夫な合成皮革のソファの生地を握り締めたようにも思える。
脇腹辺りの染みがまた、大きくなっている。酷い痛みだ。もう笑うしかない。
「いひっ」
引き攣ったような笑い。嗤い声が芽生えた。大きく唇が攣る、片目だけが歪むように開いた。
「さて、お前とアイツ一体どっちが強いんだ?」
「教えてくれよ、化け物」
耳の化け物の長い腕が、伸びる、俺の脳天にギロチンのように振り下ろされーー
ボン。
ドフゥオおおオオオ
浮遊感、眠気、風、光。浮遊感。
足元の砂場が吹き飛んだ。俺の体が宙に舞う。視界の下で耳の化け物もくるくると舞っている。
眼下に緑が広がる。綺麗だ。どこまでも続くかのように思える緑のカーペットが広がる。
くる、くる、くる。体が舞う。下から突き上げられたように俺たちは宙を舞っている。体からの感覚がない。
くるくると舞う世界の中、赤い雫がすこし散らばる。眼球を動かすと、脇腹に刺さっていたウデはない、抜けていた。ぽかりと空いた傷口から血が散る。
自由だ。重力を無視して、俺は今、空中を舞っている。ぶっ飛ばされたと言う方が正しいか。
痛みはなく、ただ爽快な気分だ。視界の下で耳の化け物もくるくる、舞う。
永遠に続くかと思われた浮遊感もやがて終わる。腹がヒュンと、引っ張られる。
体が急に重力の事を思い出したようだ。落ちる。落ちる、落ちる。
自然に視界は下へ向く。
ああ、やっぱり、デカイやつがいたか。
俺が先程まで尻餅をついていたあの砂場に大穴が出来ている。その大穴の中に何かが潜んでいた。
砂をえぐり、耳の化け物と俺を宙へ突き上げるように吹き飛ばしたやつが現れていた。
上半身だけを穴から出し、鋏のような牙をむき出しにして、大口を開けていた。
怪物種87号、ソウゲンオオジグモ。
大草原の主にして、接触禁止怪物種の一種。理由は簡単、危険過ぎるから。
鋏のように広く広がった牙、大きく開いた口は何かを迎えるようにも見える。
いや、もうよそう。その口はテリトリーに入り込み、狩りの対象になった哀れな獲物を待っている。
その口はまるで人間の歯のように前歯から犬歯、奥歯、ずらりと揃っている。
蜘蛛にそのまま、人間の口をはめ込んだような化け物だ。何個あるかわからない黒い黒曜石のような瞳がブツブツと口の上あたりに生えている。
ベット、レイズ、オールイン。
賭けの主役は現れた。この巣の主は人間だろうが、耳の化け物だろうが関係ない。宙を舞い、後は堕ちるしかない獲物を喰い殺すつもりだ。
オールインだ。全てを賭けた。
人では耳の化け物を殺せなかった。神の奇跡に縋っても耳の化け物を止めれなかった。
なら最後はこれだ。目には目を。歯には歯を。
「化け物には、怪物を」
耳の化け物が落ちて行く、俺も落ちて行く。
さしものヤツも下からの急襲には反応出来なかったらしい。俺と同じように、くるくる宙に舞う、狩られるべき獲物だ、
あーんとばかりに大口を広げて、ソウゲンオオジグモが待つ。十五メートルを超えるその巨体の半分は未だ、砂の中なのだろう。
だんごのような上半身に、人間のような大口。
ダンジョンが生んだ歪で奇怪なクモの怪物。さあ、耳とクモどっちが強いんだ?
ベット、レイズ、オールイン。
ルーレットは回り、サイコロは振られ、カードは配られた。
体重の重い耳の化け物は狙い通り、俺より低い。ヤツのほうがさきに、ソウゲンオオジグモの大口に堕ちるはずだ。
そして、ここからだ。
賭けの勝敗はここで決まる。
落ちていく、景色の中、左の掌を見つめる。熱い。
痛い。皮膚が弾け飛びそうだ。
じゅくじゅくと膿んだように、皮が溶けている。
ドゥおおおおおおおお。
地面から鳴り響く、地獄の底が割れたような叫び。
ソウゲンオオジグモが興奮したように、叫びながら体を伸ばした。大口を開けたまま、獲物を喰おうするその口内が、どんどん近くなる。
耳の化け物が、空中で体勢を仰向けに変える。俺に向かい、歪な長い腕を伸ばす。そのすぐ下には、ソウゲンオオジグモの口が迫る。
ここだ、ここしかない。
脳裏に浮かぶのは、あの灰色の怪物。正しい腕の力の担い手達。俺が殺し尽くしたあの怪物の事を思い出していた。
「逆、だ……」
左の掌の皮膚が破け、その中にあるものが浮き出る。掌に光るは、腕の秘宝。
腕の翡翠。それが、血が混じるそれが光る。
ヒュン。
耳元で、空気が裂ける音がしたと同時にぐいっと体が、腹の位置から引き上げられる。
重力を蹴り飛ばすように俺の体は再び宙を舞う。
下から伸びる、歪な長いウデ、それが俺の顔面に迫る、迫る、迫る。
腹の辺りに圧を感じる。脇腹から血が漏れた。吊られるように俺は上へ、上へ。
伸び切ったコンセントのように、歪な長いウデはピタと止まり
ぱくり。
ソウゲンオオジグモの大口が耳の化け物を捉えた。伸びたウデはそのままに、大耳はあっさりと蜘蛛の口に収まり、閉じられた。
噛みちぎられたウデだけが、一瞬、宙に浮き、すぐに落ちてゆく。
海面から飛び出たクジラのように、砂の大穴から飛び出たソウゲンオオジグモは、砂を大きく散らしながら、砂の中へ沈むように戻っていった。
腹に巻き付いた、太い木の根の確かな感触を感じる。
大穴に、ソウゲンオオジグモに、その口内に納まった耳に向け、中指を立てる。
「逆バンジーだ」
まだ、俺は生きていた。
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