凡人ソロ探索者は現代ダンジョンに酔いながら恐ろしい怪物に立ち向かうようです。その2
皆が貴方のように勇敢になるように。
皆が貴方になりますように。
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頭の中、脳みそに直接冷風を吹きかけられたような寒気を感じる。どこか遠い、谷底から昏い冷気が届いたような感覚。
目の前で、体を振動させる耳の化け物。ヤツの姿を目に焼き付ける。
右目を動かし、茶色の土が砂場のように露出しているスペースを確認する。かなり大きい。きっと大物がいるはずだ。
ヤツをあそこまで誘き寄せることが出来たなら、俺にも勝機が見える。
左手の手のひらから感じる冷気に似た熱さが強くなる。
「痛っ」
手のひらを見る、うわ、なんだこれ。嘘だろ。腫瘍のようにこんもりと腫れている手のひら。
そこから熱さと冷たさをごった煮にしたような痛みを感じた。
俺はその腫れを握り締める。疼くような痛みを飲み込み、覚悟を決める。
心臓が燃え尽きそうなほどに鼓動を繰り返している。脳みそは驚くほどに静かだった。
「ふっっ!」
短い呼吸、口から息を一瞬吐き、ヤツに向かって駆け出す。
もう止まれない、止まらない。賽は投げられた、俺が、投げた。
あの長い歪な腕が眼前に迫る。酔いにより鋭くなった俺の五感が迫り来る腕を捉えた。
勢いをそのままに足からスライディング、顔あげると俺の鼻先を風切り音を上げながら通過する肌色が写る。弾けるように横に転がり、再び突進。
ここだ。同じ手は食わない。前進からの急停止。
すかさず薪割り斧を背後へ振り向きざまに斜めに振り下ろす。
ざぷん。
身の詰まった肉に斧を突き立てる感触が右手に伝わる。地面を伝い伸びていたヤツの四本目の細い管のような腕、俺を掴む為に開かれた掌に斧の刃が突き刺さる。
「うぜえ!」
突き立てた斧をそのまま、ヤツの四本目の掌を突き破るように刃を下ろす。何度もぶん投げられてたまるか、くそが。
刃で怯んだ掌を蹴りつけ、地面に叩きつける。体を反転、すぐ目の前、斜め前方にヤツがいる。
人体を容易に、紙細工を引き裂くように破り捨てる、恐ろしい怪物。
正気では、シラフではたどり着けない死地。
耳の化け物、至近。
ここが命の使い所。ここまで辿り着いた。ヤツのあの大耳が醜く、歪んでいくのがわかる。
来い、虫けら。
そう言われたような気がする。理由は分からないがコイツは今、たしかにそう言った。
上等だ、お前は今からその虫けらに泥沼のやり取り、命の奪い合いに引きずり込まれるんだ。
ざまあみろ。
ヤツに迫る。右足の親指で地面を掴む。コンバットブーツのすり減った靴底が、芝生を押し付けるように踏み締める。
体を鍛えたのは、今この時の為に。
ベンチプレスもスクワットも走り込みも。探索者になり、体を一から鍛え始めた三年間の全ては、この踏み込みのためだったのだ。
「……! 快」
耳穴から音が浮く。その音ごと叩き割るが如く、横薙ぎに薪割り斧を、ヤツの耳穴に打ち込む!
「死ね!!」
頼むから死んでくれ。
どこか呆然と立ち尽くしているその耳の孔に、銀色の刃が吸い込まれるように突き立つ。
ドッ、重たい音が俺の体の芯に響いた。ヤツは身じろぎひとつせずに斧の刃を受け入れる。
重。
大森林で食らわせた一撃よりも、今回の斧は深く食い込んでいる。
だからこそ、分かる、その耳の化け物の質量が。斧から伝わる手応えが
「重たすぎる…… なんなんだ、お前」
脇を締め、力を斧に伝える。刃を押し込んでも耳の穴の肉を深く抉った刃は進まない。
「チッ!」
俺はその斧を引き抜こうと、柄を引き戻そうと肩を引いた。
「な!?」
びくともしない、それどころか、目の前で突き立てた斧がみるみるうちにヤツの肉に沈んでいく。
待て、待て待て待て待て。
ず、ず、ず、ず。
斧が刃に沈んでいく。柄ごと引き込まれそうだ。綱引きのような力の均衡。しかし、その刃を引き込む力が強すぎる!
「くそが!」
斧の柄を掴んだまま、右足を振り上げをヤツの飛び出た腹に前蹴りを見舞う。
固い。サンドバッグを何倍も重くしたような感触だ。足をつっかえ棒にし、斧を引き戻そうと引っ張るも、やはりだめだ。
斧が飲み込まれていく。
「تجنب ذلك」
その音声が俺には、踏切の警告音のように聞こえた。
瞬時に斧の柄を離し、その場から飛び退く。体を丸め、顎を引き、腕と肘で、頭と腹を守るようにガードーー
耳元で爆弾が破裂したのではないかと勘違いした。圧力が全身にのしかかる。四肢が弾け飛ぶのではないかと本気で感じた。
緑、白、緑、緑、緑。
ああ、くそ。
視界がめちゃくちゃだ。目が回る。
全身から抜け落ちそうになる力を、呼び止める。慣性がまだ生きているうちに、転がりながらも腕を地面に叩きつけ、足を踏ん張った。
ズザサ、と芝生を引きずりながらも体勢を整える。獣のように四つん這いになりつつも倒れずに、膝と拳で体勢を保つ。
俺の体は自然と受け身を取っていた。
ヤツが大耳を振るったと気づいたのは、吹き飛ばれた後だった。体中に、痛みが発熱のように広がる。
だが、今回は視界がはっきりしている。眼前にあるのは地面、芝生でなく、こちらへゆっくり歩み寄りつつある耳の化け物だ。
気づく。
まるで咀嚼するように、ヤツの耳穴の表面がもごもごと動いている。
「あ……」
突き立っていた片手の薪割り斧。もごりと蠢く肉の中に消えてしまった。
これで全てがなくなった。
運も、奇跡も、最後に残った武器も。全て奪われた、残るのはなんだ? 俺には一体何が残っている?
命だ。俺がヤツの喉元へ突きつける最後の道具は、もう俺自身の命しかない。
ひた、ひた、ひた。
大げさに体をゆらしながら、脇腹から長く歪な長腕と、傷ついた細い管の腕を地面にひきすながら、ヤツが歩く。
こう見ると、腸が溢れているようで、どこか間抜けだ。嗤える。
迫り来るヤツを見ながら、首をわずかに背後へ傾け、眼球で確認。
俺の背後、草原がそこだけ無い。まるで除草剤を使ってミステリーサークルを作ったかのように、異質な荒地が円状に広がっていた。
ヤツが、死そのものが近づく。
酔いが、恐怖を誤魔化す。本来感じるべき恐怖を、スリルへと、興奮へと変えていく。
つり上がる口角、唇の震えを我慢。
そして、左手のひらの痛みが、更に強くなっていた。
賭けの始まりだ。
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