らうんどすりー
ソレはまさかここまで手こずるとは思ってもいなかった。
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跪く代わりに、右手に握る斧の柄を潰すような勢いで握り締めた。硬いヒッコリーの柄は当たり前のようにビクともしない。
震える手に力を入れ続けていたその時、閃きのような、それでいて背筋を冷たくさせるものを感じた。
「ヤツは何処に行ったんだ」
閃き、疑問が思わず唇を割った。背後から吹く風が強くなった。ごおっという音の中、草花の匂いを風が運ぶ。
その中に、混じる鉄の臭いが鼻をついた。心臓が揺らぐ。殺意に臭いをつければこんなものになるのだろう。
足の位置を入れ替え、斧を構えながら振り向ーー
いた。いる。いてしまう。
大きな耳。それは人間の頭部にあるものをそのまま引き抜いたようにも見える。人間の耳だ。それが向かい合い、一対のものとして俺の目を引く。
短い手足に、腹だけ飛び出た胴体。小さい。見下ろすような胴体にアンバランスな大きな耳が頭の代わりに乗っかってある。
恐ろしい怪物。耳の化け物。
ヤツが俺のすぐ背後に立ち尽くしていた。
距離は四メートルもない。死線を越えられている。
「はっ、はっ、ハっ、は」
呼吸が浅く、なる。鼻呼吸だと追いつかない。薄く口を開き、気付けば喘ぎのような呼吸音が流れていた。
耳の化け物が、短い腕を大耳の横にそっと添える。
耳を澄ましているようなジェスチャー。それからゆっくりとその耳にかざした短い腕を下ろし指先をこちらへ向けてきた。
てのひらを上に、短いウインナーみたいな指をくい、くいと煽るように折った。
ブルースウィルスか、てめえは。ふざけやがって。
……まあ、でももうそれしかないか。逃げる事は出来ないだろうし。
俺は浅い息を一度止める。宝石はやはりない。もうあの力を使う事も出来ないのだろう。あの、不気味で高慢な態度の悪霊の気配もない。
正真正銘、これが最期の戦いになるのだろう。
右手の斧の刃を見つめ、化け物を見つめた。頰に風が砕ける。
ああ、いい風だ。それにしてもなんで地下深くのダンジョンに風が吹くのだろうか?
ずっと気になっていたが、終ぞ答えを得ることはなかった。
まあ、いいか。さあ、いこう。
ザッ。芝生を踏みつけ、地面を足で蹴りつける。
「っおおおおおお!」
斧を引きずるように下段に構えて、俺は叫びながらヤツに突撃していた。
無謀、蛮勇、自殺行為。知った事か。もう俺にはこれしかないんだよ。
恐怖を感じる事もなく、俺の脚は耳の化け物へ向かう。やけに光景がゆっくりと流れていく。
ああ、これが走馬灯か? それとも臨死体験?
耳の化け物の短な左手、その更に短い人差し指が左右に揺れている。メトロノームのように、ちっちっちと。
ああ、やっぱこいつふざけてやがる。
眼前まで、届く。ヤツと俺の距離はもう一メートルもない。俺の斧が届く。ヤツの腕も届く。
下段に構えた斧を思い切り刎ねあげる、スイッと耳の化け物が器用に体を逸らし斧の刃を躱す。
薄皮一枚すれすれに掠ったのは恐らくわざとだろう。
ヤツならそれができる。躱される事は知っている。
空振りになり、振り上げた斧の勢いを維持したまま俺は体の筋肉に力を込める。
踏み込んだ左足の膝を伸ばす。伸び切った全体の筋肉を縮めるが如く腹に力を入れる。
肋骨に痛み。関係ない。
「ラァ!」
斧を翻し、振り下ろす。
ガキん。硬い。ヤツの耳と斧の刃が喰い合う。硬い。だが、それも知っている。
弾かれる事も知っている。鍔迫り合いのような状態からヤツが体を捻り、耳を振るう。俺は斧が弾かれる勢いを利用し、とっさにその場から飛びのく。
振るわれる大耳はさながら嵐のようだ。風切り音を鳴らすそれから間一髪で逃れる。
また少し距離が空く。ノーダメージ。ヤツに傷を付ける事が出来ない。
でも、もう俺にはこれを続けるしかない、俺は体勢を低くし、斧を構えた。
やるしかない。やるしかないんだ。
自分に言い聞かせるように俺は、またヤツに向かおうとーー
「C'est ennuyeux」
耳の穴から音声が流れる。その瞬間
にゅるん。
ヤツの脇腹からあの長いおぞましい形をした腕が現れる。骨張った形に、魔女のように細く、尖った指。
ヤツの全長をゆうに越すその長さ。それがヤツの脇腹から生え出て、ゆらゆらと揺れている。
その腕がブレる。と思った瞬間、伸びてきていた。
「う、わ!」
俺目掛けて伸びるその腕を咄嗟にしゃがむことで躱す。すぐ頭上で空気を裂きながらヤツの腕が通過していく。
電車が通過中の高架下ギリギリにいる気分だ。頭を上げれば、死ぬ。
しゃがんだまま、俺は横に転がり位置を変える。そのまま駆け出しヤツに迫る。
長い腕はリーチが長い分、取り回しも悪いはずだ。懐に潜り込みさえすれば……!
がし。右足首に圧力を感じる。
は?
なんだ? これ。
反射的に足首を確認。嘘だろ。
地面を突き破り、這い出た小さな手のひらが俺のコンバットブーツに覆われた足首をがっちりと掴んでいる。
ヤツを見れば、脇腹の辺りからあの長い茹でとは別に、小さな管のようなものが地面に向かい垂れていた。
「や、野郎……」
耳の化け物の脇腹から生えている管がひるがえる、地面のすぐ下を通っていた管が、土を裂きながら現れた。
その管は当然のように、俺の足首を掴む手のひらと繋がっていた。
囮まで……
俺は空いている左手で後頭部を覆う。瞬間、凄い力で右足首を引っ張られ、そのまま仰け反るように転倒する。
「か、はっ」
背中への衝撃、肺から空気を叩き出される。やばい。後頭部は顎を締めて、左手で守っていたため、強打する事だけは免れた。
やば……!
浮遊感。
そのまま持ち上げられる。世界が逆さまだ。頭を下に、掴まれている足首を上に。まるでUFOキャッチャーの商品のように宙づりにされる。
やばい、殺される。
びゅん。
内臓をその場に取り残してしまいそうな勢いで、宙吊りにされた俺はヤツの方へ引き寄せられた。
これ、死んだな。引き寄せられた所をヤツの膂力で攻撃されたら防ぎようがない。よくて即死、悪くて、致命傷。
脳裏に、四肢を捥がれて殺された二人の最期がよぎる。
嫌すぎる。俺は一縷の望みをかけ、巻き取られる中、離さずに持っていた右手の斧を握り締める。
一か八かだ。この勢いのまま、斧を打ち込む。
腹筋に力を入れ、体勢を維持。斧を構える。迫るヤツに向かい斧を宙吊りのまま振るう。
ブン。空振り。ヤツはまるで予見していたかのように俺を巻き取りつつ、体を仰け反らせ斧を避けた。
ダメか。終わった。
ヤツからくる攻撃を待つ。もう宙吊りになった俺は逃げる事も出来ない。
揺らされながら、ヤツの攻撃しやすい位置に移動させられる。
逆さまになったヤツの耳の穴が、すぐ近くに来る。
耳の溝から穴までとてもはっきりと見える。見るも恐ろしい、人間の耳がそこにある。
目の前の耳の穴が鳴る。ヤツの体が細かく振動している事に気付いた。
「ら、ららら、らら、らららら」
それは壊れた蓄音機のように、震えながら音を紡ぐ。
「ららら、らうんどすりー」
はっきり、そう聞こえた。
こいつ、今…… なんて?
瞬間、体に風を感じる。全身にだ。
俺はすぐに投げ飛ばされたのだと気付いた。
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