目覚めの場所は
大草原
第二階層の半分以上を占める大地帯。風になびくこの大草原は美しい光景の中に、凶暴な怪物種を孕んでいる。
バベルの大穴ガイドより抜粋ー
頰に、風が砕ける。
耳に気持ちのいい空気が流れる音が伝わる。風の音の中には何かが柔らかく擦れ、揺れる心地の良い音が混じっていた。
鼻に香るのは、土と、植物の匂い。呼吸するたびに特に土の匂いを強く感じた。
「あ…… ゲホっ、げほっ」
喉に詰まる痰を咳で切る。
重い瞼を開けようと、下瞼の部分に力を込めた。
緑、薄緑、茶。地面が近い。視界一杯に広がるのは青々とした芝生と、風に靡く少し丈の長い草だ。
頰に感じる芝生の感触が気持ちいい。また眠ってしまいそうになるので俺はすぐに体を起こそうと四肢に力を込めた。
「うお……」
重たい。怠い。一日中海で遊んだ後のように全身に感じる気だるさみたいだ。おまけに関節は錆びついたように固い。
おまけに頭は思考がまとまらない。何か夢を見ていたような気がする…… とても懐かしい夢を。
いや、そもそも俺は今何をしているんだっーー
「痛っぁぁ、ふ」
右肋骨から、熱のような痛みが弾けた。動きを阻害するこの痛み……
「あ」
そうだ、思い出した。
「あ、ああああ」
その恐ろしい記憶に思わず俺は顔を覆う。思い出した。この痛みで思い出してしまった。この肋骨にヒビを入れやがった、あの恐ろしい存在の事を思い出した。
「あ、ああああああ」
そうだ。思い出した。一瞬の油断。全てが終わったと思ってしまったあの一瞬。
俺は失敗したんだった。沈みゆく地面、流砂のように流れる地面。それに巻き込まれ、沈んだのだ。
最後に目に焼け付いた、あの光煌めく金髪と碧眼の救いも溢してしまった。
俺は、沈殿現象に呑まれたんだ。
乱れた呼吸を整え、体勢をゆっくりと変える。痛む肋骨に気を使いながらうつ伏せから起き上がり、腰を下ろして胡座をかいた。
「生きてる……のか?」
手のひらを開き閉じる。
右手にのみついている革手袋は何故か湿っている。そして、左手。手のひらの中心に赤い跡がついている。その形は円を半分に切ったような、半月みたいだ。
「っ! そうだ!」
俺は胡座をかいたままポケットを探る。両手を両方のポケットに入れて搔きまわす。なんの感触もない。ただ、ポケットの裏地が触るのみだ。
あの奇妙な宝石はどこへ? 確か最後に、あれの力を使おうとして……
「そうだ、ダメだったな」
宝石は、沈殿現象に巻き込まれた時には何の力も発揮しなかった。その後はどうしたのだろうか?
「落としたか?」
地面に沈んだ時に離してしまったのだろうか。宝石がどこにいったのか分からない。となると俺が持っているものは
かちゃ。
ポケットから手を抜き、身じろぎしたその時腰のあたりから何かが鳴る。
俺はそれに目を向け、少し息を吐いた。間違いなくこれは安堵の息だ。
「良かった、お前までいなかったら少し、やばかった」
つぶやきながら、俺はそれに手を伸ばし、腰のホルスターから引き抜き目の前で翳す。
鈍い銀色を湛えた刃が、在る。確かな強度を持つヒッコリーの柄がその刃を支える。
俺の探索者道具。スウェーデン産、多目的片手薪割り斧。
職人の手作りで誂えたそれはとても頑丈で、なおかつ実戦的。刃物を取り扱う才がない俺にも扱える。振って、振り下ろせばそれで殺せるとても素晴らしい相棒だ。
鈍い銀色の刃をじぃと眺める。刃の向こうに景色が広がる。
「ふう」
ため息をつく。俺はここを知っている。いや、別に俺じゃなくてもバベルの大穴に関わる人間であるのなら皆ここを知っているはずだ。
広がるのは緑。ポツリ、ポツリと、三メートルか四メートルそこらの低木がばらけて生えている。
風が吹くたびに遠くに広がる緑がうねる。涼しげな風が、草を、木を、人を、怪物を、平等に撫でていく。
現代ダンジョン バベルの大穴 第二階層 西地区
大草原
行った事はないが、この地区はモンゴルのフルンボイル草原という場所に似ているらしい。見渡す限りどこまでも緑が広がっている。
その緑が、所々禿げて茶色の地面がむき出しになる部分もある。
フルンボイル草原にはないはずのあのむき出しの部分。あそこには近付いていけないこともよく知っている。
ああ、間違いない。第二階層だ。ここは。
俺は、ここを知っている。以前はよく来ていた俺の仕事場だ。間違えようのないこの場所。
坂田 友義 貴崎 凛、以前の仲間と探索に明け暮れた場所。
俺は沈んでここに辿り着いたのだ。つまり俺はまだ生きて、ダンジョンの中にいる。
寝ぼけていたような頭の中が急にクリアに変わる。本来、一番に思い出さなければいけない事。落雷をうけたような衝撃とともにソレを思い起こす。
「あいつは!?」
肋骨から走る痛みを無視する。脳天をトンカチで叩かれたような痛みも関係ない、
それどころではない。
目の前を確認する。いない。広がるのは草原だけだ。
右に首を振る。いない。光石により、草原が陽光によく似た光で照らされている。
左。あった。
いや、そりゃあるよな。一緒に沈んだんだ。それはそうだろ。
「くそったれが……」
吐き捨てるように俺は呟く。俺の左の方向、十メートル程先の草原に異物が在る。
球体。茶色をした十メートルを超える巨大な球体がそこに在る。
ヤツを、あの耳の化け物を封じ込めた、大森林の力を借りて成した奇跡。
俺と共に沈殿現象に沈んだ、あの恐ろしい化け物を封じ込めた、封じ込めていた墓標。
それが、そこに在る。
「まじかよ……」
力が抜けそうになる。崩れそうになる膝を根性で保たせる。
封じ込めていたんだ。たしかに。
あの大森林の百メートルを超える巨木を何本も巻きつけ、歪め、丸めて、拵えた封印の球。森を禿山に変えるほどの物量、圧倒的な質量を込めた奇跡。
命ならば二度と出られぬ筈のその墓碑が
「勘弁しろよ…… マジでよぉ」
球体の上が抉られている。まるで内側から食い破られたように、表面が盛り上がり破けていた。
破裂したようにも見えるし、引き裂かれたようにも見える。
まるで卵の殻を破り、何かが産まれたようにも見える。
卵と違うのは、この球体から産まれたものは誰にも望まれていない呪われた化け物であるということだけだ。
どちらにせよ、間違いない。もうあの耳の化け物は球体から抜け出している事だろう。
あの恐ろしい怪物を封じ込める墓標は破壊された。野放しにされた化け物は生きている。
俺はやはり失敗していた。沈殿現象に巻き込まれるだけでなく、化け物を倒す事も出来なかったのだ。
無力感でその場に跪きそうになる。今地面に伏せると二度と立ち上がれそうになかった。
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