まどろみ、他人、空似
貴方なの? 私はここよ
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ーーて、
闇。
真っ暗で静か、完成された世界の中に異物が入り込んだ。
ーーて。
声が聞こえる。枕元に置いているラジオが小さな音でずっと呟いているようにも聞こえる。
うるさい。俺は今眠たいんだ。そっとしておいてくれ。
俺は瞑っている瞼を更に強く閉じる。このままずっと眠っていたい。起きるのは嫌だ。起きても、目が覚めてもいい事なんて一つもない。
ーーきて。
目を覚ました所に何があるんだ。また辛く、苦しい現実があるだけじゃないか。それなら俺はもう起きたくない。このまま眠らせてくれ。
とても、気持ちがいいんだ。
……あれ? 俺は今何をしているんだ?これは夢? それとも現実? 現実ってなんだ?
暗い、広い闇。これが現実? いや、違う。違うはずだ。もっと、明るく、鮮明で……
突然闇の中から滲み出るように青と赤の色彩が現れる。そうだ。こんな風な色があそこにはたくさんあったはずだ。
青と赤。なんだっけこれ……。なんの色だ?
俺はこの色をとてもよく知ってる気がする。なんだ? これは? なんの色だ?
そうだ、腕。俺には腕があった。俺は目の前に現れたその色に腕を伸ばす
赤と青、ぬるりとしたお湯のような手触り、そして鉄が腐ったような臭いが鼻を駆け抜けた。
この臭いを、手触りを俺は知っている。すうっと闇の中に、映画のスクリーンのようなものが浮かび上がる。
灰色の肌から漏れ出し、灰色の地面に流れる青い血。
軍服から滲み出る赤い血、樹々がそれらを吸い上げる。
血だ。これは血の色だ。
俺はこれをよく知っている。現実には、これがたくさんあった。
ここはどこだ? 俺はどこにいる? どうなっている?
急に胸の辺りに寒気を感じる。胸骨を開かれそこにそのまま冬の冷たい風を吹き込まれているようだ。
寒い。ここはとても寒い。
闇が更に深くなった気がする。先程までの心地よさはなく、代わりに全身に気だるさと、妙な熱を感じた。
ここにいては駄目だ。唐突にそう思った。このままここにいては何かが終わる。
俺は生暖かい青と、赤から手を離す。
重たく綴じられている瞼を開くーー
闇。
瞼を開くーー
闇。そこには昏い闇がただ在るだけだ。
どこだ、ここは? なんだ? ここは?
闇の中、俺は腕をめちゃくちゃに振り回す。何か、ほかにないのか? 俺以外に、ここにだれかいないのか?
自分の輪郭すら分からぬ、沼の泥のような闇の中、何かを探るように俺は腕を振り回す。
なんの抵抗も感じない
ここには何もない。暗く、昏く、静かな世界。
全てが静止した世界。
何も見えず、何も聞こえない。
駄目だ。ここにいては。俺の中の本能が叫び始めた。ここにいては、駄目だ。早く逃げなければ。
だが、どこへ? どこへ行けばいい? この終わりのない闇のどこへ向かえば出られるのだろうか?
ーーきて。
まただ。闇を渡りどこからか声が聴こえる。俺はその声に今度は耳を澄ました。
ああ、そうだ。俺には耳がある。
ーーきて。
だれの声だろう。知らない声。聞いた事のない声が闇を震わせ、響いた。
この声を聴くと、胸が少し、締め付けられる。
それは、雨上がりのアスファルトの匂い。あぜ道の水路のあぶく。夕焼けの中を自在に飛ぶ赤とんぼ。鼻をつくカルキの匂い。
この声はそれらのような、懐かしさを想い起こさせる。
ーーきて。
懐かしい、その女性の声が闇に響く。
聴いた事のないはずのその声をとても美しく想う。
嗚呼。誰だ。どこにいる? 俺はどうすればいいんだ。
ーーきて。
俺はゆっくりと輪郭の見えない脚を動かす。その声の鳴り響く方へ、歩もうとする。
カツン。
何かが、足にぶつかった。闇の中、足元を攫うように手を伸ばし、それを拾った。
鈍い、銀色。濁った青に染まる銀が闇に浮かんでいる。
知っている。俺はこれを知っている。
その銀色に俺は指を伸ばす。たちどころに指先から熱を感じた。輪郭のないその指から赤が流れた。
ドクリ。心臓が鳴る。
指先が、痺れて、熱い。指先が鼓動する。
痛い。思い出した。これは痛みだ。
そうだ、現実にはこれがたくさんあった。
胸の辺りによく、これを感じていたことを覚えている。
急に肋骨のあたりにも痛みを感じる。これは指先の痛みよりも、根が深い。
俺はその拾いあげた銀を、慎重に掌に納める。これは好奇心で触れるものではない。確かな確信と覚悟で掌に収めるものだ。
そうすれば、怪我などはしない。そのことを俺は思い出した。
ーーきて。
声が少し、遠くなったような気がする。俺はその痛みを抱え、銀を携えてまた一歩、その声の方へ歩む。
ーーきて。
闇が深くなる。俺は手のひらに握る銀を握り締めた。先程よりも力強く握ったというのに、今度は血は流れない。傷つくことはない。
ーーきて。
懐かしい声を頼りに歩く。
ーーきて。
ーーきて。
ーーきて。
ーー。
声が止んだ。俺は歩みを止める。
闇が、身じろいだ。
ーー違う。
唐突に響いたのは拒絶の声。先程とまでの懐かしさを感じさせる優しげな声ではない。落胆と絶望の混じる闇よりも暗い声。
ーーあなたじゃない。似てるけれど違う。
目の前に何かがいる。
遠くから聴こえていたと思っていた声は俺のすぐ目の前の闇から響いていたことに気づいた。
俺の目ではその姿を捉えることは出来ない。
俺の耳ではその甘く、暖かな声を聴くことは出来ない。
俺の腕ではその愛しさを抱くことはできない。
俺の脚ではそこに辿り着くことはできない。
声は告げる。目の前にいる何かの口が動いたことだけがわかった。
ーーあなたが貴方に戻った時、また会いにきて
濃い闇が俺の足元に集う。途端に俺の体がまた沈み始めた。まるで海に飛び込んだ時のように、沈む。
待て!! お前は誰だ!
声にならない叫び。すでに闇は俺の首元を埋める。
声は俺の問いには答えない、ただ。
ーーずぅっとここで、待っているから
沈む。水中に引きずり込まれたようだ。意識がまた遠のく。微睡みが俺の瞼を閉じようと重くのしかかる。
最後に聞こえたその声は、酷く、冷たくそれでいて寂しそうな声だった。
最後まで読んで頂きありがとうございます。ラストまであと少しです!