フリーフォール
顔に当たる、空気がパチっと弾ける。邪魔だ。ぐっと首を前に倒す。
彼女は脚に更に力を入れて地面を蹴りつけ加速していく。
脚の皮膚の裏。貼り巡る血管の周りで蟲が蠢き続けているような錯覚を感じる。その蟲は力の兆し。彼女はその感覚を味わいながら走る。
不意に、腰の辺りに柔らかな感触を覚える。彼女はこれを知っている。ソフィの虹の紐だ。
彼女は構わず走り続ける。腰に巻きついた半透明の虹色をした紐はまったく邪魔にならない。彼女の走りに合わせて伸び続けている。
これで準備は整った、後は実行するだけだ。
[Close danger Close danger]
ポケットに入れている端末が危険の知らせを鳴らし続ける。彼女はたしかにその知らせを聞き、理解している。
理解した上で、更に腕と脚のストライドを大きくする。
彼女は、駆ける。目の前で、あの巨大な球体がどんどん沈んでいく。彼女の視界にその現象の異様が映る。
まるで巨大な蟻地獄の巣だ。彼女のすぐ目の前の地面にはすり鉢状の大穴が生まれていた。彼女は走りながらその淵に、迷彩服の男がうつ伏せになりその底を覗き込んでいる事に気付く。
やはり、一人落ちているのだ。
彼女は腰に巻きついている虹色の紐を一瞥した。後ろは振り返らない。そこには自分と同じ指定探索者であるソフィ・M・クラークへの絶対的な信頼があった。
淵。深い穴だ。名の通り地面が、沈み、溶けている。哀れにもひとりの男が大穴の中心で立ち尽くしていた。
「な!?、アンタは?!」
迷彩服の男の驚愕の声。その声に彼女は走り際にウィンクする事で答える。
そして、彼女はその勢いのまま、地面を蹴る。
跳躍。足元には、眼下には穴。底までは既に十メートル以上の距離があるほどだ。どんどん沈んでいる。
辺りの地面が流砂のようにその底へ向かい流れ続けている様子が、はっきりと見える。
その底に囚われている男、もう半ば以上沈んでいる男が彼女を見上げるのがわかった。
そのままどこかへ飛んでいってしまうのではないかという浮遊感はしかし、すぐに消える。ダンジョン内でも通用する物理法則、重力が彼女の脚を、胴を、腕を掴み、中空から引き摺り下ろそうとする。
沈殿現象に巻き込まれている哀れな探索者はもう、首のあたりまで埋もれ、沈みかけていた。
酔いが彼女を、英雄に駆り立てる。
大丈夫、あなたは助かる、アタシが救ける。様々な感情が一つになり、彼女の叫びへと変化する。
「手を!!!」
彼女は重力に囚われ、頭から真っ逆様に、すり鉢状の穴そこへと堕ちていく。恐怖はない。
手を伸ばし、叫んだ。
彼女と男が近づく。彼女が男の元へ真っ直ぐ頭からまるで、飛んでいるように堕ちていく。
「お、おおおおおお!!!」
口元まで半ば沈んだ男が、叫ぶ。沈みながらも必死に溶けた地面から腕を引き抜き伸ばした。彼女の手を掴もうとする。
彼女は落ちる。男は浮かぶ。
互いが指先を伸ばした。彼女は下に、男は上に。
その指先が触れるまで
あと少し、十センチ、六センチ、二センチ。
彼女の落下がピタリと止まる。
限界だ。虹の紐の持ち主はここが許容範囲だと判断したらしい。彼女の腰に巻いた命綱がその伸縮を、やめた。
彼女の落下は止まる。男の沈殿は止まらない。
互いの指先の距離が離れる。二センチ、二センチ、四センチ、六センチ……。
男はみるみる沈んでいく。鼻の辺りまで沈む。彼女の碧眼に男の黒い瞳が映る。黒曜石のような鈍い、底の見えないかがやきを持つ瞳がまるで、死を迎えたようにゆっくりと、彼女の目の前で閉じられーー
いや、違う。彼女はそれを許さない。彼女は人が生を諦めるのを許さない。
自らが救えないのを赦せない。
叫ぶ。声をたたきつけるように。その諦めにより閉じられた男の瞳をこじ開ける為に。
「諦めるな!!!」
丹田の底から落雷のように声を叫び落とす。男の眼がパチリと開く。彼女はその瞳を自らの碧眼に焼けつけるように、大きく瞳を開いた。
「探索者!! 絶対に諦めるな! すぐに行くから! 待ってなさい!」
彼女は、宙づりになりながらも目の前で沈みゆく男へ酷な事を告げる。それはどこまでも残酷で、どこまでも傲慢な、英雄的な言葉。
この男が死を受け入れるのを許さない。安楽な死ではなく、過酷な生を押し付ける祝福の言葉。
「アタシは、アレタ・アシュフィールド!! よく覚えてなさい! 貴方を救う星の名を!!」
自らの名前を、目の前で死に沈んでいく男にきざみつける。
男は目を見開いたまま、どぷりと溶け沈む地面へ消えていった。
彼女はその光景から目を離さない。
彼女は既に決めていた。
ダンジョンの酔いが彼女の本性を剥き出しにしていく。
温和で常識的な女性は既になく、そこにはお伽話から飛び出てきた、人を救う為だけに存在する英雄が現れた。
宙づりになった彼女の体が、ふわりと上に昇る。彼女は遠くなっていく、穴の底、今もなお、流れ続ける底を見つめる。
彼女は、既に決めていた。
自らが呪いのような希望を押し付けた、あの男を必ずどのような手を使おうとも救い出す事を。
ゆっくり上に巻き取られながら首をぐるんと持ち上げ、上を見上げる。
淵の際にソフィ・M・クラークの赤い髪を確認する。
彼女を巻き上げる命綱、虹の紐の持ち手をまるで釣竿を掲げるように持つソフィが叫ぶ。
「アレタ!! 無事かい!?」
ソフィの声が心地よく彼女の耳に響いた。見れば、ソフィのとなりには、グレン、ガスマスクの大男、チャールズ隊長が立っている。
「アシュフィールド特別少佐! ご無事でしたか!」
「間一髪でしたねー! 流石先生!」
皆どこか、あのソフィですら安堵した様な声を口々にしている。
ーー違う。そうじゃあないの。
「違うのよ、ソフィ、グレン、隊長。そうじゃあないの。アタシは間に合わなかった」
彼女の口から言葉が流れる。彼女にしか聞こえない声量で。
それはまるで
「違うのよ……みんな。この命綱はアタシ一人が戻るためにつけたんじゃない」
「ふたりよ、この命綱を使うべきなのはふたり。それ以上でもそれ以下でもないの」
それはまるで呪詛の様なーー
彼女は自分の体を巻き取り、上に持ち上げようとしている命綱に手をかけた。
彼女は、上に佇む皆を見上げ
「ごめんね、みんな、特にソフィ。大切な道具を、少し手荒にするね」
ニコリと笑いかけ、宙づりのままに体幹を回し、命綱を力いっぱい引きちぎった。
べりゅれ。
まるで薄紙を左右に引き裂いたように彼女の腰を巻く虹の紐は千切られた。
当然、彼女の体の上昇は止まる。空中で半回転した彼女の体がまるで仰向けように上を向いた。
淵に立つ、仲間達は何が起きたか理解していないようだ。
表情を固める者、無意識に手を伸ばす者、その者を引き止める者。様々だ。
上昇でも、落下でもない。一瞬の空白。浮遊のその時、彼女は皆に向けて
「安心して、帰ってくるわ。今度はふたりでね」
口角をにっかりあげて、右目の横でピースサインを送る。
彼女の世界がゆっくりと進む。見上げるのは皆の驚愕。目の前で引きちぎった虹の紐が、瞬時に、まるで巻き戻しのように再生し、落ちる彼女を追う。
しかし、もう遅い。
彼女の体勢は重力に従い、頭から堕ちてゆく。彼女は無意識に両手を頭の上で伸ばし、飛び込みのポーズを取る。
とぷん。
星が沈んでゆく。
液体のように様変わりした地面へアレタ・アシュフィールドは堕ちていく。
指定探索者の探索が始まった。
自らの身を省みぬそれは、とても英雄的で、とても……、狂気に彩られていた。
最後まで読んで頂きありがとうございます!
この話はずっと書きたかった話です。宜しければ感想をお聞かせください。評価して下さればとても嬉しいです。