星が動き始める
「ハァイ、アリーシャ、見てくれた?」
彼女が端末に向かって話す。すぐに電話口の向こうから隠そうともしない長い溜息が聴こえてきた。体力や、精神力やその他諸々まで一緒に流れ出していそうな溜息だ。
「ハァアアア。一応聞く。アレは何?」
彼女は声色からまだ、アリーシャが怒ってはいないと理解した。単純に心底呆れているのだろう。
「あら、アリーシャわからないの? そうだとしたらもう一度勉強した方がいいわよ?」
ニコニコしながら彼女は端末に向けて言う。
「あー、もういい、もういい。馬鹿、超馬鹿。話すのも疲れるわ」
憎まれ口を電話口のサポーター、アリーシャ・ブルームが流れるように言い放つ。
「アリーシャ。いくらアタシでもそんな馬鹿馬鹿言われると少し、その傷付くのだけど」
「うるさい、馬鹿。お前が討伐許可制の指定怪物を穴ぼこにしてなきゃここまで言ってない。ハァー、書類。何枚になるんだろ」
電話の向こうでがっくりと、項垂れているその姿が彼女には見えた。少し、悪い事をしたかと思ったがきっとアリーシャならなんとかするのだろうと、彼女は気にしない事にした。
「違うのよ? アリーシャ、アタシもわざと貴方に迷惑をかけようとは思ってないの。むしろハッピーにしたいとすら考えているわ」
「ありがとう、まさかお前がそこまで私の事を考えてくれているとは思わなかった。で? お前にとってのハッピーというのは各所からのクレームや、膨大な追加の書類作業に追われる事を言うのか? だったら、ありがとう。お前のおかげで今からの私はさぞ……ハッピーだろうよ」
どうやら、軽口が過ぎたようだ。電話口の向こうの声が早口になってきた。彼女は、アリーシャが苛立ち始めているのを感じた。
さて、どうやってアリーシャを宥めようかとまた彼女が頰に人差し指を当てていると
「まあ、今はそれどころじゃないか」
電話向こうのアリーシャの声色が変わった。先程までの倦怠感溢れる溜息混じりの声ではない。
アリーシャ・ブルームーンの本来の声。電話越しだというにもかかわらず彼女の背筋が自然に伸びた。
意外な事に彼女は、今回割とやらかしてしまったという自覚を持っていた。しかしそのやらかした内容を聞いた上で、アリーシャはそれどころじゃないと言い切ったのだ。
サポーターであるアリーシャが普段、探索者である彼女がやらかした事の後始末より優先することは少ない。
あるとすれば男絡みの案件ぐらいのはずだが……。つい先日アリーシャがフられた事を彼女は知っていた。
彼女は唇を僅かに尖らせて少し考えた。
「……どうしたの?」
だが、考えてもわかりそうにないのですぐに聞いてみた。ほんの少し、声を潜めながら。
電話の向こうのアリーシャが小さく息を吸った事に彼女は気付いた。
「日本支部から自衛軍に、とある探索者の救援任務が発令されている」
「……それがどうかしたの?」
別段珍しい事じゃないじゃないとでも言いたげに彼女は返した。
「重要なのはここからだ。自衛軍から合衆国軍へとその救援任務の詳細が伝えられた。お前に伝えたいのはその内容だ」
「内容?」
「救援対象の日本人探索者はとある未確認の怪物種に追われていたらしい」
「だから、それのどこがーー」
「伝わってきた情報によると、その未確認の怪物はまるで、人の耳の形をしているようだ、無線の記録によると何度も同じ単語が繰り返されている」
「耳の化け物、と」
耳。
その言葉を認識した途端、一瞬、彼女の美しい碧眼は零れ落ちてしまうのではないかいうぐらいに大きく開かれた。
しかし、その両目はすぐに引き絞られるように鋭く細められる。
「詳しく聞かせて。アリーシャ」
彼女の声のトーンが下がる。先程までの鼻唄を歌っていた神秘的な雰囲気の彼女はそこにいない。
彼女は釣竿から意識を離した。
先程までピクリともしなかった浮きが、キュッと沈んでも彼女は微動だにせず、端末からの言葉に耳を傾け続けた。
ああ。と電話口のアリーシャがうなづく。
「正確な裏取りまでは出来ていないが、現在大森林において、自衛軍の車両から一台緊急通信が発信されている、その車両の班長から自衛軍へ上がった通信の中に、耳の化け物という単語が確認された」
「酔いで、混濁している可能性は?」
「仮に、ダンジョン酔いが発症しているとしてもだ。耳の化け物なんて単語が出てくるか?」
彼女は人差し指をほおに当てた。目を開いたまま、アリーシャの言葉を反芻する。
「ごめん、アリーシャ。続けて」
「ああ、わかった。気になる事があれば私が話している途中でも構わん。聞いてくれ」
アリーシャの咳払いが、電話から聞こえた。
「それに加えて、その救難対象の日本人探索者もサポーターとの会話の中で耳の化け物に殺されかけた。と話していることが確認されている」
彼女は左手の人差し指を強く頰に押し付ける。
アリーシャからの報告は非常に興味深い。興味深いのだが、彼女にはどうにも腑に落ちない点がある。
「……車両からの緊急通信って事は、自衛軍の救援任務は失敗した。という認識でいいの?」
彼女は指定探索者だ。形式上は軍属になっているために軍の所有しているテクノロジーへの理解もある。
アリーシャが答える。
「半分はイエス。半分はノーだ。お前の言う通り車両からの緊急通信ということはなんらかのアクシデントにより、車両が走行不能になるほどのダメージを負っている状況なのだろう。この点においては救援任務は失敗したと言える。だが」
彼女の端末を握る手が無意識にその力を強めた。
「だが、通信内容によると現在、その耳の化け物と、日本人探索者は交戦中らしい。救援対象が死亡していないという点を考えると、この任務はまだ失敗していないと言える」
「決まりね、すぐに行きましょう」
彼女の反応は早かった。左手の指をパチンと鳴らし答える。
電話の向こうから、小さな溜息が漏れてきた。
「そういうと思って、もう部隊を編成し向かわせている。幸い、お前は大湖畔にいるのだろう? 途中で乗っていけ」
「流石ね、アリーシャ。アタシが男なら貴女をほっておかないのだけど」
彼女は片目を閉じて、電話の向こうのアリーシャへ話す。
「ふん、褒め言葉と思っておく、……アレタ。お前はこの報告にあがっている怪物種が例の壁画と関係があると思うか?」
アリーシャが声をすぼめながら話し始めた。まるで二人以外の誰にも聞こえないよう、内緒話をするように。
「……無関係とは思えないわ。アタシ達があの壁画を見つけてまだ一ヶ月も経っていない。あの壁画の存在を公開していない限り、この通信内容の耳の化け物というワードを無視すべきではないと思う」
彼女がスラスラとアリーシャの問いかけに答え、そして続ける。
「というかそーゆう事はアタシよりも、ソフィに聞くべきだと思うのだけど」
「ああ、もちろん女史には既に伝えてある。別のサポーターの話によるとこの話をした瞬間、ェン!と奇声をあげて一分間フリーズしていたらしい」
彼女にはその光景が容易に想像出来た。下手したら鼻血を出していたのではないか、とも思った。
「アリーシャ、そう言えば大切なことをまだ聞いてなかったわ。その日本人探索者って誰? 指定探索者ではないの? 上級?」
彼女は自分がずっと気にしていた部分をアリーシャに投げかけた。
自衛軍の装甲車両を走行不能状態にする程の怪物。そんな力を持つ未知の怪物と交戦中であるという日本人探索者に、少し興味が湧いていた。
「いや、その探索者はーー すまない、少し待ってくれ」
アリーシャが途中で言葉を区切った。声が遠くなっているが、電話の向こうで別の誰かと話している?
それは本当か? という別の誰かと話すアリーシャの声を電話がかすかに拾っていた。
「待たせた。新しい情報だ。つい今しがた入った連絡によると緊急通信の確認連絡が自衛軍兵士から入った。なんとその日本人探索者が、未知の怪物種の活動を停止させたらしい。被害状況は、自衛軍兵士二名が殉職。探索者は生き残っている」
彼女は、それを聞いた瞬間自分の首筋が泡立つような奇妙な感覚を覚えた。
「……!! そう。やるわね。その日本人、まさか指定探索者なの?」
日本に指定探索者は少ない。確か四人もいなかったはずだ。彼女は自分が知っている指定探索者の顔を思い浮かべていた。
「いや、彼は指定探索者ではない」
「なら、上級? 銃所持許可者?」
彼女はその形の良い眉を少しひそめた。自然と左手の人差し指が頰に動き、くるくると円をなぞるように動いている。
「驚くべき事に、そのどちらでもない。彼はきわめて……平凡な只の探索者だ」
「冗談でしょ?」
思わずと言った風に彼女の口から言葉が漏れた。
少なくとも軽装甲車両を脅かし、世界でも有数の優秀な日本の常備軍である自衛軍が誇る兵士二名を殉職に追いやる程の力を持つ化け物を、指定探索者でも上級探索者でも、ましてや銃所持許可者でもない、普通の探索者が生き延びるどころか、活動停止にまで追い詰めた?
彼女にはにわかに信じがたい報告だった。
「全て、事実だ。ただ、状況はそれでも予断を許さない。生き残った両名は満身創痍、車両も自走は不可能と来ている。救援は必要だ」
アリーシャが言葉を続ける。
「リハビリ中悪いのだが、指定探索者、アレタ・アシュフィールドへ探索者組合アメリカ支部、および合衆国軍からの正式な指令だ」
「そちらへ急行中の、混合部隊と合流し大森林表層の現場に急行。のちに二名の安全を確保。並行して未知の怪物種の調査を頼む」
「返答は如何に?」
アリーシャが一息で一気に話す。毎度のことながらよく息が続くものだと彼女は感心していた。
そして、ゆっくりと笑う。彼女の顔に挑発的な笑顔が灯る。
「指定探索者、アレタ・アシュフィールド。その指令を受けるわ」
「リハビリには丁度良さそうね」
彼女の顔が徐々に探索者のそれに変わる。瞳が細め、口元を薄く歪めるその笑顔は美しくもあり、禍々しくもあった。
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