毒を以て毒を制する
怪物と闘う者は、その過程で自らが怪物と化さぬよう心せよ
ニーチェ
*心地の良い怒りだ。人間。
耳の化け物がやけにゆっくりとこちらへ駆けてくる。前傾態勢でその大きな耳を突き出すように突進している。風圧で耳がたわんでいる。一つ一つの挙動がゆっくりと全て見える。
スローモーションのように減速していた。時間の流れが遅い。その世界の中で、また頭の中に耳鳴りとともにあの声が響いた。
*存外やるではないか、アレがあそこまで傷ついているのを見るのは久しい。
「まだいたのか、アンタ……」
*お前が我が宝を担う限りはな……、そんなことよりホラ、前を見ろ。あの醜い耳が今度こそ貴様を殺そうと迫っているぞ、どうするんだ? ん?
声が俺をからかうかのようなトーンで響く。こいつは間違いなく、ロクでもない存在だろう。目の前の化け物と同じ、人から離れた理の外にいる存在。
だが、今は使えるものは全て使うべき時だ。たとえそれがよくないものだとしても。
「頼む、力をまた貸してくれ。そろそろアレに付き合うのもうんざりなんだ。」
正直に胸の中を吐露する。この声と俺は今この瞬間、何かで繋がっている。それが感覚でわかる。口を無理やり動かされて、祝詞を唱えた時からその感覚はより強く、確かなものとして俺の中にあった。
*どうした? さっきまでとは違って正直になったな、人間。呪いの高揚感に呑まれたか?
声は俺を見下したように話す。ダメだこれでは。この調子だとこいつは間違いなく俺に力を貸すことはない。ならーー
「時間がない。わざわざ出てきたんだ。力を貸すか、貸さないのか。さっさと決めてくーー、うっ! ぐっ……」
急に喉を、何かに締められている?! 息が出来ない。耳の化け物は相変わらずゆっくり、ゆっくりこちらに迫る。だが、この喉に感じる圧力は違う。その場で首をしめられているようだ。
*口のきき方を知らぬな…… 貴様と私は約定で繋がっている。貴様が翡翠を握っているのなら私の機嫌次第で貴様の命などどうとでもなるのだぞ?
ぞっとするような、声が告げる。こいつも目の前の化け物と大差ない。人を簡単に殺そうとするホラー野郎だ。こいつは殺そうと思えばいつでも俺を殺す事が出来るのだろう。
だが、屈する事は出来ない。まずは目の前の耳と闘わねばならない。
喉に力を込める。息継ぎができない。体内に残った空気を全て声を出すことに費やす。
「…っう、をこ…に」
*どうした? 苦しいか? このままでは耳に殺される前に私に殺されるぞ? それが嫌ならならば服従しろ、人間。約定のもとにその体を明渡せ
少し、声が早口になった。物騒な物言いを無視して、俺は声を紡ぐ。
*っ! 貴様!?
「約じょっおを。ヴっ、ごごにぃ」
この声と俺は今、左手の翡翠を通じて繋がっている。それは線のようであり、面のようであり、点である。
その一種の縁を通じて、この声は俺の口を操ったり、喉を締めたりしているのだろう。ならば
「俺からもおまえに、通じてっ…… いるのだろ?」
ならば、俺がその縁を通じて声に働きかける事も出来るはずだ。やり方はわからない。だからもうここからは気合いだ。あちらからかかる力の圧力に耐える。やつが喉を絞り声を塞ぐのならば無理やりにでも、肺を潰して声を出す。
とにかく抵抗してやる。利用するのはおまえではない、俺だ。
喉にかかる力が緩まる。鼻から思いっきり息を吸い、喉に送る。
「約定を!! ここに!!」
思いっきり叫ぶ。喉にはもうなんの力も感じない。
*貴様……、私の拘束を……無理やり……
「はあっ、はあっ……、ゲホっ。口が悪かったのは謝る。そしてもう一度言う。頼むから力を貸してくれ。あんたにとってもアレは敵なのだろう?」
声が、なにかをいいよどむ。たたみかけるなら今だ。
「あんたの力が必要なんだ。偉大なる腕よ。俺はあんたの肉であり、腱であり、指だ。あんたの代わりにあんたの敵を縊り殺してやる。だから、頼む」
声が黙る。
そしてゆっくり頭に響く。とても先程とは違い、その響きはとても穏やかな物に感じた。
*……いいだろう。人間。私の支配に抗ったのだ。お前に一定の価値を認めてやる。翡翠の一時的な担い手として我が力の深奥を扱う栄光をくれてやる。
*翡翠の使い方を教えてやる。今度は貴様自身の口で紡げ。
頭の中に、声からの指示が届く。まじかよ。
「いや、やってやる。逆にテンション上がってきたぜ。」
今度は俺のつぶやきに声が反応することはなかった。耳の化け物の動きが徐々に元の速度に戻り始めていた。
始めよう。
左手を握ったまま、耳の化け物に向けて突き出す。ゆっくりと息を吸い、それを言葉として吐き出した。
「約定を、ここに。秘された物語を語るは腕の翡翠が担い手」
静かに俺の攻撃が始まった。
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