酔い
ダンジョン酔いをさます方法はいくつかあるが、完全に酔いを抜くためには一度一階層の柱付近か、ダンジョンから地上へ帰還する必要がある。
また酔いの進行を遅らせたり、応急処置として他人からの呼びかけで喜怒哀楽のどれかを引き出す方法や、特定の施設で一定の血を抜く事である程度ダンジョン酔いに対応することが可能だ。
バベルの大穴ガイドより抜粋ー
森の中に、田村の笑い声が響く。いつまで続くのだろう。徐々にその声は大きくなり続けている。
これは良くない。
「田村さん、気をしっかり持って下さい。酔いに任せてはダメです。」
俺は田村から預かったナイフを腰のホルダーに差し込み、笑い続ける田村の肩を掴む。
「はっはっはっ! 済まない! 味山さん、何故か楽しくてしょうがないんだ! 脚も不思議と痛くない。治ったんじゃないのか?」
そう言ってなんと田村は立ち上がろうと体を畳んだ。すぐに俺は立ち上がろうとする田村の体を抑える。
「ダメですって! 治ってなんかいません! 脚をよく見て下さい! 今にも千切れそうなんですよ!」
必死で田村を抑え込むが、それでも少しづつ体が持ち上がる。折れた膝を使わずに残りの腕と脚で体を支えていた。
なんて力だ。酔いによる一時的な身体能力の向上、これもダンジョン酔いの症状だ。
「味山さん、どいてくれ! 俺はあいつらの所へ行かないといけないんだ!」
田村が一際大きな声を上げて、手をめちゃくちゃに振り回す。あいつら……? そうか、そういうことか。
俺は暴れる田村を抑えつつ、その血走った眼の視線を追う。そこには殉職した二人の亡骸が横たわっていた。
「俺のせいで死んだ二人だ! ちくしょう! 絶対に生きて地上に返してやると約束したのに! 俺の、俺のせいで! 俺が、殺したんだ!」
田村は泣いている。泣きながら、必死に体を起こそうともがき続ける。完全に酔いの影響で田村は理性を失っている。感情を抑えきれていない。自分のせいで殺した、この言葉が恐らく田村の本音なのだろう。
先程まで、俺を諭していた人生経験豊富の兵士の姿はそこになく、ただ癇癪を起こした子供のような大人がそこにいた。
ダンジョン酔いはこうして、簡単に人を暴く。嘘を許さず、人の本性を浮き彫りにしていく。矜持も権利もそこにはない。ただそこには剥き出しの感情。狂気のみが現れる。
俺は無意識に唇を噛み締めていた。腹の底から湧き上がる衝動がある。
違う。田村、これは違う。
「田村軍曹!!」
その衝動のまま叫ぶ。これは酔いの勢いではない。
「さっき自分が言った事を思い出して下さい! これが今、あんたに出来る事なんですか!?」
田村の動きが止まった。
「違うだろ! 酔いに負けないで下さい! 今あんたに出来る事はなんなんですか?」
動きを止めた田村に俺は叫び続ける。
「あ、あ、俺は…… 俺は……。」
田村の体から力が抜けていくのが分かる。まだ酔いが脳の全てに回ったわけではなさそうだ。俺は田村に呼びかけ続ける。
「今、田村さんに出来ることはここで安静にして、助けを待つことです。一人一人が出来る事をすればいい。俺にそう言ってくれたのはあなたでしょう?」
田村が、亡骸の方を見つめながら口を開く。
「だが、俺は班長でありながら、班員を助ける事が出来なかった…… 彼らの命を守る事も俺の任務だったのに……。俺は誰も助ける事が出来なかった……」
田村が項垂れてもごもごと話す。声が小さい。先程まで暴れていたとは思えないほどの落差だ。躁鬱に似たこの状態、酔いに蝕まらている。
だが、それは違う。
「違う!! それは間違いです」
俺の叫びに反応した田村がこちらを見上げる。
「田村さん、忘れたんですか? あなたは命をかけて俺を助けてくれたじゃないですか!」
「あ……。」
田村が口を開いて一言零した。
そうだ。あの時、耳の化け物が怯えて動けない俺に迫りきた時、俺に、逃げろと言ってくれたのはこの男だ。あの時もしも、田村が引き金を引かなければ亡骸の数は増えていただろう。
「そのあなたが何も出来なかった、だなんて言うなよ! 助ける事が出来なかったなんて言ってんじゃねえ! 上出来なんじゃないのか? 人が一人の人間の命を救えたんだぞ! 冗談のようだと笑ったのはあんただ! 田村軍曹!!」
思わず、田村にたたみかけるように言葉を投げかける。
視界がぼやける。息切れがする。本気で疲れているようだ。呆然として動かなくなった田村の肩から手を離して、3歩ほど後ずさり、尻餅をついた。
田村がもし、まだ立ち上がろうとするのなら……。拳を強く握った。多少手荒な方法を取ってでもおとなしくさせなければならない。
酔いに飲まれた人間が罪悪感を感じた場合、エスカレートすれば、その結末は容易に自殺に繋がるだろう。
それほどまでに、この現代ダンジョンの中では人間の理性とは薄く、頼りにならないものだ。
探索者の常としてはこの酔いに対抗するために基本的には探索は数人でパーティを組んで行うことが慣例化している。誰かに酔いの兆候が現れた時にすかさず、押さえ込んだり、大声で呼びかけて酔いを覚まさせたりするためだ。
息を整えながら、田村の動向を見つめる。頼む。
田村がゆっくりと大きく、息を吐いた。それから自分の顔に手を当てて、上を仰いだ。
「……済まない、味山さん。冷静ではなかった。」
はっきりとした口調で田村が話す。きちんと呂律も回っている。何よりその白目の充血が少し引いていた。
田村は続ける。
「いや、なんだ……。正直初めての体験だった。こんな風になるんだな…… ダンジョン酔いってやつは」
田村は自分の口を押さえてそれから押し黙る。なんとか酔いが一時的に収まったらしい。
「少し落ち着きましたか?」
息を整えながら田村に問う。田村は小さくうなづいた。
「ああ、不思議な感覚だ。寝不足や二日酔いなんかとも違う。苦しいのだけど、どこか心地よいそんな感じだ。」
田村が呟くように話し、それから目を瞑った。自分を落ち着かせようとしているのだろうか?
「それは一時的に酔いが覚めている感覚です。田村さん、目を瞑らずに辺りの景色を眺めていて下さい。まだ酔いは恐らく抜けていないです。目を瞑ると酔いがまた進みます。」
田村に酔いの進行を遅らせる指示を伝える。田村が素直に目を開いた。
「そうなのか……。これが酔いか。突然頭の中に霧がかかったかのような。まるで別の人間が俺の口を使って喋り初めているかのようだった。その別の人間がいつしか、俺と混ざるんだ……。あれが俺の本音ってやつだったのかね?」
田村が、ははと小さく笑いながらぼやいた。
「すごいな、味山さん。あんた達探索者はこの酔いに耐えながら、仕事をするんだろう? まったく畏れ入るよ……」
田村がこちらを見て、にやりと笑った。だいぶ余裕が戻ったようだ。
「これはたしかにあの事件が起きたのも納得だ……」
田村が巨木を仰ぎながら独り言をぼそり。恐らくバベルの大穴に関わる人間なら誰もがしっているダンジョン酔いが原因で起きた事件について、思い返したのだろう。
「なあ、味山さんあんたはーー」
田村はそこで口を止めた。口があの形をしたまま開いている。その目は飛び出すのではないかと思うほど大きく見開かれていた。
その表情のまま、硬直した。
待て、なんでだ。なんだその顔は。
田村の視線は最初俺を見ているのかと思ったがそうではないみたいだ。
俺の肩越し、俺の背後を見ている。
「あ、あ、あじやまさん…あれ…」
田村が俺の背後を指差す。向かい合っているため田村が指差すものがなんであるのかが俺には分からない。
振り向けば、田村が見ているものが俺にも見えるだろう。
見たくない。だいたい察しがつく。心臓がその予想に反応し、どきりと跳ねた。
「あじやまさん!」
固まる俺にしびれを切らしたように田村が声をあげて、指を振る。
俺の意思とはべつで体が勝手に背後を振り向く。視線から田村が消え、森が広がり、そして、180度その場で振り向けば。
そこには、巨木の杭が二本ある。互いにぶつかり合い、食い合っている巨木。その先端にあの耳の化け物を捉え、挟み、潰したはずの一撃の姿。
いやでも視界に映る。巨木の杭、二本のそれの接合部分から何かが生えている。
大きな、大きな、人のニ対のお耳が巨木の杭の表面を突き破り飛び出ている。それは収穫を待つ作物の葉のようにも見えた。
きっとあの耳を引っこ抜けば出てくるものは野菜ではなく、太り過ぎの幼児のような体だろう。
風が一際大きく吹く。木の葉達が頭上で大きく揺らされ波音にも似た音を俺たちに降らせる。
「ラウンド2は勘弁してくれ……」
俺の願いは叶うことはないだろう。巨木の杭の全体にかけて大きなひびが走るように入った。
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