それは叫びを聞くために
腕(うで、かいな)とは、人間の肩から手までの部分のこと。
人間の腕は医学的には、上肢と呼ばれる事が多い。腕は肘を境に、肩に近い方を上腕、手の方を前腕という。
2018年 wikiより抜粋
リアバンパーを掴まれ、宙に浮いた軽装甲機動車の車輪が虚しく回る。幾ら唸りをあげても地面につくことのないそれらはまったく役に立たない。
俺はその車内から転がり出てその様子を確認すると滑り込むように道路の脇に密集する茂みの中に体を突っ込む。アレはどうやら車内から飛び出た俺に気付いていないようだ。
茂みの中で体制を整えて息を潜める。地上となんら変わらない土と植物の匂いが鼻に入る。
アレは車の速度に追いつき、いつのまにか車両の後ろに回り込んでいた。
(俺の足では逃げれない…)
俺はアレに走って逃げても、車に乗っても結局追いつかれたのだ。その事実が俺の足を止めて無意識に茂みの方へと体を滑り込ませていた。
茂みの隙間から耳の化け物が車を持ち上げているのを覗き見る。
これから非道いことが起きるのだろう。そして、耳の化け物が体を捻る。絞られた雑巾のようにねじれるように体が歪む。もうそれ以上は捻られないだろうところでふとその動きが止まった。
ぶおん。
緊張が一気に解かれ、空気が鈍く裂ける音が聞こえた。ダンボール箱を投げ捨てるような気軽さで自衛軍がまだ乗っている車両が投げ捨てられた。
がちゃん。重くて安い音が響く。俺が身を潜める茂みのすぐ向かいの巨木に車は叩きつけられた。頑丈なはずのボディは歪み、凹み、ひっくり返って地面に落ちている。
俺は動けなかった。その場から逃げたいはずなのに。体に力が入らない。根が生えたように茂みの中で体を固め、眺めるしかなかった。
耳の化け物がひっくり返った車両に近づく。ベトオ、と音が鳴るかのごとくその大きな耳をひっくり返った車両にくっつけた。なすりつけるようにそのまま動き始める。
(探しているのか…?)
聴診器で心音を探る医者のようにじぃと耳を当て続ける。
ある場所で動きが止まる。ソレはひっくり返った運転席のドアの辺りで耳を当てたまま動きを完璧に止めた。
(あの位置は…)
木原が座っていた運転席だ。俺がそう思った瞬間、まるで早送りされたような速さでソレがバッと耳を離し代わりに腕を車のドアにつきさした。
鉄と合金によって作られ、戦場を駆ける事を前提に作られたそのドアは、ギッチュと短い悲鳴のような金属音を奏でながら、ソレに剥ぎ取られた。
ソレが剥ぎ取ったドアの残骸をそのまま後ろへ放り投げる。10秒ほどしたそれか地面に激突した音が聞こえた。
やめろ。
ソレがドアの外れた運転席へ入り込む。大きな耳がつっかえてたたらを踏むも、すぐにそれを折りたたむ。
やめろ。
ソレが運転席から人間を引きずり出した。意識を失っているのか。引きずられた迷彩服の男、木原と呼ばれた運転手は抵抗もせずにソレに引きずられたままだ。
蟹の身をほじくる様子や、サザエの身を掻き出すシーンがなぜか俺の脳裏に流れた。
ソレは手荒にぐったりした木原を地面に引きずりつつ、放り投げた。横に二回転して止まる。その衝撃で意識が戻ったのか。うつ伏せに倒れた木原の腕がピクと動いた。
逃げろ!
その一言が言えない。喉にまでは出かかっているのにそれが言えない。声を出して耳の化け物がこちらに気付いてしまったら? 怖すぎる。
無理だ。
結局、俺はこんな人間だ。
臆病で弱くて自分が一番大事なちっぽけなただの人間。以前から気付いていた自分の器。俺だけじゃないさ。そんなもんだろうと物分かりが良いように取り繕って受け入れたふりをしていた自分の弱さを嫌が応でも実感してしまった。
動けない。俺はその場から動くことは愚か、目の前で危険な状態にある人間に声をかけることすら出来なかった。
愛読している本、漫画。その主人公達ならこんな時どうするか? きっとすぐにでもこの茂みから飛び出して目の前の人間を救うのだろう。化け物と勇敢に闘うのだろう。
俺は、俺はー
無理だ。出来ない。出来るわけがない。
耳の化け物がうつ伏せの木原にゆっくりと近づいていく。心なしか楽しそうに。少しそわそわしながら。
間の悪い事に意識が戻ったらしい。木原は壊れかけのロボットのようなぎこちない動きで首を起こした。
「は…? あ?! ああ!!」
木原がソレを見て声をあげる。驚きとそれに混じるのは間違いなく恐怖。
俺は茂みの隙間からたしかに見た。ソレが木原の短い叫び声を浴びて体を細かく振動させるのを。
ソレが興奮したように、駆け出し一瞬で木原に肉薄した。ソレがうつ伏せで腕で上半身を起こしたまま固まっている木原の地面についている右腕を掴み、思いっきり引っ張る。
それだけで、木原の右肩から先から全てが抜き取られた。四肢の脱着が可能なマネキンのようだった。
叫びが森に木霊していく。遅れて赤い血が噴き出した。
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