耳の魔物
貴方は自分がどういう人間で、どうすべきかわかっているはずだ。
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「いだっ!」
ひっくり返りそうになった体にシートの背もたれが激突する。なんで車を止めたんだ? 俺はシートに体を食い込ませたままルームミラー越しに運転手の顔を睨みつける。
運転手は必死な顔をしてセンターコンソールの部分にある小さなレバーを上げたり、下げたりを繰り返していた。
何をしているんだ?
「木原! なんで止まったんだ?! 」
田村が首を右手で抑えながら運転手に怒鳴る。さっきの急ブレーキで痛めたのだろうか。
「違います! 俺じゃあない! ブレーキなんか踏んでいません!」
今にも泣き出しそうな細く掠れた声で木原と呼ばれた運転手が田村に抗議する。左手はHiとlowと表記されているレバーをガチャガチャと上下に動かし続ける。
ウオオオオン。
エンジンが唸りを上げる。低速のギアが巨大な力を四輪に伝える。本来であればどんな道でも進めるはずの馬力をもつ車両はまったく動かない。
まるで大きな建物にぶつかり、そこから進めないようになっているようだった。
「北嶋! 後ろを確認出来るか?」
田村が糸目の男へ呼びかける。こいつは北嶋というのか。北嶋は膝に挟んでいた銃を手に持つ。安全装置のピンを親指で押し下げ
「北嶋、了解致しました。軍曹、発砲許可は頂けるんで?」
「…危険と判断したならな。発砲を許可する。」
話す二人を捉えた俺の視界の片隅で、北嶋と呼ばれた男の口元がつり上がった。そして、北嶋が立ち上がろうとした瞬間、よろけてシートに尻餅をついた。
どうしたんだ? と思うのも束の間すぐに俺を含めた車内の全員が違和感に気づく。平行だったはずのフロントガラスから風景に傾斜がつき始めている。木の幹に高い位置に備えるはずの青々とした葉っぱたちが見え始めていた。
「木原! 車はどうなっている!」
田村がダッシュボードについている突起を握り体を支えながら叫ぶ。
「軍曹!! 傾斜がついてます! 無理やりケツから持ち上げられている?! 前輪はもう地面についていません」
登り始めたジェットコースターに乗っているようだ。どんどん体が上を向き始める。全員がシートに手を食い込ませたり、車内のどこかしらを掴んで体を安定させようとする。驚愕の叫びとともに。
持ち上げられている? なにに?
「あいつだ…」
俺はゆっくりとしかし確実に上へ流れていくフロントガラスの光景を見て呟く。こんな事が出来るのはあいつしかいない。俺は投げつけられた住居や大岩を思い出す。
麻痺した肋骨に重い違和感が生まれる。
「木原、デフロック!!」
北嶋は片手で銃を持ち、もう一方の手でヘッドレストを握りながら叫ぶ。
叫ばれた木原はあっ!と吠えて、コンソールに手を伸ばす。すぐにほんの少し車が後ろに動き、傾斜が緩んだ。これなら席から立てそうだ。
後輪に集められたエネルギーが必死に地面を掴んで駆動しようとタイヤが回る。もがく生き物のような音をエンジンが響かせた。
だがそれ以上はもう車は動かない。またゆっくりと車が上に傾き始める。叫ぶ叫ぶ。車内に詰められた俺たちは声を上げ続けることしかできない。
また傾斜がつき始め、背もたれに体が埋まり始める。頭に血が上り始めるのがわかる。もう誤魔化しようはない。
アレだ。アレが車を後ろから止めて持ち上げているに違いない。確認したわけでも見たわけでもないが、アレなら造作もなく可能だろう。
ふと左手にあるドアハンドルが視界に映った。次の瞬間体が勝手にそのハンドルに腕を伸ばしていた。
ガチャ。
左手で押し下げると簡単にドアのロックが外れる。やっぱりだ。外の風景は斜めになっている。
「おまえっ!…」
隣のシートベルトをつけたまま体を支えている北嶋が俺がドアを開けた事に気付いて咎めるように短く声を上げた。
探索者と自衛軍の違いは何か? 装備? 質? 違う。個人か組織か、それだけだ。この異常事態においても彼らはどこまでも規律のある組織だった。
班長である田村は最後まで状況を確認しようと周りをまとめ、声を上げる、運転手である木原はもう役に立たないハンドルを右に左に動かし続ける。そして、北嶋も銃からは手を離すことはない。それぞれの組織としての役割を果たそうと必死で行動していた。
彼らを纏める規律が彼らをそこに縛り付けた。それが分岐点だったのだろう。
俺は上に傾き続ける車内からロックの外れたドアを殴るように思い切り開いて足に力を込める。飛び出すようにそこから体を投げ出した。
すぐに地面に体をぶつけるがその勢いこまま転がるように体を起こして立ち上がる。
「ああ、やっぱり。」
出来るよな、それ。あまりにも現実感のない光景にもういちいち驚く元気もなかった。
後ろを振り返った俺の視界にはリアバンパーをその短い二本の腕でがっちりと掴んで持ち上げようとしている耳の化け物がいる。
怪物はやがて、完璧に車両を持ち上げた。この後アレが持ち上げた車をどうするのかという予想が俺には大体ついていた。
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