希望の点り。そして
Pensavi davvero di poter fuggire?
耳の化け物の耳穴よりー
灰の地面と、茶色の地面がグラデーションのように混じるその中間に四角い建物、ベーススポットは存在していた。
豆腐。簡単な構造のその探索者達の休憩所はそう揶揄して呼ばれていた。
俺はドアノブの位置にある電子ロックに端末を取り出し、翳す。
ピッという電子音が鳴り、ノブからがちゃりという音が鳴った。
「よし。」
俺はそのまま室内にはいる。部屋の右隅には一人用のベッドのみが置いてある質素というよりも寂しい内装だ。
簡易なベッドに倒れ込みたい願望を抑えつつ、俺は部屋の壁に備わっている電話に手を伸ばす。
ベーススポット緊急通信。自衛軍の巡回に拾いあげてもらう必要がある。
(アレが俺を諦めていない可能性がある…)
あの圧倒的な死の余韻が脳裏に張り付いている。ベーススポットまで辿り着いたからと言ってなんの油断も出来ない。
俺がその電話機を拾い上げようとした時だった。
ポポポポポ、ポポポポポ、ポポポポポ。
端末がピアノの音によく似た電子音を奏でる。俺は弾かれたように端末を手に取り、画面を見つめ、すぐに電話に応じる。
「もしもし、サポートセンターの菊池ですが」
聞き慣れたその男性の声に俺は力が抜けていくのを感じた。
「ああ、菊池さん、先程はすみませんでした。その、ちょっと緊急事態でして…」
「あ! 良かった。応答頂きありがとうございます! 味山さん、先程は一体なにが?」
俺は彼に掻い摘んで説明する。唐突に現れた見たこともない怪物種と遭遇し、ソレに襲われ死にかけた事や、恐らくはソレの仕業であろうあの音のない世界の事を。
木の根を操る宝石の事は黙っていた、あくまで運良く逃げられたという説明で、彼は納得してくれたようだ。
「なるほど。その味山さんが遭遇した怪物種ですが、申し訳ありません。少なくとも日本支部においては確認されていない種の確率が非常に高いです。私もそのようなものは聞いたことがありません。」
菊池は続ける。
「味山さんの帰還後に詳しくお話しをお伺い出来れば幸いです。新種の可能性が非常に高く、またその危険度も相当のようですね」
「ええ、僕も見た事がなかった怪物だったので…、ぜひ協力させてください。それと菊池さんちょうど良かった、お願いがあるんですが…」
俺はこのサポートセンターの担当に自衛軍の巡回車両の段取りを頼もうとした時、話を遮り、彼が続ける。
「味山さん、つきましては後五分で自衛軍の車両がそちらへ向かいます。すぐに乗車して組合への即時帰還をお願い致します。」
「えっ… なんで?」
予想だにしていなかったその言葉に、俺は咄嗟に敬語を忘れた。
電話口の向こうの相手が続ける。
「申し訳ありません、差しでがましい真似とは重々承知しておりますが、先程の無言のお電話から味山さんの身に何かがあったのではないかと愚考致しまして…、既に味山さんのベーススポットへ救難チームの派遣手続きを済ませていました。」
言葉が喉から出ない。なんでとか、ありがとうとか山ほど言いたい事がこの電話口の向こうの相手にはある。
あっ、えっ、など言葉にならない声だけが漏れ出る。
電話の向こうの相手は何も言わない。俺が話すのをゆっくりと待っていてくれるかのように。
そして自然と俺の口から言葉が生まれた。
「あの、菊池さんって今おいくつなんですか?」
いや、何を言ってるんだ。俺は。でも言葉が止まらない。
「先日38歳になりました。僭越ながら味山さんの9つ上になります。」
「あ、そうなんですね…。あのもし、もしご迷惑でなければ無事生きて帰れたら一緒に酒でも飲みませんか? 探索者街に良い店があるんすよ。」
酒はあれから飲んでいなかった。
「迷惑だなんて、とんでも御座いません、ぜひご一緒させて下さい。その時は私のいけつけご紹介致します。朝まで飲みましょう。」
力強くそして優しい声色が電話の向こうから届く。
「必ず、生きてお帰り下さい。味山さん。探索者組合は貴方の無事を心より願っています。その為なら我々にできることは全てさせて頂きます。」
今度こそ、言葉が出なかった。死の恐怖というとてつもないストレスが一気にほどけていくような感覚。
胸の中に灯った暖かな光。
「ありがとうございます。なんて言うかホントにありがとうございます」
それしか口から出てこない。
「いえ、そんなお礼だなんてよしてください。あなたはなくてはならない探索者です。それにこれは本来なら大変失礼な物言いで、探索者の方に言うべきでないとは承知の上なのですがどうしてもこれだけはお伝えさせて頂きます。」
向こうの相手は強い口調で言い切る。
「個人的にもあなたという人間は得難いお方だと私は感じております。」
「味山さん、本当に無事でよかった。」
鼻の奥がツンと痛んだ。だがその痛みは不快なものではなく俺はそれを受け入れた。
今は声を出せなかった。出したら泣く。それがわかったからだ。
「では味山さん、次は電話ではなく直接お顔を拝見できると信じています。巡回車両はもう間も無く到着するはずです。」
「暖かな光があなたの腕に点りますように。」
電話が切れた。
俺はゆっくり端末をポケットに戻して、その場にしゃがみ込んだ。
脳裏に蘇るは昔の仲間の罵声。自分より若く、強い人間の敵意のこもった見下ろす目付き。そして、ダンジョン酔いに呑まれた自分が執拗なまでに痛ぶった後のこちらを見上げる恐怖に染まり腫れ上がった昔の仲間の顔。
灰色の殺意に、灰色の食欲、そして醜い化け物の恐怖。
その全てのストレスと、先程灯った暖かさが混じり合った結果、気付けば視界が歪み、ぽつぽつと床に何滴かの涙が滴り落ちていた。
良かった。
本当に
本当に。
「いぎででよがった」
鼻の奥はまだツンと痛んでいた。
ピピピピ。
ドアの外から唐突に聞き慣れない電子音が鳴り響く。ベーススポットのチャイムだ。
俺は涙と汗と鼻水でぐちゃぐちゃになった顔を急いで拭い、出口の方へ向かう。
ドアを開けるとそこには、四輪のついた鋼鉄の塊と、迷彩服に身を包んだ屈強な男性が立っていた。
岩のような男だ。身長は恐らく180センチ以上あり、迷彩服の胸辺りははちきれそうなほど盛り上がっている。
「おまたせしました! 自衛軍一階層巡回班の田村です。探索者番号 20177の味山さんでお間違いないですか?」
ディーゼルエンジンの重低音に混じりながら田村と名乗った男がこちらへ話しかける。
「はい、はい! 味山です! 来てくれてありがとうございます!」
思わず頭を下げる。人間の叡智で作られたその鋼の塊。それを見ているだけで俺は勇気が湧いてくるのを感じた。
男は相好を崩しながら、こちらへ手を差し伸べる。
「ご無事でなによりです、サポートセンターからの要請で参りました。新種の怪物種について車内でお話しをお伺いさせて頂いても?」
男が俺をクルマへ促しながら語りかける。
「はい! はい! もうなんでも話します。お願いします。」
こちらの勢いに、苦笑しつつ田村と名乗った男は
「ご協力ありがとうございます、でしたら早速車内の方へ、このまままずは付近の巡回詰所へ向かいます。」
俺はうなづき、田村と共に車内へ近づく。田村が助手席のドアノブを開ける。金庫を開くような重厚な音ともにドアが開く。そのままフラップに足をかけて田村が乗り込んだ。
それを見て俺も後部座席のドアノブに手をかける。
ノブを引っ張る。開いた。
ガチャリー
ならない。無音。
え?
音もなくドアノブは開いた。
ディーゼルエンジンの腹に響くエンジン音はいつしか完全に止んでいた。
ドアを開けたまま固まる俺に、車内にいる自衛軍の人間が声をかける。
不思議な事に何と言っているのかは俺にはわからない。
おい、冗談はやめてくれ。
なんだよ、なんなんだよ。
なんでー
その声はとどかない。呼びかけを無視する俺に後部座席の男は表情を険しくさせながら激しく手招きのジェスチャーを繰り返す。
そしてやがて、目を見開き首をキョロキョロ動かして自分の喉を抑えた。
口を大きく開いたり、閉じたり。
まるで自分の声が出ていない事に気付いたように。
なんで、みんなして口パクなんかしてんだよ。
二度目の消音ボタンが押された。
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