エピローグ4 味山 只人の取得物
……………………
〜人〜
ピチュ、ぴちちちち。
病室のベランダの桟にて鳥が鳴いている。
午前十時にもなると、大分気温は上がってくる。
太陽は遍く全てに熱を与え、暑さを生み出す。
「あっつ」
割り当てられた個室に、男性の声が響いた。
俺の声だ。
まだ、妙にひさしぶりに聞いた感じがする。
薄手の患者衣が汗で肌に張り付く。未だに二週間も眠り続けていたとは思えない。
最後の記憶は、あの"耳"と、"腕"との戦いを終えた直後までしか残っていない。
寝転がったまま、天井の照明を眺める。
「知らない天井だ」
一回、言ってみたかった。
ウィィィン
空調の音が大きくなる。気温に反応して少し部屋を冷たくしてくれるらしい。どうやら全部自動化されているみたいだ。リモコンの類は見当たらない。
「すずし」
すぐに空調の影響が現れる。汗も引いていくだろう。
身体を起こし、ベッドの近くのチェストの上に置かれたコップに水差しの中に入っている液体を注ぐ。
経口補水液を薄めたお世辞にも美味いとは言えない代物。先程俺の容態をチェックしにきた医者から一日、六回以上飲めと言われてしまった。
曰く、二週間ずっと、無針点滴による水分、栄養補給しかしていないために胃がまだ働いていないらしい。飯を食う前にこれで慣らせとの事だ。
まあ、医者が言うんなら飲むけど。
ぬるめの液体をあまり味わう事なく飲み干す。
うお、一気に飲みすぎた。硬くなっている喉の内側を押しのけながら液体を嚥下する。
胃に落ちる液体の感覚が鮮明に分かる。
ああ、本当に俺、生きてるんだな。
目を瞑れば、まるでついさっきの事のように思い出せる。
濃厚な血の匂い。饐えた汗の匂い。心臓や血管が溶けるかと思うようなストレス。魂ごと抜け落ちてしまいそうな激痛。
そしてあの脳を痺れさせる酔いの甘い感覚。異質な力を操る歓び。化け物と渡り合う興奮。
「楽しかった……」
呟きは完全に意識の外からこぼれた。思わず頭を抱える。
アホか、俺は。これじゃあギャンブル中毒と変わらない。行き過ぎたスリルで少しハイになってるのか?
二週間も経っているのに。
ふと、右手を見やる。左手よりも少し色白なその肌。
「マジで、生えてんのな」
親指、人差し指、中指と順に手折る。残りの指も何不自由なく動く。
肘を曲げたり、伸ばしたり。なんの変わりもない。
右手のひらで抉られた脇腹や、横腹をさする。ささくれ立った手のひらの皮膚がサラサラした患者衣の上を滑った。
感触問題なし。横腹、脇腹、ついでに肋骨。なんも問題ない。
ベッドの脇に置いてある端末を開き、カメラアプリを呼び起こす。自撮りモードにすると、眠たそうな顔をした男の顔。
いっ。と口を開くと、歯が綺麗に生え揃っている。一本も欠けることなく。
「わからんなぁ」
元どおりだ。あの戦いで負傷した傷、失ったものは全て元どおりになっている。
ヤツに抉られた腹。もぎ取られ、斬り飛ばした腕。砕かれた前歯。
まだ俺が起きている間にメディカルチェックは受けていないが、特に医者に何も言われなかったところを考えると、搬送された段階でのチェックだと異常はなかったのだろう。
「夢、のわけがないよな」
独り言が、病室の壁に染みる。
看護師が言っていた。確か一階層、大湖畔に生息するカニによく似た怪物種の甲殻を混ぜ込んで作ったこの建材は防音性が高い。外からも内からも音を吸収するそうだ。
聞こえてくるのは、窓ガラスの向こうの鳥の鳴き声と、エアコンの稼働する音だけ。おそらく外は本格的な暑さになりつつあるのだろう。
うーん、まずい。もう一杯。水差しからコップへ液体を入れる。透明なガラスの中で液体が渦を巻き、蛍光灯の光に透けていた。
それを一気に飲む。乾いた身体に、澄み渡って行く。
ゴクリと鳴る喉の感触、乾きが潤う。
うん、生きている。間違いなく俺は生きていた。
「俺、すげえ」
あの恐ろしい化け物を相手に生き残る事が出来た。殺しきる事は出来なかったが、俺が殺される事もなかった。
今更ながら、実感が湧く。
やったぜ。
何処と無く満ち足りた気分で、身体を倒す。仰向けになったまま、目を瞑ろうとした。
その時。
ピチ! ぴちゅちゅちゅちゅちゅ!
窓の外、ベランダで戯れていた小鳥達が一斉に鳴き声をあげながら飛び立っていく。
なんだ、いきなり? なんかでかい鳥でも居たのか?
まるで、ここはヤバイ! って叫びながら飛んで行ったような……
ベッドから起き上がり、スリッパを履く。割と広い病室、窓ガラスの向こう側のベランダを除く。
薄いレースを広げて、外を確認すると特に何も変わったものはない。
この医療施設は五階建、そしてこの病室は五階、最上階に位置している。
街並みを一望できる。
何処と無くデタラメな時代劇のセットのような街並みが並ぶ。どんな奴がこの町を作ったんだろう?こうして眺めて改めてそう思った。
だが、それだけだ。ほかに異常は何もない。
「なんだ?」
鳥たちの突然の行動に、少し嫌な予感を感じた。
いやいやいや、ないないない。ここは表層だ。しばらく危機的な状況が続きすぎたから神経質になってんな。
「……寝るか」
まだ、眠い。組合が指名した医者が言うにはしばらくは安静にしとけって事だし、それはつまり組合からの指示でもあるのだろう。
休める時には休ませてもらおう。
そのままレースを締めて、振り返る。ベッドに身体を投げ打った。こんな雑な動きをしてもどこも痛まない。
俺は、目を瞑る。すぐに頭の周りにまとわりつくような眠気を感じた。
まぶたが重い。とろけるような眠気そのままにまぶたを閉じてようとーー
€耳を澄ませ€
「は?」
ギしり、ベッドのスプリングが軋む。飛び起きたおれの体はベッドに負荷を掛けた。
なんだ、今の?
辺りを見回す。何も、誰もいない。
耳元で囁かれたような声。おれの頭蓋骨の中だけで鳴り響くかのような。
奇妙な声が聞こえた。この感覚、まさか……
「……いるのか?」
自分の胸に手を当てる。薄い患者衣の向こうからどくん、どくんと鼓動の感覚を手のひらに感じた。
「うっ」
きぃぃん。薄い耳鳴り。異変。
こ、れは。
ゴオオオオオオオオ!
ーーれだとーーおもーるの
ーーレターード
「うるさ!」
急に、エアコンの稼働音が大きくなった。反射的に両耳を塞ぐ。
どうした? 壊れたか?
爆発するのではないかとばかりの轟音。そして、何かそれに混じって他の音も聞こえた。
これは、
「人の声?」
コオオオオオオ
こおおおおおお
あれ、エアコンの音が小さくなった? 風船が萎むように一気に音が小さくなる。なんだったんだ? 一体。
塞いだ耳を触る。おかしなところはない。
'首を洗って待ってやがれ、です。只人さんに宜しく'
「あ?」
声だ。今絶対に声が聞こえた。扉の向こうから女の声がした。
いや、ていうか。
「貴崎?」
その声に俺は聞き覚えがあった。貴崎 鈴、ついこの間まで俺と班を組んでいた学生の推薦組探索者。
あの気弱そうに見えて、芯の強い子の声だ。だが少し声色が硬い。怒っている?
何かおかしい。この部屋はダンジョン由来の素材で出来た防音の部屋の筈だ。昨日ここに移送されたばかりだが、外の音が聞こえたことなどなかった……。
そして、先程頭の中で響いた。男、青年と老人の声が混じったような低い声。
あの化け物。流暢に話し出した"耳"の声にそっくりだ。
「あのやろう……」
耳が、熱い。今更そのことに気付く。
元どおりに再生した身体。熱い耳に、幻聴。
嫌な予感がした。
俺は、身体を起こして扉に近付く。気配、あらゆるもので感じるそれを、耳が感じ取る。
扉の前に誰かがいる。
耳に意識を向けると、その誰かの息遣いが聞こえて来た。
すぅー、すぅー。と一定のリズムで聞こえるその呼吸音、深呼吸? 何かに緊張している?
思考が流れる。
いや待て、息遣い?
なんで、そんなもんが聞こえーー
自らの異常に疑問を感じたその時。
ポロン、ポロン。
ピアノを鳴らしたかのような電子音が部屋に響く。天井のスピーカーからだ。
ノッキングインターホン。
2024年辺りから流行り出したノックと連動して鳴る、新しい形式のインターホン。
金掛けてんな、この建物。
ドアが向こうからノックされている。びくりと身体が硬直した。
同時に、耳の熱さは消え、扉の向こうの気配も分からなくなってしまった。
ポロン、ポロン
誰だ? あの声、貴崎か?
「会いづら」
つぶやきながら、ドアノブに手をかけた。
ノブを回し、ドアを開いた。そこにいたのは……
「あっ ……! ハァイ、タダヒト。久しぶり」
金を糸にしたかのような輝く髪の毛。南国の海と空を閉じ込めたような碧い瞳。
「あ、アシュフィールド?」
52番目の星、指定探索者、俺を救けたあの輝き。
アレタ・アシュフィールドが、そこにいた。
な、なんで?
最後まで読んで頂きありがとうございます!