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新たなる約定、"耳"

 


 喉にかかる圧力が、急に消える。


「がっ、ゲホっ、ゲっゲほっ」



「はっ、はっ、はあーっ、ふうー、ふぅーっ」


 息が出来る、命をかき集めるように喉に左手を当てて思い切り、吸って、吐く。



「なっ、げほっ、げほっげほっ、げほっ」



 言葉を出そうとして、また噎せる。


 何が、何が起きているんだ。


 暗くなった視界が徐々に正常に戻りつつある。目の端に浮かんだ涙により、視界が万華鏡を覗いてるかのように定まらない。



 その朧気な視界でも、わかった。


 何かが、俺を見下ろすように立っている。


 なんだ…… 何が起こっている……?



 "腕"はなぜ俺の首を絞めるのをやめたんだ?


 脳に酸素が届き始める。強張った身体から、筋肉痛のような痛みを感じる。首を突っ張っていた為に、寝違えたような痛みさえある。



 ぼろぼろだな。でも、何故か俺はまだ生きている。



「な…… あ……」


 そして、視界が戻る。まだ完全にクリアではない。


 しかし、辺りの様子はわかるほどに。



 なんで、なんで、なんで。



 なんで。



「€やあ、久しぶり€」



 俺を見下ろすようにヤツは立ち尽くしていた。


 人間、人間の身体。身長は高い。見上げている為わかりにくいが、もしかしたら二メートルはあるんじゃ……


 長い脚。きちんと二本。衣服をつけていない股座には生殖器の類はない。太ももにはっきりと筋肉の陰影が浮き、血管が蛇のようにそれにまとわりつく。


 腹。腹筋は八つに割れている。金属鋼板をそのまま腹に仕込んでいるのではないか。あの腹筋を貫けるものなどこの世にあるのだらうか?


 雄々しさを象徴する爆弾のように膨らんだ大胸筋。それが、てらりと光を受けて輝いた。


 丸い肩から伸びるのは、名刀のような印象を受ける長い腕。すらりと伸びる腕に一切の無駄なく付いている筋肉。幾重にも絡んだその陰影。



 黄金の肉体。神話の彫刻かと見紛うその体躯。生命力以上に、神々しささえ感じる。


 神ーー



 いや、違う。コレは、コイツは。





 神ではない。




 その神話の彫刻が如く肉体の上。血管がうっすらと浮く首の上にあるもの。


 卵型の頭。



 それだけ見れば、完成され過ぎた神の如き人間の容姿かと見紛う。これでその卵型の頭にきちんと目と鼻と口がついていれば、俺は神話から抜け出してきた英雄だと本気で信じた

 だろう。



 目と鼻と口がついていれば。


 目と鼻と口はない。


 卵型の頭には、"耳"が張り付いていた。


 威嚇するような大耳ではなく、頭には貼り付けたようにびたりと"耳"が張り付く。


 その耳穴が、暗い昏い耳穴が、ほんの少しだけ目のようにも見えた。



 神ではない。




 "耳"だ。




 見間違うはずもない。


 忘れるはずもない。



 今日の俺の大敵。滅ぼしたはずの悪夢。


 恐ろしい怪物。





 耳が、まだ生きている。


 しかも事もあろうに、言葉を操っていた。






 ヤツは、まだ死んでなどいなかった。



「な、な、なん……で」



 ぱくり、ぱくりと口だけが空回りする。言葉がうまく紡げない。



「€ああ、その顔が見たかった。お互い生きていて、何よりだ€」


 その、頭に張り付いた耳穴が此方を見下ろす。力の抜けた身体が震え始める。


 死を間近に迎えていた俺の身体は、こう判断したのだ。



 コレは、死よりも恐ろしい。



「€だが再会を祝う前に一つ仕事が残っている。この無粋者を追い払わなければならないのだ、少し待っていてくれ。ああ、楽にしてくれていて構わないよ€」



 言葉が出せない。その代わりにヤツをよく見る。


 焼きつけるように、俺はヤツを見つめる。



 あ。


 ヤツはその左手に、血まみれの右腕を掴んでいた。


 なぜ、何故ヤツが……



 きぃんと頭が痛む。



 *何故だ!*


 頭に響く、ざらつくような女の声。"腕"の声だ。




 *何故! 貴様が人間を庇う! 人間を助ける! 貴様のような役割を忘れた獣が!*


 耳に掴まれた右腕が、ビチビチと暴れる。正気を失った凶暴な魚のやうだ。



「€何故……か。 "腕"、お前はそんな事も分からなくなったのか? 私が箱庭に酔っている間、お前は何も変わらなかったのだな€」


 

「€哀れだな€」



 小さく、耳が呟く。老人のような青年のようなその全てが混じり合った低い男の声。


 その声色に、俺は一抹の寂しさのようなものを感じた。


 *貴様、貴様なぞがこの私を哀れむなぁああああ!*



「€哀れみもするさ。風情と罵る人間を恐れ、剰えその人間に敗れた後もこうして醜くわめきつづける、お前が分からないのなら教えてやろう€」






「€私が彼を助けるのは、お前が嫌いだからだよ、何一つお前の思い通りになどさせたくないからだ€」



「€弱く、憐れな、"腕"の亡霊よ€」



 *ふ、ふざけるなああああああああ*


 暴風のように"腕"の声が、頭には響く。なんて声だ。情動をそのままに叫ぶその金切り声。まるで、ヒスを起こした人間のような。


 腕が、その尖った爪を耳に向けた。



 その瞬間、



 ばちゅり。


 水風船を握りつぶすような音がした。


 パっと、俺の顔に暖かい湯のような飛沫がかかる。鉄錆、生臭い。


 血だ。



 "耳"が"腕"を握り潰した。


「€今は、お前に興味はない。お前の叫びなぞいつでも聴けるのだから。生まれた所に、お前のいるべき所に還るといい€」



 *あ、ぎ、あ*



「€いずれまた、今度はその魂ごと殺しに行ってやる。楽しみに待っていろ。其より分かたれし部位の同胞よ€」



 きぃん、と頭の中に響く耳鳴りが消えた。


 もう、"腕"の声は聞こえない。


 見間違いだろうか。恐怖と酔いと混乱が見せた幻覚か?

 耳の手、握り潰された右腕から、黒い靄が溢れてくる。それは火葬場の煙突から伸びる煙のように出てきて、やがて地面に吸い込まれるように消えて行った。




 "耳"が"腕"を殺した。





「€さて、邪魔者は消えた。待たせたね。勝利者よ€」


 耳が、此方を見下ろす。終わった。もう、俺には何も出来る事はない。



 本当に? 嫌、そんなわけがない。出来る事がないなんて嘘だ。そんなもん言い訳だ。


 俺が、やらないと。ダメなんだ。



「ふ……ふっ。ふっ。待ってねえよ。クソが。獲物の横取りしやがって…… いいぜ、かかってこい。最終ラウンドだ」


 震える左手を必死にヤツに伸ばす。立ち上がる事は出来そうにない。体を少し動かしただけで、腹から、肘から血が漏れる。


 それでも、最期まで、最期まで。


 アシュフィールドが目を覚ますかも知れない。救援がもうすぐ来るかもしれない。そのありもしない可能性を、限りなくゼロに近い可能性を捨てる事など出来なかった。



「来い、決着をつけよう。耳の化け物」


 伸ばした左手、指を立てて、くい、くいと動かす。


 来い、俺に来い。思い切り叫んでやる。お前が耳を離せなくなるほどの大絶叫だ。




 あのすやすやと寝ている英雄。


 52番目の星、アレタ・アシュフィールドさえ生き残れば俺の勝ちだ。


 俺は、死ぬ。彼女が生き残る。


 そして、俺は勝つ。




「お前が地獄に来るのを楽しみに待っているぞ! 安心しろ! 道案内ぐらいはしてやるからよおお!」




 さあ、来い!! 耳!
















 ……………まだ?



 それとももう死んだのか?


 いや、でも何も変わっていない。耳は此方を見下ろしたまま動いていない。


 なんだ? 一体?



「€……ああ、君はどうやら勘違いをしているようだね。安心したまえ、勝利者よ。君は生き延びる事に成功したのだ€」



「は……?」



 なんだ、コイツは、何を言っているんだ?


 耳が、ゆっくり一歩こちらに近付く。目の前で存在感が膨れる。人間大のサイズなのにダンプカーが近付いてきたような威圧。


 耳が俺の側にゆっくりと、手に掴んでいた"腕"の死体、いや俺の右手を置いた。


「€これは君に返すよ。すまなかったね€」



 は……? なんだ、何が起こっている?



「€驚くのも無理はない。今日、私と君はあれほどまで苛烈に殺し合った。君にとって私は殺さなければならない大敵であったし、私にとっても君は予想外にしぶとい獲物だった€」


「€私は本気で君の断末魔を聞きたかった、その腕、その足、その首。臓物を引き出し生きる事を後悔させるほどの恐怖の中、君を殺したかった€」




「€君の目の前で殺したあの二人のようにね€」



 背筋が泡立つ、流暢に話すコイツの最後の言葉、その声が。その声は……!



「木原と、北嶋……」


 殺された二人の声で、ヤツが話している……! 俺の目の前でコイツに殺された二人の自衛軍の声が混じり合う。


「€ああ、そんな名前だったのか。ふむ、木原と北嶋ね。覚えたよ。この声はそういう名前なのだね€」


 ヤツがそのしなやかな指で自らの顔、いや頭に張り付く耳を撫でる。


 舌なめずりのようにも見えるその仕草。


 おぞましい。



「€だが、君はあの二人とは違い、生き延びたのだ。本気で殺そうとしたこの"耳"から時には逃げ、時には隠れ、そして遂に対等に闘ったのだ€」



「€なんの特別も資格も力も運命も宿命もない。只の人間が生き延びた。運と勇気と狂気のみを味方として、君は生き延びたのだ€」



「€賞賛に値するよ、勝利者€」


 "耳"がこちらを見下ろしながらパチパチと拍手をする。乾いた音が、大草原に聞こえる。



 わけがわからない、なんだこの状況は?



「お。お前は一体何がしたいんだ?」


 わからない、本当にコイツの狙いが分からない。不気味だ。何を考えているというんだ?



「€単純な話だ。私は報酬の話がしたいのだ。勝利者へ与えられるものについてね€」



「な、に?」


「€自分の身体の状態が分からぬ君ではあるまい。君はもう、間も無く死ぬ€」



 ……………ふん。




「そう、だろうな。で、それが?」


「€君は勝利者なのだ。"耳"と"腕"、両者と争い生き残った勝利者に与えられるものが、死というつまらないものであっていいはずがないだろう?€」


「誰のせいで死にかけていると思ってんだ?」



「€私と"腕"だな。謝りはしない。私達はそういう関係なのだからね€」



 耳は満足そうにゆっくりと話す。


 これが、あの"耳"だと? 流暢に話すコイツは今までの音声を再生した化け物と同じ存在には思えない。


 コイツに何があった?


 思考を巡らせようとすると頭に靄が、かかる。また、眠たくなって、来た。くそ、まだだ。もう少し、もう少しだけ……



「€ああ、いい音だ。消えかけの心音、流れ出る血。浅くなる呼吸。心地の良い死の音色€」


「€だが私が聞きたいのはこの音ではない。君から聞きたいのは叫びだ。むせ返るような生の中でのみ聞く事のできる苦悶の叫びこそが聞きたい€」



「€だからこそ、君はここで死ぬべきではない。君を死なせない€」




「€君の勝利の報酬は、君の探索の取得物は命だ。君に命をあげよう€」




「€さあ、約定の時だ€」






最後まで読んで頂きありがとうございます!

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