穴の底は深く、探索者未だ帰還せず
ぐ、くそ。何だ? 何かが近づいてくる!
辺りの地面が鉄臭い。濃厚な血の香りに酔いそうになる。これは、俺の血?
くらりと意識が、消えそうになる。眠気にも似たそれに負ければもう二度と起きる事が出来ないのではないかと心配になった。
消えそうな意識を、身体を動かす事で無理やりに保たす。
がさ、がざざがささささ!
草花を掻き分け、這い回るような音が一際大きくなる。その音はどんどん大きくなっていく。
ダメだ、確実に、こっちへ来てる!
「だ、誰だ!」
観念して、うつ伏せの態勢から背後を確認するために身体を捻り、尻餅をついて後ずさるするような態勢に、
「な…に」
絶句。背後に在るのは、理から外れた光景。
ず、り、ずり、ずり。
肌を地面に擦り付けながら、血に染まりながら、草花を押しのけ、五本の指を地面に突き立てながら、それは俺に近付いて来ていた。
ちぎれ飛んだ、右"腕"。その手首だけが動いている。
じっくり、たしかに。生けるものに嫉妬する死者が墓場からはい出すかのように。
じっくり、確実に俺へ、迫る。
「ぐ、て、てめえ。やけに、今回はしぶといじゃねえか」
声が、少し裏返る。悲鳴をあげなかっただけ褒めて欲しいくらいだ。
ヤツの声は響かない。ただ、俺の右腕、ヤツに奪われた俺の右腕だけがこちらへ迫ってくる。
血まみれのソレはもう既に、もともと俺のものであったとは思えないような感覚。
人体の一部だけが、ひとりでに動くその光景に、本能的な部分が蒼ざめていく。
こんなの、普通じゃあ、ない。
「おい、おい、おい! お前、しつこいぞ! 決着はついただろうが! 少しは美しく去ろうとか思わないのかよ!」
側から見たら滑稽だろうな。尻餅ついて後ずさりしながら、這い寄る自分の右腕に向かって怒鳴るなんざ。
右腕は何も応えない。ただ、ただ俺の元へ近づいてくる。
異様に伸びた爪と指で地面を突き刺さしながら、その軌跡は赤いラインとなって、大草原を汚していく。
俺は、また後ずさろうとして動きを止めた。ダメだ。これ以上動けば、アシュフィールドに近付き過ぎる。
此の期に及んでヤツに何かができるとは思えない。だが、ダメだ。追い詰められた化け物は何をするかわからない。
「おい、だんまりか? え? そっちの方がいいぜ。お前、話せば話すほどボロが出るんだからよぉー。そのズタボロの姿の方が余程、サマになってんぜ」
ず、り、ずり、ずり。
"腕"は何も応えない。ヤツが挑発に乗ってこない。なんだ? 一体ヤツは何をしようとしている?
まさか、俺に右腕を返すつもりになったわけではないだろう。ダメだ、あり得ない。
ヤツを近づけてはならない。心臓が嫌な鼓動を奏でる。だめだ、なんとなく、なんとなく、すごく、ダメだ!
「く、樹心、限界! ヤツを串刺しにしろ!」
左手に力を込める。すぐに違和感に気付いた。
違う、さっきとまるで違う。
「な、い」
言葉が、漏れる。そのままだ。あるはずのものが、ない。
何も応えない、帰ってこない。俺の身体の中に、あの力の感覚が、ない。
いや、ダメだダメだ! 今使えなかったらなんの意味がある!
「来い、来い、来い来い来い!」
僅かな種火を起こすように、全身の意識を左手に傾ける。
すると、身体の奥底。底の底に、僅かに揺らめく小さな暖かさを見つける。
これだ。良かった、まだ力はある。
しかし、それは吹けばすぐに消える消えかけの火のように弱い。
世界に干渉するほどの力は残っていない。
……"腕"を殺したからか!
拝領したとは言え、元はヤツの力をだ。奪いとったそれは無限のものではなかったのか!?
なんで、こんな単純な事に気付かなかったんだ! だから、俺は凡人なんだ! クソ。
酔いが、薄くなりつつある。身体中に違和感、電気、痺れのようなものが徐々に輪郭を取り戻しつつあった。
霧に隠していた大事なものが、晴れるような感覚。
夢が終わる、酔いが作り出した奇跡はもう、間も無く、終わる。
「はあ、はあ、はあ、はあ、はあっ」
呼吸が苦しい。身体の至るところから穴が空いたエアマットから空気が抜けるかの如く、力が抜けて行く。
右肘の断面から、再び血が漏れ始める。傷口を見たらダメだ。助からないという事を認めてしまいそうになる。
ふー、ふー。
鼻から抜ける呼吸を必死に整える。冷静になればなろうとするほど、呼気は乱れ、頭は落ち着きを失くしていく。
身体が、鉛のように重い。身体中を流れる血液すら重たい。流れ落ちてだいぶ少なく、なっているはずなのに。
何故か、妙に、眠たい。どうしようもない、眠気。
やばいのに、怖いのに、それどころじゃないのにとてつもなく眠たい。
ふ、ふふふ。パトラッシュと、あの男の子、えーと誰だ、名前が思い出せない。フランダース? いや、それは地名だし、えーと。
ダメだ、わからん。まあ、絵画の前で眠るように死んだ彼らもこんな気分だったのだろう。
残念ながら、俺の迎えは天使出ないことだけは確かだが。
酔いの助けがない俺など所詮、この程度だ。
異質な力も、酔いも既に俺の手札から消え、残るのは、もう味山 只人という一人の人間そのものが持っているモノだけ。
あまりにもちっぽけなその手札では、目の前でこちらへ這い寄る、ズタボロの右腕一つでさえ、脅威だった。
そして、その時が訪れる。
前方、眼前、距離一メートル。
這い寄る、右腕が、跳んだ。
避けない、と。意識だけが、動く。身体は動かない。
あ、思い出した。
「ネロだっーー オヴぇ!」
腹、みぞおち、星、潰れーー?
みぞおちに、衝撃、それから突き抜けるような痛み。みしぃと、身体中の骨が軋んだ。中身を絞られた歯磨きチューブのように身体がくの字に沈む。
無様に脚が跳ねて、地面をたたいた。
右腕が、跳ねて、おれの鳩尾にこぶしを……!
明滅する視界、すぐに鳩尾を確認する。穴は開いていないやうだっーー?!
「ぎゃ、がっ!……」
喉が、首が飛んだかと思った。
悲鳴が、空気となって喉から逃げる。
鳩尾にめり込んだ右腕が瞬時に駆け上るかの如く、喉を、首を捉えた。
勢いで、首ごと身体を押し倒される。後頭部をごつんと地面に叩きつけられる。
首、絞められてっーー
いや、これ、まずっ。ほんとに、やばーー
「ァっ、げっ、や、べ」
話せない。言葉を絞ろうとすると、絞められた喉で止まり、それは言葉にならない。
"腕"の声は頭に響かない。ただ、ただわかるのは圧倒的な殺意。歪な指がおれの首の皮膚を捉え、筋肉を、締め付ける。
左手で、俺の首を掴む右腕を必死にひっぺがそうとする。死を間近に、リミットを外された左手が、右腕の甲を掴む。左手の爪が甲を引っ掻き、皮膚を剥ぐ。
それでも、俺を絞殺せんと首を掴む右腕の力は一向に衰えない。
やがて、左手を動かしている感覚が消えた。
やばい。
息が、出来ない。顔の中身が破裂しそうだ。
死ぬ?
あ、これ死ぬわ。
走馬灯なんか流れない。
意識も決意も、消えていく。俺の口から漏れ出る声にならない悲鳴が遠雷のように遠くから聴こえてくる。
ばたばたともがく、両脚。ばたばた、ばたはだ、何の意味もない。生きたまま、肉食獣に食われる獲物のように、ただ虚しく、ばたばた、ばた、ばた。
「にぃ、げ、オっ! アっしゅっーー! ゲーー」
最後に漏れた声すら、言い切ることはできない。
俺の首を捉えるその力が、グンと増した。
視界が、紅い。赤すぎてなんも見えなくなる。
死ーーーーぬ。
視界の端から、火が燃え広がるように、黒く染まって行く。
扼殺、かよ。
き、ぃぃいいあああうあいあああえああああ。
暗くなる視界の中、か細い金切り声が響いた。
しね
短い一言。ああ、俺はコイツに殺されるんだ。
ち、くしょう。
悪い。アシュフィールド、約束、守れなかった…
俺が、消える。
消えて、いなくなる。ここで、全てが終わる。
あーーーーー。
「€駄目だ。君の最期は今ではない€」
「€今日死ぬべきは、滅ぶべきは君ではない€」
ーーあ?
誰だ?
くらい視界の中、空気に満ちるような声が聞こえた。
この声を、俺は知っている。
「€懐かしき同胞よ、"腕"よ€」
「€彼を殺すのは、お前ではない€」
「€今日、彼と闘い続けたのはお前ではない€」
「€彼は、この"耳"の獲物なのだ€」
最後まで読んで頂きありがとうございます!