凡人ソロ探索者は現代ダンジョンに酔いながら恐ろしい怪物に立ち向かうようです 4
"耳"ははじめに其から別たれた。他の部位よりも其や光に興味がなかったソレはいち早く自らの役割を放棄した。
"腕"は"耳"とは正反対。いつまでもいつまでも、光に切り離された後も其から離れようとしなかった。やがて"腕"は箱庭のより深い闇に囚われた。気まぐれに深い闇を訪れた"耳"に"腕"は敗れた。
一ヶ月前、合衆国の指定探索者チームにより発見された壁画の未解読文字の内容よりーー
…………….…
……………
…………
〜人〜
風向きが変わっていた。真正面から吹き付ける風が俺の眼球の表面を乾かしていく。
しぱしぱと瞬きしてそのまま、立ち尽くしたまま目を瞑った。
今日も一日、生き延びる事が出来た。
俺はまだ死んでいなかった。それで充分だ。
いつのまにかあれほどまでに苦しかった呼吸は軽くなり、握り潰されるように痛んでいた心臓は解放されていた。
息を、吸ってそれから、吐く。
吐く呼吸がとても冷たく感じる。気道を通る呼気が身体をゆっくり冷やしていく。
ただ、それが心地よい。酔いが一旦の踊り場を迎える。探索を開始してからもうかなり時間が経つ。
生き残れたんだ。なら、後は早く帰らなければならない。
必要以上の酔いは身体と心を蝕む。酔いがぶり返すまえに脱出しないと……
眉間を人差し指と親指で揉む。グリグリとした圧力が心地よい。
「どうしたの? 疲れ切っちゃった? タダヒト」
からりと鳴るアシュフィールドの声。俺は目を開いて彼女の方を見やる。
乾いた血が粉となって混じる肩まで伸ばされた金髪、ぱちりと瞬く大きな蒼い瞳。卵型の小さな顔、どきりとするような整った顔立ち。
しなやかな長駆を包む迷彩服は所々が返り血で赤黒く染まり、あらゆる所が鋭利な刃物で切り裂かれたように裂けている。
うわ、へその近くなんて肌が見えそうだ。アンダーシャツごとぱっくり行っている。
俺は見てはいけないものを見てしまった気がして彼女の斜めを見るように視線を逸らし答える。
「ああ、もう無理。何も出来ない……ません」
「ふふ、お疲れ様。よく頑張ったわね」
彼女が柔らかく微笑む。うお、と声が漏れそうになるのを押さえ込んだ。白人の美人がこんな風に笑うと、こうなんのか。聖母……?
俺がたじろぎ、返答に詰まっていると彼女が笑いを解き、ふっと、こちらに近付いて来た。
虎に音もなく真正面から近づかれたような感覚に、少しだけ背筋が泡立つ。
酔いにより鋭くなった五感と、"腕"と繋がった俺の何かが囁く。
コレには、勝てない。
圧倒的な自分との差。同じ人間なはずなのに違う。
これが、英雄。その歩き方一つとっても何もかもが俺とは違う。
「なんか、へんな事考えてない? ていうかタダヒト。そのケイゴやめてよね」
俺より頭一つ高い彼女が腰に手を当て、こちらをじとっとした目つきで見つめる。ぱちりと大きな瞳から目が離せなくなる。
「気のせいでーー、だ。了解、分かった。アンタが敬語嫌なんならやめるよ」
「アンタ?」
「貴女、貴女だ。間違えた、悪かったよ」
「違うわ」
彼女の瞳が薄く、細められる。ライオンが眠たそうにしているようなそんな目つき。
「えっと……」
「言ったでしょ、タダヒト。何度も同じ事を言わせないでほしいのだわ」
ぐいと彼女が俺に顔を近付ける。血の匂いに混じりふわりと良い香りがする。甘い、それでいて薄いこのにおいは、花?
「名前で呼びなさい。アタシの名前、知っているのでしょう?」
彼女が首を右に傾げる。怜悧な目つきと相反する仕草に少し心臓が跳ねた。
名前、ああ。知っている。最初から知ってたよ。
「了解、アシュフィールド」
努めて余裕な笑顔を作る。こえはなるべく平坦に。高揚してることが少しでも彼女に伝わらないように。
恥ずかしいからな。
「ふうん…… まあいいわ。今はそれで許してあげる、タダヒト」
彼女が俺から一歩離れる。甘い花の匂いが引いていく。
「あ……」
「どうしたの?」
「いや、アシュフィールドの匂いがーー」
あ、やべ。
「へ?」
彼女の表情が固まった。初めて見る表情だ。あの余裕そうな顔でも、酔いに染まった狂気的な顔でもない。
年相応の少女と女性の中間、どちらかといえば限りなく女性に近い、そんな普通の女の子が驚いた顔。
「アタシの……匂い?」
ポツリと呟く彼女の顔、白い肌が頰以外も少しだけ朱が混じっているようなーー
て、違う違う違う。見惚れてる場合か。
「違う、待ってくれ、アシュフィールド。今のはナシだ。忘れてくれ」
焦っている事がバレないように、なるべく平坦なこえで語りかける。
彼女は、かおを伏せる。癖が混じる黄金の髪がポヨンと垂れてその表情を隠していた。
「……のかしら」
「え?」
モゴモゴと呟くその声がよく聞こえない。流石にまずい。セクハラ、いや、探索中の指定探索者への悪意ある失言、罰則すら……
酔いとは別に、頭から温度が消えていく。血の気が失せる。
彼女の言葉をまつ。予想されうる叱責、怒号。何て返せばいい? 考えろ、考えるんだ。諦めるな、俺。
頭の中で、様々なシュミレーションを行う。ダメだ、なんも思いつかない。本格的に頭を抱えたくなり始めたその時
「……かった?」
また彼女が呟く。ダメだ、声が小さい。聞き取れない。
「……すまん、もう一度頼む。聞こえないんだ」
「っ! だから!」
彼女が一気に顔を上げる。金髪が振り上がり露わになる表情。下唇を噛み、蒼い瞳は少し、ほんの少しだけだが潤んでいる?
怒りの表情……ではない。よく似ているが違う。
一体彼女は何て言ってーー
「臭かったのか! って聞いてるの!」
「うん?」
「し、仕方ないじゃない! ずっと戦ってたんだから!」
「え? いやーー」
「だ、だいたい何よ! 女性に向かって匂いの事言うなんて紳士的じゃないわ! タダヒトはもっとその辺りに気をつけるべきだわ」
彼女が一歩、こちらに近付こうとした。しかし何かを躊躇うようにその場に踏みとどまる。
「ちょ、待って、待ってくれ、アシュフィールド、違うから」
「何よ、一度言葉に出したものは覆せないわ。あなたがアタシの事を、く、臭いって言った事は変える事は出来ないのだから!」
「だから聞け! 聞いてくれ! 逆だ!」
「逆? 逆ってなんなの?! どう言う意味?」
さあ、言ってごらんなさいと言わんばかりに彼女は手を広げて上下に振っている。
はっきりとアシュフィールドの顔が紅く染まっている。怒っているんだきっと。
早く、彼女の誤解を解かなければならない。世界で有数の指定探索者、合衆国の52番目の星。せっかく生き延びれたのにこのまま彼女に誤解されたままだと、非常に生きづらくなってしまう。
誤解を、解くんだ!
唾を飲み込み、息を吸う。俺の頭はもう彼女の誤解を解く。それ以外に何も考えられなかった。
「そのままの意味だ! 逆だ! アシュフィールドからすごくいい匂いがしたから驚いたんだ!」
「へ?」
「花だ! 花の蜜みたいな匂いがしたから驚いたんだよ! 臭いわけない! もう少し嗅いでいたいぐらいだったぜ!」
「…………………………」
アレタ・アシュフィールドが顔を紅くしたまま固まっている。隙だらけだ。今なら俺でも勝てるんじゃあないか?
……あ、やべ。
「……待て、違う。今のも違う。俺が言いたいのはアレだ。あれなんだ。言い方を間違えたんだ。マジで」
「…………」
アシュフィールドは黙ってこちらを見つめている。ヤバい、俺は今何を言った? これじゃあどちらにせよセクハラじゃないか。
酔いのせいか、それとも憧れの人物を目の前にしてはしゃぎ過ぎているのか。
ああ、もうどうせここにいない神様。もしアンタがいたなら俺を助けてくれるのだろうか?
それか、あれだ。確かうちは浄土真宗だったから仏様か? 頼む、もうなんでもいいから助けてください。
あ、やべ。なんかもう焦りすぎて眠たくなって来た。
もう全てを諦めて目を瞑ろうとしたその時。
「臭くなかったの?」
蚊が耳元で囁くような小さい声。まさにかぼそい声が聞こえた。彼女が俯きながら呟いたのだ。
ここだ。
「そう! それが言いたかったんだ! 臭くない。臭くないんだ!」
一体、俺は命がけの探索中に何を言っているのだろう。繁華街で生まれて初めてナンパする大学生でも、もっと気の利いた事が言えるんじゃないか。
だが、女性に臭いか、臭くないか聞かれた時は絶対に臭くないと答えねばならないはずだ。
俺は、間違ってなんか、ない!
「もっと嗅ぎたかったの?」
「あ?」
なんだ、今、彼女はなんと言った?
聞き間違いーー
「言ったじゃない、もっと嗅ぎたかったって」
ーーじゃなかった。
「いや、あれは…… 言葉の綾っていうか」
「……やっぱり、臭かったんだ……」
彼女の表情は俯いている為見えない。黄金を錦糸にしたような金髪が、風にそよぐ。
「臭いから、嗅ぎたくないのね……」
暗い声で、彼女が呟く。
お前は一体何を言っているんだ、喉に出かけた言葉を飲み込む。
……女性に嗅ぎたくないのかと聞かれたらどう答えればいいのか。残念ながらこれも答えは決まっている。
「いや、嗅ぎたい、嗅ぎたいです」
俺は、一体何を言っているんだろう。だがこれ以外どう言えるというんだ。
「本当に?」
「本当だ。」
なんだ、これ。
「きちんと言ってくれないとわからないわ。日本語って難しいし」
バベル効果でお前には英語として聴こえているだろうが。またしても喉まで出てくる言葉。無理やり押し込める。
「誰のどんな匂いを嗅ぎたいの? タダヒト」
「アシュフィールドの、花みたいないい匂いを嗅ぎたい…… です」
「……ヘンタイ」
「はい……」
俯いたまま、彼女が呟く。
なんだ、これ。なんの、プレイだ。
少しの間の沈黙。そのはずなのにとんでもなく長く感じる。
「アハッ」
その沈黙が破られた。
ん? 今の……
「……う、くっくく。タダヒト、もう一度言っ、ウフ」
アシュフィールドが、震えて腹を抑えながら話し始めた。
この女……。
「待て、ウフってなんだ。おい」
「う、フフフ、なんのこと? わからないわ。タダヒト」
アシュフィールドが、顔をあげた。目の端に涙を浮かばせている。
「くっそ…… からかいやがって。なんのプレイかと本気で焦ったぞ」
「ふ、フフフ。ごめんなさい。あなたがあまりにも必死だったから。少し面白くて……。ねえ、タダヒト、録音したいからもう一回だけ」
「言わねえよ。勘弁してくれ」
「そう? 残念。でもタダヒト、本当にまた嗅ぎたいのなら、いつでも言ってね」
彼女が、片目をパチリと瞑る。うわ、すげえなアメリカ人。
「うわ、すげえな、アメリカ人」
今度はもう、喉まで出た声を抑える事はなかった。
そのまま黙ってたら見惚れて動けなくなってしまいそうだったからだ。
いつのまにか、熱くなっていた俺の頰を風が撫でて冷ましていく。
気持ちいい。
目の前で、アシュフィールドが深く深呼吸を繰り返し、息を整えていた。
よほど笑ったのか。迷彩の軍服。その胸元がわずかには上下していた。何を言われるかわからないからすぐに彼女から目をそらす。
くそ、中学生か。俺は。
頭をガシガシと掻きむしりながら辺りを見回す。激しい闘いの痕跡が大草原に刻まれていた。
地面に無造作に突き立つ、木の槍。化け物か人間かどちらのものかわからない赤い血が所々に、草花を赤く染めている。役目を終えた木の根が力なく、地面に横たわる。
異様な光景の中、それらを置いてけぼりにするほど存在感を放つアレに目をやる。
耳。恐ろしい怪物。その死骸。再生の兆しはない。その表面積の半分以上を、彼女の槍の一投で消しとばされたのだ。無理はない。
あれで死んでないのなら、それこそ……。
いや、もうよそう。俺は、耳の死骸から目を離す。ヤツは死んだ。それだけで充分だ。
色々な想いはある。憎しみ、恐れ、怒り。そして、そして僅かな憧憬。
それら全てをぶつけた。そして、俺は生き残った。
「それでいいじゃないか」
自分に言い聞かせるように呟く。胸中に残るのは、不安のタネ。
あの流暢に喋り始めた"耳"から這い出ようとしていた存在。彼女の槍により消し飛んだはずのアレは一体なんだったのだろうか。
胸で生まれた不安は、脳に昇る。酔いと混ざり思考が深く、進んでいく。
いや、よそう。
もっと別の事を考えよう。全て、終わったことなんだ。
そうだ。
「アシュフィールド、そういえば俺に話したい事があるってーー」
俺は彼女の方を向く。
アシュフィールドはまだお腹を抑え、身体を震わせていた。
「勘弁してくれよ。いつまで笑ってんだ」
彼女に近づこうとした瞬間。
ドサり。
アシュフィールドがそのまま、うつ伏せに倒れた。
は?
そのまま、ピクリとも動かない。いや、今、こいつなんの受け身もとらずに倒れなかったか?
「おい、どうした!」
すぐに彼女に駆け寄り、声をかける。なんだ、一体? 頭を打っていたのか? 動かすのはだめか?
先程まであれだけ笑っていた彼女からの反応はない。
「アシュフィールド!!」
地面に手をつき、彼女の耳に顔を近づけて呼びかける。
ぴくりと、彼女の手が動いた。それからゆっくり彼女の首がこちらを向く。
「ん、あ、あれ。アタシ。どうして…… ああそっか」
「おい! 大丈夫か!?」
彼女がモゴモゴと呟く、意識は、ある……のか?
「ああ、タダヒト、ごめんなさい。あなたに話したい事あったのだけど、今は、難しいわ」
「いや、いや! 今はそれはどうでもいい! どうしたんだ、急に!」
彼女は、ふぅーと長く息を吐き、それから
「大丈夫よ、タダヒト。大丈夫。いつものことだから。心配しないで。少し、眠たいだけ」
「な、何を言っているんだ。眠たい?」
「そう、眠たいだけ。さっきね、ほんの少しだけ無茶をしたからね。その副作用が来ただけよ」
「副作用……? それ、大丈夫なのか?」
「大丈夫よ、ごめんなさい。きちんとあなたに説明するべきだったのだけど、あなたとくだらない事を話すのが……楽しくて」
説明忘れちゃってた。小さく彼女が呟く。傾けた顔から覗く瞳はすでに閉じかけている。
すかさず彼女の首に俺は手を伸ばす。頸動脈。指の腹にはたしかに規則的な鼓動を感じた。
「ふふ、心配性、ね。本当に大丈夫だから。ごめんなさい。少し迷惑をかけるけど、お願いを聞いてもらえないかしら」
「命令じゃないのか?」
「ええ、そうよ。あなた、アタシの命令は聞いてくれないから」
彼女の声がどんどん小さくなって行く。本当に眠いだけなのか?
うつ伏せになった彼女がゆっくりと右腕をボトムのポケットに伸ばす。取り出されたのはあの黒い小型情報端末だ。
俺が突き返したそれを、彼女が再び俺に差し出す。
「アタシの情報端末よ。意味はわかるわね。それをアタシの代わりに持っていて欲しいの」
「っ、お前! まさか、また置いていけとか言うんじゃないだろうな!」
脳裏に蘇る、遠ざかっていくコンバットブーツと、地面に置かれた黒い端末。
「違う……わ。最後まで話を聞いてちょうだい。多分、そろそろアタシの友達…… 仲間から連絡が入ると思うの。彼女達もあなたを助けるために動いているから…… きっとあなたの名前を言えば状況を理解してくれるはずよ……」
「アタシは、もう、眠たくて、多分連絡に出れないから、あなたに持っていて欲しいの。ここで、アタシと一緒に救助を待って欲しいのが、アタシのお願いよ」
「今度は受け取ってくれるかしら?」
聞かれるまでもない。
黒い端末を彼女の白い指先が掴む。俺は、それを彼女の手を包み込む。黒い端末を受け取った。
「そう言う事なら任せろ。喜んでそのお願いを聞くぞ」
「ふふ、タダヒト、やっぱり変わってるわね。忘れてない? あの耳の化け物は殺したといえ、ここはバベルの大穴の中、なのよ。ほかの怪物種だって、もしかしたら……」
彼女の声が、少し大きくなる。
「関係ない。俺はここにいるぞ。二人で帰るんだ。絶対にな」
彼女の手を握り、言葉をぶつける。それは彼女に聞かせる為だけの言葉ではなかった。臆病な俺に打つための楔でもある。
「バカね、タダヒト。ヘンタイでもあるし。変わった人」
「うるせえ、ほっとけ。確認だが、本当に寝るだけなんだな」
ぎゅうとした柔らかな圧力。彼女が俺の手を強く握りこんだのだとすぐに気付いた。
「心配しすぎよ。信じて。タダヒト」
「わかった。アシュフィールド、あんたを信じるよ。安心して、寝とけ」
手のひらに感じる圧力が、弱くなる
「ありがとう。ねえ、タダヒト?」
「なんだ。ここにいるぞ」
「ええ、わかってるわ。ねえ、まだ話したい事を話せてないから。あとで聞いてね」
「わかった。必ず聞く。またあとでな」
手のひらに感じる圧力がなくなった。そっと彼女の手を地面に置く。
すぐに、スゥー、スゥーとリズムの良い寝息が聞こえてきた。
「本当に寝てやがる……」
念のため、もう一度彼女の首に手をやる。金色の髪を掻き分けてその肌に触れる。柔らかくきめ細かい肌。その首は驚くほどに細い。
こんな華奢な身体をしている存在が、化け物殺しを成すのだ。
俺には想像もつかない何かを彼女が行った。この眠りはその代償なのか?
思考はすぐに止まった。
とくん、とくん。とたしかに響く鼓動。
彼女は生きている。
なら細かな事はいいか。わからない事はまた聞けばいいんだ。
うつ伏せで寝息を立てる彼女を見つめる。
「あ」
おもむろに俺は、着ていた登山ジャケットを脱ぐ。右袖がなくなっているそれをまじまじと見つめる。不思議だ。
それをうつ伏せに倒れる彼女の横に敷く。
倒れている人間をうつ伏せにしたままは確か、あまり良くない筈だ。
「よっと」
軍服越しに彼女の感触が手のひらに伝わる。どうしても柔らかい女の身体。
こんな身体で、よくやったよ。本当に。
彼女の肩と横腹を押すようにして、横向きの姿勢に。
「回復体位だったか?」
探索者の免許を取るときの研修や、運転免許講習で習ったそれを思い出しながら彼女をなんとかジャケットの上に横向きに寝かせる。
これで、後は……
(Message now Message now)
手に持つ黒い端末、指定探索者専用端末に着信が入った。
彼女の言っていた仲間からの連絡か?
振動しながら響く電子音。端末をゆっくり耳に押し当てる。
「アレタ!! 無事かい! 生きているかい!?」
耳をつんざく、女の声。
「あ、ああ、もしもし。代理の者なんだがーー」
「な、誰だ! キミは?! 何故アレタの端末から男の声が? …… いや、待て、まさかアジヤマ タダヒトかい? 救助対象の日本人探索者!」
金属の熱が冷めるように、落ち着きを取り戻したその声が一瞬で正解を言い当てた。
誰だ、これは。
「ああ、それで合ってる。アジヤマだ。今、アシュフィールドの代わりに通信に出ている状況だ」
「……なるほど。探索者アジヤマ。アレタは何故通信に出ないんだ?」
電話の声の温度が一段冷たくなった。
「彼女は、アシュフィールドは今、俺の目の前にいる。寝てるんだ、寝息を立てながら寝てるから通信に出れない」
ありのままをそのまま、彼女に伝える。それ以外はしなくていいだろう。
「寝てる? っあのバカ! またやったのか!ワタシがあれだけやるなと言っていたのに!」
寝てる、だけで電話の相手には彼女が何をしたのか分かったらしい。少なくとも俺よりは付き合いが深い仲のようだ。
「一応、俺のジャケットを敷いて回復体位をとらせている。様子もおかしなところはない。すやすや寝ていると思うが、ほかにしておいた方がいいことはあるか?」
「素晴らしい。探索者アジヤマ。充分だ。確認だが、そのバカが寝ているという事は目下のところ、危機的状況にはないということだね」
「ああ、状況はある程度あなたも知っているんだな? あのクソ耳、じゃない。怪物種は死んだ。アシュフィールドが斃したよ」
電話口の声が、息を呑んだ。ため息、いや、安堵の息か?
「……耳。いや、わかった。状況はある程度理解した。予想以上に好い状況であるみたいだ。探索者アジヤマ、ワタシ達はあと十分でその端末反応に辿り着く! それまでそこで待機しておいてくれ!」
助手! もっと速く走れ! これで最速っすよ! 先生また、太ったんじゃないすか!
電話の向こうで、風切り音と二人分の声が鳴り響く。急いでいる事はよく、わかる。
「了解。アシュフィールドのお友達さん。ありがとう。待ってます」
「ソフィだ」
「え?」
「ワタシの名前だよ。ソフィ・M・クラーク。探索者アジヤマ。キミはよくやった。あのバカを。アレタを置いていかないでくれてありがとう」
「え」
「あのメサイアコンプレックスの端末に他人が出る事は珍しくない。むしろ今回が初めてだよ。彼女と共に残ったのはキミが初めてだ」
「だがら、ありがとう」
すぐに行く。そう言い残して通信は切れた。
「ソフィ・M・クラーク……?」
端末を握ったまま、呆然と呟く。まじかよ。
この世界に現れた、異質そのもの。西暦に現れた最後にして最新の謎。神秘そのもの。バベルの大穴。
その、名付け親。
知名度で言えば、アレタ・アシュフィールドとなんら変わらない。合衆国の誇る指定探索者の一人。
そして、俺の愛読書。「ダンジョンについての考察」の著者。
「すげえ」
それしか言葉がなかった。
どすんと、彼女の隣に腰を下ろす。黒い端末を彼女の顔もとに置く。
金色の髪が彼女の顔にかかっている。薄い桜色の唇。長い睫毛が、閉じられた薄い瞼を彩る。
天が、美を題材に創り上げたようなその容姿。天使がいるのなら彼女にきっと似ているのだろう。
「あと、十分か……」
その時間は、何もしないには長く、何かを耐えるには長すぎる時間。
まあ、気長に待とう。もう命を賭ける時間は終わった。
斃すべき敵は倒れ、俺の探索は終了したんだ。
狩りは終わり、後は帰るだけだ。
「おつかれさん、英雄」
恐ろしい怪物は、英雄によって打ち倒された。それで凡人は生き残った。
だから、これで終わりなんだ。
ダンジョンに風が吹ーーーーーーーーー
*いいや、まだだ。最期に狩るべき存在が貴様のすぐ傍でまだ、生きているだろう*
右腕の感覚が消えた。
最後まで読んで頂きありがとうございます!