言語
あなたは耳を追い詰めた。
追い詰めすぎた。だから彼の酔いは醒めるわ。きっと。
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殺した。
やった、やったはずだ。
殺した、はずだ。
豪腕が地面ごと大耳を殴り潰した。豪腕の拳が沈み込んだ地面に赤い血が溜まり始めている。
辺りを見回せば、四方に投げ棄てられたヤツの醜い四肢が転がる。傷口からあぶくを吹いたり、蠢く様子は見られない。
再生はなさそうだ。
四肢を抜かれた部分からは絶え間なく血が溢れ続けている。身体中にはまだ至るところに彼女の槍が剣山のように突き立っていた。
これは、もう死んでるだろ。流石に。
立ち尽くす。気を抜くと身体の至るところから力が蒸発しそうだ。
歯を噛み締めて気合いを入れる。まだ倒れるわけにはいかなかった。
「 はっ、はは」
咳き込むように乾いた笑いが漏れた。一度始まると止まらない。
「は、ははは。はははははは!」
口元を抑える。あまり意味はないだろうが。込み上げてくるものを抑えられそうになかった。
左手にはたしかな感触が今も残る。拳で硬い果物か何かを殴り潰したような感覚。悪くない。悪くないぞ。
やったんだ。致命的な一撃だったはず。ヤツの象徴であり、重要らしい部分である大耳は今や地面にめり込んでいた。
脳内に駆け巡る今日一日の記憶。恐怖と歓喜、絶望と希望。揺れ動く感情が溶け合うように混じり合う。
心が折れそうになった時もあった。諦めてしまいそうになった時もあった。
自分よりも圧倒的に強い理不尽な強者の得体の知れない殺意。
だがあれほどまでに恐ろしい、…恐ろしかった怪物は今や斃れ。
立っているのは俺だった。右腕を千切られ死にかけた。それでも俺は生き残ったんだ。
もう一度同じ事をしたら確実に死ぬ。百回に一回、いや千回に一回、もしかしたら万回に一回の生存のチャンス、それをものにした。
勝ったのは俺だ。化け物ではない。只の人間が勝ったんだ。
「終わった」
小さく呟いた、その時だった。
ゴポリと、音を立てながら溢れる血。拳が潰したその大耳の周りに血溜まりが出来上がっている。
その溢れる血に何かが混じっていた。なんだあれは。
目を凝らす。
「斧」
ヤツに奪われた俺の薪割り斧、それが血溜まりに沈んでいた。
大耳を潰した拳の周りの地面からは未だに血が湧き出ている。源泉、湧き水のそれにも見える。
大耳から噴き出る血に混じって出てきたのか?
「俺の、斧!」
斧の刃。その輝く銀色は赤黒いドロドロの血の中で光を受けてきらりと輝く。
すぐにそれを拾いに行こうと、足を一歩前に進める。
「っお!?」
その瞬間。頭、脳みそにばちりと稲妻のよう
な衝撃が走る。
進んだのは一歩。思わず歩みを止め、右手で頭を摩る。
「なん…だ、今の」
痛みではない。害のあるものでない、と思う。
嫌な予感。そう嫌な予感だ。今日一日で何度も何度も感じたそれに似ている。
なんだ、俺は一体何に引っかかっている? 目の前の光景は何かがおかしい。
目を、凝らす。よく見ろ、よく聴け。よく考えろ。それが探索者の生き残る一番の方法だ。
槍の突き立つ、四肢が捥がれたその巨体。傷口からドロドロと流れる粘性の高そうな赤い血液。大耳を潰したまま動かぬ、木の豪腕。
そしてその血溜まりの中に浮かぶ、輝く銀色を湛える俺の片手薪割り斧。
……。
「マジかよ」
ダメだ。これ以上ヤツに近づいてはいけない。
くそ、くそ、くそ。まだ小細工かませる余裕があんのかよ。
一歩、後退ーー
「€ああ、いいセンスだ€」
「は?」
背筋に怖気が走る。
それは例えるならば何かありえないものを見かけた時のような。夜中に人通りの少ない道端で視界の端に白い着物姿の女が一瞬入ったような。
電撃にも似た衝撃、背骨を走るその感覚は脳にじんわりとしたものを残す。
誰だ、今の声は? 誰がしゃべった?
男の声。老人と壮年と青年と少年と。あらゆる年代の人間の男の声を混ぜ合わせたような奇怪な音声。
俺ではない。"腕"でもないし、ましてや彼女でもない。
ならその声の持ち主は?
今この空間に存在する生き物は……。
「ふざけんなよ、マジでよお」
思わず、呟く。
その声は眼前の耳が倒れ伏す方向から聴こえて来た。
生きている。未だヤツは生きている。しかも事もあろうにーー
「てめえ……、なんだ今更……くそ、化け物が日本語喋ってんじゃねえよ」
一体どこから言葉を話した? あの大耳は間違いなくぶっ潰した。声なぞ出せるわけもない。
出せるわけもないのに。
「€まさか、ここまで追い詰められるとは思っていなかったよ。おかげで、醒めてしまった€」
「€それにしても、良く気付いたものだ。"腕"は簡単に引っかかってくれたんだけどね€」
やはり、君の方が手強い。声はそう言葉を締めた。極めて理性的に。
はっきり聞こえるその声。その言葉。
「お前、一体なんなんだ……」
眼前、耳の化け物に問う。ヤツはまだ生きている。
「€ふむ、今更な気もするが君に対しては礼儀を尽くそう€」
「€私は"耳"。かつて在りし哀れな其の耳だ。声を聞くもの。受け容れるもの。そして記録するものでもある€」
理性的。会話が成立してしまった。それが俺にはとてつもなく恐ろしい。
こいつには知性がある。
「€ああ、君から強い恐怖の心音が聴こえる。いい音だ€」
ヤツがゆっくりと話す。やがてヤツの声の出所が分かった。
声はヤツの巨体の中から聞こえている。あの大耳からではない。ややくぐもったその声は肉体の内側から響くせいだろう。
つまり
「てめえ、その中にいるのか」
「€ああ、君。いいね、察しがとてもいい。初めて会った時からまだ僅かしか経っていないのに、随分と成長したように思えるよ€」
いっそ親しみすら感じるその口調。口の中に甘い泥を詰め込まれたような不快感を覚えた。
コイツは、ヤバイ。
「€緊張と恐怖、それから猜疑の音。しかし何より素晴らしいのはそれを必死で抑えようとする抵抗の音。やはり、人間の音は良いもののだ€」
コイツは一体何を言っている? いやそれよりも俺はどうすればいい?
思考が曇る。それでいて焦る。ダメだ、何も思いつかない。今がヤバイという事はわかる。だが、それだけだ。
どうすればいいのかが分からない。このままヤツを刺激しなければいいのか? それともすぐさま豪腕でヤツの声がするあたりをぶん殴るべきなのか?
思考の海に溺れる。ヤツは構わず話し続ける。
「€あの二人の声も素晴らしかった。痛みと絶望と恐怖に染まるあの叫び声。また聴きたいなあ€」
思考が止む。
「……お前」
「€おや、音が変わった。ああ、この音は知っているよ。君は今日この音をよく出していたからね。良い音だ。あれほどまでに渦巻いていた恐怖の音が一瞬で消えた€」
「€君は今日、いつもその音を携えて私に立ち向かってきた。マグマの滾るようなその勇ましく荒々しく、そして危うい怒りの音€」
首の後ろ。うなじの辺りが痛い。チリチリと焼け付くような痛みがずっとそこに在る。
もう、コイツと話すのはまずい。俺が唇をつぐんだその時。
「€もっと近くで聞かせておくれ。今、行くよ€」
ヤバイ。
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