ぜんぶ、寄越せ
ヤツの身体全体に木の根を這わせ、縛り付ける。絶対に逃がさない。
食い込んだ木の根からはみ出る肉、タコ紐で縛ったハムのようだ。
残るは両脚。
ぜんぶ、よこせ。それでも足りないぐらいだ。
豪腕を、脚に伸ばす。その太い足首を潰すように握り込む。
「四、ほんめえ!!」
気合い。一瞬の脱力。そして力み。
右脚を引き抜く。抵抗は一瞬。すぐになんのひっかかりもなくなり、ぽんと右脚が勢いのまま宙を舞い、当たり前のように堕ちた。
思い切り瓶を振って栓を抜いたシャンパンのように、噴き出る血しぶき。
あともう五メートルほど近付いていたならすこし掛かったかもしれないな。
ヤツの身体から弱々しく新たなる触腕が生まれる。生まれてすぐに、ぱたりと力なく萎れていく。
「最後だ」
残る左後ろ脚を持ち上げる。折りたたまれたそれを丁寧に、伸ばしていく。
そしてこれ以上はもう伸びぬというところまで引っ張った。
「五本目」
左腕を、真横に払うように振る。
豪腕が、おなじように薙ぐように振るわれた。その手にヤツの足首を掴んだままに。
ぶちり。ヤツの身体から最後の四肢が別れを告げた。
根元から抜けたそれは、赤い血の中に肉の筋をひらめかせながら宙を舞い、堕ちる。
血が流れ、溢れ落ち続ける。
あの二人が死んだときと同じだ。
人が傷付いても、化け物が傷付いても流れるモノは同じらしい。
何故だかそのことが無性に腹立たしくて仕方ない。
「物足りない」
こんなものじゃなかったはずだ。彼らが受けた苦しみは。
こんなものじゃなかった。俺が受けた屈辱は。
「足りない、まだ足りない」
奪い返すだけじゃだめだ。なんにも足りない。
「寄越せ、もっと。もっと寄越せ」
ぞわぞわと目の奥がさざめきだつ。瞼の裏側で虫が這っているような感覚。
バベルの大穴内部に侵入して、かなり時間が経つ。酔いのピークが近い。思考がどんどん茹だりつつある。
駄目だ。ここで正気を失うわけにはいかない。
心を燃やし、頭は冷静に。それが殺し合いを生き残る秘訣だという事を俺は経験から知っている。
ああだが、それにしてもーー
それにしてもーー
「嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼嗚呼おゝおおおおおおおおおおおおおおおお」
ーーなんて叫びなのだろう。
悲鳴、嗚咽。四肢を捥がれた耳が先ほどからずっと叫び続けている。
酔いにより茹る脳みそ、頭骨に響く声が甘い痺れを全身にもたらす。
その叫びはまるで遠くの山合いからやまびこが聞こえるように、深い森の奥から故の知らない獣の声が届くような。
目の前のこの化け物から響いているかどうかも分からないのに、どうしようもなく俺の芯が揺らされる。
「ああ、酔ってるなこれ」
右手で顔を抑える。ぐわんぐわんと視界が揺れ始めていた。
酔いが、廻る。
染まる思考。人間としての体裁、倫理、常識。生きていく過程で得ていく人間らしさが蕩けていく。
まあいいか。そんなものどうだっていい。今はいらない。
ああ、それにしてもなんて叫び声だろうか。
耳の中に染み込む怪物の苦悶の叫び。今はそれがとても、とても心地よい。
「お前、趣味悪いなぁ」
つり上がりそうになるくちびるに力を入れる。駄目だ、それは駄目だろ。
それをしたら、耳と変わらない。叫びは叫び。それ以上でもそれ以下でもない。
さて、仕上げだ。
最後に残る、ヤツの部位に視線を動かす。俺から見て真正面に伏すのは大耳。ヤツの存在そのものの象徴にしてその本体。
耳。
あのあまりにも強大で恐ろしい、恐怖そのもの。
恐ろしい怪物は今や、虫の息で俺の目の前に倒れ伏している。
「NO.NO....no」
幾多の木の根で覆われたその大耳から音が漏れる。
俺は、一歩、二歩とヤツに近づく。
弱々しく、ヤツが呻く。来るな、来ないでくれと嘆願するように。
一歩、二歩、三歩、四歩……はもうない。
ここで終わりだ。
俺の歩みがぴたりと止まる。面白い事にヤツの呻きも立ち消えた。
耳の化け物、直近。八メートル前方。
ここが、死線。もう近付いてはいけない。
豪腕をゆっくりと動かす。俺のすぐ前に蛇が身をもたげるかのごとく豪腕が侍る。
いつのまにかあれほどまでに、撒き散らし世界の外にまで溢れるんじゃないかと感じた、ヤツの叫びは今やなく。
静謐。ダンジョンを渡る風、空気のうねりだけが妙に耳に響いた。
時間が、数秒。沈黙、破る。
「俺のパクリだぜ、それ」
「now」
由来の分からぬ力場がたしかにその場に生まれた。言葉を言い終わらぬうちに目の前で倒れる耳の身体が膨らんだーーような錯覚。
その身体から、その肉から伸びるのは不可視の腕。あまりにも耳と深く結び付きたかつて在った腕の残り滓。
それが、伸びる。大きく肥大化した透明な触腕が世界を歪ませる。
見えぬそれが手のひらを大きく開き、俺の直上から降りかかるようにーー
「もう、知ってんだよオォオオオオ!!!」
不可視の腕、防御不能のそれを豪腕が同じく手のひらを広げ、組み付いた。
どこまでも、似ている。それが故に俺にはもうその姿が見えずとも、わかっていた。
ぶつかり合う手のひら。絡み合い互いをへし折らんと軋む指。
奇妙な光景。豪腕が独り相撲をしているかのように虚空と指を絡ませ合う。しかしてそれは虚空ではなくたしかに、実在する。
この世界に在る暴力。姿なきされども形ある悪意。
そのようなものを下す為には、もう真正面からたたき潰すより他はない。
力比べ、どこまでも単純な争い。
「もう、お前に俺の血の一滴、叫び声の一つだってくれてやるもんはない!」
左手よ、あともう少しだけ砕けないでくれ。これが終わったら、もういいから。
「寄越せ、寄越せ! 全部寄越せ!」
「お前が、俺に奪われろ!」
怪物の指を押し曲げていく。
圧力が左腕に乗る。
その圧力ににやり、と唇が釣り上がる。勝てる腕相撲によく似ている。
ググっと拮抗する両者の天秤が傾く。豪腕が透明な触腕を下に下に、押し潰していきーー
「俺の勝ちだ、化け物」
ばきゅり。透明な触腕、それに備わる五指全てを組み付いたまま押し曲げるようにへし折る。
力を失った透明の触腕、だらりと指が手の甲側に折れこんだそれを掴んだまま。
「潰れちまえ」
左手のひらの甲、握り拳に弾力のあるゼリーを殴り潰したような、最高の感覚を感じた。
耳を腕が、殴り潰していた。
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