テイク・イット・バック
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酔いにより人間の脳構造の変化について
未だに信じられない。千切られた腕が、勝手に肩とくっ付いた。
本格的に人体の構造を勉強したわけではないが、それなりに複雑な作りのはずだ。
筋肉、筋、骨、皮、神経、血管。素人が思いつくだけでもこれほどのパーツで構成されているはずの部位。
それが簡単にくっ付いた。人間の常から外れた現象。
それも傷口から木の根が生えて、それらが結びつくことによって。
色々と考えたいことは山ほどある。
だが
「まあ、今はいいか」
目の前に化け物がいる状況。命がけの戦闘。シンプルに考えよう。
右肩をぐるぐると回す。何も問題ない。さっきまで千切れていたとはとても思えない。
まあ、あれだ。
右腕がないより、あった方がいいに決まってる。
「残り数分間の付き合いだな。お前の顔を見るのもこれが最後だと思うと寂しい限りだ」
努めて軽口を放つ。ヤツに通じるかどうかはどうでもよかった。
「NEXT neck」
溢れるようにヤツの大耳から音声が流れた。
何言ってるかわかんねえんだよ。だから
「お前を滅ぼしてやる、行くぞ、樹心限界」
俺の中にいるアレからの反応は結局なかった。まだびびっているのか、それとも死んだのか。
戦えないヤツに用はない。俺は俺で始めさせてもらうぞ。
ヤツが、触腕を身体から伸ばす。威嚇する孔雀のようにその腕は何本も伸び、大きく揺れている。
来い。
一斉にその触腕が俺へ伸びる。そのどれもが一発でも食らえば即、あの世行きの恐ろしい攻撃。
ぶわり。身体中の毛穴が一斉に開いた。
当たる気がしなかった。
足元から、大量の木の根がまろび出る。引き合うようにそれら全てが同時に、槍の如き鋭さをもって触腕を迎え撃った。
木の根が触腕を貫く。鋭い鋒同士がぶつかり潰れる。絡み合いねじ切り合う。
似ている。あの触腕とこの木の根はよく似ている。
再び。耳の巨体、その体積が膨らんだのではないかと錯覚するほど、ヤツの身体が湧く。
触腕。肌色それが爆発的に生え出て、その全てが一斉に向かってくる。蝗の大群、群体の群れ、そんなものに襲われたような気になる。
「上等」
一歩足を踏み込む。耳との距離が僅かに詰まる。
踏み出たその場から木の根が、うねり出る。少しその木の根は様子が違っていた。特筆すべきはその太さ。人間の筋肉のように陰影のついたそれは大人の胴回りほど太いものだった。
「行け!」
号令。一際ふとい木の根が、羽虫の大群、怒涛の如く押し寄せる触腕に向かう。
「薙ぎ、払え!」
木の根が、突然膨らむ。と思うとゴキゴキと軋みながらその姿を変えた。
それはかつて在った"腕"の似姿。今や耳の身体と同化した腕の模倣。
出来ると思ったからやった。今の俺はとてつもなく、腕と近い。俺なのか、私なのか。未だにはっきりしなかった。
木の根が瞬く間に膨れ、蠢き、木の腕となる。五指を備えたそれは正に人の腕そっくり。まるで熟練の名工により拵えられた木の腕の彫刻。
それが、俺の思い通りに動く。
濁流のように押し寄せる触腕を、薙ぐ。乱暴に宙を切り取る数々の触腕を掴み、ちぎり、殴り、はたく。
「もっと、もっと出来る、俺は出来る」
ヤツの触腕の動き、その全てが木の腕を通して伝わる。
遅い、遅いし、それに、分かりやすい。
近い、近い、近い。
俺たちは今、とても近くなっている。距離の事だけじゃあない。存在や、位階。人と化け物という混じる事のないモノのはずなのに。
なんだ、この気持ちは。
畦道の水路で湧く水音。
駄菓子屋に、渡る風鈴の音。
通り雨で湿ったアスファルトの、染みるような匂い。
原風景に臨んだ時のような、この切ない気持ちは、なんなんだ。
なんで、こんなに恐ろしいのに。怖いのに。
こんなにも、懐かしいのだろうか。
木の腕が、伸びた触腕を全て防ぎ切る。その手でちぎり取った触腕を、握りつぶした。
模された指の隙間から赤い血が漏れる。柔らかい果物を掌の中で握りつぶした時のように。
「お前は、一体なんなんだ」
眼前、耳の化け物に自然と話しかけていた。答えのくるはずのない問答。それでも問わずにはいられない。
「NEXT」
意味のある答えなど返ってくるわけもない。耳の巨体、その右脇腹部分から垂れ落ちるように備わる巨大な腕が、もたげられる。
それは、かつて在った"腕"の肉体そのもの。奪われた腕。腕の敗北の証。
敵を縊り殺す、"腕"の物語の象徴。
それが、無造作に振るわれる。
それすらも、分かる。
「受け止めろ!」
鈍い音が響く。空気ごと世界が揺れたような感覚。
ビリビリとした振動が、顔の毛穴に染み込む。
真横に薙ぐように振るわれる耳の歪な腕。
無造作に広げられたその歪な掌と、握り拳のような形になった木の腕がかちあった。
「う、お!」
左腕に、とんでもない負荷がかかる。見えない誰かに左手を無理やり掴まれているような感覚。
気張れ、もう、負ける事は出来ない。
左手の指を折るように握り込む。筋肉が、腱が悲鳴を上げる。
拮抗。
この拮抗に負けるわけには行かない。考えるまでもないあの歪な腕に触れられば死ぬ。はたかれる羽虫、掃き捨てられるチリゴミよりも呆気なく、殺されるだろう。
「う、ぎ、ぎ、ぎ」
ぱき。
無意識のうちに噛み締めていた奥歯。右奥歯が砕けた。痛みが炎のように燃え上がるが酔いにより一瞬で、溶け消える。
それでいい。
左手が、ぶるぶると震える。押し戻されるように腕が下がっていく。
その動きと同期するように、木の腕が、耳の歪な腕に僅かに押される。
調子づいたように、耳の歪な腕が震えながらその勢いを増していく。
大耳の形が歪む。耳の形を成す骨ごと歪んでいくそれは、まるで人間の表情のようにも見えた。その表情の名前は、嘲り。
「なんだ、そのツラは」
お前が、俺を嗤うな。今日一日、お前には何度も殺されかけた。そのたびに俺は、自分の弱さを何度も突き付けられた。
お前には、俺は負けっぱなしだった。俺はお前から逃げ切れず、立ち向かっても何度も叩きのめされてきた。
だから、馬鹿にしているんだろう? 俺を嗤っているんだろう?
「お前は、あともう少しで死ぬ」
俺の背後には彼女がいる。お前は彼女に殺される。
時間さえ稼げばいい。それで終わりだ。それが俺の勝利だ。
俺は、勝てるはずだ。
本当に?
自分の腕をおもちゃのように引き抜かれて、身体中を痛めつけられて、嗤われて、なめられたまま?
それは、本当に俺の勝利なのか?
目の前でヤツに殺された二人の若い兵士の事を思う。別に彼らは友人でも仲間でもない。
それでも、彼らは俺を助けに来てくれた人間達だった。あんな風にごみのように殺されていい命ではなかった。
殺されていい連中ではなかった。俺は彼らを助ける事が出来なかった。
このままでいいのか?
俺は、生きたい。死にたくない。
だが、それだけじゃなかったはずだ。
俺は、良く生きたい。他人よりほんの少しだけでいいから幸せに生きていたい。
怪物に、強者に弄ばれて、なめられて、嗤われて、他人にその借りを返してもらう。
それが、俺の幸せなのか?
俺の決着はこれでいいのか?
「いや、ダメだろ」
簡単に、答えは出た。
むかつく、胸に灯った火が全身に燃え広がっている。それは簡単に脳にまで登り、思考を加熱させて行った。
俺が貸したぶんは、俺にしか取り戻せない。あの痛みも、恐怖も、悔しさも全て、俺がお前に貸したモノだ。
それは決して、他人に頼って取り戻していいものではない。
「返せ」
俺から奪ったもの、全てだ。
「返せよ」
左手に、力を込める。押し込むように腕をじっくりと動かす。
ぐ、ぐ、ぐ、ぐ。
空気がねじれるような音、目の前で組み合う木の腕が、ヤツの歪な腕を押し戻していく。
「全部、返せ」
左腕が痛い。筋肉痛のような痛みがみるみる広がっていく。腕が弾けそうだ。袖をまくればきっと血管がこれでもかと膨れていることだろう。
その痛みを、超える。
振り切る。
木の腕が、動く。みるみるうちに、食い込むようにその歪な腕を押し込んでいく。
「什么?」
大耳が、傾げられる。音声が流れた。妙に間抜けな音に聞こえた。
出来る、俺には出来る。
「もう、遅い」
既に、左腕にかかる圧力は弱くなっていた。
さあ、返済の時間だ。
「オラああああ!!!」
叫ぶ。左手を振り切る。
木の腕が、歪な腕を押し返す。そのまま殴りつけるように歪な腕を弾き飛ばした。風船細工のように簡単に呆気なく、歪な腕が押し返された。
ヤツを見る。
脚、醜いその太い脚が。
一本、二本、三本、四本。
腕、歪なその巨大な腕が。
一本。
「一本、二本、三本、四本、五本」
指を指しながら数える。
木原が、両腕
北嶋が、両脚
俺が、右腕。
「良かった。きちんとある。丁度同じ本数じゃないか」
俺はヤツの歪な腕、その付け根を見つめる。脇腹から突き出たその奇妙な腕。
「まずは、それからだな」
一本目だ。
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