繋がる腕
傷口から目を離せない。
ぞなぞな。
湿って、それでいて乾いたものが擦れる奇妙な音。
傷口から微細な振動を感じる。カサカサとなくなった腕の辺りをゴキブリが這い回っているような。
ぞなぞな、ぞな。
いつのまにか血が止まっていた。遂に垂れる血すら尽きたのか。
ぞな、ぞな、ぞなぞな。
摘まれた足が痛い。このままだと膝から外れそうだ。
脱力して下を見やる。
高さは大体五メートルか六メートルくらいか? 受け身がギリギリ取れないくらいの高さだ。
緑色の地面が広がる。その中に異物が一つ。棒状のもの。
千切られた俺の腕が、ぽつりとゴミのように捨てられていた。
ぞな、ぞな、ぞなぞな。
気味の悪い光景だ。腕が転がっている。凄惨なバラバラ殺人の現場ぐらいでないとこんな光景は見れないだろう。
ぞな、そなぞなぞな。
何かおかしい。目を凝らす。
よく見るとその転がっている腕の断面の様子もおかしい。ほつれた肉の筋にして嫌に、数が多く、どことなく動いているようにも見える。
俺の千切られた打ち棄てられた腕の断面からうねり、うねりとイソギンチャクの触手のようなものが蠢いていた。
もう一度体に力を入れて、右肩の断面に目を凝らす。
すでに血はなく。肉も乾き。その傷口はまるで無機物のような不気味な様相に変わり果てている。
「木の、根?」
肩の傷口、千切られた断面、そこから細かく小さな木の根が生え始めていた。
新芽が伸びるかのようにか細いそれらが肉を突き破り、血を吸いながら小さく小さく成長しつつある。
もうどうにでもなれ。正気すらなくなってしまったのか。死を前にしていよいよ幻覚さえ見えて来てしまった。
木の根を操る。木の槍を生む。まあ、それらはたしかに現実に起こった事だ。
今日一日でだいぶ俺の現実、常識は歪んでしまった。この世には自分の知らないルールや出来事がたくさんあるということを学んだ。
だが、これは。
「いやこれはない」
ないないない。これは流石にないだろう。自分に言い聞かせるように呟く。
頭に血が上っているせいだろう。そんな事出来るわけがない。
出来る、わけが……。
ぞな、ぞな、ぞな、ぞな、ぞな、ぞな。
ぞな。
気付いたら体が勝手に動いていた。
左手を振る。その動作が示すのは命令。世界への干渉。物語、そして現実への侵食。
「樹心、限界」
くちびるが紡ぐは名前。本来ないはずのその力の名前。其の腕の物語ではない。只の人がたまたま思い付いただけのもの。
だからこそ、その力は只の人に強く結びついていた。
明後日の方向に木の根が伸びる。地面を破り唐突に、突拍子もなく現れた木の根は耳の足元から生え出て、まったくの反対方向へ伸びていきーー
ぐわり。大耳がその離れていく根に反応するかと思うとぐぐっとそちらへ伸びる。
俺の目の前から耳孔が消える。
やっぱりか。
間髪入れずに、新たなる木の根を生成。指揮棒を振るように左手を翻す。
狙うのは、俺の足首を縛る透明の触腕。
透明の触腕。それはもう知っている。血の止まった脇腹が、その透明の触腕に抉られた脇腹が、かすかに疼いた。
ぱしゅん。
間の抜けた音、透明の触腕を木の根が貫いた。予想通り、木の根は触腕に阻まられる事はなかった。
ぼんやりと思い出す。俺ではない俺がこの身体を動かしていた時に、触腕に阻まられ、容易に掴まれていた木の根を。
あの鋭すぎる反応の理由がわかった。
「お前、ホントは見えてないな?」
当てずっぽう。俺はヤツの反応の良さをそう判断した。
俺がヤツの触腕を木の根で防ぐ事が出来るのも同じ理由だからだ。
なんとなく、触腕の軌道が、わかる。
ヤツも同じなのだろう。
俺と耳はよく似ている。何が似ているかはわからないのに。俺たちは致命的な程によく似ている。
浮遊感、そして身体が下に落ちる。重力に囚われる。まあそうだろ。俺は彼女じゃない。重力から逃れる事は出来ない。
「樹心限界」
俺の力の名前を呟く。瞬時に木の根が俺の方へ伸び、真っ逆さまに落ちる俺を攫うように空中で捕捉する。
胴体に何重にも巻かれた木の根が一瞬で、縮み始める。
「ゔっ.おっ」
と小さな声が漏れるのみ。巻き取られた俺は転がるように地面に着地した。
すぐに立ち上がろうとしたら体が左側に傾きバランスを崩す。
右腕がない為に平行感覚が取りにくい。立ち上がるだけでも平均台を渡るぐらいに気を張らなければいけなかった。
耳の化け物の大耳を見上げるような位置。思ったより距離を取れていない。
まあ、別にいい。
始めよう。
左手を、下に振る。
ヤツの足元、四方から木の根が生え、一斉にヤツの大耳を狙う。
ヤツの身体中から木の根に、反応するように触腕が飛び出る。
磁石のS極とN極が引き合うように、それらは互いにぶつかりあい、相殺される。血煙と肉片。樹皮と、木の粉が空中に飛び散った。
同時。足元から生えた木の根が、とある地点に一気に伸びる。地面を這うように伸びたその木の根は、一瞬地面を掠るように下降してまた戻ってきた。
戻ってくる木の根。その切っ先は丸まっている。何かをくるりと巻いていた。
俺の千切れた右腕を、木の根が運んできた。
「うわ、グロ」
思わず、呟く。
血が抜け、手のひらは青白くなりつつある。死人の手に見えるが間違いなく俺の右腕だ。
恭しく、まるで差し出すかのように木の根が俺の右腕をこちらに近付けてくる。
上下に揺れるその木の根は、飼い主にボールを運んでくる犬のように見えない事はなかった。
様相はかなり違うが。
俺は気付いたらその右腕を受け取っていた。ずしりと左腕にその重みを感じる。
自分の部位。普段はくっついているものなのに、こうして見ると酷く不気味なものに感じる。
このままここに放っておくと、コイツは勝手に動き出すんじゃないか。ふとそんな考えが頭に広がった。
いや、今そんな事考えている場合じゃない。すぐにその思いを打ち消す。
左手で掴んだ千切れた右腕を、抉られた右肩に持っていく。
そのまま、人形のパーツを填めるような感覚でぐっと押し当てようとーー
「うわっ、マジかよ」
呻くように呟く。すぐに異変が起きた。千切れた腕をぽっかり空いた右肩に近づけた途端にそれは起きた。
右腕の断面、右肩の断面。それぞれの断面からまるで寄生虫が飛び出してきたかのように、うねうねした何かが生えてきた。
それらは当たり前のように絡み始める。舌を絡め合う恋人の接吻よりも深く。絡まる紐よりも固く。
右腕と右肩の接合が始まる。はじめは腕の断面から伸びた木の根と、肩の断面から木の根が結ぶように絡まる。かと思うと今度は溶け合うように絡まり始める。
見る見る内に、腕と肩が近付いていった。既にもう左手で右腕を支える必要もない。
「う」
思わず声が漏れたのは、脳みそに伝わる強烈な違和感。なくしたはずのものが急に帰ってきた為に脳みそが混乱しているのだろうか。
黒板を引っ掻く音。発砲スチロールが擦れ合う音。食器同士が擦れ合う音。それら全てを同時に耳の中で鳴り響かされたような強烈な不快感。
不思議と痛みはない。
ぞな、ぞな、ぞな、ぞなぞな。
腕と肩が完全に繋がりあった。
「マジかよ」
右腕を動かす。動いた。
右手のひらを閉じる。閉じた。
千切られた腕は、遂に元どおりに再生してしまっていた。
「は、ははは」
もう、笑うしかない。健康診断の時に何か言われたらどうしよう。
三十秒もたたずに、腕を引き千切られるという致命傷はなかった事になっていた。
果たして、千切られた右腕が元どおりになる事なとあり得るのだろうか。
「Monstre」
大耳が、俺の方をいつのまにか見つめていた。
「うるせえよ。日本語喋れ」
俺は右手の人差し指をヤツに指す。
力が充実している。酔いは身体に満ち、千切れた右腕は元どおり。
果たして、俺は人間のままでいれているのだろうか。
長い、五分は未だに明けない。
「よくもやってくれたな。クソ耳、お前も絶対同じようにしてやる」
ただ、重たい毒ガスのような感情が頭のてっぺんからつま先まで満ちていた。
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