残酷
起きて、早く。
腕では、耳に勝てないよ。
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逆さまの視界。あの巨大な耳の前に羽虫のように摘まれている。
「After a long time Bookshelf」
「"ウデ"」
耳が、その巨体を起こす。既に関節の傷は癒えていたらしい。ひょっこりと簡単に、当たり前のようにヤツの四肢は動いていた。
「貴様っ」
私は、圧迫感を感じるーー ヤツに掴まれた左足首を見上げる。
何もない。何もないはずなのに、私の足首は何かに掴まれたように、その骨をきしませ持ちげられていた。
まるで、透明な何かに掴まれているようなーー
「C'est ton pouvoir inconnu」
「貴様」
ふざけるな、と叫ぼうとした瞬間、ものすごい勢いで世界が流れ、視界が緑色で一杯になった。
全身に走る痛み、そこかしこに命をそのまま撫でられるような感覚がのたうちまわる。
「ぎゃっ!」
叩きつけられた。この私が。偉大なる其の、
其の偉大な腕である私が、ゴミムシのように地面に叩きつけられ
「げべ」
ふっと、持ち上げられまた、叩きつけられる。全身の骨という骨が軋む。
痛い。痛い。痛い。
重たい残るような痛みが胸に溜まる。軋む骨が痙攣したかのように振動する。
右足を何かに摘まれている。その何かにまた持ち上げられ、逆さまの大耳と向き合う。
「ぐ、う。耳……貴様」
頭が痛い。熱と冷たさが同時に頭の中で渦巻いているようだ。思考が無理やり早送りされているような。私がバラバラになる。
「What happened? Or the end?」
「抜かせ!」
ヤツに摘まれたまま、自由な右手をヤツに向かって振りかざす。
右手の肘から湧くように木の根が現出し、一気にのびる。狙うは、真正面にもたげられている大耳の孔!
知っているぞ。そこは貴様の命に最も近い場所だ。
伸びる木の根、耳の孔に迫りその肉を穿とうとーー
ぱし、ぱしぱしぱし。
パシ。
手のひらと手のひらを叩いて合わせたような乾いた音。
その音の中に肉を穿った時の粘着質な音はひとつも混じらない。
玩具のように片足だけ摘まれ、逆さまに持ち上げられる中での起死回生の一撃は全て防がれた。
耳孔から生え出した細く小さな触腕、穴蔵を住処とする生き物のように揺蕩うそれが、木の根を全て掴んでいた。
ばかな。
「Je m'y suis habitué.」
耳孔が、鳴る。
ミシリと、触腕に掴まれた木の根が短い悲鳴をあげるかのように軋んだ。
くっ、貫け!
地面から木の根を生やす、火急だ。すぐ生まれ、すぐ死ね。この私の為に。
地面から生え木の根は瞬時にその先を尖らせ、蜿ながら耳の孔を狙う。
この数、貴様に捌けるか?!
生まれた木の根は、一瞬で地面を覆う。突き立つ木の槍を押し退け、数百はくだらない木の根が生まれ、伸びーー
「tired」
背筋が粟立つ。体がどうしようもなく硬直する。ひどく自らの存在が心許ないものに感じる。
この感覚を私は、知っている。
逆さまの視界で起きた異変にすぐ気付いた。
ヤツの、耳の脇腹からまろびでた巨大な人間の腕、私の腕が歪み始めている。まるでその腕の中に別の生き物が閉じ込められていて、ソレが暴れ出したような。
腕がのたうちまわり、蠢きながら次第にその姿を変えていく。昆虫の変態過程を早送りにしたような光景。
なんだ、それは。そんなの私は知らない。
私の腕が、変わって行く。
木を掴み、ほぐす為の五指はもはやその役割を忘れた。関節を砕きながら指が伸びていく。爪は獣のように鋭く伸び続ける。節くれだった指が、ぼきぼきと音を立てた。
人間の腕ではない。私の腕ではない。それは違えようのない化け物の腕。
それが、振るわれた。
ヤツの脇腹から伸びた歪な腕が、雑に、おっくうげに横薙ぎに振るわれる。地を攫うように振るわれたそれは、一瞬で、大地を掬う。
ヤツに向かって伸びていた木の根も、地に突き立つ人間の為の武器も、全てが塵だ。
掻き消される。もともとなかったもののように。
掻き消された根達の痛みが、全身に還ってくる。存在そのものを粉々にされるような感覚。幻の痛みだとわかっていても、視界が白黒になりそうな衝撃。
死が、少しづつ近付いてくるのが分かる。
「Next?」
大耳が横に傾く。人間が首をかしげるような仕草と良く似ている。
「NEXT」
同じ音声が繰り返される。
「はぁ、はあ、はあっ」
胸が苦しい。逆さまに持ち上げられ続けて血が頭に集まってきた。首に力が入らない。熱を持った痛みが身体中の至るところで、存在を主張する。
「おのれっ……!」
掴まれた右腕から伸びる根に力を込める。掴まれたままでも構わない。その無様に開いた孔を広げてやっーー
ばきょり。
同時に、なんの時間差もなく掴まれた木の根が触腕に握り潰される。
「っっっ!」
直で伸びている根からのフィードバックは強い。いや、これは既にフィードバックなどではない。
腕から伸びた根は、この身体の肉を材料としたものだ。すなわちそれは腕自体、手のひらの指先を握り潰されたようなものだった。
「あ、ああああ……」
喉から何かが出ている。雑音が聞こえると思ったらそれは私の声、うめき声だった。
大耳が、ピクリ、ピクリと震える。
この、おぞましい化け物が。
殺す、絶対に今度こそ殺す。
痛みにより、萎縮する全身に再度力を込める。思い出せ。ヤツに植え付けられた屈辱を。思い出せ。奪われた"腕"を。
もう二度と、あんな思いはしたくない。
左手が騒めく。力の萌芽。新たなる根を生やそうとした瞬間。
音もなく、ヤツの身体から触腕が伸びる。
それは羽毛のような軽さを以って私の右腕に触れた。
私の右手首を触腕から伸びる五本の指が包む。
耳が、何をしようとしているのかが、すぐにわかった。それは私も知っているし、俺も知っていた。
今度こそ、青褪めた。
「待て! 耳っ!」
言い終わる内に、手首が砕けた音が頭の中で鳴った。
圧力、熱さ、そして、爆裂するような
「あ、ああいあううアアア!!」
痛み。肺から全ての空気が一斉に絶叫となり喉から逃げ出す。
握り潰された、右の手首を。
皮膚ごと、血管、筋肉、骨。右手首という人体の部位をまるまる握り潰された。握り潰されたグレープフルーツから果汁が垂れ落ちるように、ヤツの閉じられた触腕の手のひらから血が滴り落ちる。
握り潰されたのは、手首なのに、まるで脳みその一部をぐちゃぐちゃにされたような感覚だ。
ああ、人体とはかくも脆いものだったか。いたい痛い痛い。
「Cry, pain wannabe」
ヤツとの距離が近い。今までにないほどに近い。ヤツに握り潰された血肉はヤツの触腕に染み込む。
私と耳が、奇妙に繋がり合う。
ヤツのめちゃくちゃな音声の意味が分かる。
「Faible Faible Faible」
繰り返す、音声。その意味が伝わる。
砕かれた右手首がさらに痛む。強く、握り締められた。これ以上何をしようとーー
あ。
付け根、右腕の付け根に電気が走った。刹那の後、それが痛みだと思う。
ピン。とヤツの触腕が、手首を握ったまま動いた。
「待て」
ぴん。また、同じように触腕が動く。
「待て、待つのだ」
ぴん、ぴん。次第にその勢いが増していく。
触腕は、手首を掴んだまま私の腕を下の方向に引っ張る。
ぴん、ぴん、ぴん。
「待ってくれ、耳、やめろ、やめろ!! それだけはやめてくれ!!」
「なけ」
「やめてくえええええええええええ」
びん。
一際大きく、触腕が動いた。右手首を掴んだ触腕が、一際大きく、離れていく。
右手首だけでなく、腕ごと離れていく。
血しぶきを吹き出す、私の右腕を触腕が握っていて。
「右腕が、ない」
肩の辺りを見ると、そこには何もない。
ぼとりと、触腕が五指を開いた。当然のように私の右腕は地面に落ちた。ゴミのように二回ほど転がって、そのまま動かない。血溜まりだけが出来ていく。
少し遅れて、何もない右肩から、魂が抜けるような勢いで血が噴き出した。
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