耳と腕
始めに仕掛けたのは俺だった。
色々考えてはいたんだ。どうやって五分を凌ごうかと。
守りに徹して、時間を稼ごうか、と。
だが、身体が勝手に動いていた。気付けば俺は左手に力を込め、木の根をヤツに向けて射出していた。
距離だ。この化け物に抗うとするのなら距離を考えなければならない。
俺は、彼女ではない。彼女のように容易に死線を飛び越えたり、離れたりは出来ない。
近付かせてはならない。それは俺の死、探索の失敗を意味する。
そして、俺の死はおそらくーー これはもしかしたら自惚れかもしれないが、彼女の死をも意味するだろう。
それはダメだ。とても良くない。
彼女は俺に時間稼ぎを託したのだ。その期待を裏切る事は出来ない。
ここで、彼女を死なすわけには行かない。
それが一番の理由だった。
だから近付くな。だから、死ね。
木の根が、俺の意思を汲む。伸びる、地面を砕き草花を散らしながら。
行け。
小手調べと言わんばかりに一本の木の根がまっすぐヤツに伸びる。これまでの戦いで一つ、気付いた事がある。
大耳を狙って伸びる木の根。空気を裂きながらぐんっと迫る。
大耳がぐねりと曲がる。まるで液体のように柔軟にとろけるように、まがりくねり、木の根を避けた。
まだだ。
空振り、それでも伸び続ける木の根に、更なる命令を下す。
*戻れ。
木の根がブーメランのように弧を描く。Uターンのようにきつい角度で曲がる木の根が、今度は真後ろから大耳へと迫る。
ばあ。
巨体が、四本の足を地面に食い込ませる。人間の足を昆虫の節足の形に歪めたような気味の悪い四肢が蠢く。
耳が飛んだ。
その場でまるで宙に浮かぶように。大耳を貫かんとする木の根はまたしても空振り、そして。
ずん。
腹に響く重たい音ともに、耳の化け物がまたその場に着地。木の根はその巨体に踏み砕かれる。
ピシ、と音がした思うと、左手の小指の爪が弾け飛んだ。熱い。痛みはすぐにやってくるだろう。
躱した。これで二度目だ。
大耳への攻撃を二度も。予想は確信へと変わりつつある。
なるほど、そこはやばいってお前も気付いたのか。
それがお前の弱点だ。
貴様もようやく生命らしくなってきたな。
そして貴様が生命であるのなら、俺に縊り殺せぬものはない。
私は腕。木を手折るもの。木を尖らせるもの。
そして
「生命を縊り殺すもの」
言葉を口に。湿った口内から粘着質の水音が聞こえた。
耳が、近い。
永い、永い戦いだった。
今度こそ
「私が、貴様を殺す」
木の根が爆発するかのように、足元から伸びる。
それは今までの速度の比ではない。湧く。まさにそうとしか表現出来ない。
決壊した鉄砲水のように、獲物に群がる軍隊蟻のように。
木の根が、耳へ群がるように殺到する。
大耳ごと、その醜い身体を貫き通してやる。
さあ、耳、どうする?
あの時と同じようにはいかない。今度は私が勝つ。
耳の巨体、そこかしこから伸びるのは醜い触腕。それらが一斉に弾ける。
怒涛のように殺到する木の根、それらを迎え撃つ触腕。
両者の距離は刹那の間にゼロとなる。
*貫け
根のささくれ立つ切っ先が、触腕の開いた手のひらを貫く。
貫かれながらも触腕の手のひらが根を握り潰す。
ぶつかり合う木の根の奔流と、触腕の奔流が潰れ合う。
血が、樹皮が弾け飛んだ。血液は空気中に飛び散り、薄い樹の皮が宙を舞う。
それらをかき消し、かいくぐる存在が一本。ぼっ、と空気を潰しながら耳の触腕が迫る。
呼吸の狭間、一拍の隙。息を吸って、吐く。その挙動を終える前に触腕が伸びる。
や、ば。
俺に迫る、触腕。避ける? いや、それはダメだ。後ろには彼女がいるーーから。
伸びろ、樹心限界。ガードーー
足元から木の根が伸びるよりも、触腕の方が速い。
間に合わない。
触腕の広げられた手のひらが視界いっぱいに広がる。もう、すぐ、そこまで。
ひゅおん。耳に風切り音がこだまする。高速道路を走行中に窓を開けた時に聞こえるような、そんな音が一瞬。
顔に迫る触腕、そのまま顔面を潰されるかと思ったそれが、俺の顔、その真横を素通りする。
は?
ヤツの狙いは、まさか。
初めから、俺じゃなくて、アシュフィールドを?
あーーーーー
あーーーーーー
ーー同調率、二割を超過
*防げ
力の奔流。かつてあった奇跡。
私の背後の地面から木の根がそのまま射出されるような速度で真上に、ただ、ただ真上に伸びる。
ぶゅ、び。
気の抜けそうな間抜けな音を耳で味合う。ふむ、聴くのは久しぶりだな。
木の根から、何かを貫き、縫い止めた感覚を感じた。
かつてあった、懐かしい感覚。
尖った木が、肉を貫くあの重量感溢れる愉悦。
いや、貴様の狙いはわかっている。あまり私を舐めるなよ。
木の根に命令。振り返らずとも分かる。ジョーカーを守る事に成功した。
私の真横を通過した耳の触腕を、我が切り札を狙った浅ましい触腕を、地面を貫き真上に生えた木の根が下から貫き、その伸縮を止めていた。
高速で伸縮していた触腕は突如真下から突き上げられる。その軌道を無理やりに打ち上げるように変えさせられた。
木の根に貫かれた部分から、赤い血が漏れ出す。私の木の根から湿った、それでいて満ち溢れる滑りけを感じた。
ははは。間抜けだな、愚かな耳よ。
もはや、貴様を屠るのに手段など選ぶものか。人間だろうとなんだろうと全てを使おう。
左手を見やる。上にすかすように掲げる。
箱庭の擬似的な光に、太陽に似せられて造られたその光に、肌が透け、その中に通る赤い血潮が浮かんでくる。
ああ、たしかに似ている。
ただ、似ているだけでもこんなに馴染むものか。
気をぬくと、腹の底から笑い出してしまいそうだ。
それはこの冗談のような偶然。まったく意図していなかった喜劇のような事態を笑うものか。
それとも腕に満ちる力。足が感じるたしかな体重。風を受け取る肌の感触。これらが、あまりにも面白かったからなのか。
この高揚感を、抑えきれない。
なにもかもが、懐かしい。
「貴様の相手はこの"私"だ」
「Les bras」
大耳が、唸るように音声を再生する。
は、貴様なにも変わっていないな。
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