長い五分の始まり
得体の知れない巨大なものがゆっくり、ゆっくりと動き始める。
そりゃそうだ。そんな都合の良いこと、起きるわけがねえ。
彼女の準備とやらが終わる五分の間ヤツがそのまま何もしないでいてくれるなんて、そんなことあるわけがねえ……。
その異様な巨体には、彼女が放った槍がいくつも突き刺さっている。
どのような膂力で放れば、木製の槍があそこまで深く突き刺さるのだろうか。
だが、それでもヤツはまだ生きている。英雄による槍の大量投擲をその身に受けながらも未だ、ヤツは死んでいない。
目を凝らす。
探索の基本、怪物種との戦闘の基本は観察だ。
種類を判別、状態を確認、それらを正確に行えるか否かで探索者の生存確率は大きく違う。
サイズ、巨大。種別、不明。
傷口、多数。出血、大量。いや、あれは……
ヤツの傷口から赤い血のあぶくがボコボコと溢れている。通常の生命ではありえない現象だ。
「治してんのか?」
この一日のヤツとの戦闘において獲得した情報を頭の中に羅列する。
膂力、強大。性質、残酷。体質、再生能力あり。
一階層での戦闘の際もそうだ。
ヤツにつけたはずの傷はそれこそ、巻き戻しでもしているのではないかという速さで治っていた。
考えろ。今、揃っている情報は以上だ。シンプルに行こう。
俺の勝利条件はなんだ?
決まってる。ヤツを殺す事。耳の化け物の排除が最終目標だ。
その為に俺が出来ること、それは……
「マジで頼むぜ、英雄」
目線は前に、意識だけを俺の背後に佇む木の繭に向ける。
今、あの中で化け物狩りの最後の詰めが行われている。
準備、彼女はそう言った。
木の槍を一本だけ持って行う準備とは一体なんだ? 五分間も何をするんだ? 様々な疑問はある。
だが。
「まあ、いいや」
つぶやき、上唇を舐める。乾燥したそれに湿った舌が張り付くような感触を覚えた。
彼女は、きっと殺すだろう。宣言通りこの恐ろしい化け物を。準備さえ終えたのなら必ず、彼女はやり遂げる。
俺の役割は。
俺の出来る事、やるべき事は。
前を見る。そこにはヤツがいる。滅ぼすべき大敵、狩るべき獲物、殺すべき恐怖。
「でかくて、キモくて、強いか……」
その異様。
ただの人の耳。
耳と耳が繋がり合っているだけのその姿。
何者にも望まれず、何者にも受け入れられる事もなき生命。
その存在はまさに、神の不在証明。この世界の歪さの証拠。
一体誰がどのように、いや何がどのように作用すればこのような生き物が生まれるのだろうか?
お前を望んだのはどこのどいつだ?
お前は一体、なんなんだ?
俺の目の前で、大耳がブルリと揺れた。その身体の至るところから肌色の触腕が伸びる。
ゴムのように伸び縮みするもの。手のひらの形を掌るもの。先が尖っているもの。
まあロクなもんじゃないな。
左手を掲げる。ヤツに手のひらを向ける。残念ながらビームとかは出そうにない。出ればいいのにな。
……始めよう。
やるべき事をやる。たとえ命尽きようともこの五分間は俺の時間だ。
よくよく考えてみればひどい一日だ。
始まりはなんの気にもなしに受けた遺留品の探索任務だったのに。金に目がくらみ、インセンティブ付きの灰ゴブリン狩りに移行したり、未知の化け物に追い回されたりよお……
考えたらまだ報酬、受け取ってないじゃん。
しかしよくよく考えてみればこの耳の化け物だって仕事になるはずだよな。
さしずめ、探索依頼にするとすればーー
探索目標、未知の怪物種、改め耳の化け物、駆除。
詳細をつけるのなら、そうだな。
命に代えても、五分間。彼女に指一本触れさすな。
これで行こう。
誰も見ていない、俺だけが知っている怪物狩りの始まりだ。
ヤツが一歩、また一歩。近付いてくる。
でかい、距離が近づけば近づくほどに。見上げるほどの大きさ。
恐竜と相対したらこんな風なのか? さぞ、怖いだろうな。
心なしか、怪物が先程よりも大きく、強く、そして何より近く思えた。
すぐにその理由に気づく。
彼女が、いないからだ。
さっきまでは、俺の代わりに最前線に立つ存在がいて、今はそれがいない。
それだけの事。
最も危険な耳の化け物の至近距離で舞う英雄がいたからこそ、先程までの俺は冷静さを保っていたのだ。
今や、最前線で命を、死に晒し続け戦っていた彼女は、俺の背中の後ろにいる。
俺を守るように戦ってくれた彼女を、今度は俺が守らねばならない。
最前線は、俺一人。
たった一人で、耳と向き合う。
今や、腰には斧はなく、携えるのは、奇妙で不気味な力。自らを"腕"と名乗る怪しい存在。
これはきっと英雄の物語ではない。
化け物に抗う資格を得る為に後先考えず、よくわからないものを懐に入れるアホの物語。
ただの人間、どうしようもなくちっぽけな俺の現実。
ああ、耳の巨体が、また一歩。近付いてくる。やけにそれがゆっくり感じる。
心臓の鼓動が、早鐘を、うつ。
まるで、早く逃げろとせっつくように、どくりどくりとなり続ける。
やかましい、従わないなら抉りだすぞ。
途端に静かになった愛しい心臓を思い、俺は息を吸う。
草原の匂い。大草原を渡る風に、緑の匂いが混じる。
続いて臭うは、血の香り。生臭く、脳に満ちる濃厚なかおりに目眩しそうだ。
耳の化け物の背後から吹き付ける風。それら全ては血に染まっているのだろう。
酔い。バベルの大穴に満ちる酔いが俺の嗅覚を尖らせていく。
酔い、そもそもこれはなんなのだろうか。人であれば万人が、この場所に酔う。
抵抗力の差さえあるものの、結局は皆、酔う。
頭が茹る、茹だった頭に入っている脳みそがとりとめのない疑問を考え始める。
まあ、いいか。今はどうでもいい。
酔いが、俺の全てを最適化していく。ただの弱い人間を、少しでも戦えることの出来る存在へと上書きしていく。
嗅覚を、視覚を、聴覚を。いつもよりほんのちょっぴり尖らせていく。
鋭敏になった感覚を思いながら、吸って溜めた息を、口からゆっくり吐く。
体内の熱を吸った空気が、喉から口へ流れ出る。
サウナ上がりの水風呂で行う深呼吸によく似ていた。
酔いが、回った。
恐怖はいつのまにか、薄くなり、代わりに奇妙な興奮が胸の辺りに満ちてくる。四肢に力が満ちる。それらは解放の時を待っている。
おもむろに近くにあった木の槍を彼女に倣い、引き抜く。意外としっかり根が生えたように地面に突き立つそれを引き抜き、そして
彼女のように投げてみた。
そもそもがただの木の槍、弧を描きながら緩やかに宙を浮く槍は、耳の化け物の大耳を外れ、前足に到達した。
びぃん。
木の槍は突き立つ事もなく、その強固な皮膚に弾かれ、転がり落ちた。
やっぱりね。そりゃそうだ。
自分と彼女の違いを再確認した。
突き立ちこそしなかったものの、耳はその歩みを止めていた。
大耳が、こちらを俺をじぃと見つめている。
準備は完了だ。
探索目標、耳。
耳の化け物、前方。
距離、十数メートル、接近。
五分間、生きよう。生き残って、そうだな。彼女に投擲のコツでも聞いてみよう。
「ファイナルラウンドだ、最期まで付き合ってもらうぞ。クソ耳」
大耳が、再度ブルリとふるえた。
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