ファーストエイド
ばしと、彼女の腕が唐突に動き、俺の右手首を掴む。途端に手首に、軋むような痛みを感じる。
ちから、つよ!
「レディの……許可もなく、唇に手を伸ばすのはどうなのかしら」
彼女が片目だけを開いて、ぼそりと呟いた。開けられた碧眼はどことなく苦しそうにも見える。
「アシュフィールド! 起きたか! て、待って、待って待って。イタイイタイ、マジでいたい」
叫んだ後に思わず呻く。彼女に握られていた手首から深刻な痛みが生まれていた。
ぱっ、彼女が手を離す。パタリと力なく彼女の手が地面に沈んだのが見えた。
「あっー、頭痛い、タダヒト、状況は? アタシ、どうなったの?」
彼女が、片目だけを忌々しそうに開けて俺に問う。
「分からん! アレがなんか変な音を出したかと思うと、途端にアンタを見失ったんだ。アレを退かしてから近くに来れば、アンタが倒れてたんだよ」
俺は彼女に説明しつつ、ちらりと耳の化け物を視界に入れる。
耳から流れていた血がいつのまにか止まっている。それに、何か様子がおかしい。体勢を低くして、あの長い巨体を丸めている? 実家の柴犬が昼寝している時みたいだ。
「そう、音ね、そう音。あの音か。タダヒト、あなた、何もなかったの?」
彼女の問いかけに俺は思わず眉を顰めた。どういう意味だ?
「何もないわけじゃないが…… むしろあんたこそなんでだ?」
素直に思った事を彼女に伝える。彼女が鼻から息をフッと吐いて目を瞑った。
なんだ、俺は何か気に入らない事を言ったのか? 言ってしまったのか? くそ! これだから女心はわからん。
「まあ、いいわ。今、それどころじゃないし。タダヒトお願いがあるんだけど」
俺が頭を抱えて、思考を巡らせていると彼女が語りかけて来た。
「なんだ? てか意識があるんなら早く起きてくれ、いつアレが襲ってくるかわからない」
耳の化け物はおよそ十メートル程離れた場所に佇んでいる。攻撃らしい攻撃も、先ほど不意打ちのように打ち込まれた一本の触腕だけだ。どう考えても様子がおかしい。
彼女が言葉を続ける。
「そうね、早く動きたいのはやまやまなんだけど。身体、動かないのよ。多分アレの声を聞いてからだけど。なんらかの攻撃を受けてしまったみたい」
淡々と語られるその言葉。すぐに意味を理解した。
え、それ、やばくない?
「そんな顔しないの。よく聞いて。これから動けるようにするから、それを手伝って欲しいの」
彼女が目を瞑ったまま、言葉を紡ぐ。
「わかった。何を手伝えばいい?」
もう、余計な事を聞く時間も惜しい。頭を下げて切り替え、シンプルに事を成そう。
「ふふ。まずアタシの身体、背中を起こしてもらえる?」
「あいよ!」
すぐに彼女の頭の方へ移動する。華奢な肩の辺りに両手を差し込み、一気に持ち上げる。やっぱ、見た目以上にーー
「重たいとか思ったら殺すから」
見た目以上に、見た目以上に。
冷たい声を逆に無視する。今は何を言ってもダメだ。
重たいと思っていると、思われないように瞬時に彼女の背中を後ろから起こす。唸れ、上腕二頭筋。駆け巡れ、三角筋。俺が生き残る為に。
秒もかからず、彼女の華奢な、見た目通り重たくないその身体を起こした。
「ありがと、少し、支えててくれる? うん、ちから、ほんとにはいらないの」
俺は彼女の背中に後ろから密着する。腕を折りたたみそれを彼女の背中に押し当てた。
彼女の腕がゆっくり後ろに回る。遅い、本当に力が入らないらしい。その腕は彼女の腰の後ろ。臀部に向かおうとしていた。
「っ。ごめんなさい、タダヒト。ちからはいんないわ。代わりに取ってもらえない?」
「何をとればいい? 場所は?」
簡潔に質問を行う。一瞬の間があって後、彼女から返答が帰ってきた。
「……錠剤よ。こういう時に効果のあるヤツ持ってるの。おしりのポケットにあるから取って」
ふんふん。なるほど。おしりのポケットか。
……今はそれどころじゃないか。
「了解」
短くつぶやき、俺は彼女の背中から腰の方へ視線を動かす。腰に行くにつれて引き絞られていくようなくびれが迷彩服の上からでもよくわかった。
そして、視線は最も下、腰の下のおしりに向かう。
ええい、南無三!!
たしかに迷彩服のおしりの部分にポケットが二つ付いている。地面に腰かけるような状態のため、自然と手を抜き入れるような形になる。
まるで、さするような手つきで一気にポケットをまさぐる!
「ひゃ!」
すぐに彼女から一際高い声が飛び出てきた。驚きと、何か別の熱いものが混じった声。ひゃ、じゃねえよ。ひゃ、じゃ。
「ちょ、ちょっとタダヒト、手つきが乱暴すぎないかしら?!」
「うるせえ! こっちだって色々考えた上でやってんだよ! 色っぽい声出さないでくれ! 気が散る!」
あ、やべ。うるせえとか言ってしまった。おそるおそる視線を上に戻す。ぴく、ぴくと彼女の身体は振動している。後ろから見える金色の髪の中に紛れた、彼女の形の良い耳が、少し赤くなっていた。
俺はすぐに、視線を尻ポケットの方へ押し下げた。すぐに指の腹にひんやりとした硬い感触を感じる。
それをすっと抜き取った。なんだ、これ。銀色の薄いケース。コンビニに売ってあるタブレットケースに似ている。
「これか?」
彼女に、ケースを差し出す。
「そ、これよ。ありがと、つぎはもっと優しくてくれるとありがたいわ」
彼女がケースを受け取ろうと、腕を伸ばす。が、すぐにそれは力なく地面に落ちる。
「大丈夫か?」
俺はケースを持ったまま、しゃがみこむ。
「大丈夫ではないわ。力が、くそ。あのモンスター、本当にイかれてるわ」
彼女の碧眼が再び、片方だけ開く。だがそれも一瞬のことだ。すぐに力なく閉じてしまった。
「タダヒト、ケースから一粒、取ってくれない」
「あいよ」
これ、どうやって開くんだ。少し迷ったがなんのことはない。便箋の形をしたメタルケースだ。中心のボタンみたいなのを押すとぱちりと開いた。
指を差し込み、錠剤を一粒取り出す。彼女の方へ視線をやると、反応するように頷いていた。これで合っているらしい。
彼女に、錠剤を渡そうと差し出す。ゆっくりと彼女がそれを受け取ろうと腕を伸ばす。
パタリと腕が地面に落ちる。
思わず、彼女の方を見やる。にやり、といたずらにその表情は笑っていた。いや、笑うとる場合かよ。
そこから彼女は目を瞑ったとも思うと、ゆっくり、ゆっくり口を開いていた。雛鳥が親鳥に餌を乞うように。
桜色の唇が開く。真っ赤な血に染まったような口内の中、同じように赤い舌が艶めかしく蠕く。
それはゆっくりと伸ばされていた。
え、何。これ、そういうプレイ?
「え、何。これ、そういうプレイ?」
心の声がまんま、口から飛び出す。
なんだ、これどうしろって言うんだ。これだから女は本当にわからん!
ええい、ままよ! 俺は摘んだ錠剤を構える。なんかそのまま口に運ぶのは負けたような気がするので、彼女が予想もしていない方法をとろう。
開けられた口元まで持っていき、デコピンをの要領で錠剤を弾く。
赤口艶やかな口内に、吸い込まれるように錠剤は入っていった。
おやつのペレットをキャッチする犬のように彼女がタイミングよく口を閉じる。俺の方までガリっという錠剤を噛み砕く音が聞こえた。
白いのどがごくりと嚥下する。二秒ほどした後、今度は彼女の両眼が開いた。
「……ありがと。タダヒトはダメね。ダメな奴ね」
「なんだ、それはどういう意味だ、どこがどうダメか教えてもらおうか」
彼女が息をゆっくりと吐く。俺がシルバーケースを差し出すと今度はパシリと彼女がそれを受け取った。
「そういうところよ」
彼女がゆっくりと、立ち上がる。
「大丈夫なのか?」
「ええ、アタシ、クスリがすぐに効く体質なの。本調子には程遠いけどね」
彼女が伸びをしながらこたえる。身体の調子を確かめるように、手首、足首をぶらぶらと揺らす。
その瞳はゆっくりと、化け物を見つめていた。彼女が立ち上がるの見計らい俺も、立つ。
やはり、彼女の方がほんの少し背が高い。彼女がこちらに視線を傾ける。
「タダヒト、作戦を考えたわ」
彼女がゆっくり、噛みしめるように呟く。いつ考えたんだろうという疑問が湧き上がるが、それを言葉にするような愚かな事はしなかった。
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