均衡
音が、世界を塗りつぶす。
あまりにも不快な音に対し反射的に耳を両手で塞ぐ。
なんだ、これ。耳を塞いでいるのにまだ鳴りやがる。
この音は耳を抑えても防げないのか。
胸に、どうしようもない不安を落とすかのような奇妙な音。これまでの人生で一度たりとも聞いたことのないような、怪しい音。
百年前に作られたパイプオルガンを悪霊が悪意を持って鳴らしたとしてもこんな音を出せないだろう。そんな音。
この音は、まずい。
少なくとも良くないものであることだけは確かだ。
眉間に力を込め、ヤツを見る。大耳の耳穴に二本、槍が無造作に突き刺さっていた。
すぐ、異変に気付く。
「うわ」
思わず、声が漏れた。
耳穴からは夥しい量の血が流れ落ちている。粘性が高いのか、コールタールのようにドロドロとしたそれが、耳穴から垂れ落ちていた。ゆっくりとその血に巻き込まれて槍が抜け落ちる。
掲げるように高くもたげたその大耳から流れ落ちる血と共に槍が地に堕ちる。
「素直にそのまま殺されるようなやつじゃないか……」
耳にこだまするその音を振り払うように首を振る。くそ、気分が悪い。
二日酔いと、乗り物酔いが同時になだれ込んできたかのような感覚に、足元がもつれそうになる。倒れる、わけにはいかない。必死にその場で体勢を保つ。
そうだ、彼女は?
視界の中に常に納めていたはずの姿が見えない。いつでもフォロー出来るように姿を追っていたはずなのに。
心臓から嫌な気持ちが汁のように滲み出ているようだ。それは血管を伝い、全身へと広がっていく。
どこだ、どこだ、どこだ。
耳の化け物から視線を外さぬように周囲を見回す、槍の突き立つ大地に化け物が一匹。先程まで槍の隙間を駆け巡り、躍動していた彼女の姿が見つからない。
途端にそれまで身体を支えていた何かがぐにゃりと曲がり始めているような気がした。これがなくばきっともう、俺は立ち向かう事は出来ないだろう。
探す、彼女を。目を凝らして辺りを見回す。耳の化け物がゆっくり、ゆっくりと動き始めた。
ああ、木の杭が。崩れた。ヤツはとうとう身体を下から貫く木の杭を崩し切った。その巨体がうねる。ぶちん、ぶちんとヤツを拘束していた木の根も千切れた。
左手、人差し指の爪が縦に割れた。指先から脳髄へ駆け巡るのは鋭い痛み。
やばい、やばいやばいやばい。
思考が乱れる。すぐ目の前にいるのが絶対的な死、そのものである事を思い出してしまう。
一歩。一歩、足を下げた。下げてしまった。おい、待てコラ。なんで俺は後ずさったんだ。
身体が、まるで他人の物のようだ。意思に反して動いたり、動かなかったりしてしまう。
ふざけるな。ここまで来てびびってんじゃねえ。
必死に、小刻みに振動し始める膝を抑えようと力を込める。しかし、まるで膝に穴でも空いているかのように、力はそこから抜け落ちる。
ふと化け物が高く、高くもたげていた耳を下に下げた。そして辺りを見回すかのように左右にゆっくりとその耳を振る。
何をしている。
何かを、探している?
そして、ある地点の方をじぃと見つめるかのように固まった。
次の瞬間、俺の身体は勝手に動き出していた。
あれほど力が入らなかった身体に、どこから湧いてきたのかわからない力が充実している。
化け物まですぐの距離。突き立つ槍を避けながら、時には蹴飛ばしながら、大耳の見つめる地点に走る。
待て、待て、待て待て待て。
やめろ、やめろ、やめろよ。マジで。
化け物の大耳が、此方に向く。未だ血の流れ続けるその穴が俺を見つめる。
不吉と呪いと死と災い。それら全てをごった煮にして、湿った地下室で熟成させたかのようなその異様が、俺を見る。
一瞬、足が止まりそうになる。
でも、一瞬だけだ。
そうだ、初めから分かってただろうが。コイツは恐ろしい存在だと言うことは。それはすでに折り込み済みのはずだ。
「どけ!! 邪魔だ!!」
樹心限界。ヤツを退かせろ!
呼応するように足元から伸びるのは木の根達。
走る俺の脇から木の根が、迸る。数十本にも及ぶ膨大な根が、その先を尖らせ大耳に迫る。
貫け!
数十本の木の根のうち。二本のより太い木の根がまっすぐ、大耳を狙う。そのまま吸い込まれるように穴に、根が迫り。
そして、空を切った。
標的を見失った木の根は、そのまま伸び続ける。
躱された。ヤツはあの始めの姿。太り過ぎの幼児のような姿の時と変わらない身のこなしで、その長い巨体をくねらせ、滑るようにその場から飛び退いたのだ。
ヤツの巨体は突き立つ槍を薙ぎながら、後退していた。
速い。いや、お前、それはダメだろ。象が豹のように動けたらダメだろ。
根を追撃に向かわせる。とにかく今はヤツを少しでも遠くに!
木の根でヤツを牽制、俺はそのまま走り続ける。化け物が飛び退いたその地点に、彼女はいた。すぐに見つからないわけだ。突き立つ槍の隙間に挟み込まれるように彼女はうつぶせで地面に倒れ伏していた。
「おい、大丈夫か!? 起きろ!」
すぐさま彼女に駆け寄り肩を揺らす。なんで、一体どうして?どこで彼女は倒れたんだ?
様々な疑問が頭を駆け巡る。必死で彼女を揺さぶるもなんの反応も帰ってこない。肩にばらける金色の髪をかき分け、彼女の頸動脈を探る。ひんやりとした、それでいて信じられないほどにすべすべしている感触に、少し驚いた。
とくん、とくん。指の腹に振動を感じる。
「生きてる」
またも、声が漏れた。良かった、生きてる。気絶しているだけなのか。
「おい、アシュフィールド! 起きろ、頼むから起きてくれ!」
バチィ!
頭の上で爆竹が弾けたかのような音が響く。反射的に上を向くと、唐突に伸びた木の根と、耳の触腕がぶつかり合って鍔迫り合いのように拮抗していた。
ここはやばい。
「っ! 少し雑に動かすぞ!」
うつ伏せの彼女の肩と腰、服を鷲掴みにして引っ張ろうと力を入れる。見た目より重たい。力が抜けきっている。
「お、らあ!」
無理やりに引っ張るように彼女をゴロンと仰向けに転がした。彼女の顔が見えた。長い睫毛が伏せられ、瞼は閉じられている。顔だけ見れば寝ているようにも見える。
顔の至るところに草花が汗で張り付いていた。桜色の唇に視線をやると口元にも草がついていたため、それをとろうと俺は指を腕を伸ばした。
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