名前、そして
音もなく。
彼女が俺の側の先端が潰れた木の杭に舞い降りた。一体どのくらいの高さを跳んでいたのだろう。本当に彼女だけ重力を免除されてるんじゃないのか?
だとしたら、それはすごいな。
「タフな力ね。やり遂げてくれてありがとう」
彼女が俺を見下ろしながら語りかけて来た。その口調はとても穏やかなものでいて。
「どういたしまして、悪い、少し制御できなかった。期待には添えたか?」
俺は彼女を見上げる。彼女は器用にその先端の潰れた木の杭の上にしゃがみこむ。それでも彼女の目線の方が高かった。
「ええ、期待以上だわ。まさか下から貫かれそうになるとは思ってなかったけどね」
膝に肘をついて頬杖をつきながら彼女がにかりと笑った。タフな女だ。
「あれは…… そうだな。たしかに悪かった。無事でよかったよ」
一瞬、小粋なジョークでも挟もうかと思ったが怒らせたら怖いのでやめた。下から挿されるのは初めてか? とか。
「ミスター、今、何か考えてなかった?」
にこりと笑う彼女の表情を見て確信する。
ああ、余計な事言わなくて良かった。
「まさか、てかミスターって何だ、急に」
俺は彼女に短く問う、目の前で耳の化け物がもがいている。その身体から触腕を無数に生やし、自らの身体に食い込んでいる木の杭に向けて伸ばす。折るつもりだ。
「あなたの仕事に敬意を表してよ。日本人、じゃあ少し失礼でしょ? ここまでの事が出来る人間はそうはいないわ」
「それ褒めてんのか?」
「もちろん」
「上から目線過ぎないか?」
「あら、それは、高いところ申し訳ないわね」
彼女が誤魔化すように笑う、俺も釣られて笑った。
やがて静かに彼女の顔から笑顔が消える。夕方から夜に、太陽が水平線の向こうに沈むように。
「名前…… 名前教えてくれないかしら、ミスター」
碧眼、彼女の碧い瞳が俺を見下ろす。それは濡れているようにも揺れているようにも見える。液体と固体の中間地点にある綺麗な宝石のようでいて。
彼女が俺に名前を聞いた。
そういえば、彼女はまだ俺の名前も知らないんだったな。
「ああ、もちろん。アジヤマ。味山只人だ。宜しくな」
名前を名乗ってから彼女に右手を差し出す。
「ああ、そう、確かにそんな名前だったわね。友人はあなたの名前を知っていたの。そう、アジヤマ、タダヒト」
彼女がゆっくりと、噛み締めるように俺の名前を言葉に出す。
それからじっと俺を見つめた後、相好を崩した。ため息をついたような、安心しているようなそんな表情だった。
「一度聞いてんだけどね、人の名前覚えるのあまり得意じゃないの。でもあなたの名前はもう二度と忘れないと思うわ」
そして、彼女が俺の右手を握り返した。柔らかくそれでいて固い。さっき握った手のひらと同じ感触。
「日本人はファストネームとラストネームが逆だったわよね。ならミスタータダヒトでいいかしら?」
彼女が唇を右端を吊り上げニヤリと笑いながら話す。
「それで合ってる、ただミスターは勘弁してくれ、タダヒトだけでいいよ」
「あなたが言うならそうするわ。タダヒト。自己紹介が遅れたわ、アタシの名前はーー」
彼女が胸に手を当てて言葉をーー
「アレタ・アシュフィールド、あんたはアレタ・アシュフィールドだ」
俺は彼女の言葉を遮るように言葉を放つ。
知ってたさ。最初からあんたの名前なんて。知ってるに決まってるだろ。
ぱちりと彼女が瞬きを一度。そして笑う。
「そ、ならいいわ。アレタでもアシュフィールドでもどちらでもいいわ」
あなたならね、小さく彼女が呟いた。
まじかよ。その言葉を俺は一生忘れないだろう。
「そうか、宜しく。アシュフィールド」
化け物から目を離さずに、彼女に答える。
「ファストネームでは呼んでくれないの?」
えっ、そこ気にするのか? 俺は思わず彼女の方へ視線を向ける。
少しむくれたような様子の彼女が、こちらに微笑みかけてきた。気品のある猫がいたずらを思いついたような、そんな笑顔だった。
俺は、少し考えてから
「いや、アシュフィールドってなんか響きがかっこいいからさ。なんか、こう呼んでみたくなるんだよ」
ファストネームを呼ぶのは何故か恥ずかしかった。こればかりは性格だから仕方ない。それにアシュフィールドという響きがかっこいいのは嘘じゃあなかった。
しどろもどろになりつつ、俺は言い訳をするように彼女に答える。彼女はその猫のような笑顔を更に深くするだけで
「ふふ、やっぱりあなた変わってるわね」
彼女は一言俺に語り、視線を前に戻した。俺も釣られて視線を前に。
狩るべき獲物を注視する。身体から伸びた触腕で木の杭を殴り、握り、折ろうとしている。ヤツがもがけばもがくほど赤い血がその傷口から流れ続ける。木の杭が赤黒く染まっている。
凄惨な光景。だが、恐らく見た目以上のダメージは負っていないのだろう。
「あなたの名前も聞けたし、もうこれで思い残す事はないわ」
冷たく、それでいて鋭い。そんな声だった。
いつのまにか彼女がまた音もなく、潰れた木の杭から地面に降りたっていた。俺の少し前に佇んでいた。
彼女はすぐそばに生えている木の槍を二本同時に引き抜く。長さ一メートル弱の木の槍をふた振り。出来映えを確かめるように彼女は手に携えた槍をくるくる回す。サーカスの演目にこんなのあったような。
「あなたの仕事は完璧よ。素晴らしいニンポ…… ごめんなさい。力だわ。」
彼女が槍の切っ先をゆっくり地面に触れさせる。似合う、なんていうか、こう、すごく。
「かっけえ……」
あ
思わず、言葉が、ポロリ。
彼女がこちらを振り向く。ニヤリと嗤う。
「バカね。じゃあ行ってくるから」
槍を掲げる、挨拶するようにぷらぷらと左右に振ってから
「タダヒト」
名前を呼ばれた。彼女に。あのアレタ・アシュフィールドが俺の名前を呼んでいる。
「信じてるわ、合わせて」
それから彼女はゆっくりと、前を向く。一瞬態勢が低くなったと思うと、カタパルトから射出される艦上戦闘機のように。
無数の槍が突き立つ草原を駆けてゆく。俺の作り出した狩場を彼女が、駆ける。
信じてる。それはとてつもなく重たいものだ。祝福か、それとも呪いか。
まあどちらでもいいか。
今、どうしようもなく胸が熱い。
この熱さはウソじゃない。
酔いに従おう。この熱に浮かされよう。ここは現代ダンジョン、バベルの大穴。
シラフでいる事は出来ない。
あの弩級の酔っ払いは、俺を信じると言った。ならば俺も、信じよう。必ずあの英雄は化け物を殺す。
俺に出来る事は、彼女を化け物の命にまで届ける事だ。
応えなければならない。
さあ、最後の戦いだ。
耳の化け物、前方、約十数メートル。
最後の探索を始めよう。
「任せろ、俺も信じてる。英雄」
きっと俺の声は、彼女には届かなかっただろう。
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