凡人と悪魔
不思議な光景ね。自らに語りかけて、自らを知る。
貴方もそうだったのかしら?
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頭の中に鳴り響くこの声を俺は知っている。幽谷の底、地獄の底、それらのような場所から鳴り響いているようなこの冷たい声は。
*少しは可能性が出たかと覗いたが… …今更臆したか。人間
「お前……。なんで……」
頭の中で響く声。これは俺の声ではない。その声に言いたいことはたくさんある。なんで今更や、なんでお前が、なんで、なんで。
「お前は一体、なんなんだ?」
少なくともこれは俺の生み出した幻想の類ではない。それだけはわかっている。
*私は腕。偉大なる其の腕。木々を伐りしもの。紐を編むもの。繋ぐものであり、敵を縊り殺すものだ。私は私がなんなのか良く知っている、だが人間、今のお前は一体なんなのだ
声が響き続ける。俺の目の前の世界は未だ止まったままだ。スローモーションどころじゃない、まるで時が凍りついたかのように何も動かない。
「なに…… なんだって?」
*私という存在を問う、お前はなんなのか、と聞いている。せっかく進んだ駒を戻そうとする貴様は。自らの無能を、無力を、簡単に受け入れる哀れな貴様は
*一体なんなのだ
なんだ。一体、俺は何を言われているんだ? わけが、分からない。
*人間、いや、我が業を一時でも結んだ業人よ。今の貴様の体たらくはなんだ? 私に向けて暴言を吐いていたあの気概はどうした?
俺は、まさか説教されているのか? このわけのわからない声に?
*貴様、先程から気づいているのではないか? 見ろ、既にあの忌々しい耳ですら貴様から興味を失っている。
なんだ、こいつ。なんなんだこいつ。
*貴様はもうあの化け物に殺す価値すらないと判断されているのだ。見ろ、ヤツの興味は既に貴様ではなく、あの特異個体である女に向けられている
「興味?」
*そうだ。興味だ。貴様が今日、あの耳に狙われ続けていたのはたまたま、アレが現れた場所にいたのが貴様だった。それだけのことだ
*まあ、今ではその興味も薄れた。そう、貴様はこのまま逃げれば生き残るだろうよ。あの女を生贄にしてな、おめでとう、貴様は部位の魔物から生き延びる事が出来たのだ
「まさか、それ嫌味のつもりか? 今更出てきて好き勝手言うじゃあねえか。姿も見せねえ化け物が」
思った事をそのまま口にする。体の熱は少しづつ収まり始めていた。灼けつくような全身の感覚は暖かい、ポカポカしたものに変わりつつある。
*本来であればもう貴様に語りかけるつもりはなかった。貴様が耳に嵌められこの場に引きずり込まれた時点で、勝ち目が消えていたからな
「勝ち目だと?」
*そうだ、勝ち目だ。先程までの貴様には万が一の確率もなかった。あの場で耳を仕留められなかった場合、貴様が生き残る事はなかったのだから。私は無駄な事をするつもりはない。
何か違和感を感じる、こいつの話は何かがおかしい。考えろ、こいつは今、一体なんて言っーー
……まさか。
「……あるのか? 今、勝ち目が?」
呟く。その問いの返答が早く欲しい。時間の止まった空間の中、俺は正体も分からない声にまるで縋るように問いかけた。
ニィ………
その答えはすぐに返ってきた。暗い暗い、闇の中を掻き分けて背後霊の囁きのような声が頭の中に響いた。
*ある。勝てる。目の前の特異個体と私の力が合わされば今度こそあの耳をほろぼせるのだ。貴様はギリギリの所で、あの特異個体と縁を結んだ。
根拠はない。自分でも馬鹿だと思う。こんな得体の知れない化け物の言う事に縋るなんて。
でも今の俺にはこいつの言葉が何故か、とても響くんだ。
*貴様の事をずっと見ていた、貴様の心をずっと聞いていた。貴様は無力にも立ち上がり、私の関心を得た。貴様は恐怖を怒りや、殺意に変えて立ち向かった。
*問おう、今の貴様は一体なんなのだ? その心にもはや煮えたぎるような怒りも、立ち向かう為の殺意もなく、あるのは自らを慰める為の諦めだけ。
*身体の傷は癒え、死は遠ざかった。しかし、貴様の魂は今、まさに死にかけている、貴様自らの手によって
*今の貴様は一体なんなのだ?
「俺、俺は……」
胸の中が冷たい。体中はポカポカしているのに胸だけが隙間風に晒されているかのようにとても寒い。
*貴様はそれで満足か?
「違う」
*諦めたいのか?
「違う」
*貴様は一体、何がしたい? 言え、我が業を引き継ぐ者よ。其の残滓にして、其の広がりし種子よ
*ただの人間よ
………く。
わけが、分からない。
「俺には、お前が何を言っているのかも、何がしたいのかも分からねえ……」
「だが」
胸が冷たい。
なのに、頭が、脳みそが
茹だりそうだっ!
「むかつく……」
「マジでむかつく、クソが」
「クソが!むかつくんだよ! いきなり出てきてわかった風な事言いやがって!」
「いいわけねえだろうがっ! そうだ! お前の言う通りだ! 今、ここで諦めていい訳がねえんだ! 死んでいいはずはないし、死なせていいはずもねえ!」
「自分はよくやった、なんて本気で思ってるわけねえだろうが! 餓鬼じゃねえ! 俺は大人なんだ! やり方や過程なぞどうでもいい! 必要なのは結果なんだよ!」
茹だりそうな頭を抱えながら叫ぶ。その叫びは俺と、この声にしか聞こえないのだろう。
むかつく、この状況も、この声も、あの耳も、あの女ですら。
「だが、それら以上に、俺は俺が一番むかつくっ!」
「何も出来ねえ無力がっ! 逃げる気満々の本音が、こんな訳の分からねえ声に煽られないと気づけなかった自分のアホさが!」
はあっ、はあっ、はあっ。気付けば息が切れている。頭がグルグルと回っているようだ。
「生きたい。俺は、死にたくねえ。でもだからと言って惨めに生きるのも嫌だ自分が納得して、自分が気持ち良く、幸せに生きていたい」
「何も出来ないのはもう、嫌だ」
*それが例え、重たい代償を伴うとしても?
そうだ。
*それが例え、他者の犠牲を強いるとしても?
時と場合による。今回は犠牲はなしだ。あの酔っ払いを助けないと、俺が気持ち良くならねえ。
死と疲れと諦めによって忘れていた俺の願い。
それは卑小な凡人のみが描く、哀れな理想。
その理想を叶える為なら俺はなんだって、するだろう。
そう、人生を自分の思うままに送れる、特別な存在になれるのならーー
*それでいい。我がーー腕よ
例え、悪魔に魂を売ってでも。もう、惨めな思いはしたくない。
「俺を、特別にしろ。化け物」
何も出来ない凡人ではなく、何かが出来る特別にーー
最後まで読んで頂きありがとうございます!