死なせない。誓いにかけて。
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彼女の手のひらにびぃんと伸びるような振動が残る。
良かった、間に合った。彼女は小さく息を吐く。
彼女は瞬時に判断。怪物の背中から弾け飛ぶように駆け下り、彼を庇う事に成功していた。
酔いにより向上した彼女の身体は今や、野生の獣すら軽く凌駕する身体機能を保有していた。
怪物から唐突に伸びた触手、彼女の救援対象へ思い出したかのように伸ばされたそれに追いつき斬りとばす事が出来る程に。
努めて息を整える。酔いの興奮を少しづつ意思の力で抑えていく。
今回は死ぬかも。
酔いにより、茹る頭の中で彼女はそう感じた。
彼女の脳裏に、自らの死がよぎる。
それは、彼女が探索者となった時から何度も感じ、そして乗り越えてきた感覚だった。
だが、何度乗り越えようとも平気になる事はない。死神の鎌が自分の首にそっと触れているようなこの感覚。
これがなくなった時こそ、自分が死ぬ時なのだろうと彼女は以前から考えていた。
(さて、どうしたものかしら)
この化け物、そう、耳の化け物とでも形容するべきだろうか。
彼女が今、向かい合っているこの怪物種の危険性は彼女の予想を遥かに超えていた。
いつもの狩りの手順を踏んでも未だ、ヤツは生きている。なるほど、たしかにこれは強い。
頑丈で、容赦なく、力が強い。
怪物だ。間違いなく厄介な怪物。
彼女は振り上げたに残る、最後の一本になった槍の切っ先を見つめた。
(やらかしたわ。これは。バレたらアリーシャに殺されそう……)
彼女は背筋に鳥肌が少々、立つのを感じる。酔いとは無関係だ。
最後の一本になった槍を強く握りしめた。
そう、最後の一本だ。耳の化け物との戦闘でベルトに備わっている彼女専用の探索者道具は全て尽きていた。
残るは手に残る一本のみ。
(湖畔ワニで、10本ぐらい使っちゃったからなー。やっぱり、あれね。ノリとテンションで行動したらだめね)
彼女は、肩越しに後ろを確認する。
救援対象である男が木の幹に背中を預け尻餅をついている。彼女がここまで来た理由が脇腹から血を流して呻いていた。
黒い短髪に、日に焼けた肌。唇のあたりは切れているのだろうか。赤い血が滲んでいる。
服装は灰色のカーゴパンツに、黒い革のコンバットブーツ。そして、茶色の登山ジャケット。
それらは皆、土に汚れたり、血に濡れていたり、スレて破けていたりなどボロボロの様子だ。
そして脇腹の部分には赤いシミ。重傷だ。ヤツにやられたのだろう。
その服装の様子を見れば、彼が今日どんな一日を過ごして来たのかがよくわかる。
殴られ、飛ばされ、叩きつけられ、転がされ、痛めつけられた。そんな様子だ。
だがそれにしても、よく生きていたものだと彼女は感じた。このなんの変哲もない只の探索者はどうやってここまで生き延びる事が出来たのだろう?
彼の様子を見つめていると、その理由らしきものを彼女は見つけた。
その目だ。
彼女の碧い瞳と離れた暗い黒い瞳は、痛みと疲れで澱んでいる。脇腹を抑えながら、痛みに耐えるように細く絞られていた。
彼女はその苦しげな彼の瞳の中に、火によく似たものを見出す。彼の目は絶望に塞がれているのでも、希望に輝いているのでもなかった。
ただ、ただ、小さく灯る火。
諦めが悪い、探索者の瞳だ。
酔いにより、強制的に麻痺させられた死の恐怖や、薄められた倫理観。それら全てを乗り越えた先にある、探索者の瞳。
なんだかんだで、自分が死ぬわけがないと心のどこかで思う事が出来る人間の瞳だ。
それは、ある意味とても傲慢で、不遜な瞳。おそらく、彼は自分が生き残る為ならばなんでもする事が出来るタイプの人間なのだろう。
探索者向きの人種だ。
(なるほどね、彼なら、そうね。生き残っても不思議ではない)
彼女は不思議と、その形の良い瞳を笑顔の形に歪ませていた。
痛みに、歪む彼の顔を見て、語りかける。
「あはっ、いい表情ね、日本人。とても痛そう。でもせっかくアタシが助けに来たんだから死んじゃあダメよ?」
彼女の声に、彼がひょこりと首をあげた。まるで飼い主に呼ばれた犬のようだと、彼女は感じた。
そんな、忠実な飼い犬のような彼の反応が面白くて彼女は、思わず片目を瞑る。
こんなに、自然にウィンクするなんて初めてだった。
彼女のいたずらを思いついた猫のように歪んだ碧い瞳と、どこかほうけたように開かれる彼の黒い目が交差する。
そして、その無言の中彼がたどたどしく口を開く。
「ゲホっ。わかった、わかってるから頼む。前を向いてくれ。ほら、アイツなんかめちゃくちゃ怒ってるみたいだ、ゴほ」
彼女は、小さくo.kと呟き視線を前に戻した。彼から見えないその表情は、何故か愉快そうに唇が半月の形になっていた。
彼女の目の前で、あの耳の化け物がゆっくりと歩みを進めてくる。体中に生やした投槍。その傷口から赤い血を流しながら。
(そういえば、赤い血を流す怪物種、初めて見るわね……)
ぼんやりと、彼女はそんな事を考える。酔いが彼女の思考をぼやかす。
怪物が一歩を踏みしめるその度に、体のありとあらゆる場所から腕を生やし続ける。背中、脇腹、四本の足。そして耳穴。
耳穴から伸びる腕は伸び過ぎて、ぼーぼーになっている耳毛のようにも見えた。いや、耳毛はあんなに死にかけの虫のように蠢いたりはしないかと彼女はすぐにその思いを打ち消す。
そして、耳穴からうめき、唸り声が響いた。この世のありとあらゆる人間の苦悶の声を混ぜ合わせてシチューにしたようなぐつぐつ、どろどろした叫びだ。
これはすごい。この怪物は本物だ。彼女はその肌をピリピリと痛めつけるような殺意を痛いほどに感じつつ、感心した。
あの
これは、怪物だ。これは恐ろしいものだ。これは人の敵だ。
人が敵うわけもない恐ろしい大敵。一切の容赦なく、残酷に生命を殺す化け物。どんな生命もこの化け物にかかれば、たちどころに奪われるそんな存在。
それが、彼女に向けて全身を震わせ殺意をぶつけてくる。
だからこそ彼女は笑う。
これは自分が滅ぼすべき存在だと、彼女は化け物を認知した。余人より離れた存在たる自分こそが立ち向かうべき試練。
英雄である自らに相応しい獲物。彼女の瞳に昏く、それでいて眩い光が灯る。
彼女の背には守るべき凡人が一人。充分だ。
彼女はただ一人の自らが守るべき弱き人に向けて言葉をかける。
ただ、自らが英雄足らんとする為に。
「日本人、怖がらなくていいわよ。あなたの前にいるのが誰なのか分かってる?」
振り返らずに彼女が言い放つ。その言葉は一体誰の為に紡いだものなのだろうか?
彼女は彼からの反応を待たずに言葉を、続けた。
「アタシが来たんだから全てがうまくいく。あの化け物はアタシに殺されてあなたとアタシが助かる。これはもう決まってることなのよ」
それはまるで呪いの言葉。彼女が彼女自身に課した厳しい誓い。しかし彼女自身を蝕むその言葉はいつだって人々に勇気を与えてきた。与えてしまっていた。
酔いが、人の本質を暴いて行く。
彼女はもう戻れない。人々を照らし、救う、ただそれだけのモノに変わっていく。アレタ・アシュフィールドという個人から、指定探索者、52番目の星へと変わっていく。
くるくる。
彼女の手の中で、最後の槍が踊るように手繰られていた。
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