槍、星のように
今回はどうなるか。見極めさせてもらうぞ。仮初めの担い手よ。
地の底からの声ーー
彼女が這うように地面を走る。彼女の後を追うように細い長い腕がにゅうと伸びていく。
それを一瞥するやいなや急停止。その場で宙返り。空中に浮いた彼女の手が、音もなく振るわれる。
投げ捨てられように放たれた二本の槍が伸びた腕を、地面に縫い付ける。
軽業師のような軽やかさで彼女は縫いとめられた腕にに着地した。
「レディ……」
吹き付ける風に溶けた彼女の声が通る。
「な!?」
驚愕の声が湧く。俺の声だ。
なんと、彼女は綱渡りをするようにその腕を駆け上り始めた。もちろん目指すは腕の根元、すなわち耳の化け物の背中だ。
靴一個分の広さしかないであろうその腕を彼女は駆ける。埃を払うかのように腰の辺りを手で払うと同時に、手品のように彼女の手に槍が握られた。
「Vous! VousVousVous!」
腕を伝い、駆ける彼女を耳穴が凝視し、何かを叫ぶ。俺にはあの耳の化け物が焦っているようにも見えた。
「うるさいのだけど」
彼女が体操選手のように走る勢いそのまま槍を握った状態で逆立ちをしたと思った瞬間、また跳ねる。
転回飛び。くるくると舞い、化け物の背中の直上再び彼女から槍が放たれる。
流星のような勢いで、放られた二本のそれ。鈍い音を立てながら一本の槍が赤い血を吹き散らした。
「あら? 厄介ね」
そう、一本だけだ。放たれた二本のうち直撃したのは一本だけ。
背中から生えた無数の手。海中に揺蕩うイソギンチャクの触手の如く揺らめく、その腕の一つが砕けながらも手のひらを広げて、残り一本の槍を受け止めていた。
砕けた手のひらが瞬時に再生する、またあれだ。巻き戻しをするかのように、ヤツの砕けてぼろぼろになった手のひらが元に戻る。
再生した腕、その、人間のものに酷似した五本の指は黒い槍を握っている。
その切っ尖はバリスタのように空を舞う彼女に向いていてーー
やばい!!
空中に舞う彼女に向けて、対空砲火のようにヤツの背中から生える腕が振るわれる。
槍が投げられた。
ゴウと音を立て、未だ着地していない無防備な彼女に向けて、槍が返される。
お返しとばかりに投げられたそれは間違いなく必殺の一撃。
「Die light!! die!」
耳穴が興奮したように拡がる。
何故だろう。彼女の声が確かに聞こえた。
「それはなかなか綺麗な発音ね」
彼女の余裕は崩れない。その薄いくちびるを僅かにゆがませて出てきたのは皮肉のような発言。
空中に舞い、重力に囚われ地面に落ちる最中の彼女、棒立ちのように落ちる無防備な彼女に向けて投げられた死の槍。空気をゆがませながら迫る槍が彼女に迫ーー
「返してくれてありがと」
人間はもしかしたら本当は空が飛べるのかも知れない。そんな事を俺は本気で思ってしまった。
彼女が空中で姿勢を変える。まるで羽でもついているのではないか?
彼女の胴体に迫る槍を海老反りになる事で彼女はかわした。
海老反りになった彼女の胴体スレスレを槍が通過ーー
違う。
海老反りになると同時。瞬時に蹴り上げられたその長い足。硬いコンバットブーツのつま先が今まさに、彼女に突き立たんとする槍の柄の腹の部分を蹴り上げた。
キィンと、澄んだ音が響いたと思うと勢いが死んだ槍が無重力に晒されたかのようにくるりと一回転。
彼女がその槍を掴む。
「でも、いらないわ」
一閃。投げ返された槍を更に彼女が投げ返す。今度はヤツの左前脚に鈍い音ともに突き立った。
なんだ、あれは。
俺は眼前で行われたことが信じられない。死のキャッチボール。いや、キャッチ槍? キャッチスピア? いやどうでもいい。
「ああアイアアア」
耳が悲鳴をあげる。間違いない、この恐ろしい耳の化け物よりも彼女の方が、強い。
とっ。と彼女が悶える怪物の背中に降り立ち、また背中の肉を踏み台にしてまた跳ねた。置き土産のように、さらに二本、化け物の背中に槍が突き立つ。
いつのまにか耳の化け物の体中に槍が突き立っている。背中に至ってはここから観ると剣山のようにも見えた。
彼女が草原を駆ける。再び化け物と距離を置いていた。完全に戦いは彼女のペースだ。
いや、これは彼女の狩りなのだ。これが彼女の狩りなのだ。
「指定……探索者……」
ため息にも似たつぶやきが漏れた。現代の英雄。人から離れた超人。
確かにこれは別物だ。大凡の人から離れた理外の存在。化け物と戦う資格を持つ、選ばれた存在。
この戦いを見れば分かる。自らをアレタ・アシュフィールドと名乗った彼女やはり本物なのだ。
本物のアレタ・アシュフィールド。つまり52番目の星。
「まじかよ……」
望外にも探索者ならば誰もが知る人物。個人的にも憧れていた人物が今、目の前で戦っている。
ほんの少しだけ脇腹の痛みが和らいだ気がした。
俺はいつのまにか腰を下ろしていた。木の幹に背中を預けたまま、観戦者のように神話の戦いを眺める。
彼女が化け物を翻弄する。ゴリアテに挑むダビデのように化け物の攻撃は彼女には届かない。
一方的なワンサイドゲームのように思えるその狩りを俺はただ、眺める。
胸を突き刺す痛みが、広がった。
この痛みを俺は知っている。ようやく思い出した。サラリーマン時代にもよく感じていたものだ。
同僚が仕事で成果をあげた時、結婚した時、人生の駒を進めたその時も感じていたこれ。
とても昏く、ちっぽけなその痛み、感情の名前はーー
嫉妬。
それはストレスが溶け出したお湯のように胸を満たし始める。気分が悪い。
何故、彼女にはあんな力があるのだろう。何故俺にはないのだろう。
俺はこの命がけの状況の中、とても呑気な事を考え始めていた。自分の器の狭さに少し驚いた。
酔いが人を変えるのではない。酔いはただ、人の本質を暴くだけだ。
ならば俺の本質とは。命を賭けて化け物と戦う彼女に、感謝よりもまず嫉妬が勝る俺という人間は、なんて、なんて、ちっぽけで救いようのない人間なのだろう。
左手で眉間を抑えた。
視界を閉じた一瞬、強い目眩に襲われる。なん、だ、どこかへ引っ張られてるみたいな。
「オオオオオオオオ尾佩唹佩」
草原に響く、叫び。振動すら伴う大音量がばちっと顔に叩きつけられすぐに目を開いた。
見れば流石の彼女も、当てられたかのようにピタリと動きを止めていた。
大耳が叫んだのだ。揺らされたのは鼓膜だけではない。それは俺の本能の部分に重く響いた。
異変が起きる。耳の化け物の体が泡立つ。
左手が熱い。
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