英雄と化け物
探索者深度
探索者適正がある人間の適正強度の目安。
定義としては1.2.3と数字が大きくなるほどに適正強度が高いとされる。
深度が高いほどにダンジョン侵入中に身体能力の向上や、精神機構の変化、酔いへの耐性の付与など様々な恩恵が得られる。
一般的な探索者は皆、深度1とされている。一部の指定探索者、及び上級探索者の数名が深度2の適正を認められている。
現状深度3は定義として存在しているのみで、これにあたる探索者は存在していないとされている。
非公開情報より抜粋ー
彼女がまた、跳ねる。蝶が花から飛び立つように、魚が鏡のような水面から跳ねるように。
瞬間、彼女がそれまでいた位置に細い腕が、鉄砲水のように押し寄せた。
だが捉えるべき彼女はすでにいない。俺は視界を目まぐるしく動かし、彼女を探す。
軽やかに当然とでも言いたげに、彼女は宙空を舞う。五メートル以上は跳んでいる。
昔見たパルクールの名人のようにその美しくしなやかな躰が縦横に回転しながら舞う。
なんだ? あの女の足元だけトランポリンでも隠されてあるんじゃないか?
彼女はそのまま、宙空で逆さまに、逆立ちのような体勢のまま腕を振るった。
びゅ
じゅ。
また一本の、槍が耳の身体に突き刺さる。次はあの歪な右足だ。折れているようにも見えるその膝に槍がささる。
空気を裂きながら堕ちる槍が耳の肉を抉る。彼女がその腕を振るうたびに耳の化け物の身体に一本、また一本と槍が生えていく。
速い。跳んだかと思ったら着地、するとまた跳んで、槍を一閃。彼女だけ早送りにしているようだ。
耳の化け物は体を揺らしたり、背中に揺らめく無数の腕を彼女に伸ばすが、一向に届かない。
右、左、上、左、右。
彼女が三次元の空間を自在に行き来する。跳んで、跳ねて、転がり、走って、止まる。
俺とは速度が、違う。
俺と耳の化け物の死線。八メートルの距離。俺が定義した死線を彼女は容易に飛び越え、簡単に引き直す。
圧倒している。耳の化け物は彼女を捉える事がまったく出来ていない。ウロウロと浮き足立っているようにも見える。
同じ人間なのに、こんなに違うのか。俺と彼女の違いはなんだ?
胸の中、ちくりと針が突き刺さるような違和感が芽生える。俺にはそれがなんなのかよくわからなかった。
彼女が、金の髪をなびかせながら怪物に迫る。いつのまにかその両手には二本の槍が握られている。
正面から彼女が、二本の槍の切っ先を地面にかすらせながら走る。
耳の化け物が彼女に向かい、夥しい数の腕を一斉に伸ばした。細い腕でも大量の腕だ。まるで濁流のように彼女を押しつぶそうと上方からせまる。
ドンピシャのタイミング。今度こそ彼女が腕に囚われる。やばい。
千手観音の腕をそのまま纏めて伸ばしたような腕の濁流が彼女に迫る。
横か、上か。早く避けてくれ!
俺の思いと裏腹に彼女は虎のような速度を維持しヤツに迫る。
腕の濁流が、彼女の体にカウンター気味に直撃するまさに、その瞬間、俺は英雄の技を見た。
切り払う。切り払う、切り払う。左手の槍を何度振ったか分からない。走りながら無造作にも思える動きで、縦横に振られた黒い槍。
それらが斜め上から降りかかる腕の濁流を切り開く。
数本、いや数十本の腕を切り開いた事により生まれたスペースに無理やり彼女は体を滑り込ませる。
地を這うように体制を低くする。腕が彼女の金髪を掠める。体を斜めに傾ける。手刀のかたを持った腕の一本が、彼女の迷彩服を薄く裂く。
だが彼女の肉を捉えることはできない。腕の濁流に身を晒した彼女は、どうしても避けきれないものは切り払いそれ以外は全て紙一重で、捌ききる。
「テイッディス!!」
猫のような体捌き、するりと、地面に突き立つ腕の濁流を正面から切り抜けた彼女が短く叫びながら槍を振りかぶる。
走る勢いをそのままに、それはまるで投槍選手のようなフォーム。地面を蹴り、短く跳ぶことで足の位置を整える。
肩を大きく後ろへ、柔軟な肩関節は優秀なカタパルトの役割を果たす。
彼女の右腕から槍が放たれる。既にそこは彼女の間合い。腕の濁流を乗り超えた彼女と、耳の化け物を隔てるものはなにもない。
がら空きの大耳の真ん中に槍が吸い込まれるように突き立つ。
「おぉゔえおおおおおおいああおあ」
耳の化け物が思わずと言った風に、もんどり打ちながら悲鳴をあげた。
思い出しかのように腕の濁流を地面から引き抜き、また彼女の元へ向けるも既に彼女は地面にはいない。
宙を舞う。くるくると回りながらもんどり打つ化け物を飛び越える。
ひゅん。ひゅん。
バットを綺麗に素振りしたような音が聞こえたかと思うと、直上から投げ落とされた槍が耳の化け物の背中に突き立った。
ちゅど。
当たった槍は二本なのに、槍が突き立つ音をは一度しか聞こえない。
恐ろしい早業。彼女は耳の化け物を飛び越えてヤツの真後ろに既に着地している。
くるり、その場で舞うように体を彼女が一回転させる。一周周り終える頃にはまたその両手に細く黒い杭のような槍が握られていた。
俺は目を見開いた。目が飛び出そうになるとはこのことだ。
腰に巻いているベルトから彼女は槍を取り出している。だが理解出来ない。ベルトには懐中電灯ほどの長さの筒みたいなものがぎっしり備わっている。
彼女がそれを取り出し、握った瞬間にその筒がにゅっと伸びて、槍に変形しているのだ。
特別な人間は扱う道具も、特別なのだ。
俺は目の前の闘いを眺める事しか出来ない。一撃、一撃が容易に生命を砕く化け物の攻撃を彼女はものともしない。跳ね、飛び、切り、しゃがみ、いなす。全てを事もなげに躱していく。
あの化け物が手も足も出ない。サイズの差を感じさせないその闘い。両者が動くたびに化け物の身体には傷が増えていき、彼女は無傷のままだ。
これが英雄の戦い。本来この化け物と戦うべき資格を持つものの力。
彼女がゆっくりと二本の槍の切っ先を化け物に向ける。上下に構えられたそれはまるで元々彼女に備わっている角みたいだ。
耳の化け物が足を痙攣させながらゆっくりと体の向きを変える。その場で百八十度。飛び越えられた身体を再び彼女の方へ向ける。
化け物が動くたびに、槍が生えている部分から赤い血が、プシッと音を立てながら短く噴き出る。
「Damn light」
拡声器のように高く掲げられた大耳から流れる音。
彼女が構えたまま、言い放つ。
「汚い発音。ダメね、あなた」
「やっぱり、殺すわ」
散らばる金色の髪。俺は彼女の笑みを観る。その形の良いアーモンド型の瞳は右片方だけ大きく開かれている。つり上がる唇。真っ赤な舌がペロリと薄いくちびるを舐めていた。凶悪さと美しさが混じる、笑顔。
彼女もまた、酔っているのだろう。俺にはそれが容易に想像出来た。
ちくり。
まただ。対等に渡り合う両者。殺し合いを続ける化け物と英雄を見ていると胸の奥に針で突かれたような痛みを感じる。
この、感情はなんだ。俺は場にそぐわぬ感傷に惑う。少なくとも今、この状況で抱くような感情ではない事だけは確かだ。
彼女が構えを解き、体の力をふっと抜いたと思うと、耳の化け物の元へ再び飛び込むように駆ける。
化け物もその大きな身体をぶるりと揺らした。
俺の入る隙間もない、神話の戦いは続く。凡人の俺に出来る事はただ、口を開けてこの戦いを見守る事だけだ。
ちく。
再び、胸が痛んだ。
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