勇敢な灰ゴブリンの〇〇による結果 その三
「御前に助けを求めた私の叫びは、御耳に届いた。」
詩篇18篇6節
「あら?、あらあらどうしたの?」
彼の母親が腕に抱いている娘の顔を覗き込み話しかけた。いつもニコニコしている妹からその笑顔が消えていた事に母親である彼女が気付く。
妹が生まれてまだ彼女の感覚で3カ月しか経っていない。
泣かない子だった。
上の子達は今でこそ手がかからない程度には成長したものの、この末の妹の歳の時はそれはもう毎日、毎時間泣いていた記憶がある。
それに比べて家族にとって初めての娘は、一切泣かなかった。常にその、彼らの感覚で言えば愛らしいまん丸な目をまるで眩しいものを見ているかのように細めていつも笑っていた。
家族の中で一番表情が変わらない彼女の夫もこの娘の前では心なしか頰を緩めていた。それは彼女にしかわからない些細なものだった。
その娘が泣いている。
目を閉じ、口を紡いで。瞼の右端から一擲の涙を流していた。娘を抱いている腕に必要以上の力が入る。
これはよくないものだ。と彼女は感じた。それは彼女の経験を積んだ灰ゴブリンの精霊士としての側面と、族長の妻としての側面、何より母親としての何かが彼女に囁く。
よくない事が起きていると。
彼女にはまるで娘が何かに怯えているように見えた。
幼く鋭く、そして賢い娘はそれに怯えつつ、それに見つからないように静かに涙を流しているのではないかとは思わずにはいられなかった。
ふと視線を感じる。それは他の彼女の愛する息子達の視線だった。
末の弟は目をぱち…ぱち、とゆっくり瞬きをしながらこちらを見つめている。様子を見守るように瞬きを続ける。
彼女には心なしか末の息子の顔色が悪いように見えた。
自分によく似ている。と彼女は思った。そんな自分似の末の息子に対して、ゆっくりと笑顔を作り笑ってみせる。
末の息子もそれにつられて少しだけ表情を緩めた。
それとは対照的に一切の瞬きをせずにこちらをじっと見つめている視線は兄のものだった。彼女は一瞬、夫に見つめられているのかと本気で思った。
睨みつけられているのではないかと間違える程強い視線。
夫から渡された深緑の首飾りをつけた長男は、まるで若い頃の夫がそのままそこにいるようだった。
あと数年もすれば夫の生き写しのようになるのではないかと思う。
それほどに夫似の息子だった。その息子が彼女達に近づく。ゆっくりと伸ばした手は腕に抱いた妹に向かい静かに流れるその涙を人差し指で掬いあげる。
夫以外の誰よりも大きな掌を広げて、彼女の腕の中に抱かれている娘の頭をゆっくりと、撫でた。
「恐れるな。」
撫でる手よりもゆっくりと、短く息子が語りかける。
彼女の口が小さく開いた。
妹は瞼を開き、息子の金色の目を見つめると、眩しそうに目を細めた。そしてまた瞼をとじる。今度は涙を流さずに代わりに一定のリズムで寝息が流れ始めた。
いつのまにか彼女の腕から不必要な力は抜けていた。ゆりかごのように柔らかく包まれた末の娘の寝息が地下の礼拝所に静かに染み渡っていく。
末の息子はその様子を見ていた。
そして思う。自分の兄こそが次の族長にふさわしいと。兄や父の事を思うと臆病な自分にも何故か力が湧いてくる。
2人の助けに、力になりたい。
その感情にどのような名前がついているのかは末の息子は知らなかった。自分にできることはないのだろうか。
ふと、部屋の中央に位置する石碑が視界に入る。
緑色の淡い光に照らされた、一族の宝。偉大なる精霊の依り代。彼らの力の源。末の息子はふとそれに向かい石碑の正面に片膝をつき、祈る。
不思議なことにその姿は人間と同様に掌を胸の前で組んだものだった。精霊への正しい語りかけ方はまだ習っていない。
このやり方が正しいかもわからない。だが彼が心から行う祈りの所作はこれだった。
家族全員が弟を見つめていた。
地下室を照らす緑色の光が強い。気づけば石碑の周りに緑色の光が渦巻くように不自然な照らされ方をしていた。
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