第二節 あさひ映す 月の恋人(後)
二人の仲が幕府公認になり、義時は朝盛の幕政への介入、実朝の妊娠を心配します。
第9話では性愛シーンをより深く踏みこんで描いてますが、あれこれが伏せられ、実朝の秘密はまだまだひっぱります。
寝所番の新編成で、朝盛が自由をえた反面、実朝には恐れることがあった。それは夜の寝所で朝盛と重胤が鉢合わせすることである。寝所番の交名には重胤の名を外して命じたはずだが、沙汰した者が彼の名がないのはおかしいと気を利かせ、勝手に書き加えてしまったのである。実朝は理由を問われるのが嫌で彼の名を削ることができず、今夜は重胤が当番という日、思い余って朝盛に文を送った。
「今夜だけは来ないで」という意味の歌だった。
重胤はかつて自分が愛した男だ。手も握ることはなかったけど、いつもそばにいてほしいと願った相手。関係が純粋だった分、その人のすぐそばで自分が犯されるのは考えただけでも耐えられなかった。
――お願い、来ないで。
歌に託したあとは、祈る他ない。
実朝の文を受け取った朝盛は、思わず顎に手をやった。
――わざわざ、こんな文を寄越すとは、まだ未練があったのか。
朝盛も、恋人のかつての思い人が当番となる今夜は遠慮しようと思っていたところだ。
しかし、文をもらって気が変わった。
主君の重胤への思い、そんなものは粉々に打ち砕きたくなった。
風の強い晩だった。将軍家が怖がるので妻戸は全て閉め切られていた。
だから真夜中に戸が開けられると、
――どうして鉤を閉めなかったの。
実朝はかたわらの重胤を恨んだ。
朝盛は寝所にすべり込むと、もう蹲踞の礼もとらず几帳の中へと入った。
主君は臣下の恋人が自分の意に反したことに、
――なんで来たの。
小声で言って、にらんた。
「呼ばれたから来たんです」
――私は、あれほど来ないでって。
「あの歌は、男を誘う歌ですよ」
反語で読ませる歌だと言い張り、実朝の体へ手を伸ばす。
――ちがうっ、帰って!
「今さら、私に恥をかかせるんですか」
朝盛の声に、ほんの少し怒りの色がにじみ、いつもより手荒く押し倒される。
男の理不尽に、実朝は身をよじって抵抗しようとした。けれど、男に触れられた途端、体は無力になった。朝盛の愛撫の言いなりに、男を待ち受ける。
――何で。
口惜しくて涙ぐむ。
朝盛の両腕が実朝の腰を持ち上げた。実朝の理性が声を漏らすまいと、右手を顔の前で握りしめ、親指のさきを噛ませた。それを見た朝盛は、支えていた腰から左手を外すと、実朝の手首を掴んで軽くひねり、小さな前歯から指を引きぬいた。
実朝はもう片方の手で同じことを試みた。けれど、それもまた阻まれる。実朝の両手首が頭上の褥に押しつけられ、抗っても、男の腕は戒めとなって自由を奪った。
実朝は目をつぶり、歯を食いしばった。
男の体が波打つ。
しだいに実朝の内部にも波が押し寄せ、今にも溢れそうになる。
知らず知らず背中がのけぞり、あご先が上がる。
朝盛の顔が近づくのを感じて、顔をそむけた。
すると彼の舌がいたずらめいて、首すじをぺろりとなめた。
男の不意打ちに、
「んあっ」
実朝の口から甲高い声がほとばしった。
男が耳元に唇をつけるようにして、ささやいた。
「もっと鳴いてもいいんですよ。女みたいに」
彼の一言で、実朝の何かが砕けた。
朝盛の動きに合せ、口から短い叫びが絶え間なくあがる。心とは別に、体が勝手に動く。男の波に合せようとして、それを止めることができない。そっと片目を開け、重胤のほうを伺うと、灯台の明りのせいか、背中が震えているように見えた。
――違う。これは私ではないの。だって、私はこんなに悲しいのに。
涙がとめどなく瞳から溢れていた。けれど、自分の口からは歓喜の声が上がり続け、その声に感じて、体がいっそう昂ぶるのだ。
――心と、体が、ばらばらだ。
けれど、その心ですら自分を裏切る。さらなる快楽をえようと、体が心を悪だくみに誘う。引き止めようとする理性を尻目に、心は体に引き寄せられていく。
――いやだ、いやだ。
そう叫ぼうと息を吸うたびに、実朝の中心から溢れだしたものが二つを混じり合わせる。やがて心と体は共謀し、弱まりゆく理性を呑みこんだ。
自分の全てが溶け合ったとき、実朝は溺れ、沈み、意識を失った。
どれほどの時が経ったろう。少しずつ自我をとり戻した実朝は、やさしい愛撫に包まれていた。朝盛の口づけは、あくまで甘く。
――あぁ、そうだ、この人は、本当はこんなにやさしい人なんだ。
夢見心地のまま、彼に自分の体を預けた。
「これであなたは、本当の意味で私のものになりましたね」
朝盛が言うから、実朝は素直にうなずいた。
恋人はやさしく口づけしながら、頭を撫でてくれた。
彼の手は背中をなで、腰をなで、さらに下へと向かった。
そして、再び。
実朝がはっと目を開き、朝盛を見上げると、彼の口の端が歪んだ。
男はただの一度で恋人を許そうとはしなかった。その夜が明けるまで、何度も責め立てては気を失わせ、もうこれ以上は実朝が壊れてしまうという寸前でやめた。
溽熱が寝所を満たすなか、朝盛は几帳ごしに重胤のほうを見た。
――さぞ、口惜しかろうな。
一晩中、叫び声をあげる主君の横にありながら、何もできぬ寝所番、そして、かつての恋敵を憐れむ。
実朝の声は妻戸の外にも洩れただろうか。
――まぁ、別に、それでもいいか。
袴をたくし上げながら、朝盛は思った。
男が帰り支度を終え、几帳の外へ出ようとすると、それまで身じろぎもしなかった実朝が薄く目を開いた。
「もう二度来ないで」
実朝はひどくかすれた声で言った。
「次に会ったとき、私はそなたを殺すよう命じるよ」
男への激しい憎悪。それを朝盛は平然と受け止めた。
憎悪がやがて愛執へ転じることを、彼は知っていたから。
門を出ると、朝盛はあくびをかみ殺しながら、間借りしている胤長の邸へ帰った。
――この邸は、御所に近くていいな。
さすがに一晩中、主君の相手をして精も根も尽き果てた。眠い目をこすりながら自室へたどりつくと、己れこそ意識を失ったように眠りについた。だから、さほど時を経ないうちに枕を蹴飛ばされ、無理やり起こされた朝盛は、すぐに目を開けることができなかった。
「三郎、起きろ!」
掴まれた胸倉を揺さぶられ、ようやく開けた目の前には、
「お前はいったい、御所に何をした!」
怒りに燃える胤長の顔があった。
「何って言われても。言っていいんですか? 御所の寝所でのことを――」
言った途端、頬を張られた。口のなかが切れたので、よほど本気だったのだろう。
胤長は怒り心頭だった。
実朝の近習にして朝盛の縁者である彼は、先輩として従兄子の面倒を見てきたつもりだった。だのに、この男は裏切ったのだ。自分を、仲間を、何より御所を――
裏切り者の親類である胤長に対し、仲間の目はずっと冷たかった。けれど、朝盛のことは御所が望んでいるものだと我慢していた。だが、先ほど詰所で教えられたこいつの非道に、怒りのあまり御所を飛び出していた。
「御所は熱を出して寝込んでいるんだぞっ」
「御所が熱を出すのは、別に珍しくもないでしょう」
朝盛が気だるげにいったので、もう一度頬を張った。
重胤たちは、さすがに昨夜の朝盛の所業を見過ごしにできぬと仲間うちで話し合った。すでに乳母らには詳細を伝えていたが、上司へも、
「和田三郎めが、御所に大変な無礼を働いたのです」
伏せるべきを伏せ、あらましを伝えたので、朝盛が主君を冒涜したことは、まもなく鎌倉中に知れ渡るだろう。
「お前は一族の恥さらしだ。この邸から出て行け! 今すぐ出てけ!」
興奮する胤長へ、殴り返してもいいかなと思ったが、これまで部屋を貸してくれた恩がある。昨夜の直垂のままであったから、今すぐ出て行くことにした。
――まったく、ひょろ長のくせに、俺の顔を殴るなんて。
朝盛は痛む頬をさすった。
取りあえず、父親の常盛の邸へ行って、家の者に荷物を取りにこさせよう。
――顔も痛いが、腰も痛い。とにかく眠い。
朝盛は小者に馬を呼ばせた。
勝負に出た男は、しかし、御家人の実朝に対する愛情の程度を見誤っていた。
朝盛が主君を凌辱したことに、
「俺たちの将軍家によくも!」と怒り狂い、和田の身内にまで、
「儂らの御所を一人占めにして!」
祖父を筆頭に、非難はまっすぐ朝盛へ向かった。
さすがに身の危険を感じた彼は、本拠の上総に隠れなければならなかった。
御所中の人々は「和田三郎、討つべし」と息まいたが、政所別当たる義時は、
――であれば、罪状はいかがすればよい。
と、本気で悩んだ。
朝盛のことをよくよく考えれば、主君が男妾と羽目を外して、体調を損ねたということに過ぎない。これなど、酒色に溺れた頼家がよくやらかしたことではないか。
――あの兄にして、この弟ありか。
と考えながら、弟であればなと、一人ごちる。
実朝の本質を姉の尼御台にも、妹の阿波にも聞きそびれている。
最も確実な方法は、実朝を素っ裸にして我が目で確かめることだが、そうもいくまい。
ふと、脱ぐ、裸の連想で、
――当然だが、この世に実朝の性別を知る人間がもう一人増えた、ということか。
朝盛のつるっとした顔を思い出して腹立たしくなった。
自分の知らないことを知っている。内容は幕府の根幹に関わり、しかも相手は全て自分とは真逆の義盛の孫なのである。
もっとも、
――やつは和田の一族のなかでは毛色が違うからな。取り込もうと思えば取り込められるか。
頼家の近習だった過去も併せ、義時はすばやく心算した。一方、実朝の寝所番へも、
「何か、私に言いたいことがあれば、いつでも直に応対するからな」と言い含めた。
夜の主従は布帛一枚でしか隔てられてない。あれやこれやで実朝の本質がわかりそうなものだが、彼らは寝所番という独特の忠誠心からか、なかなかに口を割らない。
東重胤などは以前助けてやったときに、
「このご恩は一生忘れません」とまで言っていたくせに。
――俺よりも御所を選ぶのか。
まったく坂東武士は平気で恩を仇(無駄)にする。
憮然となる義時だが、彼も一応叔父らしく甥の体を思いやってはいた。
――このところ気分が優れないと言っていたのは男のせいだったか。
それにしても寝所番もどうかしている。主人がやり過ぎていたら、切りのいいところで声をかけて、お終いにさせれば良かったではないか。『もう夜も遅うございます。お体に障りますゆえ、お休みになられては』とか。
当番には気の効いた若者を集めた、ということになっていたが、そんな者はおらず。代替わりによる伝統の断絶を恐ろしく思った。
義時は日を見て実朝の見舞いは遠慮し、姉の尼御台のもとへ機嫌を伺いに向かった。
姉のいる大御所には、ちょうど妹の阿波の局も来ていたが、案の定、姉は、
「やっぱり、あの子は佞臣でした!」
母として、子を傷つけられたことに怒り狂っていた。
頼家の近習だったころの印象が強いのか、朝盛を「あの子」と呼ぶ姉だが、そもそも、当時の少年にあれやこれやしたのは、
――あなたの息子さんですよね。
それがめぐりめぐって実朝に襲いかかるとは何たる因果だ。
「しかし、良かったではないですか。和田三郎を追い出してしまえば、御所もまたお元気になられるでしょう」
義時は姉を慰めたつもりだが、尼御台は不機嫌そうに口をつぐみ、以降、口をきかない。
困惑して、阿波の局を見たが、妹の顔も浮かない。
兄のもの問いたげな目に、阿波の局は言いにくそうにして、
「それが、ますますお弱くなられているのです」
「何だと」
「食べ物も喉を通らなくなって、夜も眠れなくなって、どんどんやせ細って……」
「ちょっと待て、それはもしや……」
阿波の局は深く頷いた。
「医師の見立てでは恋患いということでした。兄上、お願いです。和田三郎の帰参を命じてください。このままでは御所のお命にもかかわります」
義時は頭を抱えたくなった。
またも身内の色事沙汰で面倒をかけられ、その処置に奔走しなければならないのだ。
朝盛は半月も経たず、鎌倉から帰参を命じられた。
「将軍家が寂しがっているから早く帰って来い」
どこかで聞いた話であるが、これは幕府首脳からの懇願である。
――まったく、冷や冷やさせるよ。
先日、慌てて鎌倉から逃げ出した朝盛であるが、帰還は堂々と果たした。
御所では名医を歓待するように迎えられ、臥所の実朝は彼を見るなり涙した。
「早く、御所を治してさしあげろ」
人々にせっつかれるまでもない。忠実なる臣下は主君の望むまま、一番の治療を施し、
「次は殺すっておっしゃいましたよね。でも、往生したのはどちらでしょう」
殺して生き返らせるなど、ひどい名医がいたものである。
こうして和田朝盛は、幕府が認める将軍家御寵物となった。
だが、御家人たちからは非難轟々(ごうごう)である。
「尼御台が佞臣と呼ぶ、あやつを将軍家に近づけてよいものか」
「武をもって将軍家にお仕えするのが我らの本分だのに、和田新兵衛は何をもって御所に近付いた! 歌と見た目と床振りだけではないか」
「確かに、故殿にも寵愛した武将がなかったとは言わぬが」
「朝盛なんぞは日蔭者で十分だ!」
男たちは、抜け駆けにまんまと成功した彼に激しく嫉妬した。
そんな彼らを傍目に、政所の相方である中原広元が言った。
「将軍家が男であって、本当に良ろしゅうございましたな」
「え?」
義時は思わず聞き返しそうになったが、すぐに理解した。
実朝が男であれば朝盛はただの男妾である。しかし、女であればやつは将軍家の夫君となり、そのまま鎌倉の主となり、下手をすれば日本の武家の頂点に立つことになるのだ。
義時は鳥肌が立ちそうになった。今後はもう誰も「将軍家は女だ」など言わぬだろう。
朝盛の存在が、実朝を男にしたとは何たる皮肉だ。
けれど、このまま事態を見過ごしにして良いものか。
「御所がご懐妊でもなされたら、いかがする」
己れの懸念をうっかり口にすると、広元が非難するような眼差しを向けたので、
「あ、いや、和田三郎のような輩は、相手が男でも孕ますのではないかと」
義時らしからぬ動揺に、広元は少し考えるように首を傾げたが、
「そのようなことは、そうなったときに考えましょう。今から、ありもしない子の取扱いなど考えるだけ無意味ですから」
困りごとを先送りにするように言うが、最後の一言は不気味である。
――朝廷やら、仙洞やらの政治の汚さに呆れ、東に下った男だ。不始末の後始末などいくらでも見知っているのだろうな。
だが、ことの本質は子の取扱いうんぬんではないのだ。
義時は、朝盛の強烈な権力志向を見抜いていた。何らかの謀略をもって将軍家に接近した彼が、このまま男妾の地位に甘んじるはずはなく、将来、幕政に介入するのはわかりきっていた。けれど、やつを排除しようにも、幕府の根幹に関わる秘密を握られ、手も足も出ない。
――これまで我々が目を背け続けていたことを、今がもう一度見直す折ではないか。
そう誰かに問いたかった。
実朝の近習は、一般の御家人よりさらに怒り心頭だった。
歌集を作りたいという将軍家の居室では、歌を添削する朝盛が胡坐のなかに主君を抱き、
「少し下手になりましたか? やはりお歌が上達するためには、お互い離れていましょうか。ふふ。そうですね。それはできないでしょうね」などと、戯れかかるのを見るにつけ、
――この佞臣め、御所の亭主気どりか。
男たちは悔しくてほぞをかむ。
一方、御所の女たちは違った。何か考えることがあるらしく、食事どき、将軍家のお膳といっしょに朝盛の分も運ぶことに文句もない。近習の一人がこっそり、
「よく平気であんな奴の膳など運べるな。汁椀に鼠のくそでも入れてしまえばいいものを」
などと耳打ちしようものなら、女房はさも軽蔑したように、
「あぁ、嫌だ。よくもそんな汚らしいことを言えますわね。御所の御身を思いますれば、殿方(朝盛)を良くして差し上げないといけませんのに」
実際、朝盛が近習仲間から「この男妾が」と見下すような態度をとられると、夜が荒れ、実朝が苦しむので、しだいに誰もが彼を腫れものにさわるように接した。
人々の変り様に、男の傲慢はとどまることを知らなかった。
十一月も下旬となったころ、寒夜にあって寝所の恋人たちは互いの肌で温め合っていた。
その夜の当番の一人は、荻野三郎。半年前、侍所の事件の夜に、朝盛の相方として寝所番を務めていた武将だ。
朝盛が几帳ごしに彼を見やると、まだ十代の荻野は、主君の零え声から逃れようとするように上体を前屈みにさせていた。
男は、少年の切なげな背中に嗜虐心を刺激され、
「おい、荻野、お前も入るか」と呼びかけ、布帛をまくりあげた。
――あの夜、お前にほんの少しの勇気があれば、今の俺の場所にいたかもしれんな。
少年の主君への敬愛、恋慕といったものを弄びたくなったのだ。
彼の思惑通り、荻野は振り向いた。途端、朝盛は手を離した。
布帛は一瞬にして降り、驚愕する少年の顔を透かし見せながら、一つ二つと揺れる。
男は込み上げてくる笑いを喉でこらえた。だが、彼は知らなかった。自分の視線と荻野をさえぎった布帛が、全てを隠すにはまだ間があったことを。
荻野は見た。
灯台のあかりが照らすなか、引き締まった男の体に実朝の身は押し潰され、細い手足がはみ出していた。男の顎の下には、目も口も虚ろに開いた、見たこともない主君の表情。
実朝の恍惚に、己れの劣情が込み上げた刹那、目の前の光景が布帛によって隔てられる。そして、少年の耳に、喉を鳴らすような男の笑い声が届いた。
荻野はとっさに立ちあがり、太刀の柄に手をかけた。その勢いで太刀の鐺が振られ、灯台を打った。灯台は音を立てて床に転倒し、皿と油を飛び散らせた。
幸い、灯はそのまま消えた。
我に返った荻野は、「と、とんだご無礼を」
急いで袴を脱ぎ、もう一方の灯をたよりに床を拭いた。
彼は始末を終えると、汚れた袴を胸にかかえながら寝所から跳び出していった。
「ひどい……」
自分を非難しようとする恋人の唇を、朝盛はすばやく覆った。
――この人の全ては俺のものだ。
少し冷めてしまった体を、もう一度火照らせようと動き始める。
荻野三郎の旧氏は梶原、諱は景継、あの梶原景時の孫であった。一族の滅亡後、冷遇されていた彼を実朝が目をかけ、近習にしていたのだ。
彼は翌日、
「将軍家御前の常灯を消してしまい、恥辱この上ありません」として、出家を遂げた。
これを聞いた実朝は使いをやって彼を引き止めようとしたが、荻野は使者に対面もせず鎌倉から姿を消した。
――御所には困ったものだ。
義時は嘆息する。
男漬けで骨抜きにされた実朝に代わり、幕府を仕切っていた彼である。
この数カ月、楊貴妃というか道鏡というか、主君の愛欲を利用して権力を握ろうとする朝盛を観察してきたが、
――俺がいうのも何だか、あいつは歪んでいる。幼いころに世間の裏側を見過ぎたせいか、裏世界の力関係だけで世の中が回ると思っている。
彼の稚拙さにむしろ安堵していたところだ。
義時が得意とする根回しや段取りといった裏仕事は、表世界の仲間を増やすためにある。
だが、やつは主君を独占して、他人に見せつけることが権力の行使だと思い込んでいた。
人が寄ってくればこその権力だろうに、自分と主君の味方をどんどん減らしている。
――味方など放っておいても減るものを。
裏ばかりで表の世界を知らぬからか。もっとも、彼が節をわきまえ、実朝を表の世界に立たせ、自分は裏の世界に徹するつもりであれば、それはそれでうまく行くだろうが。
――できぬだろうな。
今朝早く、義時は荻野の涙ながらの訴えを聞いていた。
――何かあったらいつでも来いって言ったが、本当にこんな時刻にやってくるやつがあるか。
またもやとりなしの依頼か、明け方、突然やってきた若者へ面倒くさがりながらも応対していた義時だった。が、よくよく聞けば、荻野の訴えは主君の男妾への愚痴と憤りである。それをくそ寒いなか、炭櫃にかじりつきながら延々聞かされた末に、
「相州殿、御所を解放してください。このままでは御所がおかわいそうです」
「ちょっと待て、将軍家を相手におかわいそうとは、非礼に過ぎるではないか」
義時が炭櫃から体を起こし、たしなめようとするのを、
「私だって、こんなことは申し上げたくありません。だけど、御所のそばに三郎がいる限り、御所に自由はありません。でも、それ以上に、御所が将軍家である限り、御所に本当の自由はないのです」
荻野がつい口走った言葉に、義時の目つきが鋭くなった。
「そなた、今何を言った。というより、そなた、御所の寝所で何を見た」
荻野は、はっと我に返ったように義時の顔を伺った。
「わ、私は何も……」
「そなたは幕府の根幹に関わることを申しているのだぞ。まるで、御所が将軍家の資格がないとでも言うような……」
義時がじっと見返すと、少年の顔が見る見るうちに青ざめ、
「私は何も見ていません。相州殿、本当です。……朝早くに、本当に申し訳ありませんでした」
怯える荻野は、挨拶もそこそこに邸を出て行った。
彼はその日のうちに永福寺で出家したという。以降、鎌倉から行方をくらましたので、
――主君に忠実な若者を無益に怖がらせてしまったか。
少しだけ反省した。
しかし、荻野のように昨今の将軍家へ憐憫をかける者がどれほどいるだろうか。
それよりも男にうつつを抜かす実朝に愛想を尽かし、いっそうのこと将軍家をやめさせようと言う輩が現れ始めている。義時はすでに謀叛の動きを察知し、今、考えあって奴らを泳がしていた。それをあの主従は知らない。
朝盛こそ、実朝に代わり周囲へ目を光らせなければならぬのに、やつには愛する主君しか見えてない。主従間の色恋の危うさを知らぬはずではなかろうに、実朝一人に権力と愛欲の両方を求めている。実朝と一になろうとするあまり、仲間を排除していることに気付かない。それこそ、何でも自分の思い通りにしようとして味方を減らし、破滅した旧主にそっくりではないか。
義時は己れを顧みる。幕府の最高権力者といえど実朝や尼御台より前には出ず、大勢のなかの一人に甘んじることを課し、重要な訴訟や朝廷への折衝も広元や時房、息子の泰時に任せ、自分は身を引くことで幕府を動かしていた。
朝盛にそれができるだろうか。
――できぬだろうな。
十二月、年の瀬も押し詰まったころ、鎌倉の街で侍たちが騒ぎをおこした。
道路での小競り合いだったが理由は知れず。
例年の歳末の賑わいとも違い、人々は謀叛の前触れかと噂し合った。